*突然ですが番外です:推定狂人、聖人疑惑:後編*
料理は化学、とはよく言ったもの。
フレンチガストロノミー。
料理を分子的に、物理的に、科学的に、理論的に調理を行って表現の幅が広がった、近代の美食の姿について、私もそれなりに、まぁ、知っている。
簡単なところであればオイルパウダー、エスプーマ、人工キャビアや人工キャベツ。名前だけ出されてもピンとこないだろう。ただ、試験管の中に入れられた料理や、黒い皿の上になんか妙な粉がかけられ「畑をイメージしています」とか、泡だらけにされた魚のかけらが皿にポン、と置かれて「こちらがメインです」などという説明を受けて提供される、など、誰だって一度は目にしたことがあるはずだ。たぶん。
要するに、人間の科学技術が進むことで、煮て、焼いて、蒸して、炒めて、混ぜて食べるだけだった人類の新たなステージ。伝書鳩だけでは満足できなかった人類が、スマートフォンにたどり着くように、肉を焼くことで進化してきた我らがご先祖様のハングリー精神を受け継いだ結果、気泡やら粉末やらをありがたく口にすることになったわけである。
このあたりの言い方、説明でおわかりだろうが、私は好みではない。
確かに複雑で繊細な味の表現、新たな「美食」の探求に分子ガストロノミーは適した技術だろう。
本来の「ガストロノミー」とは美食。食事の文化と背景を考察することだったはずなのだけれど、いろいろあって、料理を文化や芸術の域にまで理論展開させたもの……分子料理の誕生となったわけだが……好みじゃない。大事なことなので二度言った。
ただ、表現方法の幅の広さは、料理人として学ばなければならないことが多くあったわけだ。
ふと、何かに気づいたらしいモーリアスさん。賢者の祝福を持つ人間の悲しい習性、知識欲、好奇心、まぁ、呼び方は何でもいいのだけれど、普段思慮深く行動していらっしゃるらしいモーリアス・モーティマーさんであるけれど、ふとした好奇心。ちょっとした、本能的な動作。
テーブルの上の、十五センチほどの大きさの岩を手に取った。
「…………うん? 軽い。おや……これは、岩ではなく…………まさか、パン」
ですか、と、言おうとしたモーリアスさんの目が一瞬大きく見開かれ、しまった、というように口元を抑えた。
しかしもう遅い。
「ほう………ほーぅ?」
陛下の真っ赤な唇が面白そうに歪み、笑みの形を作る。
私はじっとしているおじいさんの手をぐいっと取って、モーリアスさんの前に連れてきた。
「え!? そんな、あの岩が!! なんということでしょう! 驚きですね!! なんてこった!!」
「お嬢さん?」
「…………聖女様……」
ぎりっと、軽く奥歯を噛みしめて私に視線を向けるモーリアスさん。わぁ、こういうお顔は、イブラヒムさんとそっくりですね!と、私は「その顔が見たかった!」とばかりに、にっこりと微笑み返す。
「奇跡、ですね!!!!!!!岩がパンに!!それ、パンですよね!!わぁ、知らなかったなぁ!!岩だったのに!!」
「……このような、子供の考えるような悪あがき」
「私は子供ですよ」
絞り出すように紡がれた非難の言葉に、スン、と私は真顔になる。
思い出してほしい。リメンバー。イッツチャイルド。まぁ、今更なのだけれど。
「奇跡ですよね。奇跡を認定するのも、モーリアスさんのお仕事では?」
「…………」
「あぁ、本当に。なんて見事なパンなんでしょうね。岩にしか見えませんでしたが。まさか、神の奇跡でパンになるなんて!」
私は大げさに感動したように声を上げる。茶番。狂言。俄か芝居。まぁ、呼び方は何でもいいのだけれど。
そもそも善悪の判定をするのは人間だけだ。その行いが正しいか悪いか、害悪か有益か。意味をつけて価値を判定している。
その料理にどんな意味があるのか、どんな価値があるのか。
母親が仕事の片手間に作ったインスタントの焼きそばより、化学を駆使して試験管の中で作られたトリュフの味のする泡の方が「素晴らしい」と、キラキラお星さまがつけられるように。
さて。目の前には間違いなく、良い感じに外見が岩や硬質なブツに見えるように、竹炭パウダーや加熱処理で良い感じに仕上げられた……パウンドケーキ。
分子料理、分子ガストロミー。
私は大皿に大量に出されるお料理や、単純な唐揚げ、オムライス、カレーライス、とんかつなどが大好きだけれど、学んでいますよフレンチは、分子料理学。味の追及はもとより、あの調理技術が私にとって最も面白かった分野は、料理を使っての造形。見た目の追及。
食欲をそそる、というだけではなく、いかに、最初はレンガにしか見えないものを「えっ、これ、ケーキなの!?」「わぁ、真っ黒な消し炭にしか見えないのに、中は真っ白!真っ赤なソースがあふれ出した!」などという……びっくり、意外性!驚き、からの、楽しさ!
「ほーう。ほう。なるほどななるほどな」
理解されたらしい陛下が黒子さんたちに岩を切り分けさせて、真っ白いお皿の上にご自分の分を取る。
表面を完全に炭化させ匂いが漏れることもなかったのに、一度切ってしまえば、匂いがあふれ出すように仕掛けがしてある。香るのはスパイス。スターアニスやシナモン。刻んだドライイチジクにナツメヤシ、ナッツを混ぜた、パウンドケーキである。
「これは確かに岩だったな。だが、今はこのように、美味なる一品である」
「奇跡ってすごいですね!」
早速パクパクと召し上がる皇帝陛下。岩ではなくてちゃんと美味しいもので大変ご機嫌だ。バニラアイスや生クリームを添えるともっと美味しいので、黒子さんたちにお願いすると、厨房から陛下のためにそれらが素早く運ばれてくる。
「………………聖女さま。このような、つまらない真似で……」
「モーリアスさん、これはどこからどう食べても、美味しいパン、ですよね」
よっこらせぇ!と、私はモーリアスさんの口にケーキの切れ端をぶっこむ。
細かいことはどうでもいいのだ。
私は岩を持ってきた。それが、神の奇跡で美味しいケーキになった。
以上!!
これでおじいさんが聖人認定できるかって?
知りませんけど!!
「……神が、このご老人を哀れに思い、小さな奇跡を起こされた。つまりは、そういうことでしょう」
もぐもぐもぐもぐもぐ、と、ケーキを一切れ、二切れ、もぐもぐと、半分以上お召し上がりになられ、お茶のおかわりを二度ほどなさって、モーリアスさんはため息交じりに、そのように仰った。
なんだかよくわからないけど、そういう感じでお願いします。
*
「お嬢さんは、私を聖人だと信じて下さったのですか」
周囲に自称元神、あるいは狂人と思われ扱われていた老人。人としての名を便宜上「イズモ」と名付けられた老人は、黒髪の審問官に焼かれる未来を免れた。
どちらもありえたことであると、イズモ自身理解しているもので、どちらでも構わないといえば、構わなかった。
しかし、人の基準でいうところの「最悪の結果にはならなかった」のかどうか。
イズモはシュヘラザード姫に引き取られた。白梅宮で、愛らしい姫君のために美しい庭を整える庭師に任命されたのを、イズモはにっこりと受け入れた。
庭には梅の精霊が住み着いており、イズモを見ると一瞬ぎょっとしたような顔をする。しかし賢明な若い精霊は口をつぐみ、イズモを受け入れた。
シュヘラザード姫はイズモに庭を案内しつつ前を歩いていたが、問いかけられるとくるり、と振り返り、黄金の瞳を揺らす。
「とある場所では、聖人認定するのには生前の行いや奇跡を二種類起こせたもの……なんていう基準があるんですけど。それはそれとして、広い意味で……人格的に優れて、善意善行に満ちた人物は……全員、もれなく聖人でいいんじゃないですかね」
姫君。貴人。人の定める身分の上位に位置する人間にしてはやや威厳のない幼女。それでもその幼さですでに自身の中で定めるものごとの基準があるようで、ぼんやりとした言葉の中に妙な説得力もあった。
「イズモさんは神様だったけど、その力を人間のために使って人間になった。その行いを聖人認定してるわけじゃなくて、イズモさんが人間になってからしてることが……良いことなら、良いんじゃないかと」
「さようでございますか」
そこでイズモは一度目を伏せる。姫君が「何か失言しました?」とすぐに問いかける。イズモとの今後を考えて、できる限りお互いの関係性をよく築いていこうとしてくれているのがイズモにもわかった。
良い人間。悪い人間。
この姫は、その判断をするのは周囲であると、そのように。
「お嬢さんは私が良い人間であるので、こうして良くしてくださっているのですね」
「……善意には善意をお返しすべきでは?」
良い人間であるので、守られた。
良い人間であるので、こうして穏やかな場所で花をめでることを許された。
(…………私はなぜ、ここにいるのか)
イズモは思考する。
穏やかな庭。長く続いた雨が止み、水をたっぷりと吸った大地は良く美しい草木をはぐくむだろう、静かな、守られた安全な場所で、イズモは自身が神だったころを思い返す。
今はもう誰の記憶からも消し去られた神殿。神の名。それほど力の強い神でこそなかったが、古い時代から残っている神である自負を持つ程度には、それなりに格の高い神であった。
それがこうして人間の身に。
イズモはそもそも思案する。
イズモは人間を一人救った。
そして神の座を失った。
神であったころは疑問を抱かなかったことだが、はたして、そもそもなぜ己は、神から人になったのだろうか。
……人を一人、救った程度で神様の力を失うなど、イズモの神としての知識の中でも例のないことだと、そのように記憶している。
どこぞの島で信者をすべて失った女神とて、権能と神威を保ち君臨していると聞く。
「賢いお嬢さん。世に不思議なことを、自身の道理として扱うお嬢さん。一つ、お聞きしたいのですか」
「なんでしょう」
「私はなぜ、神でなくなったのでしょう」
「え」
狂人ではないことは、証明してくださった。イズモは気が触れて自分を神だった者だと思い込む「変人」ではないと、彼女は保証してくださって、自身の庭においてくださる。
それだけでよいのだが、ふと、イズモは疑問に思った。神であったころは抱かなかった感情だ。
いや、これだけではない。人の身になってから感じるようになったものは多くある。
「私は人間となり、様々なものを見てきました。飢えるということも経験しました。凍えるということも、自身の体が何もしなければ汚れることも知りました。それはとても苦しい状態です。人間になり、私は知りました。人間とは、苦しいものなのですね」
「……イズモさんが人間になったのは、人を助けたから、では?」
「はい、そうです。助けて、神の力を失いました。人間になり、人間が苦しみの中で生きてることを知り、彼らを助けたいと思い、そのように行動してきました。しかし私は人間です。神であったころのようにはまいりません。大神が、私に人の苦しみを理解し、彼らをより良く導くように求めるのであれば、私はなぜ、神でなくなったのでしょう」
「…………ちょっと、え、ちょっと、待ってください」
はい、ストップ、と、白い髪の姫君が手を上げて、もう片方の手で自分の顔を覆った。
「……今ものすごく、嫌な予感。想像。妄想であってほしいんですけど、え、これ。なんですこれ突然始まる……告解……じゃない、これ自供!?」
「神であったころ。私は自分の神殿に、一人の哀れな女性がやってくるのを感じました。哀れな女性です。彼女には自身を守る保護者がおらず、彼女を導く言葉を知る機会もなかった。文字を読めない人間に、神の教えを聞かせることのできる者がいないことは不幸なことです」
彼女は多くの男性と寝所を共にすることで日々の糧を得ていた。
神であったころのイズモに人間の美醜はわからなかったが、美しい女性だったと、今こうして人の身で、瞼に彼女の姿を思い浮かべると、そのように思う。
*
にこにこと始まるおじいさんの昔語りに、私は待ったをかけたい。けれど、私にも当然存在する好奇心。一体何があったのか、知りたくなってしまうと、その口をふさぐことができない。
さて、その娼婦の女性。イズモさんの神殿でも「お仕事」をなさったそうだ。大丈夫か聖職者、と思わなくもないし、幼女相手にこういう話をしてしまうあたり、イズモさんの人外の感覚がにじみ出てくる。
聖職者たちの苦しみを一身に受けて浄化するその女性を、神様であったイズモさんは「素晴らしい人間だ」と眺めていらっしゃったそうだ。誰にでもできることではない。献身的に。相手を理解しようと努め、慈愛に満ちている者だからこそできるのだろうと、そのように。
その女性は、神官さんたちの相手をしていない時は神殿の地下牢で暮らしていて、歌を歌っていたらしい。そして熱心に、神殿の神であるイズモさんにお祈りしていたそうだ。
「美しい彼女の声はいつも祈っていました。救いを、と。私は彼女の素晴らしい行動の数々に、すっかり感心しておりましたから、いずれ彼女に祝福をと考えていました。しかし、彼女は殺されました。私の神殿の者たちにです。神聖ルドヴィカの方々の、視察、というものが入ることになったためだと聞きました」
「……」
まぁ、そりゃ、そうなるだろうな。
神殿内で多くの神官さんたちを相手になさっていた娼婦の女性。彼女がどうしてそこに流れ着いたのかわからないし、どんなやりとりがされていたのか知らないが……そうなるだろう。
「私は彼女を殺した神殿の者たちの目を潰し、体中の骨を溶かしました。彼らの命を使って、彼女の命を取り戻そうとしたのですが、うまくいきませんでした」
うん??????
「それほど力の強くない私にできることはそう多くありません。私は近隣の村の人間たちの命を集めて足りない部分を補おうと考えましたが……やはり、これもうまくはいかなかったのです。そこで、私の神の核を彼女に使い、彼女を蘇らせることにしました」
「…………」
モーリアス・モーティマァアアアアアアアアアアアアア!!!!
あの糸目!!
あの黒キノコ!!
聖人、狂人、推定じゃないよ!!!!!!!!
咎人認定されて堕ちてる、流刑地にここを選びやがりましたね!!!!!???
私は心の中でモーリアスさんに可能な限りの罵倒を浴びせた。
そもそも、モーリアスさんが私に語ったイズモさんのこれまでのあれこれは……嘘ではないが、それだけでないことを、話さなかった。
……オーケイ、オーケイ……そうですね。そうですね。火刑にするつもりなんぞ、最初からなかったんですね、モーリアスさん。
このおじいさん、元神様、という名の……神族的に咎人、なんじゃないのか。人の身に堕とされている、のに、その振る舞いが聖人で周囲の人に崇められている……けれど、たぶん……純粋な善意。善性。人外の、規格外。
ルドヴィカが人がどうあるべきかの決まりを作っているように、まぁ、あるんだろう。ルドヴィカの神様にも、神様たちの中のルールが。
それを逸脱したイズモさん。
神から人間に堕とされたわけだ。
「お嬢さん。なぜでしょう。優しい行いをしていた彼女には、優しい結果が返ってくるべきではないのでしょうか」
純粋な疑問。
私はイズモさんを「良い人だ」と判断して、良い状況になるように協力した。良いことをした人に、良いことが返ってくるように、と、そういう単純な道理について。
神として当然のことをしたはずなのに、人になり、神のころの力が使えなくなって、人間の苦しみを知ったのに、これでは何もできないと疑問を感じられる。
(何もしないほうがいいからじゃないですかね~~~)
やり放題にもほどがある神様の中にも、やったらアカンことがあったんだろう。
私は「よ、幼女に難しいことはわからないです」と、だけ返しておいた。
あとで調べて貰った話によると、イズモさんが神格を使って生き返らせたその女性。名前は不明。なので、ルドヴィカでは「リリス」と名付けられて、魔女の名簿に加えられ討伐対象になっているそうだ。




