偽装デート開始
高みから見下ろした湖面はかすかに波打っていた。微風に優しく撫でられるそのさまは、居眠りする猫の背中のようだった。
人気のない一角。周囲には低木が立ち並んでいて、程よく視界を遮ってくれる。離れたところから誰かが俺達を見つけたとしても、個人を特定するのは容易ではないはずだ。朝のみずみずしい空気に、朝露に溶け込んだ草葉の匂いが感じられる。頭上を見渡せば、遠く薄い雲がかかってはいるが、まずまず快晴といえるだろう。
要するに、デートを始めるには絶好の条件が整っている。
「話は聞いていると思うが」
俺達のいる高台……この公園の東口付近の一角から、ベルノストは南門の方へと視線を向けていたが、ようやく振り返った。
「本日の警護の任務は、極力目立たないことが重要だ。ただ、最悪の場合、ファルスは人目につくかもしれない。その際には、もう一組の動きが重要になる」
彼は俺達四人の顔を見回した。
「ファルス、他の二人は先日の宴で顔を見せてもらったが、あとの一人は」
俺が紹介しようと声をあげる前に、彼女は一歩進み出て、笑顔で挨拶した。
「タマリアです。宜しくお願いします」
「ああ」
一方のベルノストの反応は、なんとも無感動だった。察しのいい彼のこと、一瞥して、彼女の身分を見抜いたに違いない。
ハキハキした物言いは気持ちのいいものだが、育ちのいい女性なら、そんな話し方はしない。また、敬語の使い方もなってない。それに、手先には普段の暮らしが滲み出るものだ。今日の彼女は、ふんわりした白いワンピースを纏い、髪はポニーテールに纏めているが、近くでじっくり観察されたら、こんなところでデートを楽しむような身分の女性ではないことがわかってしまうだろう。
「ファルス、こちらの女性は」
「はい。荒事には」
「構わない……聞いていると思うが、私がベルノストだ。今日はよろしく頼む。ただ、そうなると、ニドと言ったな」
「おう」
仕事だから引き受けはしたが、ニドはやはりニドだった。相手が貴族の令息だからといって、へりくだったりはしない。そのことを、ベルノストもいちいち問題にはしない。
「ないとは思うが、ファルスが動けなくなった場合には、どうしてもお前に時間稼ぎをしてもらわないといけない。頼んだぞ」
「わかってるって」
「なるべくそうならないようにはします」
とはいえ、ニドの貴族嫌いが治ったのでもない。大人になって、妥協を覚えたに過ぎないのだから。
「事前に対策はしてありますので、余程のことがない限り、事故は避けられるかと思います」
「ほう?」
「仮に誰かが殿下を矢や魔法で狙撃しても、最初の一撃は命中しないはずです」
自分の能力を過信してはいけない。正面切ってのルールありの試合ならともかく、暗殺というのは、なんでもありなのだから。
なので、先にグラーブとレノには、無断で魔法をかけておいた。最初の一撃がどんな手段になるかがわからない以上、ほとんどの攻撃に対応できる『魔力障壁』を、条件設定で発動するようにしておくしかなかった。そして、この魔法が消費されると、俺に通知が届く。そうなったら、もう人目を気にかけながらの行動は終わり。全力で彼らの傍に駆けつけて、警護しながら公園から連れ出すことになる。
「そうか。だが、苦労をかけるが、今日は気を張ってもらいたい」
「もちろんです」
「滅多なことはないと思うが……では、そろそろ私はいったん、この公園から出る。殿下の近侍がうろついているのを見られたくはないからな」
「はい、お気をつけて」
「お互いにな」
それだけで、ベルノストは背を向けて、東口に向けて歩き出した。
彼の姿が木陰に消えたあたりで、俺はニドに声をかけた。
「正直、ちょっとヒヤヒヤしたぞ」
「ふん」
だが、彼は動じていなかった。
「あれで俺の態度がどうとか言い出すようなカスだったら、恥の一つでもかかせてやろうかと思わないでもなかったんだがな」
「一応、雇い主なんだから」
「はん……腰を低くしてお仕事お願いしますってんなら、俺だって頭を下げるさ。けど、ありゃあ……な、タマリア、気に入らねぇだろ」
「え?」
声をかけられた彼女は、そこで初めて気付いたと言わんばかりに振り返った。
「なにが?」
「なにがってお前、名前名乗って挨拶して、返事が『ああ』だぞ。何様だよ。お貴族様なんだろうけどよ」
「んー、まぁでも、仕事の話は、もうどうせファルスから聞いて知ってるんだし」
タマリアは肩をすくめて言った。
「お忍びなんでしょ? ここであんまり時間もかけたくないんだろうし。いちいち気にならないかな」
「ま、お前がよけりゃ、俺がどうこう言うことじゃねぇけどよ」
「それより、イケメンだったよね、彼」
「そっちかよ……」
手を胸の前で組んで、タマリアはおちゃらけている。
「あんな貴公子とデートできたら、素敵よねー」
「あ、うーん」
「なんか意中の人とかいるのかなー、こっそりどこかの令嬢と逢瀬を重ねてたりとかするのかなー」
ベルノストが、女性全般に興味がないことは、伝えていいのか悪いのか。
「なんだか夢みたいよね。こんなきれいな帝都の公園で、王子様の恋愛を応援するって」
そんないいものではないのだが、実は詳細についてはそこまで説明していない。側妾候補が他にいることも。
先日、ケアーナが少しだけ口を滑らせて、例の三人の中のうち、一人は条件付きで側妾になることを受け入れたらしいと言っていた。ゆえにレノとのデートは、彼女との婚姻も前提なのだが、その他の側妾との関係に注目されないための撒き餌としての意味もある。
「そ、それより」
妙に固い動きをみせるウィーが、おずおずと声をあげた。
「今日、その、ボクらで殿下を護衛するんだよね」
「ん? ああ、それがどうかしたのか?」
「なんか、マズくないかな、と思って」
この指摘に、全員揃って、なんともいえない表情を浮かべた。
ウィーからして、ピュリス総督暗殺未遂犯だ。しかも別の宮廷貴族も殺害している。身分を偽っての密入国、密出国と、経歴は真っ黒だ。タマリアも、免罪されずに脱走して帝都に流れ着いた元犯罪奴隷で、辺境伯を強姦した挙句に死に追いやっている。ニドに至っては、元主人の貴族を神通力覚醒時に殺害している上、その後はパッシャに加わってテロ活動を繰り重ねた。かつ、今も繁華街の強面で、主婦売春の原因になっている悪党だ。
罪状の一切が知られればまず、縛り首を避けられない連中ばかりなのだが、それよりひどいのがこの俺だ。モーン・ナーの呪詛により、一切を滅ぼすべくこの世界に降り立った災厄の子。世界の敵そのものだ。
そんなバケモノ率いる凶悪犯の集団が、王子様の護衛とは。
「ま、まぁ、いいんじゃないかな、淡々と仕事だけすれば」
「う、うん」
そんな彼女は、この前のパーティーの時とほぼ同じ格好をしている。白いブラウスに黄緑色のロングスカート。頭には、これまた黄緑色の鳥打帽。ただ、肩には大きめのバッグがある。布をかぶせてカムフラージュしているが、中には短弓が詰め込まれている。
「もう少ししたら、南門の方から、殿下とレノ……リー家の令嬢がやってくるから、僕らは少しだけ距離をおいて、二人から目を離さないようにしよう。もちろん、遊んでるふりをしながらだけど」
この、帝都の北の郊外にある広大な公園……正しくは『顕彰記念公園』の創建は、統一時代に遡るという。皇帝の昇天後、百年ほど経った時期に、大規模な公共事業として当時の政府が取り組んだものだそうだ。その目的とするところは、過去の偉人達の奮闘を称え、後の世を生きる人々がこれを学び、模範とする機会とすることにある。
というと難しく聞こえるが、要は世界が平和になって百年も経つと、みんな逸楽に流されてしまい、帝都から世界の守護者としての意識が薄れてきたので、これを引き締め直しましょうと、そういうお話だ。
ただ、それもどこまで本気だったのか。これだけの建設事業なのだから、表だけでなく裏でも、相当なお金が動いたに違いない。ともあれ、帝都の市民を硬派に鍛え直すためのこの公園、今では色男と恋に落ちた女達の遊び場として活用されている。
この公園の目玉は二つ。一つは救世十二星将の彫像を並べた丘で、定番の散歩コースになっている。もう一つは水路だ。ラギ川の水を引いた湖、そこから運河があちこちに延びていて、遊びに来た人々はボートに乗って、水上で静けさを満喫する。
公園の各所には休憩所が設けられている。規模はさまざまだが、少なくともトイレがあり、また軽食を供する店舗もある。場所によっては、二階の貸し切り部屋もあって、そこからこの人造湖を見下ろしたりもできるという。
施設としてはこんなものだが、あとは広場でイベントが開催されることがある。芸人が一発芸を見せ、役者が劇を演じ、楽人が歌声を響かせる。その横にフリーマーケットの出店が並んでいたりする。
前世日本の遊園地を知る者としては、もの寂しささえ覚えるくらいにコンテンツが貧弱なのだが、こちらの世界でこれ以上の何かを期待することはできない。大昔には乗馬やアーチェリーを楽しめる施設もあったそうなのだが、統一時代末期のあの戦乱期にすべて破壊された。今では、公園内に馬糞が転がるのを防ぐため、車馬での乗り入れは禁止されている。もちろん、犬の散歩も許可されない。
「それじゃあ、どうする」
「前に言った通り、二手に分かれよう。連絡手段は」
「お前頼みなんだよなぁ」
俺もニドも、偽装デートをしながら殿下を尾行する。ただ、互いの距離が近づきすぎないようにしたい。
「じゃ、俺とタマリアで西側に行くわ。あとをつけるの、俺のが得意だろうし、お前はお前でやりやすいように動いてくれ」
「わかった」
二人が足早に去っていくと、この場には俺とウィーだけが残された。
「よし、じゃあ」
さっさと歩きだそうとしたところで、彼女が俯いているのがわかった。
「ん?」
俺が立ち止まっても気付いていないように見える。
「どうした? ウィー?」
顔を覗き込まれて、やっと我に返ったらしい。
「は! ふぁい! ふぁっ」
「えっ、ちょ、ちょっと」
声をかけられ驚いて、軽く舌を噛んだらしい。
「だ、大丈夫? あの、これから」
「大丈夫! 大丈夫! ごめん、大事なお仕事だよね」
「一応、何もないとは思うけど、万一にも殿下に何かあったら、大変だからね」
可能性は低いと思うが、これでもし暗殺でもされたら、本当に戦争になりかねない。替えの利かない王太子の命だから、落としどころというものがないのだ。
「そ、そうだね」
「なんかさっきからソワソワしてるみたいだけど、体調悪いとか?」
「な、なんでもないよ」
どうも態度がおかしい気がするのだが……
「行こっか」
「うん。そんなに緊張しなくても、別に戦場に行くんじゃないんだから」
それで俺とウィーは低木の茂みから抜け出して、南門の方に繋がるなだらかな下り坂に踏み出した。
油断こそするわけにはいかないが、今回の仕事、そこまで大変なものとは思われない。それこそ規格外の何者かが介入するのでもない限り、最初の一撃で俺の魔法をぶち抜いてグラーブを殺害するなんて、できるわけがないからだ。
そもそも、そこまで思い切った行動に出ることで利益を得られる誰かというのも、あまり思い当たらない。一応、シモール=フォレスティア側の人間なら、隣国の国王候補を葬り去れることになるし、フミール王子の遺児が潜伏しているのだとすれば、復讐を遂げることもできるのだが……前者については、同じく帝都に留まるマリータ王女が報復の犠牲になりかねない。警戒するなら後者だが、今のところ、これといった心当たりもない。
また、そういう状況でなければ、つまりグラーブの身に危険が及ぶ可能性が低いのでなければ、こんな偽装デートなんか、最初から計画もできない。
「あ、あの」
「うん?」
「不自然、じゃないかな」
前方をぼんやりと見ながら歩いていると、横からウィーが声をかけてきた。
「なにが?」
「だって、デートに来てるのに……手も繋がないなんて」
言われてみれば、そうだった。今の俺は、ヒジリの目を盗んで愛人との一時を過ごす遊び人。そういう設定になっている。
「危なかった。確かにね」
「じゃ」
それでウィーは、遠慮がちに手を伸ばして、俺の手にそっと指先を絡ませてきた。
そうしてから、俺達はゆっくりと坂を下りていった。




