主従の亀裂
ガラス越しに眺める青空には、雲一つなかった。人は、絶え間なく空を濁す雲を疎ましいとさえ思うものだが、いざそれがなくなってしまうと、その沈黙と虚無に耐えられなくなってしまう。無理もないことで、そもそも見るべきものが何もないのに、どうしてそこに注目などできようか。純粋で完成されたものというのは、その完璧さゆえに、それ自体の意味を失う。
物語だってそうではないか。おとぎ話の主人公は、さまざまな艱難辛苦に見舞われる。でも、最後には悪者を打ち倒し、お姫様と結ばれて、幸せな日々を迎える。ところが、その後について、いちいち語る人はいないのだ。
人は誰しも完全であろうとする。それを目指して足掻く。だが、完成してしまったら、もはや完全であることそれ自体の意味からして失われてしまう。
遠い青空の彼方を眺めながら、そんなことを考えていた。考えずにはいられなかった。
なぜなら、あまりに居心地が悪く、息が詰まるからだ。
今年のはじめ、最初にサロンを開催した会場。透明なガラスを多用した広い空間で、開放感がある。そのあちこちに季節外れの花々が花瓶に活けられていて、その香りが薄っすら漂う。寒さを少しでも寄せ付けまいと、会場の外側に向かって口を開ける暖炉が燃え盛っている。
快適なはずの空間だが、なんともいえない静けさが場を支配していた。
「皆、年末の忙しい時期に、よく集まってくれた」
一人、壇上に立つグラーブが、一見すると落ち着き払った態度で、そう言った。
「今年は実り多い一年だったと思う。特に夏の社交では、我々の存在感を示すこともできた。今回、このサロンを介して就職に至った仲間達も少なからずいる。どれもこれも、君達のおかげだ」
言葉の上での感謝。だが、事情を知る人、察しのいい人にとっては、それがうすら寒く聞こえる。
「今日は私からの感謝の気持ちを込めて、肩肘張らない昼食会にさせてもらった。形式ばったことはこれ以上ない。気軽に楽しんで欲しい」
ごく短い挨拶だけで、彼は壇上から降りた。
だが、これだけでもう、これからどんな料理が出されたところで、味なんかわかりはしないだろう。正直なところ、ついさっきまでいたあの古ぼけた喫茶店のパンケーキ、あちらの方がきっとおいしいだろうとさえ思う。
なぜなら、この丸テーブル……俺のすぐ隣には、ベルノストが座っているからだ。
彼は石像のように身動ぎせず、まったくの無表情だった。だが、内心を思うといたたまれない。俺達の席は、王族の席のすぐ近くには配置されなかった。それに何より、ベルノストも俺と同じ時間、つまり準備万端整った後で、ここに入場している。これが意味するところは、つまり、彼がこれまでの仕事から外されたという事実だ。
これまでなら、ベルノストはグラーブのすぐ後ろに立たされていた。各テーブルを巡る挨拶の際にも、ついて歩いた。だが、今回はその辺がバッサリ省略された。壇上からの挨拶だけで、グラーブはすべてを終わらせてしまったのだ。
もちろん、彼自身を含む王族のいるテーブルには、空席を設けてある。つまり、特に挨拶しにくる人物には、三人で応対する。だが、それをカバーするのにベルノストやケアーナが動くことはない。
グラーブは、ベルノスト達の扱いを変えてしまった。この前の失態に対する無言の懲罰だ。しかしそれでは、いろいろ差支えが出てくる。会場の設営だけなら公館の人員だけでなんとかなるが、催事の運営それ自体については、行き届かないところも出てきてしまう。だから、そういうリスクになる部分は取りやめることで片付けた。
この扱いについての表向きの理由は、今回に限っては側近のみんなもお客様、ということになっている。だが、背景を知る俺としては、そんないいものではないとわかってしまう。
「済まないな」
この息詰まる沈黙を破ったのは、ベルノストだった。
「私のしくじりのせいで、お前まで気まずい思いをすることはない。殿下がああ仰ったのだ。今日は本当に気楽に飲み食いして帰ればいい」
「あ、いや」
「なに、私もたまにはゆっくり休みたい。そうだろう、ケアーナ」
「あ、う」
目を泳がせながら、彼女は言葉を探した。
「ま、まぁ、私は、もう少し気楽な立場だから……だって、アナーニア様のお供みたいなものとはいっても、在学中だけのことだし」
「案外、私もそうかもしれんぞ?」
「そんな、さすがに悲観しすぎですよ」
ケアーナは卒業後、そうかからずどこかに嫁入りするだろう。それで彼女の人生は確定する。でもベルノストは、未来の国王陛下の側近だ。彼を外したところで、グラーブとしても替えなんかそうそう見つかるものではない。
「別に悲観ということもない。虚しさはあるが、苦労もないのだから」
ベルノストの実家も、いわゆる宮廷貴族でしかない。仮にグラーブが即位した時、彼がその側近としての地位を保っていたとすれば、彼個人は高い地位を与えられるだろう。最終的には、恐らく大将軍とか、護国将軍といったポストが割り当てられる。もちろん、最初は見習いも同然だから、どこかの軍団長とか、或いはその副官とか、そういうところからキャリアが始まるのだろうが。
「いや、それは……年金だけ貰ってダラダラするつもりですか? その若さで」
そんな年金貴族など、タンディラールが最も嫌悪するところだ。先がないにもほどがある。
だが、ベルノストは苦笑いを浮かべると、小さく首を振った。
「年金すらないかもしれんな」
「えぇ」
「そういうことになったら、ムイラ家の家督は、弟が引き継ぐことになると思う」
そうだった。
普段、貴公子然としているから、とてもそうは思われないのだが、彼は割と父母に疎まれている。母は彼の黒髪を嫌っているし、父も感情面で大切にしているのは側妾の方で、家族らしい家族というのは、彼女とその息子の方なのだ。
「まぁ、正直、そこまで未練もないのだがな」
「考えすぎですよ」
「そうか?」
「まだ疲れが抜けてないんです。少し気晴らしした方がいいかと」
彼は溜息をついた。
「といってもな。何かいい考えでもあるのか?」
「そうですね……月並みですが、せっかく時間があるのなら、体でも動かしたらどうですか? 剣術だって、せっかくアルタール様に師事したのに、これまでは忙しくて鍛錬する暇もなかったでしょうし。あとは、帝都の街巡りも。二年間、ずっと殿下のお世話で、自由に歩き回ったことなんて、そんなにないでしょう」
「ほう」
言われてみて、やっと思い至ったらしい。肘をつき、顎に手を当て、考え始める。そこにやってきたメイド達がスープを運んできたので、慌てて身を引いた。
「確かに。考えもしなかったな」
「いっそ、うちの……ほら、迷宮に潜ってる仲間もいますし、こういったらなんですが、いっそ遊び半分でついていってもいいんじゃないですか。その気があるなら、紹介しますよ」
「迷惑ではないか?」
「そんなことはないです。身分がある人だと、例えば緑の王衣の家の、ビルムラール様だっていらっしゃるわけですし」
そう言うと、彼は少し考え込むような素振りを見せた。
「今のうちですよ?」
だからそう付け加えた。
せっかく帝都にいるのだ。庶民の暮らしを目の当たりにできるのも、今のうちだけ。帰国して、グラーブの側近候補として仕事に追われるようになったら、気ままな冒険者ゴッコなんか夢のまた夢だ。
「今のうちか」
「そうそう、今のうちです」
「違いないな」
そう呟くと、彼は穏やかに微笑んだ。
「そういえば」
やり取りを横で見ていたケアーナが、別の話題で割り込んだ。
「領地に帰るって言ってたけど、いつ頃になりそう?」
「ああ、僕のこと? もう今月の後半には、船に乗るつもりでいるけど……もう乗船券も一応予約しておいたし」
「どこ行くの?」
「ピュリス経由で、コラプトを通ってティンティナブリアまで。領地も見ないとだけど、ピュリスにも商会があるから、立ち寄らないで済ませるにもまずそうだし」
すると彼女は、腕組みして唸り始めてしまった。
「それがどうかした?」
「いやー、パパから、まだ何も引き出せないのかみたいな手紙をね……」
「あぁ」
国王陛下のお気に入り、ゆくゆくはエスタ=フォレスティア王国における重鎮の一人になるだろう若者。その彼とのパイプ役になることを、彼女は期待されている。
「といっても、お願いすることが特にないような」
「ええーっ……じゃあ、船に乗らない?」
「はぁ?」
「だから、うちの船。ちょうど帝都に来てるんだよね。ただ、行先はうちの領都だけど」
それだとエキセー地方の南部、トーキアの向こう側で上陸することになる。別に、そのまま北上すれば領地には帰りつけるし、悪くはない。
「でも、一等船室とか、今から予約取り消したら、余計なお金かかっちゃうよね」
「あ、いや」
ケアーナの思い込みを、俺は否定した。
「個室なんて贅沢はいらないよ。今回は一人で身軽にってつもりだったから、三等客室で雑魚寝のつもりだった」
「ええ!?」
ケアーナは目を丸くした。
「あの、ファルス君さぁ、仮にも貴族なんだよ?」
「元貧農の子なので」
「船の中で何食べるの」
「船の上で商売する人もいるから、実は小銭持っていれば困らない。さすがに、そんなおいしいものとかはないけど」
しばらく呆然とした顔で俺を見つめていたが、少しして頭をガリガリ掻きながら、彼女は言った。
「そう、そう、そうなのよね、逞しいのよねぇ。そんな顔して」
「そんな顔ってなに」
「でもそれだったら、やっぱりうちの船に乗らない? こっちなら個室もあるし、お供の人とかも乗せてあげられるし」
ただ、上陸地点がファンディアになってしまうが。立ち寄ったことは、これまで一度もない。ただ、その近くにはミルークの収容所があった。
「ピュリスは」
「帰りに寄ればよくない?」
「それもそうか」
確かに、拒絶するほどの理由もない。
「じゃあ、船室を借りようかな」
「そうこなくっちゃ」
「ありがとう。でも、僕相手に点数を稼いでも、多分、お父様の利益にはならないと思うけど……」
「いいのいいの。私が点を稼げればいいんだから」
肩をすくめるしかなかった。どうかケアーナが生まれてから死ぬまでの間、ずっと貴族のままでいられますように。
それから、俺は視線を前に向けた。
グラーブは真ん中に陣取り、左右にアナーニアとリシュニアを置いて、向かいの席に座る学生と談笑している。ここからでは、何を話しているかは聞き取れない。あれは卒業生だろう。大半の学生は貴族ではないし、高位の軍人や官僚になれるのもごく一部。帝都出身のサロン参加者なら、尚更縁遠くなる。未来の国王陛下と正面からお話をする機会なんて、多分、これが最初で最後だ。
こうしてみると、いつも通り、何の動揺もないように見える。余裕たっぷりに挨拶しにきた卒業生の相手をしている。だが、だからこそ、どことなく不安になる。グラーブは真面目な青年だ。努力も欠かさない。でも、どこかに脆さのようなものがある。秋の、あの一連の不祥事を通して、それがどこかで不運を招くのではないかという嫌な予感が、俺の中で芽生えてしまった。
何かに似ていると思った。そうだ、今日のこの雲一つない晴天。彼は、この空のように完璧であろうとしている。自分にも他人にも、完全無欠であることを要求する……だが、遮るもののない陽光がいかに苛烈なものか。人はそのような空を美しいとは思うけれども、見上げようとはしないのだ。
だが、俺の心の中に居残るこの気持ち悪さは、彼だけに起因するのではない。
どうにも説明のつかない存在が、そこにいる。リシュニアはいったい、何を考えているのだろう?
彼女は愚かではない。グラーブの思考を先読みできていた。アナーニアとその周囲の人間のやらかしについても、誰より先に見抜けていた。では、彼女は兄と妹のしくじりを、内心では嘲笑っているのだろうか。
もしそうだとしても、それはそれで自然なことではある。肩身の狭い妾腹の姫君なのだ。決して良好とは言えない、それどころか何かあれば毒薬がやり取りされる関係性の血族のことなど、さして大切には思えないだろうから。一見すると清純そうな彼女が、そこまで腹黒いとすれば、それは見る人を落胆させもするだろうが、彼女には彼女なりの事情もある。優等生を演じるのも、兄妹の失態を見過ごすのも、或いは一貫性のある生存戦略かもしれないのだ。
ただ、それが彼女の自由で済ませられるのは、俺に手を伸ばさない限りにおいてだ。
リシュニアは、どうにも奇妙だ。俺を篭絡しようとしているようにもみえながら、そうとも言えない行動にも出ている。であればなぜ、俺がマリータと二人きりでいることを許したのだろう? 変な考えなど何もなく、ただ仲良くしようとしてくれただけかと思いきや、この前はまた、自室に誘ってきた。バレなければ手を出してもいいなんて、とんでもないことを言ったりもした。
もしタンディラールが、俺の実力について事実に近いところを彼ら全員に伝えていたとしたら。彼らはどう受け止め、考えるのか。グラーブとしては、俺を他国に取られまいとするだろう。だが、内輪揉めを前提として考えるなら……つまり、リシュニアが俺という駒を手にすれば、兄も妹も、実力で排除できてしまう。
いや、もし彼女にそんな考えがあったとしても、俺は受け入れない。死ぬのは二人だけではない。それだけの政変が起ころうものなら大勢が巻き込まれる。グラーブが余程の暴君になるのでもない限り、彼を玉座から引きずり下ろすなんて、絶対に賛成できない。
目の前に肉料理が運ばれてきた。
俺は答えの出ない思考を打ち切って、ナイフとフォークを取り上げた。




