年末進行
目の前には小さな鉢植え一つ。それが、ガランとしたこの部屋の真ん中、古びたテーブルの上で、呑気に日差しを浴びている。咲いているのはパンジーの花。薄暗い石の部屋の空気には流れもなく、ただただしんしんと俺達の指先を冷やす。
そんな中、俺は間抜けに立ち尽くしていた。何年も前に、サラッとやり方を教えてもらっただけの魔法など、いきなり使えるわけもなかった。背後に立つフシャーナとビルムラールは、じっと待ってくれている。次こそは成功させなくては。
「考えてみれば、これがうまくいったら、石化解除の薬と同じくらいの大発見なんですよね」
「そうなるわ。そんな術式なんて、私達でも知らないんだから」
魔法の力で石像と化した人や動物、魔物は実在する。しかし、石化という魔法が存在するのではない。
かつてケッセンドゥリアンが俺に教えてくれた。まず『活動停止』という魔法を使って対象から魂の影響を排除する。続いて『材質転換』で肉体の部分を差し替える。だが、言われた通りにやってみたところ、見事に何も起きなかった。
材質転換の魔法は、普通の土魔術だ。といっても、かなり高度なものではあるが。例えば、砂粒を砂金に変換したりもできる。ただ、もちろん変換される先の物質によって、難易度も変わってきてしまうので、これで好きなだけお金儲けできるということはない。そして何よりこの魔法、無生物にしか効果がない。
そこで腐蝕魔術の出番だ。しかし、この活動停止の魔法、見た目には何も変化がない。動物に使っても、別に動きを止めてはくれないし、もちろん死んだりもしない。それどころか、かけた瞬間に効果が霧散しているような印象がある。
「多分、同時に使わないとダメなんでしょうね、これ」
腐蝕魔術については、わからないことが多い。ただ、それでも、モーン・ナーが時と運命の女神であり、その権能に見合った祝福がこの魔法なのだというのは明らかだ。
つまりこれは、時間に関する何かを止める魔法であって、対象の活動を具体的に止めるようなものではない。要は「魔法を使うための魔法」なのではないか。一度、石になりかけたことがある俺だから、なんとなくわかるのだが、確かにあれは不思議な体験だった。脳までしっかり石化するのに、どうして思考ができるのか。死んでしまわないのか。
奇妙なことだが、本来、生命活動を行わない石像に、いったん関係を絶たれた魂が戻ってくるという、おかしなことが起きていたとするしかない。だいたい、肉体がないと思考できないとするのなら、では、死後の世界で意識を保っていた前世の俺については、どうなってしまうのか。とにかく、整合性のある説明は、まだできそうにない。
「でも、どうやってやるんですか」
「バジリスクなら、それができるように最初から体が作られてるんでしょうけど、人間の場合は」
二つの魔法を同時に使う。理屈は簡単だが、実行するとなると、ちょっとした工夫と、それなりの能力が必要になる。二人の術者が完全にタイミングを合わせるなんてのは、ほとんど曲芸レベルのお話だ。そうなると、あとは専用の魔道具を用意するという手段も考えられる。だが、それ以外となると……
「魔力操作が前提ですね、これ」
条件設定をした上での遅延発動。これくらいしか思いつかない。先に活動停止を詠唱し、材質転換実行時に発動するようにトリガーを設定する。
「やってみます」
それから、また長い長い詠唱が始まった。こんな魔法、何の役に立つのかと言いたくなるくらいの時間をかけ、やっと最後の一句を唱え、手で組んでいた印を解除した。
その瞬間、小さくパキッ、と音が聞こえた気がした。
「お……おぉぉ!」
ビルムラールが珍しく、普段の落ち着いた態度を放り出して、前へと一歩踏み出した。
鉢植えの中のパンジーは、灰色に染まっていた。カチコチの石に変わっている。それでいて、ピアシング・ハンドの表示は消えていない。これで一応、生きてはいるのだ。
「予期はしていても……これはちょっと、驚きね」
「こんな魔法に実用性、なさそうですけど」
「リアルな彫刻を作って売る分には、いいんじゃないかしら」
俺は肩をすくめた。冗談だろう?
とはいえ、実際にやるのなら、昆虫あたりなんかがいいかもしれない。あのあまりにか細い脚を再現するというのは、普通の彫刻家に加工できる精度を超えているのではなかろうか。
この魔法の真面目な使い道となると、なかなか難しい。専用の道具などによる高速発動ができるとして、あえてこの魔法に頼るメリットがあるとすれば、それは非殺傷性の攻撃手段というところか。殺害せずに、しかもあらゆる行動を封じることができる。運び出されでもしない限り、逃げられない。しかも、食事その他も不要なので、拘束……いや、保管中は、コストがかからない。但し、解凍する際に魔法の薬を必要とするので、安価とは言えない。
あとは、延命に利用できそうな点も挙げられる。石化している間は魂の老化が遅延するだろうから。ただ、これもやっぱり微妙というしかない。要はコールドスリープと同じなので、二十年後に起こしたところで、浦島太郎になるだけだ。
「なんだかもったいない気がしますが」
ビルムラールは、手にした瓶をそっと傾ける。その半透明の緑色の液体をほんの一滴、振りかけた。
すると、石に変じたパンジーが、見る間に明るい色を取り戻していく。
「おぉぉ」
数年間、追い求めたものが、ついに目の前に。そう考えると、彼の反応も、むしろ控えめといえるのかもしれない。
そんな彼の背中を、フシャーナは黙って見つめていた。半ばこれは買収のようなものだから。もちろん、石化解除の秘薬を渡すのに、これで便宜を図ってくださいと明言したのではない。そんなことをしようものなら、ビルムラールは烈火の如くに怒りだすだろう。そうではなく、あくまで学問に励む彼個人への支援ということにしている。フシャーナはこれで「帝都の存在価値」をアピールしつつ、彼の心証を改善することができた。霊樹の苗紛失の件、これは公表できない。ポロルカ王国も、この恨みは忘れないだろう。それでも、少しでもマイルドな関係を保ちたいのだ。
「これは……どうしましょうか」
瓶の蓋を閉じ、彼は落ち着きなく周囲を見回した。
「どう、と言いますと」
「いや、これはもちろん、本国に持ち帰って宝物庫に保管すべきものですが、しかし、それだけでは。ワディラム王国の賢者の塔にもお世話になりましたし、そちらにも分けて持っておいてもらった方がいいのではないかと思いまして」
落ち着きなく足踏みしながら、彼はあれこれ考えた。
「きゅ、休暇を貰ってちょっとだけ……ああ、悩ましい」
言葉とは裏腹に楽しそうではある。
「まぁ、年末ですし、ちょっと旅行を楽しんでもいいんじゃないですか」
「陛下からは遊び過ぎだと言われそうです」
「僕も、学期が終わり次第、遠出するつもりですし、無理して帝都に留まらなくても」
そう言いながら、俺は部屋の隅に放り出していた防寒具を拾い上げ、羽織った。
「あら、どちらに?」
「領地ですよ。さすがにほったらかしというわけにもいかないので」
「それもそうだけど、今日これからのこと」
「ああ」
俺は改めて説明した。
「そろそろみんな忙しくなる頃なので。その前に一度、ギル達と」
「楽しそうね」
今日は彼の部屋で鍋をつつく予定になっている。そろそろ行かないと間に合わない。
「私もお邪魔したいくらい」
「いやいや、何言ってるんですか。教授がきたら、雰囲気……」
言いかけて、思い直した。
「……居眠りしかしてない不良教授が来ても、誰も硬くなったりはしないか」
「なんだか最近、扱いがどんどん雑になってる気がするんだけど」
「大丈夫ですよ、気のせいじゃありません」
俺は扉を押した。
「じゃあ、お先に」
屋外に出る。温暖な帝都とはいえ、冬はしっかり冬らしい。校庭を取り囲むようにして植えられている木々の葉はとっくに色づき、その大半は地面に伏している。時刻はもう昼下がり。あらゆるものの色合いが淡く映る。空の色に黄色いものが混じるのも、もう間もなくのことだろう。真夏の色鮮やかな世界も捨てがたいが、この季節ならではの景色というのも悪くない。
校庭をまっすぐ抜け、道路を南に歩いて大通りに出ると、俺はさっさと馬車に乗り、まっすぐ帝都の西のはずれに向かった。今夜はヒジリの許可も取ってある。気兼ねなく過ごせるというものだ。
「よっ……と、お待ちどおさま」
「待ってたぜ!」
調理が済んだ。鍋をそっと持ち上げて、テーブルの上に置く。
帝都の食事情において、俺が心から評価している点がある。とにかく魚介類が新鮮で安い。しかも、不自然なほどに種類も豊富。となれば、これを鍋にしないでおくなど、考えられないことだった。
旧公館に留まっていれば、何もせずともミアゴアがおいしい魚料理を出してくれる。友人を招きたいと言えば、ヒジリも文句は言わない。だが、それでは俺が手を動かす余地がない。
「今回も、なんかわけわかんないもんがいっぱい入ってるな!」
「わけわかんないもんって……」
「ギルさん、これ、ホタテっていうんですよ」
いつかのように、一緒にテーブルを囲んでいるヒメノが指摘した。つまりはそういうことで、ヒメノと同行している限りにおいては、事実上、ヒジリの目が行き届いているも同然なのだ。
なお、今日の客は他に三人。ニドに、ラーダイ、それにコーザ。要するに『黒き色魔』のメンバーが集まっての、少し早めの年末の打ち上げ会だ。どうして前倒しで片付けるかというと、年末はみんな、それぞれ忙しくなるためだ。ニドは店の方が書き入れ時で体が空かなくなるし、コーザも年末の事務処理があるという。ギルは、恐らくアルバイトだらけになる。そして俺自身も、領地に帰る予定なのだから。
……本来なら、男同士の気の置けない付き合いであるべき場面なのではないかという意識が、少しだけ頭をかすめる。
「山ん中じゃ見たことないもんばっかだしよ」
「帝都に来て一年くらい経ってるんだし、もう珍しいってほどでもないだろう?」
「いや、それがさ」
頭をガリガリ掻きながら、ギルは首を振った。
「夏場、あれ、例のドタバタの後、覚えてるか? で、例のあの教授の仕事が終わってから、一度その辺の屋台で外食してなぁ」
「ん? ああ」
「前にお前に食わせてもらったのとそっくりのもんが入ってたから、食えるだろうと思って……そしたら夜中に吐き気で悶絶して」
「ああー……」
魚介類の難しいところだ。どうしても鮮度が落ちやすい。それも夏場とくれば。管理の行き届いていないダメな屋台が営業していたのだろう。
「焼き物だったか?」
「ん?」
「こうして煮ると、だいたい奥まで火が通る。でも、焼きは難しいんだ。もしかしたら、火の通りの甘いところが残っていたのかもな」
ギルは頷いた。
「それから、あんま見慣れないもん、食わないようにしてたからな」
「そういうことは早く言ってくれ。まぁ、今日出すものは全部問題ない」
「あっ、よそいますね」
ヒメノが身を乗り出して、小皿に手を伸ばした。
「あ、ぼ」
手を伸ばしかけて引っ込めたコーザが言葉にならない声を漏らした。
「はい?」
「あ、いえ、僕がやった方が」
「いえいえ」
ヒメノはにっこりと微笑んで言った。
「気になさらないでください。これくらいは」
例によって衣服にこだわりのある彼女のこと、今日も場面を弁えている。学園が休みなので、制服姿ではなく、地味な紺色の和服のようなものを着ていた。そこにほんのり白いグラデーションを描く肩掛けを羽織っている。
間近で見ると、なんてことはない。そんなにお高い服には思われないのだが、少し距離をおいてみるとコンセプトがわかる。なるほど、冬らしく雪を頂いた高峰が、手前の湖に青々とした影を落とすさまを描いた、というわけか。
相手に気を遣わせないよう、煌びやかな格好はしない。と同時に、あくまで品性にも美にも妥協はしない。相手がコーザでも、それこそ町娘のようにへりくだりながら、根元のところでは、しっかり良家のお嬢様をしている。
「で、ファルス」
窓際に座っていたラーダイが俺に尋ねた。
「お前、冬休みも忙しいのか」
「前に少し言ったけど、領地に戻らないといけない。代官に全部任せっきりにしてるから、いろいろやることが溜まってて。それがどうかしたのか」
「いや」
ヒメノに差し出された小皿を受け取りながら、彼は鼻で笑った。
「だってお前、最初の一回しか迷宮に来てねぇじゃねぇか」
「ああ、忙しいのもあって」
「ま、無理しなくていいんだけどよ」
俺としては、醤油をゲットした今、探索に時間を割く必要も余裕もないからなのだが、彼はきっと別の理由があると思っている。
「代官って、ノーラだっけ?」
「ん? ああ、そうだけど」
ギルとラーダイは知らないので、ニドの問いに、何のことかという顔をしている。
「ノーラさんって、あの時の、一緒に旅をしていた」
「う、うん、そう」
「お元気でしたか?」
「最後に見たのが一年も前のことだから……でも、何かあったらさすがに連絡あるだろうし、無事だと思う」
改めて、コーザが溜息をついた。
「はぁ」
「なんだ、どうした」
ラーダイに背中を一発叩かれて、彼は背筋を伸ばした。
「いや、ファルス君の周りって、美人さんばっかりだなって」
「そんなもん、今更だろ。なぁ?」
少々居心地の悪い話題だ。
「ラージュドゥハーニーじゃ、ちゃんと挨拶できなかったしな。あいつ、こっちには来るのか?」
「一度くらい、帝都を見に行きたいとは言ってたけど、どうかな。ロージス街道の復旧工事次第だと思う」
俺は問い返した。
「そういえば、ラーダイは? 冬の予定は?」
「んなもんねぇよ」
彼は不満げにぼやいた。
「シャハーマイトまでの船便もあるっちゃあるけどよ。そんなもん、新学期に間に合わせようと思ったら、ほとんど船の中じゃねぇか。つっても、こっちでもやれることなんかねぇ。迷宮に潜るっつったって、ギルもいねぇしニドも来ないんだろ?」
「店の方がなぁ……顔出してやんねぇと、女どもが仕事しねぇの」
「さすがに一人じゃ、パウペータスの浅いところでも危ねぇしな」
「だったらよ」
ギルが口を挟んだ。
「この前の、あのオッサンに頼んだらどうだ?」
誰のことだろう? 疑問が顔に出たのだろう。ギルが補足してくれた。
「もう五十歳近いオッサンだ。やけに気合の入ったのがいるんだ。面構えが違うっていうか。迷宮にも潜ってるんだけど、あれは完全に鍛錬目的だと思う」
「どうしてわかる?」
ラーダイが代わりに答えた。
「だって、もうジェードだからよ。それで変だなと思って、話しかけたんだ。十二階まで降りて上級冒険者になりたいのかって訊いたら、そんなもんいらねぇって吐き捨てるみたいに言いやがって」
「迷宮の外で素振りしてるのも見たしな」
「へへっ、あの歳で武者修行たぁよ」
なんとも奇特な人がいるものだ。
「でも、それならギルと一緒に潜ったらいいんじゃないか? パウペータスとかなら、そこそこ稼げると思うんだけど」
「二人じゃなぁ」
「さっきのオッサンと……だったら、あとはウィーにも声をかけておこうか?」
すると、すっと静かになった。なんだか部屋の温度が下がった気がした。
「カッカッカッ」
ニドが皮肉げに笑った。
「お前、わざと名前出さないでおいてやったのに、まったく……仮にも彼女連れでここに来ておいて」
「いや、それでこそファルスだろ? ちょいビビったが、そうでなくっちゃな」
「えっ……って、ニド! お前、余計なことを」
この前のグラーブの偽装デートの際に、ややこしいことになった。それをニドが言いふらしてくれたというわけだ。
なお、俺も彼女とは、しばらく顔を合わせていない。あんなことになってしまったので、微妙に気まずいままだ。
「わ、私は気にしませんから!」
と言いながら、なぜかヒメノは顔を赤くしていた。何か変な想像をしていたりしなければいいのだが。
「あーっ、まぁ」
ギルが割って入った。
「セリパス教徒としちゃ、あんまりそういうのは気持ちよくはないんだが」
「誤解だ」
「まぁ、あんまり人のことを叩くと、自分にも跳ね返ってくるもんだしな……ほら、聖典の言葉にもあるだろ?」
今度はラーダイがニヤニヤしだした。
「恵まれてる奴らは違ぇなぁ」
「えっ」
「ギルの奴、うまくやりやがったからな」
「ええっ!」
彼女が、できた?
このところ、醤油のことで頭がいっぱいだったのもあって、俺だけ情報面で出遅れていたらしい。
「ま、まだそんなじゃねぇよ。それに俺は、結婚もしてねぇのに手を出すとか、しねぇし」
「なんだ、そんなことが」
少々恥ずかしがっているギルの代わりにラーダイが説明を引き受けた。
「この前の、ほら、お披露目パーティーやったろ? そん時のお客の中に、オムノドの、そこそこ大きな商家のお嬢様がな、見初めたっぽくて」
「いいじゃないか」
一肌脱いだ甲斐があるというものだ。
「いや、正式なお付き合いとか、そんなとこまでいってねぇから」
「それでも、よかった。おめでとう!」
「んじゃ、乾杯すっか」
コツン、とバラバラに互いのグラスをぶつけ合い、少々地味に、盛り上がりに欠けた感じながらに祝意を示した。
「うう、やっぱりなんかみんな、どんどん僕を引き離していくなぁ」
コーザはそう呟いてから、傍らのラーダイに振り向いた。
「彼女のいない仲間同士、仲良くしましょう」
「何言ってんだお前」
だが、彼の返事はすげないものだった。
「どうせ俺は帰国したら許婚がいるんだよ」
「えぇ? そんなぁ!」
「ま、お前はお前で頑張れ」
虚ろな顔をしたコーザのコップに、ヒメノがそっとお酌した。




