*閑話*
「今日の陛下はご機嫌ですね」
謁見、視察、執務等本日の様々な業務を終えた皇帝クシャナを前にして、第二皇子ニスリーンはふと漏らした。
医神に愛された美貌の男は普段その顔が引き起こす悲劇を回避しようと面を被っているけれど、皇帝陛下の執務室には今クシャナしかいないので不要だった。
艶のある黒い髪に白い肌。真珠のように黒い瞳。神々の細工師がこの世で最も美しいものを造ろうとして生まれたとしか思えない程整った姿形をした生き物であるニスリーンは中年期に入っていた。
若い頃は「歳を取ればこの顔で苦しむことは無いだろう」などと淡い期待を抱いたものだが、歳を取ってもその美貌は衰えることが無く、むしろ周囲に言わせれば「色気と迫力と渋みが増してますます手が付けられなくなりました」とのこと。
ニスリーンは妻を迎えるつもりも必要もないのだが、長く仕えてくれている宮の者たちは「これではますます輿入れしてくださる姫君がいなくなる!」と嘆いている。
「ふふん、わかるか?わかってしまうか~。ふふふ~。この迸るパッション」
ニスリーンはパッションなるものが何なのかわからない。博識であろうとつとめ日々の研鑽は怠らないのだが、陛下のおっしゃる言葉の全てを理解できる日はきっとこない。
が、容姿で苦労したニスリーンにとって、己の顔に惑わされぬクシャナは数少ない心から信頼できる相手で、その親愛なる義母上様がこの上なく楽しそうな様子は誠に「なによりでございますね」と喜ばしいことだった。
「陛下がそのように楽しげなのは、白梅宮の姫が理由でございましょうね。さて、今宵はどのような品を献上なさるのか。私も毎日発行される記事を楽しく拝読しております」
ふわりとニスリーンが微笑めば、机の上に活けられた花のつぼみだった部分が満開になる。夜だというのに窓の外では美しい鳥の声が鳴き響き、何なら部屋の空気が一気に浄化された。
「ふふ、今夜のメニューはもうわかっておる。わからぬ事を期待し想像して楽しむのも良いが、事前に知っておいて待ち遠しいと思うのもまた、良いものである」
「おや、それはそれは。それほどまで陛下を楽しませる品でございますか」
「うむ。今夜は……お寿司でな!」
わぁい、と陛下が声を上げる。ここにいつもの黒子たちがいれば「ヤッタネー!」と紙吹雪でも背後に散らせ、そしてササッと箒で片付けたことだろう。
「おすし」
「うむ。私は是非、生魚を良い感じに食べたいと思っていたのだが、」
「……生魚は食中毒の危険性が高うございますゆえ、陛下の御前にお出しするのは……」
「わかっておる。ので、この件にはコルキスも関与しておるし、こうしてそなたを側に呼んでおいたのだ」
「…………」
おや、とニスリーンは目を伏せた。
万が一、その“おすし”なるものに中ってしまった場合、すぐさまニスリーンが看ることができるようにということ。そして。
「何かあればあれに腹でも切らせれば良い」
「なるほど、それならばよろしいかと存じます」
「うん、よろしいな」
アグドニグルの良心、人格者、聖人君主と称えられるニスリーンであるが、ことコルヴィナス卿に対して他人に抱くような慈愛の心などちっとも湧かない。嫌いというよりも、自分と同位。対等。酒を飲んで軽口を叩き合える間柄で、しかし、別に友人ではない。そして陛下も本気でコルヴィナス卿に腹を切らせたいわけでないこともわかっている。かの男は、殺したほうが陛下の精神的にはよいのだが、どう秤にかけたとしても生かしておいた方が価値がある。
「しかし、ということは……私も今宵の、陛下と白梅宮の姫君との逢瀬に同席してよろしいのですか?」
隣室に控えていることはできる。だが皇帝陛下はニスリーンに同席を望んでいるらしいことを言われずとも察したニスリーンは、しかし念のために確認をする。
もちろん仮面をつけておくのでシュヘラザード姫がニスリーンの呪われた美顔に惑わされることはないだろう。が、皇帝クシャナにとって白梅宮の姫君が、他の存在とは別格の“何か”尊い存在であることをニスリーンは気付いている。
「うむ。良い良い。こうでもせねば、そなたとシェラ姫に面識ができなそうであるしな。妙な出会い方をするより、私の目の届くところで起きたほうが良い」
「……」
陛下が白梅宮の姫君の名を呟く時の声音はどこまでも優しい。陛下が他人に対して情の厚い方だというのはアグドニグルの臣民であれば誰もが知るところだが、その自覚をもってして「これほど優しくかの姫の名を呟かれるのか」と驚く程だ。
「それにカウンターで食べるお高いお寿司はこう、上司として部下に驕るのが楽しみの一つ……ジャフ・ジャハンは魚とか食べなさそうだし、ヤシュバルとコルキスは師弟だからな。シェラ姫の教育方針でぶつかりそうだし……ユリウスはあいつ一人を誘うわけにはいかぬし……」
残る第五は病弱で生ものを食べさせるのに抵抗があり、第六皇子はまだ年若いので酒が飲めないから付き合せるのはまずい、と、そういう消去法らしかった。
まぁ確かに、人選として、陛下と楽しく食事が出来る相手といえばニスリーンくらいなものだろう。ニスリーン自身その自覚はあった。
「それでは、有り難く」
「日頃、そなたを労いたいと思っていたゆえ。丁度良い」
深々と頭を下げると、クシャナが微笑んだ。




