1、恐怖!それは予防接種!!
「こらっ!!動けッ、このッ、バカ犬ッ!!観念しろッ!往生際が悪いぞッ!!!!!!」
「キャン!」
ぐぎぎぎぎぃ、と、太い鎖を全力で引っ張っているのはアグドニグルの“三賢者”の一人イブラヒム。まだ若いが皇帝クシャナの信頼も厚く、皇子たちに続く地位を与えられている。
口のさがない者たちの間では『あの無能な第六皇子殿下でなく、イブラヒム様が養子に入られればよかったものを』などと言われる程、宮廷内での評価も高い。
生まれは孤児、知の祝福を得た子がいると預言を受けた塔の学者の一人が見出して、東の“塔”の学び舎で才能を育んだ。十三の時にアグドニグルの皇帝に出会い、『この方の側なら誰よりも広い世界を見ることが出来る』と考え、『俺をあなたの夫にしてください!』と頼み込んでしまった。もちろん皇帝は爆笑し、一蹴されたのだけれど、当人にとって今も恥ずかしい黒歴史。
さて、その優秀有能なイブラヒム。現在アグドニグルの首都ローアンは荘厳なる宮殿“朱金城”は南の城門にてかれこれ十分以上、ふわっふわな毛並みの愛らしい犬と格闘していた。
「はぁ……はぁ…………はぁ、この、駄犬めッ」
「キュゥーン」
肉体労働は自分より頭の悪いやつがやるのだと常に思っているイブラヒムがなんだってこんな、真昼間から、城門周りの兵たちに穏やかな目で見守られながら汗水たらさなければならないのか。
理由は簡単、この度第四皇子殿下の宮に上がることになったとある高貴な娘の“支度”の最高責任者に任命されたからだ。皇帝陛下直々の御指名。
そしていかにも『何も考えてません!』というような顔の人畜無害そうな白い毛玉は、こんなナリで恐ろしい雪の魔獣である。
皇帝陛下やそのご家族のおわす、そして政治の中心部である朱金城。そこに出入りする魔物には術式が施される。
首都ローアンは朱金城を中心とした巨大な結界が張られていた。城内に魔物が入り込めば弱体化する効果もあり、王族や貴族と契約している魔獣は(当然段位はあるものの)その縛りを受けないようにする。
そのための、魔術で調合された魔法薬を体内に打つ、というだけなのだが……。
「キャンキャン!キャワワワン!」
打たなければ城門をくぐれない。チクッと、簡単に打ってしまう、ただそれだけのことなのに、会えばイブラヒムの靴に噛み付く馬鹿犬は、全力で拒否しやがっている。
ちなみに契約者であるレンツェの姫君はというと、同じように別の場所で注射を受けていた。こちらは外から来た人間であるので、何か病原菌を持っていないか、抗体はどの程度出来ているのか。医療師たちによって調べられしかるべき処置がされていた。既にアグドニグルでは常識となっている七つ風邪や月虹症などの病に対しての予防接種もついでに行われる。
「い、いいかげんに……ッ!!」
当初は他の者が対応していたのだが、断固拒否!の姿勢を示す魔獣に困ってイブラヒムが呼ばれた。『凡人はこんなこともできないのですか』と嫌味を言い、所詮獣風情と侮り注射をさっさと終わらせようとしたのだが……この駄犬、全く動かない。
動かないなら動かないで注射を打ってしまえばいいと?
仮にも魔獣。
人間が用意した針など、合意なしに刺さるわけがない。
無駄に筋肉を魔力で強化され、何本も針が折れた。
「あ、あのっ……賢者イブラヒム様……そ、そんなに引っ張ってはわたあめ……魔獣殿が、かわいそうではありませんか……」
「なんだ、お前は」
「はっ、伝令兵のサリムと申します」
そんなことは知っている。イブラヒムは賢者だ。一度挨拶された者の顔と名前は忘れない。この伝令兵のサリムは大神殿レグラディカにあのレンツェの姫の様子を見に行くよう第四皇子に任命された青年だ。イブラヒムも大神殿で顔を合わせている。
聞きたいのは名ではなく、たかだか一般兵の分際で賢者に意見できると思った理由だ。
じろり、と睨むと伝令兵が這い蹲った。大神殿レグラディカでは、あのレンツェの姫の妙に馴れ馴れしい周囲への態度の所為で、身分関係というものが希薄になっていた。
レンツェの姫を怯えさせないために、ヤシュバル殿下がそれを許されていたことはイブラヒムも知っているが、ここは朱金城である。
「キャワン!ウゥウウー!!」
イブラヒムが伝令兵を見下していると、雪の魔獣がイブラヒムに唸った。敵意をむき出しにする野蛮な獣。
(……神から主人を守ったと、それなりに番犬程度にはなるのかと見直したが、やはり頭の悪い下位の獣だ)
呆れ、イブラヒムはため息をつく。
「おい、貴様。この魔獣を押さえていろ」
「え?は、はい」
「駄犬、この針を折ったらこの兵を殺す。いいな?」
「キャワッ!?」
言葉は理解できているはずだ。
イブラヒムはこれ以上貴重な針や魔法薬、それに自分の時間を浪費したくなかった。
戸惑う兵と、駄犬を無視してブスッと針を刺す。キャンッと一度痛そうな声が上がりはしたが、針が折れることはなかった。
「はぁ……手間をかけさせて。面倒をかければその分、あの姫の負担になるとなぜわからないのか」
注射を打たれたショックでか、硬直している駄犬を見下ろし、イブラヒムはため息をつく。ガタガタと怯えている伝令兵に『散れ』と一瞥すれば、伝令兵は駄犬の様子を気にする素振りを見せた。
「この後はあの姫の元へ連れて行く」
だから安心しろ、という意味ではないが説明すると伝令兵は一礼して去って行った。元々何か用があって城門を通るはずだったのだろうに、余計な真似をしたものだ。
「……」
「…………他人の為に耐えられる者は、徳がありますよ」
硬直したままの駄犬の頭を、イブラヒムはぽんと叩く。
針が折れればイブラヒムは本当にあの伝令を殺すつもりだった。賢者はそれが許されている。深く考え、アグドニグルの利益を常に優先する者、と、それがアグドニグルの賢者だ。
駄犬がそこまで理解しているわけがないが、イブラヒムの目が本気であったことは理解していたのだろう。
余程注射がショックだったのかイブラヒムが触れても唸りも吠えもしない駄犬。
見るだけだったふわふわとした毛の触り心地が、思った以上に柔らかくイブラヒムはまた溜息をついた。




