3、うまく混ざり合ってこんこん
「……あれ?」
なんだか長い夢を見ていたような気がする。私がいろんな大人の人を前に、自分の思っている事を伝えられて、それで、誰も私の言葉を無視したりしない。きちんと聞いてくれて、私を奴隷の子、娼婦の子と、そう呼ばず、自分たちと同じ人間なんだって扱ってくれる、夢。
「……」
ぼうっとして、私は頭を振った。
……ここ、どこだっけ?
きょろきょろと見渡す。これまで私が住ませて貰っていた離宮じゃない。
「……っ」
うっかりどこかに……あまりに寒くて、ひもじくて、どこかに入り込んで寝てしまったんじゃないか。
誰かに見つかったら、またぶたれる!
私は怖くなって、ベッドから飛び降りる。今すぐにこの、きれいで暖かい部屋から出て行かなきゃ……。扉に手をかけかけて、人の気配を感じた。私はいつも逃げ回っていて、誰の目にも入らないようにしていたから、誰か人がいればすぐにわかった。
……こ、この部屋に入ってくるのかも!?
どうしよう。
少し前、上の兄たちに言われた言葉を思い出す。
『薄汚い娼婦の子のお前が、もし神聖な王宮に入り込んだりしたら、両足を切り落としてやるからな』
『そりゃいい。そうすればいつも這い蹲って身の程にあった視界になるな!』
兄たちはやる。
虫の羽をもぐことよりも簡単に、私の足を切ってしまうに違いない。
ガタガタと震える体をなんとか動かして、私はもう一度辺りを見渡した。
窓の外から見える景色、は、東の宮の方かもしれない。二階、下を見れば……このくらいなら、飛び降りれるような気がする。そんなに……そんなに、地面は遠くない?
ガチャガチャと、扉の方から音がする。
誰か入ってくる!
見つかって足を切られるか、ちょっと飛び降りて、足が折れても……切られるよりいいんじゃない?
想像するとどんどん怖くなる。どんな言葉で、どんな大きな声で怒鳴られて、また髪を引っ張られて、あちこちナイフで切られる。薄く切ってじんわりと血が滲んでいくのを見るのが好きな兄がいる。目玉を繰り出してみたいと言っていた姉もいた。見つかったら、何をされるか、恐い事ばかり頭の中に浮かんでくる。
「っ!」
茂みのほうに飛び降りたらマシかも。
飛び降りて、すぐに逃げる方向をちゃんと確認しないと、すぐに、前みたいに掴まって片脚を馬に繋がれて引きずられる。
「うん?目が覚め、」
「……いやっ!」
入って来たのは、背の高い黒い髪の人。
知らない人。
何を考えてるのかわからない、冷たい目、こわい顔。
私は喉から引きつったような叫び声をあげ、窓から飛び降りた。
「っ!!!!!!!?君ッ!」
ふわりと浮かぶ間隔は一瞬。私の体は、落下しなかった。
捕まってしまった。咄嗟に駆け寄ってきた男の人が私の体を抱きかかえ、私は逃げられなくなる。
どんどん、と私は必死に抵抗した。
逃げなきゃ。どんな酷い事をされるか。大きな男の人。大きな手。殴られたら、どんなに痛いだろう。
半狂乱になりながら叫んで、男の人の腕から逃れると私はテーブルの下に隠れた。大きな男の人は、こんなに狭い所は手が届かないはず。ここなら、ここなら、すぐに殴られないはず。
「……君?」
「な、なぐ、なぐらないで……!ごめんなさい、ごめっ、知らない間に……こ、ここにいたの!うそじゃないわ……!ごめんなさい!ごめんなさい!」
兄たちの誰かを呼ばれたら終わりだ。
見逃してくれるはずなんかないが、怖くて私は必死にお願いした。これまで、こうしてお願いして一度だって、誰かが私のお願いを聞いてくれたことなんかないけど。
「お願い、殴らないで……お願い……!」
「……落ち着きなさい。……スィヤヴシュの薬が精神を混乱させているのか?……私はヤシュバル。君を傷つけたりしない」
男の人は床に片膝をついてテーブルの下の私に目線を合わせた。
「う、嘘!また、また、前みたいに……そうやって、わたしのこと……騙して、お兄さまたちのところに連れて行くんでしょ……!」
「そんなことはしない」
声は優しい。
優しい声は、信じちゃいけない。
『まぁ!可哀想なエレンディラ!お腹を空かせてるのね?よかったらこれを食べて?』
なんて、言って、今まで一度も食べたことがないような、真っ白いケーキをくれたお姉さま。そのケーキを食べて、お腹を壊し、ピンク色のすっぱい液を吐き続けた。
信じちゃだめ。
無表情にこっちを見て、顔を顰める男の人。血のにおいがすごくする。たくさん酷い事をしてきたひとだと、すぐにわかる。こんな人に、捕まったら、お母さまみたいに殺されてしまう。
でも、こんな人から、きっと逃げる事だってできない。
怖くて、怖くて、涙が出て来た。泣くとお兄さまたちは耳障りだと怒鳴る。それが怖くてもっと涙が出てきてしまうのを、誰もわかってくれなかった。
「っ、うっ……」
「君、どこか……痛いのか。先ほどどこか……ぶつけたのかもしれない」
男の人が急に、オロオロと狼狽えるような顔をした。
信じちゃだめ。私はぐいぐいと目を擦り、男の人が急に手を伸ばして掴んでこないか、注意深く見る。もし手を伸ばして来たら噛み付いてやる。それくらいしかできないけど、どうせ殺されてしまうなら、何かしてから、殺されたい。
「……君……エレン……エレン姫」
「……」
困ったような顔をした男の人が呼ぶのは私の名前の半分。私の名前はエレンディラ。娼婦の子。
「……エレン」
「……それは、わたしの名前じゃないわ」
「……」
男の人だって、私の名前を知っているだろう。なのに、呼べないような顔をする。
「私はヤシュバル。君の後見人だ」
「……」
「後見人というのは、君に辛い思いや寒い思いをしないように……」
「……」
言いよどむ男のひと。
……私は、だんだん、自分の中に浮かんでくる記憶があった。
血の海になった大広間。
転がる王冠。その近くの首。
着飾った綺麗なお姉さまたちが、集められた。
凍り付いた冬の池。
助けてくれたひと。
「……騎士さん」
「……そうだ」
ほっと、男の人が息を吐いた。
そうだ。騎士さん。
私はエレンディラで、前世が日本人で。それで、この人は、私の……。
「お婿さん」
「うん!?いや、いや……!?」
「……間違えましたか?」
驚いた顔に、私はびくり、と震えてテーブルの下から出て行こうとした体を引っ込める。
「皇帝陛下が……騎士さんは、ヤシュバルさまは……私が、ちゃんと千の料理を作れたら、お婿さんになるって、おっしゃってましたよね?」
「……いや、私は君の後見人で……」
「……」
家族になってくれるひとじゃないのか。
私はまたずるずるとテーブルの奥の方に引っ込む。
「後見人、では駄目だろうか。私は、君が大人になって、君に相応しい男性に巡り合うまで君を……」
「……そんなひと、いません」
「いない、とは?」
「いないです。私に……ヤシュバルさま以外に、優しくしてくれるひとなんて、いないです」
雪の中で震えている私を助けてくれたのはヤシュバルさまだけだ。
そんなひと、他にいるわけがないのに、いつかいるなんて言葉で適当に言わないで欲しい。
私が頬を膨らませると、ヤシュバルさまは考え込んでしまった。
……困らせたいわけじゃない。
私は冷静になってきて、落ち着いてきて、どんどん、自分がとても失礼なことをしてしまったと理解した。
「……あの、ごめんなさい」
おずおずと、テーブルの下から出て行くとヤシュバルさまはほっと息を吐いた。
「どこか痛いところはないか?」
「……ないです」
「お腹が空いただろう。朝食を用意させたから、顔を洗って服を着替えたら隣の部屋に来なさい」
……ヤシュバルさまは皇子様だ。これを伝えにくるためだけに来たのなら、きっと、他の知らない人だった場合、私が怯えるかもしれないと思ったのだろう。
……申し訳ないことをしてしまった。
「あの……その、私、ちょっと、混乱してて。いろんなことが、わからなくなってしまってて……」
「いや、いいんだ。原因もわかっている。君が謝ることは何もない」
「……」
さぁ身支度をして、と促される。混乱していて気付かなかったけど、衝立や、温かいお湯が部屋には用意されていて、見ればこれまで一度も着たことがない……綺麗な服もあった。
……前世の記憶に少しある、子ども向けのチャイナドレスみたいな。
アグドニグルって、そういえば……ヨーロッパ系というかどっちかというとアジア系なんだろうか?
レンツェはヨーロッパのような文化だから、お城の作りも西洋のものに似てる。
私は衝立の内側で顔を洗い、髪を梳かして服を着替えた。簡単なワンピースタイプなので私一人でも着られるし、前世の記憶にこんな感じの服を着ていたものもあって、それほど苦労はなかった。
「昨日の話だが……君は千種類も料理が作れるのか?」
身支度が終わって、隣の部屋で朝ごはん。
メニューは胃に優しそうなお粥に餃子のようなもの。デーツのようなドライフルーツも添えられていて、お茶は茶色い甘くないやつだった。
もっきゅもきゅと、無言で食べる私をじぃっと見つめていたヤシュバルさまは、私が三つ目の餃子を食べ終えたところで声をかけてくる。
ヤシュバルさまはお茶を飲んでいるだけで召し上がっていない。既に朝食は済ませたのかも。
「あ、はい。それは大丈夫です」
「……」
「ほんとうです!」
疑っている、というより「子どもだからきっと千という数がどれくらいか、実はわかっていないんじゃないか」という顔をされ、私はムッとした。
前世の記憶をうまく思い出して使えれば、実際のところ……千の料理を作るのはそう難しいとは思わない。
ただ、料理というのは……食べる人が決まっている場合はただ作ればいいというだけではなくなる。
「私の場合は……ただ作って献上する、だけでは駄目だと思います。……ちゃんと、陛下に「可」として頂くために……陛下のお好みや、その時の陛下のお気持ちに沿ったお料理をお出しするべきだと思うので……」
皇帝陛下とお話ししたりするのは、立場上難しいだろうけれど、情報を収集するのなら、皇子であるヤシュバルさまの協力が得られればとてもありがたい。
私が言うと、ヤシュバルさまは首を傾げた。
「料理というのは、皆同じではないのか?」
「……は?」
「君が今食べている粥は、粥だろう。誰が食べても同じものだ」
……おい、こいつ何言ってるんだ???
おやおやおやおや、と、私の中で、前世の異世界の意識が濃くなった。




