10、今はふっかふかのオフトォンでスヤッスヤしてるよ
女神メリッサの起源は今は沈んだ小さな島。西の地の、暖かく穏やかな、平和な島だった。
島には人間が住んでいて、漁をしたり土を耕したりとそれなりの暮らし。外との交流の全くない、広い海にぽつんと浮かんだ小さな世界。
その島の、一番立派な樹。大きくて頑丈で、立派な実を春にはたくさんつける。甘くて柔らかな実は島の人間たちだけでなく動物たちも養って、育んで、笑顔にさせた。
メリッサ、というのは島民たちの付けた名。
この樹は春の乙女のよう。優しいメリッサ。愛らしいメリッサ。島民たちを守り、島民たちに愛され、少しずつ、神になった。
生まれた子が大人になり、年老いて、また次の世代になる。病や嵐は自然のもの、時折の悲劇や苦しみも人の運命の内と、そのように受け入れて来た島。
ある時、魔物の群れに襲われた。
海に囲まれた島に、どうして大量の魔物が現れたのか。羽のないはずの魔物。泳いでこれるはずのない魔物。大きな口に鋭い牙と爪を持つ魔物が次々に、島民たちを食い殺していった。
『メリッサ様、メリッサ様』
『どうかお助け下さい』
『助けて、助けて』
『せめて乳飲み子だけでも』
『せめて、せめて』
追い詰められ、大樹の根元の空洞に追いやられた島民たち。震える島の動物たち。樹の外には魔物が今か今かと唸り声を上げて待っていた。
入り口の穴が小さいから、魔物が入れないだけ。
何か、助かるための手立てがあるわけじゃない。
男手は最初に戦って皆食われた。
空洞の中で震えているのは若い女と子供だけ。年寄りは早々に『自分たちはいいからお逃げ』と、自ら獣の牙を止めるために躍り出た。
身動きも取れず、段々と、空洞の中にいる島民たちが飢えていく。幼子に乳を与えようと、母親は泣きながら動物たちを手にかけた。動物たちも運命を受け入れて、人の血肉となった。それでも足りない。外には出られない。
メリッサは自分の体の中で、樹の中で、愛するものたちが苦しんでいくのをじっと見ていた。
何もできなかった。
人間に、自然に干渉できるだけの神威はない。ただ見守るだけの、無力な神。
祈られ乞われても、何もできない。
ただ樹に実りを。豊かに、大きな、実をつけて傷がつかないように落とすだけ。
『あぁ、メリッサさまの果実が……外に、あんなに落ちている』
空洞の隙間から外が見えた。
誰もがごくり、と喉を鳴らす。甘く瑞々しい果実が、魔物たちの前に無造作に落ちている。
たった一つでもいい。得られれば、子供の喉を潤す。腹を膨らませてやれる。どんどん、力のない子から動かなくなって、腐って行った。空洞の中は悪臭が充満して、蠅や蛆が沸く。それでも魔物が怖くて外には出られない。
『ああ、あの実、あの実が、どうして、内側に落ちてくれないものか』
『メリッサさま、メリッサさま』
『どうかどうか、お救いください』
懇願する声は、冬まで続かなかった。
そうしてメリッサは『守るべき信者たちを、守れなかった神』として、神の裁きの場に引き摺られた。
(アグドニグルなら、守らなくていいって、思ったのよ。クシャナは強いから。人間たちは、神なんかより、きっとクシャナを頼るから。私みたいな、弱い神がいても、誰も、死なないって、そう)
世界屈指の大神殿レグラディカ。
立派な建物に、豪華な祭具の数々。神官たちは神聖ルドヴィカから派遣された者や、アグドニグルの国内から集められた者など様々。
最弱の神である、何の神威を持たなかったメリッサでさえ、レグラディカの名を頂き祀られれば神域を得るくらいの力を得た。
神を信じないくせに、なぜこんなに立派な神殿を作ったのだと、メリッサはクシャナに聞いた。挑むような、嫌味かと、食ってかかるような調子だったが、クシャナは静かに答えた。
『もし首都に戦火が及んだ時に、神殿は神聖ルドヴィカのもの。アグドニグルとは無関係ゆえ』
巨大な建物、広大な所有地にしたのは、避難所として利用する為。
各地の祝福者を瞬時に招集、あるいは派遣する為。
降る様に、惜しみなく神殿に金を注ぎ込んで、設備の維持をする。
信仰心など欠片もなく、神の救いを一切信じない化け物だが、必死に、必死に、何もかも利用してでも、守るべきものを守るという、潔さ。
*
「あたしの知る限り……祝福を複数受けてるのは、この国の皇帝クシャナ。でも、あいつの場合は、確か……」
凍り砕かれた神域で、メリッサは考えるように口元に手を当てた。
へ、へぇ……私の祝福、二つあるんですかーそう……。
もしかして前世を覚えてるのと関係してるんじゃないかと、そんな気がしてくる。
マドレーヌを作った時に「うん?」と、違和感はあったんですよね。
プリンはともかく、マドレーヌとかお菓子は……計量が命。それを、正確な分量を覚えているほど……私は記憶力が良かったか?と。
それに、誰も突っ込まないから『そういうもの?』と思いかけてるけど……私の耳には、皆の言葉が……日本語で聞こえる。
ディラ(娼婦)とかの意味が頭の中でわかるようになってるので、これまた奇妙だが……とにかく。
「……実は私、イブラヒムさんと同じく知の祝福を受けてるとかですか?」
おやおや、私、賢者ですか。困るなぁ、眼鏡似合うかなぁ。
「え、違うわよ。知の祝福ならあんたもっと賢そうな顔になってるでしょ。それに、賢者の、知の祝福の言語に関する周囲への通訳能力は、本人が取得している言語っていう制限があるもの。あんた違うでしょ。うーん……うーん……駄目。あたしの格じゃわかんないわ」
無理ー、と投げ出すメリッサ。
いやいや、そのまま放棄されますと、ヤシュバルさまからあなたを庇うのが難しくなるのですが、忘れてない??
「……」
「その無言で睨むの止めてよね!あたしこれでも女神なのよ!?――まぁ、あたしより格上の神ならちゃんと見えると思うし、それに、祝福を二つ持ってるなんて……ロクなことにならないわよ」
「……わかっている」
忠告だったのか、ヤシュバルさまが頷かれる。
え、二つもあってラッキー、と思ったけど……あんまりよろしくないのか?
「あんた馬鹿ねぇ。一つだって人間の身には過ぎたものなのよ。使い続けて暴走する、なんてよくある話だし。あんたの祝福の一つがもし……」
もし、なんですか!?
言いよどむメリッサに私は不安になる。
「憶測で考えても仕方ない。レンツェの姫、今は君の祝福が……二つある、という事実を知れただけでよしとしよう」
ぽん、とヤシュバルさまが私の頭を叩いた。
「……はい。あの、ヤシュバルさま」
「うん?なんだ」
「助けにきてくださって、ありがとうございます」
「……当然のことをしたまでだ。私は、君の後見人なのだから」
ヤシュバルさまがどうあれ、私はお礼を言いたい気持ちがあるので言わせて!
目を細めてやや顔を背けるヤシュバルさまの腕を私はぐいぐいと引っ張った。照れてる?照れてらっしゃる??
「それに、一番の功労者は君の雪の魔獣だ」
「わたあめ?」
「あたしがデコピンしてふっとんだ弱いやつじゃない」
「メリッサちゃんとわたあめに謝ってよね!?」
「はぁ!?あたし噛まれたのよ?!神を噛むとか不敬!!」
幼女誘拐したからだろうと私は突っ込む。
「デコピンで怪我とか……したんですか?」
「するわけないじゃない」
「メリッサ黙って!」
何かあったのかと心配になって聞くと、ヤシュバルさまは目を伏せた。
「その女神の言うように、皇帝陛下やコルヴィナス卿ならまだしも私では神域へ侵入することはまだ難しい」
まだってことは、そのうち出来るようになるんですか。
「私が君の危機を聞きつけて神殿に入った時、君の雪の魔獣……わたあめ君は、虚空に向かって吠え続けていた」
何もない虚空に向かい、吠え続けるわたあめ。周囲が止めようと、振り払い、ずっと吠え続けたという。
「わたあめ君は確かに……強力な魔獣、とは言えない。しかしそれでも、魔獣は魔獣だ。魔力を込めた“声”を発し続ける事で、そこの女神が消えた“歪”が完全に塞がるのを阻止した」
叫び続けて喉から血が出るのも構わず、わたあめはヤシュバルさまが到着されるまで吠え続けたという。
それで、ヤシュバルさまはここまでやってくることができたと、わたあめを労ってくれた。




