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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第四十七章 帰省の旅
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ケアーナの実家にて

 蹄鉄が、木の車輪が、石の道路を軽やかに打つ。時折、車軸が軽く軋む。俺は目を閉じて、聞き入っていた。まるで小川の流れのようだと思わなくもない。道路の整備状態がかなりいいようで、揺れは最小限。まずまず快適な旅であるということができた。

 ただ、今は坂道を登っているらしく、微妙な傾きを感じる。速度も心なしか落ちているようだ。


「わぁ」


 隣に座っていたウィーが、俺の肩を叩いた。


「見て見て! やっと着いたみたい!」


 二泊三日の旅だった。その間、ずっと馬車に座りっぱなしだったのだ。常に動いていないと気が済まない彼女としては、苦痛この上なかったことだろう。

 俺が面倒がって目も開けずにいると、力強く肩を揺さぶられた。それで仕方なく窓の外を見下ろした。


 まず、目に入ったのが、昏い瞳のような湖だった。周囲は夕焼けに照らされているのに、そこだけは深い藍色に沈んでいた。というのも、この湖の南から西にかけて、その周囲を覆うように、ちょっとした高台が聳えているせいだ。斜めに差し込む日差しは、その東側にある家々を照らし出しはするが、湖の半ばまでは影になってしまっている。

 今、馬車が這い上がってきた道路は、丘の稜線に沿って、ほぼ真東に向かって伸びている。その向こう、高台が途切れる南東の端には、一際目を引く白亜の大邸宅があった。広い敷地、そして幅広の道路を挟んで、その下の斜面には一般の家屋が建ち並んでおり、それが湖の畔まで続いている。

 湖に面した側の斜面には、ほとんど樹木がない。だが、その外側には木々が隙間なく植えられている。湖の南西のこの高台の他は、まったく平坦な地形になっている。そこにか細い水路が幾筋も見えた。このスゴリス湖を水源とする用水路だ。ファンディアの農地を潤し、侯爵の富を支えているのが、この湖なのだ。一説には、統一時代に建設された人造湖であると言われている。

 この地域の歴史の起源については、曖昧なところが多い。暗黒時代にこの地に居を定めたファンディ侯の先祖は、その拠点が他の地域から遠く隔たっていたこともあり、また魔物の領域に近い辺境だったこともあって、周辺勢力に妨げられることもなく、力を蓄えたらしい。エスタ=フォレスティア王国がついにピュリス王国を滅ぼすと、波風もたてずにすんなりと臣従し、多くの貴族達を揺さぶってきた政変の数々をのらりくらりとやり過ごして、今に至る。戦乱に見舞われることもほとんどなかったらしく、領主の館にしても、城壁に取り囲まれていたりはしない。


「やっと休めそうですね」


 ビルムラールがそう呟くと、ウィーは不満そうにむくれた。


「寝る前に手足を伸ばさないと、強張っちゃいそうだよ」


 そんなやり取りを、ジュサはまるで夕日のような眼差しで、眺めていた。薄っすらと笑みを浮かべつつ、どこか遠い目をして。


 馬車が屋敷の南門の前に到着してしばらく。黒い柵の間の門が左右に開かれて、内側へと招かれた。フォレスティア貴族らしく、庭を彩る低木は、どれも丁寧に剪定されている。残念ながら、季節柄、花は一つも咲いていなかったが。

 邸宅の前の円形のロータリーのところで馬車が止まる。御者がいそいそと外に出て、門の脇の勝手口から駆け出してきた使用人に何事かを短く伝えた。それから御者はゆっくりと馬車に引き返し、門の様子を気にしながらも、扉を開けて俺達を外に出るようにと促した。

 そこまで待たされることもなく、すぐに正面の扉が開かれた。


「ようこそおいでくださいました。あなた方は我が家を照らしてくださいました」


 開口一番、そう挨拶して身を折ったのは、髪が真っ白になった老紳士だった。鼻の下にも豊かな髭があるが、こちらも真っ白だ。真っ黒な燕尾服がよく似合っている。肌はやや日焼けしていて、笑い皺が刻まれていた。


「出迎えいただき、ありがとうございます。ティンティナブラムの領主、ファルス・リンガです」

「既にお越しいただけることは伝え聞いておりました。さぁ、外はお寒いでしょうし、中へ」


 一流の貴族の館なだけあり、対応にぬかりはなかった。ケアーナからの事前情報も渡っているのだろう。庭の草木を見せびらかすといった、形式ばったことの多くは省略され、俺達は手早く客間に通された。こちらも手際がよく、暖炉には前もって薪がくべられていたし、暖かい紅茶が供されたのもすぐだった。邪魔の入らない静かな時間を過ごせるように、との配慮だ。

 だが、予想通り、こちらが一息つく頃に、入口の扉をノックする音が聞こえた。


 呼び出されたのは、俺とビルムラールだけだった。あとはお供の者どもという認識だから、休ませておくことにしたのだろう。そう遠くない別室に、三人の人物が待ち受けていた。


「改めまして、ファルス様」


 左に立っていたのは、さっき俺達を出迎えた白髪の執事だった。


「家宰のピハッサーと申します」


 彼は深々と頭を下げたが、右端の人物はそうでもなかった。


「この地の代官を引き受けておりますウァナバーンと申します。宜しくお願い致します」


 軽い会釈で済ませたのは、黄土色の地味な、しかし上質なスーツに身を包んだ中年男性だ。端正な顔立ちに、よく整えられた豊かな亜麻色の髭がワンポイントとなっている。目には力があり、自信のほどを感じさせる。体格はやや大柄で、鍛えられているようにも見える。恐らく、彼の役目はただの徴税係に留まらず、軍事にも及ぶのだろう。

 そんな二人の男性に挟まれている女性が、一応の主人役ということになる。


「チャウニー・カークス・ファンディ、侯の次女です。本日はようこそこちらまでお越しくださいました」


 彼女も、女性にしては大柄だった。顔立ちも、父親似で彫りが深いし、骨太な印象がある。気になるのはその表情だ。口先では歓迎の意を示しているのだが、目に浮かぶ色は、そうではない。どうにも神経質そうな印象で、こちらもどんな顔をしたらいいかわからない。その声色も、どことなく弱々しかった。


「お招きいただき、光栄です。改めまして、若輩ながら陛下よりティンティナブリアを任されたファルス・リンガと申します」

「ビルムラール・シェフリです」


 俺はチャウニーに対して身を折った。

 けれども、既にして背景を察してしまっている。気持ちが沈んだ。


 名目上の主君は無論、チャウニーだ。侯爵の娘なのだから、一番偉いに決まっている。だが、実質的な権力者はウァナバーンだ。しかし、家中のことについては、ピハッサーが掌握している。権力と権威がバラバラになるように。敢えてそういう状態を作っているのだ。

 ファンディ侯は王都で財務大臣を拝命しており、その息子達もそれぞれ官僚として働いている。国元には男児がいない状態だ。よって代官に統治させるしかない。というより、中央政界で影響力を発揮したいなら、そうするほかない。もし、代官を置きたくないのなら、長男を残していく以外にない。だがそれをすると、その長男の官僚としてのキャリアを断念することになる。次男以降を領地に残すのは駄目だ。お家騒動の原因になりかねない。

 そこで売れ残った次女の使い道が出てくる。そう、彼女は売れ残りだ。既に二十四歳、婚期は過ぎてしまっている。侯爵家の権威を示すためのオールドミス。ちょうどいい縁談がなかったから。一応、一生貴族でいられるので、ケアーナなら喜ぶポジションかもしれない。ただ、こんなのは二人もいらない。そのうち当主の代替わりでもあれば、部屋住みオバさんになるだけだ。

 チャウニーからすると、俺みたいなのは、見たくもない存在だろう。彼女もかつては帝都に留学し、その身分ゆえに華やかな暮らしを楽しんだはずだ。しかし、縁談に恵まれず、結局、田舎の領地で残りの生涯を過ごすことになった。

 いや、もしかすると、留学中に何かしでかしたのかもしれない。それで侯爵も売り出しようがなくなったと、そういう可能性すらある。そうでなければ、彼女の身分で引き受ける先がないなんて、考えにくいからだ。とすれば、今の彼女は後悔と諦念の日々を送っていることになる。

 そして、ウァナバーンの態度だ。自信たっぷりなのは、無理もない。彼自身はせいぜいのところ、騎士身分でしかないのだろうが、実質的には、そこらの木っ端貴族を凌駕する影響力を発揮できている。なにしろ彼は、この地における侯爵の名代だ。そして、周辺の小貴族達は、大抵がファンディ侯の寄子なのだ。だから、俺みたいなぽっと出のなんちゃって貴族など、自分以下の存在でしかない。

 そんな代官の行き過ぎを抑えるのが、ピハッサーの仕事でもあるのだろう。家中のことは、一切が彼次第だから。


 ピハッサーが恭しい態度を崩さず、申し出た。


「では、お座りください……それでファルス様は、ここから北上して領地にお帰りになられるということですが、せっかくポイタートまでいらしたのですし、しばらく休まれてはと」

「ありがとうございます」

「それで、その、ビルムラール様は、どうやらポロルカ王国の名家の方とお見受け致しましたが」

「その通りです」

「今回は、ファルス様の領地までご一緒ということでしょうか?」

「いえ」


 ケアーナが知っていたのは、俺がお供を連れて領地に帰るということだけだった。ジュサの件は、書状には書かれていない。だから説明する必要がある。


「ビルムラール様は、ここからまた船を乗りついで、一度、ワディラム王国まで向かい、そのまま今度はまた内海を渡って一度、ラージュドゥハーニーまで戻られるお考えです。それからまた、帝都に戻ってくる予定ですが」

「なんと。それは」


 ピハッサーは少し戸惑っているようだった。それであれば、領都まで連れてくるべきではない。ハンマ港に別の船を用意しておくべきだった。きっと彼は、ケアーナからの手紙に記述漏れがあったのではないかと考えたに違いない。だから言い添えた。


「予定がいろいろ変わってしまったのです。それに、その前に、少し一緒に行きたいところがありまして」

「と仰いますと」

「ここから北にある、フゥニ男爵領にある遺跡を調べたいと考えております。その際に、ビルムラール様にも、ついでだからとお力添えをいただこうかと思って、ここまで一緒にやってきたのです。男爵はファンディ侯の寄子であったかと思いますので、よろしければ一筆いただきたく」


 この言葉に、ピハッサーとウァナバーンは目を見合わせた。


「失礼ながら、どのような」

「ご存じかもしれませんが、二十年ほど前に、遺跡に魔物が出たそうです。実は私の家臣の一人が、当時の探索に加わっていた冒険者でした。今回の帰郷の道すがら、それほど遠回りでもないので、せめて仲間の遺品でも拾いたいということで、立ち入りの許可をいただければと」


 二人の顔が強張っていくのがわかる。


「あ、あー、ファルス様」

「はい」


 ウァナバーンが低い声で尋ねた。


「その話はどちらで」

「今、申し上げた通りです。家臣からですが」

「いや、しかし」


 何か言いかけたところで、ピハッサーが割って入った。


「いや、なるほど、承知致しました」

「ピハッサー、だが」

「ファルス様のことは、少しは存じ上げております。なんでも、先の王都における擾乱の際にも、若年ながら賊を討って王の護りとなったとのこと。また、ムーアンにて黒竜を討ったとも聞いております。間違いはございませんでしょうか」


 この反応……

 すると、やはり何かあるということだろうか。


「それは少し古いお話ですね」


 なら、ここは少し大きく出た方がいいだろう。それに、彼らは何か思い違いをしている。喋らせてしまうのがよさそうだ。


「私も、こちらのビルムラール様も、共に人形の迷宮の最下層を踏破して、ドゥミェコンを解放しています。それに、ラージュドゥハーニーではパッシャを相手に戦いました」

「それはそれは、勇ましいことですな。では、ご存じだったということですかな」

「そんなバカな」


 はてさて、ご存じ、とはどういうことだろう?

 だが、そんな俺の疑問などお構いなしに、ウァナバーンは噛みついた。


「ケアーナ様は留学するまで、長らく王都においでだった。それに閣下がこのことをわざわざ口になさるとも思えない」

「お嬢様も成長なされたということであろう。我らはあくまで陪臣の身に過ぎぬ。主人の意に沿うのが下僕の役目ではないか」


 俺が沈黙していると、ウァナバーンは深い溜息をつき、説明をし始めた。


「仕方がありませんな……では、詳しいお話をさせていただきましょう」

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