2、レンツェの王女
「マルリカ……」
「なによ、その目。……っていうか、何なの、その恰好」
薄汚れた使用人の服を着たマルリカは、私を見て顔を顰めた。私は以前のようなボロボロの布を繋ぎ合わせた服じゃなくて、ヤシュバルさまが用意してくださったアグドニグルのとても綺麗な服を着ている。
髪は恐れ多くも皇帝陛下が『こういう事をしてみたかったんだ!』と、三つ編みに結ってくださった。鏡に映った姿は、もう汚物に塗れたレンツェの恥のエレンディラではなかった。
その姿を見た、マルリカは手を振り上げ、私の頬を殴る。
「このっ、恥知らず……ッ!あんた、あの蛮族どもに擦り寄ったの!?お父さまやお兄さま、お母さまたちを殺したあの野蛮な連中に……!」
マルリカの青い瞳は燃えるように輝いていた。沢山泣いたのだろう目の周りは腫れていて、いつも綺麗にお化粧をしていた姉のこんな姿を初めて見た。
「薄汚い娼婦の子がッ!」「裏切り者!」「どうしてあんたなんかが生きてるのよ!」
泣き叫ぶ姉の声には悲痛さより、憎悪が溢れていた。嫉妬だと、私はエレンディラの身で初めて『他人が自分に嫉妬している』という実感を得た。
いつからマルリカがここに隠れていたのかわからないが、多くの王族たちが捕らえられる中、怯えながら震えながら、不安と恐怖でいっぱいになりながら、今まで隠れていたのだろう。その一分一秒の長さ。
私にもわかる。兄や姉たちに、マルリカに見つかったらどんな酷い目にあわされるかと怯えて気が狂いそうだった、あの恐怖をマルリカは数日間味わったのだ。
そうして自分がそんな目に遭っていたのに、見下していた妹が(妹とも思っていないだろうけど)のうのうと生きていて、暖かそうな恰好をして現れたのだ。
だからだろうか。
マルリカの言葉が、私はちっとも怖くなかった。前は彼女が何か口を開くたびに、びくびくと震えていたのだけれど、今はこんなに大きな声で、強い言葉を投げつけられているのに、ちっとも怖くない。
『あぁ、そうか。マルリカは私が羨ましいのか』と、そう、ただ思うだけ。
「マルリカ王女殿下、あまり騒いでは……取り逃がした兵が、増援を呼んでくるでしょう。一刻も早く、ここを離れなければなりません」
「煩いわね!誰に命令しているの!?お前!この私にこんな格好をさせて、惨めな思いをさせて……!それでよく護衛騎士だなんて言えるわ!!」
「……ご不便をおかけし申し訳ありません」
「第一、お前が悪いのよ!どうしてこの私がコソコソ逃げないといけないの!お前が弱いから、こんなことになったんじゃない!」
……むちゃくちゃだ。
私はこれまで、マルリカや他の兄姉たちしか「王族」というのを知らなかった。自分の意にそぐわない事があると直ぐに顔を真っ赤にして、下の人間に当たり散らす。下の人間が「無能」だから、自分たちが不快な思いをするのだと。
これがレンツェの王族。
(……陛下や、ヤシュバルさまは、全然違う)
アグドニグルの。私の国を滅ぼした、レンツェにとって悪魔に等しい存在で、マルリカ曰く野蛮人。レンツェの人間が罵るアグドニグルの王族は、私の知る二人は……マルリカたちとは、全然違った。
「……姫君、我々はこの離宮の、王族用の抜け道を使いここから離れます。――ご一緒されますか?」
「はぁ!?お前、なんでこんな裏切り者を誘うのよ!足手まといになるじゃない!」
「……」
「……抜け道?」
切り出される提案に、私は目をぱちり、とさせた。
……この離宮の、いや、王族の使用する建物には必ずある緊急時の脱出ルート。
「……何を、」
「レイヴン!いい加減にして!」
ぐいっと、マルリカが護衛騎士レイヴン卿の腕を掴んで自分の方に意識を向けさせた。
「私が命令してないことを勝手にしないでちょうだい!」
「……申し訳ありません」
「もしかして、追っ手が来たときにこのグズを人質にって考えたの?はぁ、これだから……護衛騎士でも、あんたは所詮平民出よね。顔は良いけど、頭が悪いったらありゃしない。こんなグズを人質にするなんて、騎士として最低よ。あんたには誇りってものがないの?」
マルリカの永遠に続くんじゃないかと思う一方的な言い分を、護衛騎士レイヴン卿はじっと聞いていた。
……レンツェの護衛騎士は、王族には絶対服従で、自分が仕える主人には特にその誓いが強くなる、というのは姉たちの自慢話で聞いたことがある。血を使い、魔法で契約するのだそうだ。レンツェの王族を傷付けることはできない。自分の命をかけて守らなければならない。嘘をついてはならない。
だから先ほど、レイヴン卿が私に一緒に行かないかと誘ったのは嘘ではない。
「……お姉さまは、どうして逃げるんですか?」
「はぁ?」
イライラとし始めたマルリカに、私は問いかけた。マルリカは「なんでそんなわかりきったことを聞く?」と顔を歪める。
「決まってるじゃない。私は王女なのよ。こんなところで死ねないわ。――ッハ、下賤の生まれのお前にはわからないでしょうね。私は王女よ?いつも召使に囲まれて、この国で一番いい暮らしをするべきなの。それが私の義務なのよ」
「……逃げて、以前のような暮らしが出来るとは思えません。レンツェは、滅んだんですよ」
アグドニグルの皇帝陛下によって、国民は全員奴隷にされる。王族が護るべき国民がいなくて、どうして王族だけ生きられるとマルリカは思っているのだろう。
「はぁ?そんなのお前に言われなくてもわかってるわよ。馬鹿にしてるの?お前ごときが。ッハ、あの野蛮人どもに擦り寄ってちょっと優しくされた?だから勘違いしてるのかしら。私とお前じゃ、全然立場が違うの」
王女なのよ、とマルリカは繰り返す。
「南部の同盟国に助けを求めればいいわ。そこまで逃げればいいの。まぁ、私のために軍を派遣して卑怯なアグドニグルの野蛮人どもを皆殺しにしてくれてもいいけど」
「どうしてマルリカのためにすると思うの?」
「お前は本当に馬鹿よね。王女の私を歓迎しないわけないじゃない。南部の同盟国はどこも私を妃に迎えたいって縁談を持ってきていたのよ」
……それは、レンツェという国があっての、マルリカの王女としての価値からだったんじゃないか。私は内心思ったが、マルリカは違う。
王女であることの価値をマルリカは自分でこれまで経験して独自の値段があった。それは今でも、レンツェが滅び、他の王族が全て亡くなった今でも、変わらないと思っている。
「……レンツェのため、に逃げるんじゃないのね」
「はぁ?」
「……アグドニグルに制圧されて……奴隷になるレンツェの人たちのために……地図から消されるレンツェのために……王族としての義務を果たすために生き延びるんじゃ、ないの?」
「そんなのお兄さまたちの役目でしょ?お前、本当に馬鹿なのね。私は王女よ?いいこと、王女の役目はね。美しくあること。愛されることよ。誰もが私を大切にして、守ってくれる。ッハ、まぁ。お前には無理よねぇ、エレンディラ」
娼婦の子。王家の恥。奴隷が産んだ、みっともない子。
マルリカは最後の最後まで私を馬鹿にして、まともに話をしようとはしない。
本当に、おかしなものだ。
仮にもマルリカは血が繋がっていて、七年間一緒に生活していて、顔を合わせて、同じ国の人間であるのに。
言葉が通じているのに、全く、話ができない。
私の言葉をちゃんと聞いて、考えてくれたのは、マルリカが野蛮人と罵る、アグドニグルの人間だけだ。
「……レイヴン、もう目障りだから、このグズをさっさと殺して」
私が怯えず泣きもしないので、マルリカは腹が立ったようだ。ゴミを見るように一瞥し、レイヴン卿に命じる。
「マルリカ王女殿下。申し訳ございません。私は王族の方に手をかけることができません」
「こいつが王族なわけないでしょ!お前の主人は誰!?この私が、殺せって言ってるのよ!なんで出来ないの!?やりなさいよ!!ほら!早く!」
どん、とマルリカはレイヴン卿を私の方に強く押した。
レイヴン卿はこれまで姉の自慢だったのではないか。どこへ行くにも着飾って連れて行き、誰もがレイヴン卿の銀の髪と女性よりも白い肌、整った顔をうっとりと眺めるのだと私に自慢していた。その自慢の護衛騎士に当たり散らすマルリカは、みかけはとても美しいのに、どうしてこんなに醜悪に感じるのか。
「……」
「あー!もう!なら、そこの窓から投げ捨てなさいよ!」
二階の窓を指差してマルリカは怒鳴る。
勢いよく投げ落とせば死んでしまう。しかし、直接手をかける、という扱いにはならない。
「……」
レイヴン卿は無表情に私を見つめ、私を抱き上げた。
「ふん、そうよ。最初っから、そうしなさいよ。本当に頭が悪いんだから」
姉はどうしてわからないんだろう。
アグドニグルの兵士達、それにヤシュバルさまや皇帝陛下の目から、王族の姉を隠して逃げ延びることがどれほど大変だったことか。姉は憔悴しているが、レイヴン卿は姉の何倍も神経をすり減らし、姉を隠してきたはずだ。その方の頭が、悪いわけがない。
私がマルリカに何か言おうとすると、レイヴン卿がそっと首を振った。静かに、黙っているように、と目で訴える。
「……」
「……一目、お会いできて安心しました」
ぼそり、と、大広間の階段を上がりながら、マルリカに聞こえない小さな声で呟く。
「第2王子が生きています。この情報をアグドニグルの皇帝に伝えれば、姫君は罪に問われずに済むでしょう」
「……え?」
「どうか、お幸せに」
言って、レイブン卿は私を二階の窓からゆっくりと放り投げた。
浮遊感。ひっ、と、私の口から洩れる悲鳴。地面に叩きつけられる衝撃を覚悟したが、それは私の身に起こることがなかった。
「……君、なぜ……窓からッ、怪我は、ないか!?」
どさっ、とした衝撃はあった。硬い、痛みを伴うものではなくて、誰かが私を、必死に受け止めてくれた衝撃。
聞こえた声に、ぎゅっと閉じていた目を開くと、そこには黒い髪に赤い瞳の……心配そうに眉間に皺を寄せた騎士さん、ヤシュバルさまのお顔があった。




