8、前座
「…………」
兵士さんは話し終えると私にもう一度謝罪して部屋を出て行った。
一人きりになり、私はじっと椅子に座って壁を見つめる。
……どうしてだろう。
頭の中に浮かぶのは、その疑問。レンツェが皇帝陛下にしたことを聞いて、陛下の苦しみが少しでも理解できると思った。けれど、知ってますます、わからなくなった。
「どうして、私の料理を食べてくれたんだろう」
レンツェの土地で食べた物が、皇帝陛下を苦しめた。
王族が出した物を食べて、陛下は苦しんだのに、この王宮で、そして、おそらく陛下を苦しめた毒が作られた王族の調理場で調理された私の料理を、陛下は私に何の疑いも投げつけずに口にしてくださった。
「それどころか、料理で……レンツェの国民を許す、とさえお認めになられた」
イブラヒムさんや他の家臣の人たちは反対していたし、私に対してあまり好意的でない態度だったけれど、それだって……陛下にしたことを顧みれば、あまりに……大人しすぎるとも、今は思える。そこに、アグドニグルの道徳性があるというのなら、それでも、だとしても。
「……」
うーん、うーん、と、考えて私は頭を抱える。
「料理、しない方が良い……わけ、ないよね?」
レンツェがアグドニグルにしたことを知って、私が申し訳なくなって「陛下に料理をお出しするなんてむごいことは出来ない」「レンツェを許して頂こうなど、あまりにも過ぎた願い」だのなんだの……私が、勝手に遠慮して判断するのは、違う。
「…………」
私は陛下のお顔を思い出す。
『そなたの料理が楽しみだ。この世界にない料理の数々を、きっと私に献上してくれるのだろう』
髪を結いながら、微笑んでおられた皇帝陛下。
……私が、陛下のお気持ちを勝手に判断して、何もかも止めてしまうのは、違う。
「あのっ!!すいません!ヤシュバルさまに、お話をしたいんですが!!」
私は扉の前に立っている騎士さんに、ひょっこりと顔を出して話しかけた。
*
さて、この騎士はどう始末してやろうかと皇帝が思案しているのをヤシュバルは眺めていた。
目下に膝をつくのは両腕と片脚が凍り付いたレンツェの騎士。どうも稀有な祝福者のようだ。ヤシュバルの氷で凍り付いてもその炎で、壊死することは免れるだろう。が、氷を解かす程の力はなく、ヤシュバルもそれを許さなかった。
(…………)
「炎の祝福者か。まだ研鑽されておらぬしなぁ。使い道がないわけではないが、炎は……コルキスがいる。いらないか?あいつ同担拒否だからなぁ」
「コルヴィナス卿の配下になさるのは、お止めになった方がよろしいでしょう」
アグドニグルで最も好戦的な将の名に、ヤシュバルは軽く頷いた。
「かと言って、未熟な祝福者が単身でその能力を開化させることは難しいし。さて、どうするか」
「……」
こつん、と皇帝は軍靴の先で跪いているレンツェの騎士の顎に触れ、上を向かせる。
「うん?なんだ、憎悪に満ちた目をしておるが?先ほどまでの礼儀正しい面はどうした?」
「…………マルリカ王女を殺させて頂きたく」
「復讐か」
皇帝がマルリカ王女を生かし駒にすることが、レンツェの騎士には納得いかない様子。燃えるような強い瞳を、恐れ多くもアグドニグルの皇帝に向け、レンツェの騎士は吠える。
「俺は……!これまでずっと、復讐のために生きてきたんだッ!マルリカを殺す!あんたも、復讐のためにレンツェを滅ぼしたんなら、俺の気持ちがわかるだろ!!」
その言葉はアグドニグルの兵や騎士たちの反感を買った。
皇帝がどんな思いでレンツェに報復したのか、敵国の騎士が口にするなと、剣を抜く者さえいる中で、言われた皇帝はただ口元に微笑を浮かべて青い瞳を細める。
「諦めろ」
「……は?」
「マルリカとかいう、あの女は私が使う。貴様は今後一切、あの女の生死には関われぬ。私があの女の髪の毛一本爪の先まで、きちんと丁寧に、しっかりと、アグドニグルの為に使用してやるゆえ、貴様は復讐を諦めろ」
ふざけるな、とレンツェの騎士が叫んだ。立ち上がり、皇帝に体当たりしかねない勢い、ヤシュバルが全身を凍らせようとすると、皇帝がそれを手で制した。
「私は貴様の復讐など、過去など、覚悟などどうでもよい。私は私とアグドニグルのことしか興味がない。ゆえに、貴様が邪魔するならば殺す。それでよいか?」
「……………」
「良くはなかろう?貴様、あの幼いレンツェの姫を利用して、生き抜く気であっただろう。――ハハッ、良い良い。復讐者が、その先に死ではなく報われた生を描いているのは、良い」
離宮でレンツェのこの騎士が遭遇した兵士を殺さず、またあの幼い姫を逃した理由。ヤシュバルも察していた。アグドニグルに保護された姫は幼い。過酷な環境にいた中で、心優しさを失わなかったあの姫なら、自分に少しでも優しくしてくれた者の死を悲しみ、命乞いをしてくれるのではないかと、そういう打算だろう。
「生かしてやるから復讐を諦めろ、と?」
「え、貴様なんぞ生かして私になにか利があるのか?」
祝福者というのは確かに稀有な能力だが、アグドニグルには炎の祝福者コルキス・コルヴィナス卿がいる。
英雄卿と称えられるかの武人は皇帝陛下に絶対の忠誠を誓っていながら『私以外の炎の能力者を囲えば殺します』と常々宣言している。その対象が別の能力者なのか皇帝なのかの確認は『なんか怖いから聞かない』と判断保留にされているが。
「あの心優しきレンツェの姫がなぁ。貴様に主君殺しをさせないでくれ、とそう懇願した。ゆえに、貴様がマルリカ王女を殺さねば良いのだ。私が貴様を殺しても、私がマルリカ王女を殺しても、約束は守ったことになるだろう?なので、貴様の命などどうでもよいのだ。ふふん、私は賢いな?そう思うだろう、イブラヒム」
「っは。誠に陛下のその、他人の心情を全く顧みない発想は賢者たる私めもいつも驚かされます」
「よせよせ、そこまでおだてるでない。私を大賢者などと」
目の前で繰り広げられる茶番。レンツェの騎士が悔し気に唇を噛んだ。自分が無価値と判断されて、腹立たしく思う若者の未熟さ。
放っておくと他の兵士たちまで交ざって皇帝を持ち上げるので、それはそれで陛下が楽しいのなら良いけれど、ヤシュバルはレンツェのあの幼い姫のことが気がかりだった。
今度はけして部屋から出さないようにとヤシュバルが強い言葉で直接騎士たちに命じたので問題はないと思うが。
あの表情のころころ変わる姫が、今頃心配で泣いているのではないかと、考えれば心臓が締め付けられるような痛みを感じた。
「……」
あのレンツェの騎士が、皇帝の興味・関心・好奇心を引くのは無理だろう。
前提からして皇帝はあの騎士を既に「用無し」とみなしている。それを覆すのは容易ではなく、それが出来るだけの能力があの騎士にあるとは思えなかった。
「……マルリカ王女への復讐を諦める気はないか?」
「……」
すっ、とヤシュバルはレンツェの騎士の前に立つ。
「あるわけないだろう……ッ、お前は自分の家族が無残に殺されても、他人に『諦めろ』と言われたら従うのか!?」
怒鳴り散らされ、ヤシュバルは目を細めた。口元を僅かに吊り上げてしまったのは、何も嫌味からではない。その決断を既に自分は七つの頃にしたなどと、目の前の騎士は知らないのだ。
「なんだ、ヤシュバル。殺さない方が良いのか?」
「この復讐心が邪魔ではありますが、心を折れば問題ないかと存じます」
兵たちに『陛下サイコー』とおだてられていた皇帝が、ふとヤシュバルの行動に首を傾げる。
「それ、手間とかかかる……あぁ、なるほど」
「……」
「レンツェのあの姫を使うのか。――そなたにとっても苦しい事となるが、良いのか?」
息子を気遣う母の声音に、ヤシュバルは頷いた。
「アグドニグルの為に」




