聖母の亡骸
私は平凡な女だった。
小さな村に生まれて、育って、村から出ることは無く。
地味な女だった。
自分でもわかっている。野の花で髪を飾っても、お前のような女の頭に置かれるのは花が摘まれるだけ可哀想だと親に窘められるほど。
村の祭りがあっても、浮かれる男女たちの後始末に周って終わった娘時代。
親が探してきた、これまた自分と同じくらい地味でパッとしない男と結婚した。亭主を持てば女は地味な方がよいと年老いた母は言ったが、時々ふらりと夫が夜遊びに出て、酒のにおいの他に女のにおいを連れて帰ってくると、自分のような女でも敗北感のようなものを感じずにはいられなかった。
と言って、夫に愛があったわけではなく、なぜ踏みにじられねばならないのかと、そんな悔しさだ。
己と同じくらい地味な男も、自分のような女の夫も、金があれば男としての自信を持つふるまいができることに対して、何も持たぬ己への不甲斐なさ。
それでも、祖母が、母が、村の女の多くがそうするように。亭主が外でどうふるまおうと、ただ黙って待っていた。
「おぎゃぁ、オギャア……オギャ……」
子供が生まれた。
お互い寒さを凌ぐために共に眠るくらいの夫婦でも、することをしていれば子供は生まれるものらしい。
膨らむ胎に不気味さを覚えはしたが、己の中で何かが育っていくという感覚は、その不気味さを奇妙な心地よさに変える何かがあった。
生まれてきたのは真っ白い子供。
私と亭主のどちらにも似ない、真っ赤な目。不貞を疑われるかと思ったが、子供の肌の白さが「あぁ、これは、未熟な子供だ」と周囲に理解させた。
力の弱い子だった。
乳を吸う力も弱々しく、泣くこともほとんどない。
赤ん坊なら泣くのが仕事だろうと、あまりに泣かぬので不安になった私が泣いてしまった。それでもどうしようもない。
咳をする。
血を吐く。
苦し気に何度も何度も。
あぁ、これは、長くは生きられないのだと、私のような無知な女にもわかった。
森の獣に、時折そうしたものがいると、村の年よりが言った。
真っ白い生き物。
白というのは死の色で、生まれてくるときに神様からこの世の色を何も頂けなかったので長く生きることができないそうだ。
「かわいそうに」
「可哀想に」
「残念だったな」
「だが、×××はまだ若い。次の子をすぐに産めるさ」
「亭主はあっちの方は強いんだ」
「無駄に商売女に蒔いてないで、女房に種付けしなけりゃな」
血を吐く赤ん坊を必死に看病する私の前で、よくもまぁ。ゲラゲラと笑いながら言う連中の多いこと。
「女の子だったから、まぁ、いいんじゃないか」
「男の子だったら惜しいものな」
ゲラゲラと。
その声に亭主や両親も混ざっている。
私は子供を抱きしめた。
温かい。
小さく、弱々しいが、温かい。
とくん、とくん、と、小さな心臓が必死に動いている。
生きているのだ。
真っ赤な目が私を見つめる。
まだ赤ん坊だというのに、賢い子。
私が母親だとわかっているような、そんな目。
縋るような色はなかった。
私が自分の視界に入ると、嬉しそうにきゃっきゃと笑う。
苦しいだろうに。
満足に乳も飲めずに、腹を空かせているだろうに。
それでも、母が目に映れば喜ぶ。
私は村の賢い女や、旅をしてきた男たち、何か村以外のことを知っている者たちに訪ねて回った。
この子はどうすれば生きられるのか。
この子はなぜ、血を吐くのか。
血を吐く理由はわからなかった。
けれど清潔にしていれば。
綺麗な部屋で、綺麗な布で、綺麗な空気の中で、大切に、大事に、守って入れば、多少は苦しくないのだと、そのようにわかってきた。
朝から晩まで、私は赤ん坊につきっきりになった。
寝所の布は全て、お湯を沸かし悪いものがついていないように。
人間の乳が駄目ならばと、牛やヤギ、他の動物の乳も試したが駄目だった。
けれど……奇妙なことに。不思議なことに。
蜂蜜だけはなんとか口にできた。
赤ん坊に蜂蜜は毒だと母親の知識として備えてきたのに、どういうことか。
「なんでもいいわ。この子が、何か口にできるのなら」
乳は飲めないが、何か舐めるだけでもいい。
嫁入り道具も、僅かに持っていた装飾品も何もかも売って蜂蜜を手に入れた。
森に入って採ってこれればよかったが、赤ん坊を残してはいけない。亭主は赤ん坊を見限って何もしてくれない。
……子供は三つになった。
私の願いが届いたのだろうか。
相変わらずか細く、弱く、血を吐き苦しむが……生きていてくれた。
眠っている間に息を引き取ったらどうしようかと怯えて眠れなかった私も、もしかするとこの子はもう少し長く生きることができるのかもしれないと、そんな希望を持つようになった。小さな手を動かして、握り返してくれるようになった。
自分で寝返りも打てる。
何かに寄りかかっていれば座っていることもできる。
子供の成長が自分の心をこれほど満たしてくれるのかと、私は毎日泣いた。
きっと大丈夫。
外で遊べるような子には育たないかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
生きてさえいてくれれば、それでいい。
周囲が何を言おうと、死んだ方が楽だろうと、私に言ってきても、この子の目を見れば、そんな雑音は聞こえなくなる。
何も知らない、あどけない目。
苦しい思いを、生まれてきてすぐにたくさんしているというのに、この目には悲しみや憎しみがない。
辛いから死にたい。苦しいから死んでしまいたい、などとちっとも思っていない。
母親が微笑めばうれしくなって声を上げる、なんて純粋な存在なのだろう。
「……聖女?…………は?」
ある日突然、仰々しい男たちがズカズカと入ってきた。
久しく見なかった亭主が、その男たちにぺこぺこ頭を下げながら後ろに付いてきている。
消毒もしていない体で部屋に入るなと私が金切声を上げるが、男たちは意にも介さなかった。
赤ん坊の眠っている寝台をぐるりと囲むので、私が箒を振りかざして彼らを追い払おうとすると、亭主が私を羽交い絞めにした。
「おい、バカ女!暴れるな!この方々は、神聖ルドヴィカのえれぇ坊さまたちだぞ!」
「知るか!!放せ……私の子に触るな!!その子は外の汚れに弱いんだ!!」
「あぁ、もうしわけありません、坊さまがた……!女房は頭の弱い女で……どうかお許しください!!」
男たちが私の娘に触れる。
一人の、背の高い黒髪の男がゆっくりと頷いた。
「なるほど、えぇ。確かに。これはこれは……稀有なことではありますが……なんとまぁ。神のお考えは我々凡人には及びつかぬものと、日々驚かされ、畏怖の念を抱かされますね」
「モーティマー卿。では……まさか、本当に?」
「このような小さな子が……聖女の祝福を?」
「えぇ。そのようです。免疫力の極端に少ない個体として生まれ、その生命の危機から持って生まれた素養を開花させたのでしょうね。七つか八つの洗礼式を迎える前に力が発現するなど……あまりないことではありますが」
やけに目の細い男は「中々運の良いお嬢さんですね」と呟いた。
……聖女?
私でも、知っている。
神に愛された女のことだ。
人の病を癒し、救う女のことだ。
「……この子が……?」
「えぇ、ご母堂。貴方にルドヴィカの祝福があったのでしょう。ご安心ください。我々は聖女様を保護する義務がありますので。このような村で、アルビノの子供を抱え生きるのは大変だったことでしょう。母の愛というのはなんとも深く強いのか。私のような者からすれば、眩しい限りです」
「……」
すとん、と、私はその場にへたり込んだ。
この子が聖女。
いや、そんなことはどうでもいい。
神聖ルドヴィカ。
土地は小さいが、強い力を持った大きな国だ。国ではない、というものもいるが、私には国ではない理由がわからないので、国のようなものだ。
……ルドヴィカの、偉い人たちが、この子を守ってくれるというのか。
良かった。
安心した。
ぼろぼろと、涙が零れてきた。
あぁ、あぁ、良かった。
私しか守ってあげられる者がいないことが、悲しかった。
私だけしか、この子に生きていてほしいと思っていないことが、悲しかった。
「……この子は、生きていて、良いのですよね?」
「えぇ。当然です。聖女様ですから。我が神聖ルドヴィカでは聖女の祝福を得た方は保護し教育するべきだと、経典にも書かれておりますよ。おや、経典を読んだことが……あぁ文字が読めないのは仕方ありませんね。この村には神の家もないようですし……これを機に、神官を一人派遣し神の言葉をお伝えするのもよいでしょう」
「あぁ……!神よ……!!」
床に跪いて、私は神に感謝した。
男は私に、聖女として引き取られた娘は二度と親元には戻れないと語った。寂しい、つらい、苦しいという感情が私の中に湧き上がったが、そんな私の自分勝手な感情を優先して娘の未来を奪うなどあってはならないことだ。
せめて最後に抱きしめさせてくださいというと、男は「もちろんです、母の腕のぬくもりを聖女様が覚えていられるように。どうぞお時間をたっぷりと」と頷いた。
白い肌に、赤い瞳の赤ん坊。
痩せて、言葉もろくに発せず、まだ歩くこともできないが……これできっと、もう、大丈夫。
「あなたは幸せになれるのよ」
良かった。
本当に。
神様、ありがとうございます。
娘は立派な子供服を着せて貰って、優しそうな女性の腕に抱かれ、立派な馬車に乗せられた。
馬車での長旅は娘に耐えられるか心配したが、男が「近くの神殿で、そこから聖都まで移動できますので」と、よくわからないが説明をしてくれた。乳母になってくれるという女性は聖女教育を何人もしてきた方らしい。それなら安心だと思うが、それでも娘のことがあれこれ気になって、その女性に娘のことをたくさん話した。女性はやさしく黙って聞いてくれて「聖女様をこの世に産んでくださってありがとうございます」と、そのように言ってくれた。
……この子が生まれてきたことを、祝福してくれた。
私はまた泣いてしまい、女性は綺麗な布を差し出してくれた。
大丈夫。
この優しい人たちのところで、娘は幸せになれる。
亭主は男からたくさんの金貨を貰って満足そうだった。
村の連中も、これまで娘を死にぞこないだなんだのと言っていたのに、急に態度を変えて私の家にあれこれと物を持ってくるようになった。
もう娘は帰ってこないから、贈り物をされても何も返せないし、亭主は金貨を全部ひとりで使ってしまう気だと言っても、村の連中は「聖女さまを産んだあんたを粗末にしちゃバチが当たるよ」なんて言って、彼らの考える親切を押し付け続けた。
村に神の家が出来た。
神聖ルドヴィカから聖職者が一人やってきて、村で神の教えを説く。
私は熱心に耳を傾け、祈った。
娘はどうしているだろうか。
気になったが、自分のような女が、聖女となる娘を気にかけるなど……恐れ多いことだろう。
ただ心の中で無事を、平穏を、幸せを祈った。
なるほど、祈るということはこういうことか、とも思った。
自分ではどうすることもできない。何もしてやれないことをわかりながら、神に祈ると、心が落ち着く。
祈ることで、救われる。
「聖女ソニアは役立たずだ」
ふと、そんな言葉を耳にした。
自分で望んで、神の家の雑事を引き受けた。
食事の支度から何もかも、私が行うことは当然のように思って、朝から夜まで務めていた。
話していたのは、聖職者と、見習いらしい少年だ。
個室で、私は掃除のために扉を叩こうとした手を止めた。
「まったく、これじゃあ私は外れくじだよ。聖女が生まれた土地の管理を任されたということは、こんなへき地でも出世の見込みがあったのだと喜んだのに……」
「しかし、ソニア様はお生まれになった時から聖女の力を使えていた、とてもお力の強いお方ではなかったのですか?」
「あぁ、それはまぁ。そりゃ、そうだろう。本当なら生まれて一晩で死んでいておかしくないくらい、出来損ないの体を聖女の癒しの力を自分に使い続けることで死なずに済んでいたんだ。死体が神の奇跡で動いていたようなものだよ」
「なんと……それは……つまり、まさか!」
「そのまさかさ。すぐに黒化してお役御免。もってあと数年だろう。聖女の力を使い続けなきゃ死体になるから力を使わないわけにもいかない。自分を生かすために力を使うから、他の人間に回せる余裕なんかないそうだ。誰も治せない聖女なんぞ、誰が欲しがる?」
「聖女の力の大きさが、神殿の権威に影響しますので…………聖水すら作れない、というのは……」
「な?役立たずだろう?」
「しかし、それでは……ソニア様はどうなるのでしょう?」
「私が師匠に聞いた話じゃ、北の地の神殿にでも送るか、という話らしい」
「北の地?しかし、そこはアグドニグルの皇帝陛下の……」
「だから、だろう。上は竜の魔女などに有能な聖女をあてがう気はないし、あの土地はアグドニグルにとって重要な場所だ。守っているのは皇帝の犬。聖女が癒しの力を使えないのなら、聖水を買うしかない。北の地は戦場だ。連中はいくら払ってでも聖水を買うだろうさ。聖女ソニアが黒化して、あの土地を呪ってくれればあの売女は大いに困るだろうし、あの役立たずでも、聖女として魔女を毒せれば生まれてきた意味があったな」
部屋の二人の話はアグドニグルの皇帝がいかに神の教えに背いているか、おぞましい存在であるかの話に移った。
私は呆然と立ち尽くす。
今の話の半分くらいしか、自分は意味がわからない。
だが、娘が……北の地?
……北の地とは、アグドニグルの皇帝陛下が魔族との最前線だとして守っている人の土地の境界線のことか?
そんなところに、娘が送られる?
「そんなこと……!!どうか、止めて下さい!!」
「!?」
私は部屋に飛び込んだ。
神官さまの前に跪き、懇願する。
「どうか娘を、どうか!ルドヴィカでお役に立てないというのであれば……私にお返しください!あの子が何かの害になるというのなら……私が山の中で育てます!あの子と一緒に死んで、あの子がお役に立てなかったことを神様に謝ります!」
聖女として役立たず。
あの子が聖女になれない。
そんなこと、私にはどうだっていい。
あの子を守らないのなら、返せ。
私は神官の服を掴み、必死に訴えた。
女の形相。
混乱した見習い神官がわぁ、と叫び、私に燭台を打ち付ける。蝋燭の炎が私の体に燃え移った。ガタン、と、棚に当たって香油が体にかかり、炎の勢いが増す。
「な、なんだ……このっ……!さ、触るな!」
神官が私を足蹴にし、私は壁に体を打つ。
体が燃える。
髪が、顔が、熱い。
叫び、叫んで、娘の名を呼んだ。
ソニア!
ソニア!
私の娘!!
祈りの言葉を紡いできた私の唇から血が噴き出す。
神よ……!
祈っても、叫んでも、神の言葉は何もない。
私は燃えながら、神官の足首を掴んだ。何度も蹴られたが、けして離さない。怯える見習いが逃げ出した。喚いて、泣きながら逃げていった。
神官が何か叫んでいる。
神の名と、祈りの言葉、私を罵る言葉。
神官の言葉に力があるのなら、神官の言葉ならば神に届くというのなら。
私は呪われるだろうが、私の体は燃えるだけ、神官の服も燃え始めた。
*
鄙びた村の、小さな教会で焼死体が二つ、発見されたけれど、それは別段、誰かの記憶に残るようなことはなかった。
活動報告に書影と口絵のリンク貼ってありますので、ぜひご覧ください('ω')ノ




