1、そう言えば名前で呼ばれたことがなかった
朝食後に厨房でヤシュバルさまや皇帝陛下(と、イブラヒムさん)に卵焼きを召し上がって頂いて、その後私は一室で待機。
一応レンツェの王族の生き残りで、三日後にはアグドニグルに送られるらしい。それまで大人しくしているようにと言われ用意されたのは、私にはもったいないくらい綺麗な部屋だった。
メイドや侍女を付けられないことをヤシュバルさまは謝ってくださったけど、元々自分のことは自分で出来るし、それに、アグドニグルの人たちも、レンツェの私のお世話をするのは嫌がるかもしれない。
かといって、レンツェの王宮に仕えていた人たちは……奴隷にされるための手続きで別のところに集められている。
(……このままじっと、してても……いいんだけど)
息をひそめているのは得意だけれど、私には気がかりなことが一つだけあった。
離宮。私がこれまで生きて来た朽ちた宮。そこにはお母さまの外套……の、残骸で作ったハンカチがある。元々の外套は意地悪な姉に燃やされてしまったけれど、燃えなかった部分を繕って小さなハンカチにした。元々外套だったので布は厚いが、まぁ、いいとして。
普段持ち歩いているとなんの拍子に兄や姉たちに奪われるかわからない。私が大切にしているものを奪って踏みにじるのが何よりも楽しいという顔をする彼らに、わざわざ口実を作ってあげる必要はなかった。
なので大切に……しまっておいたのだ。
このままアグドニグルに行くのは良いけど、あれを置いていくのは……嫌だなぁ。
「あの……」
それで、大人しくしているようにと言われた部屋の扉をそっと開いて、見張りか、それとも見守りかで立ってくれている兵士さんに声をかける。
ちらり、と兵士さんたちはこちらに顔を向けた。
「……住んでいた所に……母の、形見の品を置いてきたんです。直ぐに戻りますから……持ってきてもいいでしょうか」
「え……そりゃ……どうなんだ?」
「母親の形見ってんなら、そりゃ……持って行かないとまずいだろ」
兵士さん二人は顔を見合わせ、神妙に頷く。
「まだこんなに小さいしなぁ。これから外国に行くなら、恋しいだろうし」
「だよなぁ。良い思い出が一つでもある物は、手放さない方が良いよなぁ」
うんうん、と兵士さん二人は同情めいた目を私に向けてくる。レンツェの恥の娼婦の子。生かされた王族の、冷遇されていた身の上は、兵士さんたちも知っているのかもしれない。
「でも一人で行かせたらまずいよな」
「そうだろ。いくら育った場所だっていってもなぁ」
「あ、あの、大丈夫です。私、一人は慣れてるので……」
「いやいや、こんな子供が一人でって……」
ちょっと行ってくるだけなので、そう難しいことでもないし、お仕事をしている二人に申し訳ない。そう言うと、兵士さんは妙な顔をした。
「いや、俺らのお仕事って、お嬢ちゃん……お姫様を守ることだからなぁ」
「そうそう。まぁ、お姫様が行くってんなら、一緒に行くよ」
制圧された宮殿で何か危険もないだろうが、突然転んだり強い風に吹き飛ばされるかもしれないし、と兵士さん二人は真面目に言う。
結局二人は一緒について来てくれることになった。
「……こんなところに、本当に住んでたのか?」
「え?はい。雨とか風は凌げるので。それに、基礎がしっかりした建物なので、みかけはちょっと崩れかかっててあれですけど……中はそんなに寒くないんですよ」
雪が殆ど降らないレンツェなので、屋内であれば凍死することもない。屋根と壁があるだけ私にはありがたかった。
離宮を案内すると、兵士さんたちはきょろきょろと辺りを見渡し『こんなところで幼女が……』『レンツェ滅べ、あ、もう滅んだわ。陛下サイコー』と、呟いていた。
「あ、あった」
私は離宮の中の、比較的老朽化が進んでいない部屋を出来るだけ清潔に使っていた。ベッドはないから、枯れ葉を集めたものを、黄ばんであちこち穴のあいたシーツを被せて寝ていた。虫?普通にいるよ!
その部屋の、床板の剥がれた隅に隠してある木箱。そこには私の大切なものが仕舞ってある。
お母さまの外套の成れの果てのハンカチに、春になったら埋めるための植物の種。偶然見つけた大きな鳥の羽根くらいだけど。
「……あの、ハンカチだけじゃなくて、この羽根と、種も持って行っていいですか?」
形見の品を持ってきたいと言っただけなので、約束と違うことをしてしまうのは大丈夫だろうか。心配になって、静かにしてくれている兵士さんたちを振り返った。
え?
「……あの」
「……静かに」
「……おれたちの側から、離れないでくださいよ」
いつの間にか、兵士さん二人は剣を抜いていた。さっきまでの優しい雰囲気が消えていて、警戒するように部屋の奥を見つめている。
……あっちは、壁が崩れかかってて危ないから、使えない部屋のはずなんだけど。
「何者だ!」
兵士さんが叫ぶ。
暗い部屋の奥……誰か、いるの?
ダンッ、と、何かがこちらに飛びかかってきた。
「!?」
「きゃぁっ」
ギン、と剣を受ける音。思わず叫び声を上げた。それより少し遅れて、うめき声に、どさり、と人が倒れる音。
「兵士さん!!」
「……っ、お姫様を連れて逃げろ!!」
倒れたのは兵士さんの一人。肩から胸まで、深く斬られている。血がどくどくと流れて、それでも兵士さんは剣を離さず、もう一人の兵士さんに向かって怒鳴った。
「レンツェの、騎士!?」
「生き残りだ!俺たちじゃ、かなわない!行け!」
飛び出してきたのはレンツェの……王宮騎士の甲冑を来た男の人だった。
「護衛騎士……!」
王宮騎士の中でも、王族に仕える騎士だ。私は覚えがあった。王族には必ず、五歳になると専属の騎士が付けられた。(……私にはいなかったけど)この騎士は確か……。
「っ、お姫様!」
もう一人の兵士さんは私を抱き上げると、そのまま出口に向かって走り出した。
「待って、あの、兵士さんが!」
私なんかを助けるより、同じアグドニグルの兵士さんを抱えて逃げるべきじゃないのか。
叫ぶが、兵士さんは顔を歪めて怒鳴った。
「もう無理だ!」
致命傷だ。手遅れだ。そう、即座に判断した兵士さんに、私は言葉を失う。
……私がここに来たいって言ったから。
ダンッダンッと力強く床を蹴って走る兵士さんの背中をぎゅっと握り、私は唇を噛んだ。
「私を置いて行って!」
「は!?」
「護衛騎士が……ここにいるってことは……王族が生き残ってるってことです。このことを、ヤシュバルさまか、陛下にお伝えしてください!」
私は身を捩って兵士さんの肩から降りる。
目撃者を、ここで殺さないと都合が悪いはずだ。だから絶対に、諦めず追いかけてくる。
この離宮は「使用されていなかった」とみなされて、周辺に他のアグドニグルの兵士もいない。私を肩に担いで逃げるより、兵士さん一人の方がずっと逃げ切る可能性が高い。
「いや、それは……」
「護衛騎士は王族を殺せません!」
行って、と私は再度怒鳴った。自分でもこんなに大声を出せるのかと驚いたけど、私以上に、兵士さんがびっくりと目を丸くする。
「お、王族って……あんた、今まで一度も……」
王族として扱われず、冷遇されていたエレンディラ。兵士さんは私が囮になろうとしていることを理解した。それでも、ここでレンツェの王族の生存を知らせられない事の重大さを天秤にかけ、兵士さんは走り出す。
私は追ってきたレンツェの騎士を、立ったまま迎えた。
「止まりなさい」
ここで一瞥もされず切り殺される可能性を、私は考えていないわけじゃなかった。
……他の護衛騎士なら、間違いなく殺されていただろう。だけど、多分……大丈夫。
「…………姫君」
向かってきた騎士は私の少し前で立ち止まった。
銀色の髪を長く伸ばした、肌が真っ白な騎士。
「なぜ、アグドニグルの兵と……」
「あら?なーんだ。エレンディラ(娼婦の子)じゃない。あんた、なんで生きてるの?」
停止した騎士に少し遅れて、やってきたのはよく知った声。
「……マルリカお姉さま」
顔に煤をつけ、魔法か何かで髪の色を変え、使用人の服を着た……それでも目を見張るほど美しい女性。
レンツェの第7王女、マルリカがそこにいた。




