*閑話*『ヤシュバル・レ=ギン』
腹が膨れたからか、それとも安心したのか(後者であれば良いと思いながら)すやすやと静かな寝息を立てはじめた幼い少女を見下ろし、ヤシュバルは詰めていた息をゆっくりと吐いた。
ヤシュバル・レ=ギン。
本国アグドニグルでは「銀灰」「黒狼」「軍神の懐刀」と、恐れと敬意を込めて呼ばれる皇子。
人質生活が長く、落ち着き払った物腰から大人びて見られることが多いがまだ二十を迎えたばかり。
一度戦場に立てばアグドニグルの敵を悉く打ち払う、剣技に秀で、そして氷の祝福を受けた者。大地を凍らせ雪を降らせるその生まれもっての力はヤシュバルを人から遠ざけた。
同じく神に祝福されたアグドニグルの皇帝はヤシュバルを「ちょっと表情筋が固くて人生経験が浅いだけの若造」と扱うが、周囲はそうはいかない。
触れれば凍らせられるのではないか。化け物。怪物。氷の悪魔。そんな陰口。(今思えば、祖国がヤシュバルを手放したのはヤシュバルをもて余し、また人の身を越えた皇帝の元であれば平穏に生きられるのではと考えたのかもしれない)
そういう身の上の男が、じっと眺める砂色の肌の子供。
服の上からでもわかるほど、これまで心ない人間にされた仕打ちの痕。
スィヤヴシュの元で「もう痛くはない」などと言っていた言葉がどうにもやりきれない。
「なぜ君は、笑っていられるのか」
目の前で親族たちが次々に斬首にされても、死体の転がる宮中でも、そして、明らかに人殺しだろう自分を前にしても、この子供は泣きもせず怯えもせず、あまりに健気に気丈にしている。
不思議でならなかった。
彼女は賢い子供だ。ヤシュバルが彼女の父を捕らえたこと、またこの地を凍えさせた者であることなど察しているだろう。
診察所の鏡に映ったこの子供の酷い虐待の痕を見た瞬間、少女を苦しめた者達を自分の手で八つ裂きにしたかった。だが、誰よりもその資格があるのは少女自身で、そして少女はそんなことは望まないだろうとヤシュバルはわかっていた。
(心優しい、健気な子供だ)
これまでどんなむごい環境におかれていたのか。現段階では想像することしかできないが、そんな中で、生き延びることだけで精一杯だったはずなのに、レンツェの王族の中で国民の安否を案じたのはこの子供だけだった。
ヤシュバルは、多くのアグドニグルの軍人がそうであるように、皇帝クシャナの決定に従うことを是としている。
レンツェの王族が世に行った振る舞いに対し、この報復は当然のものだと今でも思っていた。
しかし。
(助けたいと、そう)
思った。考えた、ではなくて、己は「願った」のだとヤシュバルは冷静に判じた。
雪と氷の世界で震え凍えていた少女。
薄着で、それすらも濡れ端から凍りついていた。
ヤシュバルは血に染まるレンツェの王宮も、薙ぎ倒される兵士の数々も、それは自分の人生において馴染み深いもので見慣れたもの。違和感も感慨もなかった。
その当たり前の世界に、入り込んできた少女。
ヤシュバルの魔法によって凍えた体を抱き上げると、冗談のように軽かった。
(私が見つけなければ、この子はこの雪の中で死んでいた)
それを理解した瞬間、ヤシュバルはこれまで感じたことのない感情に支配された。
(あの時、感じた、わき出た感情は、恐怖というのが近いのだろう)
「殿下、ちょっとよろしいですか」
「スィヤヴシュ」
「手持ちの薬草で申し訳ありませんが、急拵えで作ってみたので。使用しても?」
ひょいっと顔を出したのは心療師のスィヤヴシュ。アグドニグルでは「傷の痕が体に残るのは、心に負った傷が癒えていないから」または「体に残る痕は心を蝕む」とされ、精神に干渉する魔術や薬学に精通した者がその治療にあたった。
戦時において、兵士の精神的な傷を看るためスィヤヴシュのような心療師が従軍するのはアグドニグルでは珍しいことではない。
ヤシュバルが短い言葉で許可すると、心療師は慣れた手つきで懐から香のような物を取りだし火を付ける。眠りの内に、辛い記憶や思い出を包み込みゆっくりと癒して行くのだろう。
「.........言ってもいい?」
「なんだ」
臣下らしからぬ口調。幼馴染みとしての顔で、そのように対したいという事はわかった。
「......君さ、この子のこと、本当に、ちゃんと守ってあげてよね」
無論、ヤシュバルはそのつもりだった。先程少女に約束したように、彼女が大人になるまで守る。アグドニグルに連れ帰り、不自由はさせない。
「いや、そういうことだけじゃなくてさ」
「皇帝陛下はもはや、この姫を許されている」
皇帝は「千の料理」の報酬を「国民の解放」、達成できなかった場合は「百年の隷属」とした。つまり、少女の命に関しては触れられていない。皇帝は、たとえ千の料理が達成できずとも、このレンツェの末の姫の命を奪うことはしない。
アグドニグルでレンツェの王族だということが少女を不幸にするのではないかと、スィヤヴシュは案じているのか。
ならばなにも問題はない。皇帝陛下は少女を許されていて、その決定に表立って異を唱えるものはヤシュバルの周りにはいない。
「......外の騎士たちに聞いたよ。この子、国を守ろうとしてるんだろ?レンツェにそんな価値はないって、気付いたら傷つくかなぁ」
ヤシュバルは答えなかった。
レンツェの王族の「罪」について。アグドニグルへの侮辱について。
......この子供は、あんなことは知らなくて良い。
ヤシュバルは目を伏せ、明日からのことを頭の中で考えた。




