マホの布教活動
「今日は私に付き合って」
教室内がざわめいた。みんな帰り支度をしている中でのことだ。隅の方に固まっている三人組の女子学生などは、鞄に教科書を詰め込む手を止めたまま、こちらを注視している。
「えっと……お断りしていいかな」
「駄目。今日がいいの」
マホは今日も非常識だった。お互い、もう関わらないのが一番なのに。百歩譲って俺に用事があるのはいいとして、それなら事前に予定を伝えて了承を取るなどしてほしいものだ。
「それとも、大事な用事でもあるの?」
「まぁ、ないんだけど」
今日もいつも通り、ヒメノと一緒に下校するだけだ。しかも、書庫の掃除の予定もない。ただ、俺の予定は簡単に変更できない。夜遅くなればヒジリが気を揉むことになる。しかも女を連れてとなれば、この帝都ではスキャンダルにも繋がりかねない。
「だったらいいじゃない」
「よくない。変な噂になりかねない」
「今更でしょ? 女に見境ないってみんな言ってるのに」
俺はガックリと肩を落とした。そういうレベルの問題ではない。馬鹿にされるのはいっそ構わないのだが、ハニートラップ的なモノに引っかかるのがマズいのだ。
「とにかく、気が乗らない。付き合ったところで何もいいことなさそうだから」
「わかったわ。落とせそうな女じゃなかったら、話をするだけ無駄ってこと?」
またそういうことを。暗に、この誘いを拒絶したら、そういう理由で相手にされなかったと言いふらすつもりだと、そう意思表示しているのではなかろうか。脅しが効いているかと思っていたのだが、残念ながら、今も効果があるのは魔法だけで、恐怖心はそれほど残ってはいないらしい。
溜息一つ、俺は項垂れた。
「とりあえず、教室を出よう」
ヒメノに待ちぼうけを食らわせるわけにはいかない。やむなくマホを連れたまま、俺は教室を出た。
校門のところで、俺の姿に気付いたヒメノが振り返り、だが、視界に映った異物に微妙な顔をする。
「あら? あの、ファルスさん……?」
「済まない。ついてきてしまった」
俺が女漁りなどしていないと知っているヒメノは、一瞬、硬い表情を浮かべたが、すぐ取り繕った笑みに切り替えた。要するに、自分が撃退すべき相手かもしれないとまず考え、次に本当にそうであるかを確認するまでは態度を保留することにしたのだ。
「はじめまして。ヒシタギ家のヒメノと申します。あなたは」
「名乗るほどの身分じゃないわ。帝都生まれだもの。マホ・アルキスよ」
作り笑いを浮かべるヒメノとは対照的に、マホはぶっきらぼうだった。それにしても、言葉を交わすのは初めてなのにこれとは、少々失礼ではないか。
「あなたのことは見ていたから知っているわ。教室まで顔を出していたから」
「じゃあ、同級生の方ですか? 今日はどんなご用件でしょう」
ヒメノは、実はマホの件を知らない。アスガルによる拉致監禁の件まで説明しなければならなくなるから、必要に迫られない限りは秘密の共有範囲を広げたりはしなかった。知ることは、責任を負うことなのだ。
「これから連れていきたいところがあるの。いつもあなたが一緒に帰っているのは知っているけど、今日は借りてもいいかしら」
このトゲのある態度、そしてこれから俺を連れ出すという宣言に、ヒメノは俺の顔色を窺った。
本当は断りたいが、前にも一悶着あった相手だ。付き合いたくはないが、放置して問題が拡大するのも避けたい。ヒメノをだしにして、無理やりマホを追い払うという手もあるのだが、それは厄介事の先送りにしかならないだろうと頭の中で結論付けた。
「ヒメノさん、悪いけどヒジリに伝えてほしい。マホ・アルキスに呼び出されたので出かけてくる、なるべく夕食前には帰るようにする、と」
「は、はい。承知しました」
若干の戸惑いはあったものの、すぐ彼女は飲みこんだ。俺がわざわざフルネームで相手の名前を告げたことの意味も、きっと理解しているだろう。予期せず要注意人物との会合に呼び出されたのだ。
「行くわよ……じゃあ、ヒメノさん、今日は失礼させてもらうわ」
「ええ、いってらっしゃいませ」
俺とマホは、いつもの下校の道を反対に歩いた。学園北の大通りに出て、すぐ乗合馬車の停留所に向かった。
「今日は馬車は待たせていないのか」
「そういつもいつも教授の足を借りられるわけないじゃない。悪いけど」
背が低い分、せかせかと速足に歩きながら、彼女は言った。
「あなたと違って私は貧乏学生なの。一番安い乗合馬車で行くしかない。いい?」
「それはもちろん」
それから少し無言になった。大通りを左手に見ながら帝都の中枢へと歩いていく。ふと、マホが足を止め、それから思い出したように呟いた。いや、どちらかというと、それは癖のある呻き声と言った方がよかった。
「この前は、悪かったわ」
「はい?」
「先走って、勝手に噂を流して」
「ああ」
何かと思えば、その話とは。
「順序がおかしかったことは認める。確かに、あなたに何も理解も納得もさせてないのに、そもそも理解できているかも確認していないのに、強引にことを進めようとしたんだから、しくじるのは当然」
「いや」
方法論の問題なのか?
だが、俺が疑問を差し挟む前に、彼女は畳みかけるようにして言った。
「今日は、実際に見てもらおうと思ったから、こうして声をかけたの。ずっと悩んできたけど、やっぱり直接が一番だから」
「ちょっと待った」
歩きながらも、俺は尋ねた。
「何の話だ? 何を見せるつもりなのか、何も説明されないで変なところに連れ出されるのは」
「安心して。あなたの身分は明らかにしないつもり。同級生という以上には」
「どこに行くんだ」
「正義のなんたるかを学べる場所よ」
鳥肌が立ちそうな言葉の響きだ。正義のなんたるかを学べる場所。その響きだけでもう帰りたい。
「メチャクチャ行きたくなくなってきた」
「ほら、そこから馬車に乗るから」
既にしてげんなりさせられている俺は、だが、彼女の指差した馬車に、渋々乗り込んだ。
帝都の南東部の、とある停留所で降ろされると、あとはそのまま、マホが先行する道を黙って歩いた。しばらくして、古びた公共施設のような建物の門をくぐった。表面の色はベージュで、どうにも目立たない。ただ、突き立つ柱などには細かな彫刻が施されているのもあって、元はちゃんとした施設だったのだろうと推察できた。
黒い木の扉を、マホはその小さな体でなんとか引き開けると、勝手知ったる我が家とばかり、中に踏み込んだ。
入口左手には長いテーブルが置かれていて、それが受付になっていた。そこに座っていた女性が、マホに声をかける。
「お疲れ様」
「遅くなりました。二名で」
「二名?」
その視線が俺に向けられる。見る見るうちに目の色が変わる。怖い。
「どなたですか?」
「同級生。見学したいってことだから、連れてきたんですけど」
「マホが、というなら仕方ないわね。いいわ、席はあるから、後ろの方に座っていてくれれば」
受付の女性の、あの視線。どこかで似たようなのを見たような印象がある。
そうだ。クレイン教授の別邸にいた女性。あれとそっくりだ。髪の毛も耳たぶにかかるくらいの短さに切り揃えてあって、パンツルックで。そういうところも共通している。
なんだ? 服装も態度も画一的とか、まるで何か、前世の宗教団体みたいなノリを感じるのだが。
思考に沈む時間を与えず、マホは俺を手招きすると、さっさと大部屋に踏み込んだ。
「そこに座って。私語は慎んで、最後まで見て頂戴」
「ここで何を」
「声を出さない方がいいわよ。あなたのためにも」
やっぱり怖い。
いや、暴力で俺を脅かせるはずはないので、その意味では何も怖くない。社会的に殺される可能性はあるが、今はちゃんと危機に備えて魔法を無言で行使できるよう、準備してある。いざとなれば、精神操作魔術でも使って一切をうやむやにだってできる。だから危険はない。でも、そういう現実的な脅威とは別の次元で考えると。
何が怖いのか。この空間では、外の世界で通用する当たり前の常識、前提が通用しない。それが空気でわかる。後ろの方に座れ、声を出すなって、存在を認知されないようにしろということだから。俺が俺としてここにいるだけで、処罰されかねない。そういうことなのだ。
部屋の一番隅にある椅子に、俺とマホは腰かけた。その後、続々と聴衆がやってくる。だが、その中には男が一人もいなかった。女達の半分以上は、みんな同じ髪型だ。ショートヘアか、さもなければタマネギみたいに結い上げているか、そのどちらかだ。俺がいるのに気づくと、凍てつくような視線を向けてくるのもいる。
だいたい八割方席が埋まると、壇上に一人の中年女性が出てきた。
「では、皆様、公正実現委員会の定例会を始めます」
ああ、やっぱり。これは正義党の下部団体のイベント会場だ。では、マホは俺に既成事実を作るために、ここへと呼びだした? いや、そうではない。だったら名前を明らかにしているはずだから。
「世界のあらゆる地域に先だって正義を実現するべき帝都ですが、いまだに不当な扱いを受け続ける女性が後を絶ちません。今日も声をあげていきましょう」
声をあげる、か。
この言い回し、以前にマホも使っていたのだが、どうにも違和感が拭えない。問題があり、それを解決しなければならないとして、なぜその手段が「声をあげる」……つまり、誰かに認知させる、という行動になってしまうのか。
気に入らないことがあるのなら、自己解決を目指して行動すればいい。それが一番早い。声をあげるというのは、それを誰かに代行させるための行動だ。そして、そういう代行依頼を日常的に用いるべき人々とは、つまり……子供のような、絶対的な被保護者だけではないのか。
帝都の女性は、男性と同等か、下手をするとそれ以上の権利を手にしている。就業の自由もあるし、みなし市民権も与えられているのだ。その点を考えると、どうにもちぐはぐな態度に見えてしまう。
「今日の発表を開始します。皆様、ご清聴ください」
司会役の中年女性がそう言って引き下がると、ゾロゾロと壇上に数人の女性が進み出てきた。だが、それを目にした俺は、思わず呻き声を漏らしそうになった。
というのも、その発表をするという女性、一人残らず、とんでもない外見をしていたからだ。まず、髪の毛は、ほとんどが短く切り揃えてあった。半分くらいは、まるで男性じゃないのかと思うようなベリーショートヘアだったし、服装もパンツルックだ。その上、化粧っ気もなく、体格もずんぐりむっくりだったので、一瞬では女と判別できないほどだった。そして、一様に陰気そうな顔をしている。というか、遠慮のない、わかりやすい表現を探すとなると「ブス」「いかにも頭が悪そう」という言葉しか思い浮かばない。
最初の一人が進み出た。ジャガイモみたいな顔をした、声さえ出さなければオッサンで通りそうな女だ。ピアシング・ハンドの表記によれば、三十代前半らしい。
「わっ、私はっ……その、あの……帝都っ……」
大勢の前で喋ろうとして、早速つっかえている。緊張したというより、思考を整理することができていないからだろう。
すぐ後ろに控える係員らしき女に小声で指図されると、呼吸を整えて、自身の体験を語り始めた。
「私は、この街に殺されそうになっています」
物騒な表現から始まった話だが、なんてことはなかった。
今年三十二歳になる彼女、ウーラは、いわゆるワーキングプアだ。十五歳時点でどこの大学にも合格できず、清掃会社の下働きとして雇われた。以来、働いたり、働けなくなって生活保護を受けながら休んだり、また雇用してもらったりを繰り返しながら、今に至る。当然ながら管理職への昇進もなく、この年齢でも出来高払いの平従業員のまま。
そして、重要な問題なのが、今に至るまでほとんど彼氏らしい人がいなかったこと。言葉の端々から、どうやら二十代前半の頃に一度、彼女に対して交際を試みた男性がいたらしいのだが、それは市民権を持たない「脱落者」だったので相手にしなかったという。その後、二十代後半で魅力的な男性に出会い、夢中になったのだが、彼のためにとなけなしの貯金を使い果たすと、すぐに関係はなくなった。
その恋愛遍歴の何が問題なのかというと、つまり……あと二年で、みなし市民権の期限が訪れることだ。とてもではないが、結婚できそうな状況にはない。
「こっ、このままだとっ……私はっ、誰にも省みられることもなくっ……あううっ」
もはや発表の体をなしていなかった。顔をグチャグチャにしながら、彼女は恨み言を繰り返していた。
そして、ウーラの後ろにはまだ他に三人もの女性が控えているのだ。まさか、こういう発表……彼女ら自身の認知によるなら「被害報告」とでも言えるようなものを、延々と続けるのだろうか。
「わ、わ、私が悪いんですか!? ブスに生まれたから、こんなに苦しまなきゃいけないんですか」
正直、耳にしていて気持ちいいものとは到底言えない。いや、だから「正義」なのか。気分の悪くなるような悲惨な現実から目を逸らさない、という。
ただ、どういうわけか、俺の中では彼女らに対する同情心が沸き上がってこなかった。
「お、男達は、私を弄ぶだけで、放り出して……こんな帝都を、変えなかったら」
男達、という大雑把な表現をしているが、それはあまりに広大な範囲を示す言葉だ。
数年前のウーラを相手に、金だけ搾取して捨てたのは男だろう。そして、清掃会社の上司も男。既に若さも失い、見た目も美しくない彼女に侮蔑の視線を向けるのも男。彼女の主観では、男達はひどい圧制者だ。若い頃には性欲を向け、老け込んできたら金だけ奪って捨ててしまうような。
だが、それでは女神挺身隊に参加して死んでいった連中は? 彼らも男だ。みなし市民権なんてものはないから、命を懸けるしかない。
そこそこのところで、司会の女性が彼女の愚痴ライブを打ち切った。話が下手な人は、始めるのも下手だが、終わらせるポイントもわからないのだ。
それにしても、こんな話をあと一時間は聞かされなくてはいけないのか? 胸焼けが止まらない。
ここで過ごす時間を、俺はこんなにも無駄なものと感じているのだから、他の聴衆だってそう思っているのではないか。そう思って、会場のあちこちを見渡してみた。
発表者が椅子に座って待機する壇の下、右手に、横向きに並べられた椅子と机がある。そこに座る一人の中年女性が、やけに目を引いた。背筋が伸びているのと、顔立ちも年齢の割に美しく、身なりが良いのが、その理由だとすぐ気付いた。
「マホ」
小声で呼ばれると、彼女はあからさまに嫌そうな顔をした。
「あの女性はどんな」
「ミドゥシ助教授。委員会の理事。クリマド銀行の頭取の娘。クレイン教授のお弟子さんでナーム大学にお勤めの方」
早口で答えると、すぐに彼女は顔を背けてしまった。
しかし、なるほど……
姿勢がよく、服装も華美ではないながらに上等となると、これはもう、本当のお嬢様といった身分なのではないか。そう思ったら、案の定だ。
良家に生まれた女性が高等教育を受け、そして市民運動の核となる団体で代表の一人に収まっている。なんだか、実際に貴族である俺より貴族らしい。というのも、俺は元貧民の成り上がりでしかないのだが、彼女はというと地位や名誉なら最初から持っていて、今はただ、そこに道徳的優位性を付け加えるためだけに働いているのだろうからだ。
果たして、そんなミドゥシ助教授には、この発表を行う底辺の女性達が、どんな風に見えているのだろうか?
興味本位で魔術を発動させてみると、早速、心の声が流れ込んできた。
《……初めて見聞きした時にもびっくりさせられたけど、何度見ても醜い連中だわ……》
おっと、やっぱりこんな会合に楽しみなんか見出してはいなかったか。わかってはいたが。
《……でも、次の選挙もあるし、あと二年は引っ張らないと……いいのよ、私達が救ってあげているのだから、誰にも聞いてもらえない声を聞いてあげているだけ親切ってこと……》
そして、激しく見下している。
《……お互い、得をするんだから、私達は彼女らに怒り方を教える、彼女らはその怒りで私達の思うように動いてくれる……》
だいたいわかってきた。
要するに、市民の声を集めることで、彼女らのロビー活動はやりやすくなる。今後の立候補者に対して、次の選挙での一票がどう投じられるかを事前に示せるのだから。そして、女性であれば、三十五歳まではみなし市民権がある。つまり、投票できる。
不幸な女性を集めてその不満を焚きつけ、怒りのキャンプファイヤーを囲ませる。だが、その先はあるのだろうか?
会場には、三十五歳過ぎの、みなし市民権を失った女性も少しはいるようだった。そういう女性も、ここでは仲間として扱われる。というより、ここにしか居場所がない。どうやら、先輩風を吹かすことのできる貴重な場所になっているらしい。
彼女らは、救われなかった。なのに、なお一層、この活動にコミットするようになる。みなし市民権の範囲拡大に一縷の望みをかけて。いや、それだけではない。かつて焚きつけられた怒りの火は、まだ内心に燻ぶっている。そして、ここに費やした時間と労力があるから、そのサンクコストを捨てきれず、淡い希望に縋り続けて、ついつい足を運んでしまう。
簡単な話だった。ろくに進学できなかったような底辺層を、社会の人々はカモにする。そうして裏切られ貪られた連中を選んで、その残りカスまで再利用する。その最終処分場がここなのだ。
だが、彼女らの怒りはきっと、現実の救済には繋がらない。この集まりは、こういう底辺の女性を集めて組織するためのものに過ぎないのだから。
フォレスティアでは決して見られない光景だった。なぜだろう、と少し考えて、すぐ答えに行き着いた。あちらには、自由なんかないからだ。あちらの女性も働くが、その稼ぎは一家全体のものになる。無論、名目上は一家の主がすべてを管理するのだが、家長といえども本当に好き勝手ができるのではない。みんなで固まって生き残るために生活しているから、自由恋愛もない。だから変な男に騙されて全財産を奪われるなんて事件にも繋がらない。多少ブスな程度では売れ残ったりもしない。
ここにいる弱者達を苛んでいるのは自由と平等、帝都を支配する思想そのものではないか。なのに、彼女らはその帝都の正義によって救われたくて、ここで声をあげている。
なんだか「肉屋を賛美する豚」という表現が、頭の中を通り過ぎて行った。
長い長い四人の発表が終わった後、会場には弛緩した空気が流れた。そろそろ夕方に差し掛かるのもあって、席を立つ人も目立ってきた。
「帰るわよ」
マホに言われずとも、こんなところには長居などしたくない。だが、さっさと立ち去ろうと腰を浮かせたところで、さっきのミドゥシ助教授が笑みを浮かべて俺とマホの前に立っていた。
こんな会合、男が顔を出すこと自体、稀だろうから、とっくにマークされていたのだ。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
「マホ、来ていたんですね」
「はい、いい機会だと思いまして、寄らせていただきました」
「こちらの方は?」
マホは、最初のスタンスを崩さなかった。
「同級生です。一度、お話を聞いてみたいと言っていたので」
助教授はスッと目を細めた。俺の身元を明かそうとしない、その振る舞いには気付いているだろう。だが、あえて指摘せず、こちらに向き直って、柔らかな声色で尋ねてきた。
「そうですか。いかがでしたか」
「はい。大変、勉強になりました。持ち帰ってよく考えたいと思います」
形ばかりの返答に、微妙な沈黙が生まれた。だが、マホは乱暴に俺の肩を叩いた。
「時間ないんでしょ。早く出ないと」
「あ……では、失礼します」
俺はそそくさと助教授に頭を下げ、マホに続いて会場を後にした。
「どうだった?」
秋の夕暮れ、橙色の空の下に、家々が黒い影を落とす中を、俺とマホはぶらついていた。
「どうって」
「三人目とか、ひどかったでしょ。結婚するすると言われて六年も付き合って、結局、体目当てだって言われて捨てられて。それからドカ食いでああなっちゃったのよ。でも、こういう女性は帝都に少なからずいるの。可哀想だと思わない?」
可哀想……
理屈としては、わからないでもないのだが、ピンとこない。
「まぁ、本人としては大変だろうなぁとは」
「そんな程度なの? もうあと二年で市民権もなくすし、仕事だって安定しないのに、どうやって生きていけばいいのよ」
マホは歩きながら、俺を睨みつけた。
「やっぱり男だから、大変さがわからないのね」
「違う」
俺は首を振った。
「男は十五歳で市民権をなくす。女神挺身隊に参加して、三年間生き延びれば、取り戻せるけど」
「やればいいじゃない。女性と違って男は体格に恵まれてるんだし。女性が市民権を確保しようと思ったら、ああなったらもう、未婚のままでもとにかく産むしかないのよ?」
「産めば助かるなら、まだいい。マホ」
俺は立ち止まって言った。
「お前は挺身隊員がどれだけ死んでいるのか、知っているのか」
「正義のための犠牲じゃない」
「そういうことは現場を見てから言え。俺は……人形の迷宮で、実際に見てきた。最低最悪だった。帝都でも、少しは情報が入ってきているはずだ。それとも正義党に都合の悪い話は、全部ほっかむりか?」
マホは肩をすくめた。
「どんな制度だって、悪用されないで済んだ試しなんかないじゃない。早い話が、フォレスティア王国だってそうでしょ? 六大国は皇帝の遺命を受け継ぐから存続することを許されているのに、帝都には面従腹背。さすがの皇帝陛下も、後の時代の人間がこんなに欲深いとは思わなかったのよ。でも、だからギシアン・チーレムが悪いんだって、そう主張する気?」
ああいえばこう言う。この手の議論はお得意らしい。
「論点のすり替えだ。運用じゃなくて、俺は制度自体にも問題があると言っている。じゃあ、三十五歳までみなし市民権を与えられて、子供を産めばそれで助かる女と、海を渡って命懸けの戦いを三年間も続けなきゃいけない男と。それで釣り合いが取れていると、本当にそう思うのか?」
「仕方ないじゃない。女性が産まなかったら、みんな死に絶えるしかないんだから」
「そうだな。でも、帝都の女は、産んでないだろう?」
今度は俺が肩をすくめ、手を広げて論じる番だった。
「人手が足りなくて、わざわざ南方大陸から移民を連れてきて働かせているんだから。足りてないんだ。こんなこと、他の国ではどこもやってない。うちの領地でも」
「ふうん、でもそれ、どうして人手が足りているの? 子供が生まれる理由は?」
「大陸では厳しいから。家同士が決めた結婚から、男も女も逃げられない。もちろん、それでもメチャクチャをやるクズはいるけど。大半の人は、決められた通りに役割を引き受ける」
「ほら、そういうことでしょ?」
腰に手をやり、もう一方の手で俺を指差しながら、マホは言った。
「要するに、女性に負担を強いることでしかやっていけないのよ。割に合わない取引を受け入れさせて、男達は女性に寄生して、やっと生き延びているんだわ」
「逆もそうだろう。みんなそれぞれ、つらくても自由を手放す努力をしているんだ」
「私は違うもの。一人で働いて、一人で生きられる。そうやって生きるの。夫なんていらないから」
それは帝都という、特別な安全地帯があればの話ではないか。
世界のほとんどの地域では、人々はもっと困難な人生を生きている。女だけではない。男もだ。そして、地縁と血縁で結ばれ、互いに助け合うことで、ようやく生き延びている。それが破綻した先にあるのは……いずれにせよ、破滅的な状況だった。俺はそれを目にしてきた。
例えば、氏族の男達が戦いに敗れたバタンでは、何が起きたか。今でもはっきり思い出せる。焚火の横を駆け抜けて、崖の下へと身を投げる娘達の姿を。戦争がなくても、何にも守られない人々というのは、やっぱり悲惨な暮らしをしていた。カリの郊外に暮らすクーの家族は、関門城の南にいたタウルの両親は、どうだったか。
「それができる場所に生まれてよかったな。帝都以外では通用しない話だ」
「むしろ世界中が帝都にならないのが間違っているのよ。だから私はあなたをあの会合にも連れて行ったんだけど、無駄だったみたいね」
苛立ちを示しながら、彼女は背を向けた。
「結局、男に生まれたら、女性から搾取することしか考えられないから、そういう発想になるのね」
「そこまでいったら、やっぱり逆もまた真なりだ。それなら、挺身隊にお前が参加したらどうなんだ。男なんかいらないんだろう? だったら女が挺身隊の仕事もこなせばいい。ムーアン大沼沢でも関門城でも、どこでも連れて行ってやる。黒竜から緑竜まで、なんでも選り取り見取りだ。魔物の一匹でも仕留めてみろ」
「ラーダイにも舐められてるあなたが、よく言うものね? ああ、でも、どういうわけかネッキャメルの御曹司には強く出られるんだったっけ」
そこまで言ってから、彼女は急いで付け足した。
「さっき謝ったけど、例の件では余計なことは言わないつもり。今日だって、あなたの身分は伏せたでしょ?」
それからふっと息をついて、マホは更に言った。
「ああ、それと。世界中でどれほどもっと苦しい暮らしをしてるかってあなたは言ったけど、それだって論点のすり替えじゃない? 私はここ、帝都で困窮している女性の話をしているのよ? 他所は他所じゃない。今、議論していることじゃないわ」
「そういう問題か?」
「そういう問題よ。私は私、あなたはあなた、それぞれ望むことがあるわけでしょ? だったら、それぞれで運動すればいい」
「その理屈だと、俺がお前の主張に賛同したり、手を貸したりする理由もなくなるぞ?」
「いいんじゃないかしら。でも、男は女性の手助けがなかったら、一人で死んでいくしかないんだから」
「女もだろう?」
今日、見てきたものの中で、唯一学びがあったとすれば、これだ。
「フォレスティアではな、今日、見てきたような女は一人もいない。なぜかわかるか」
「知らない。どうして?」
「身勝手ができないから。帝都の女と違って、自由がないから。挺身隊員を無駄に死なせているのも、ああいった女達が量産されるのも、帝都の仕組みのせいじゃないのか」
三十代になっても結婚できない女。少なくとも、余程の事情でもない限り、ティンティナブリアの農村では起こり得ない事態だ。
逆に、未婚を通したくてもできない。そういう抑圧はある。だが、レールから外れなかった人間は、緊急事態でも起きない限りは、共同体から見放されたりしない。もっとも、近年のあの地域は、オディウスの圧政のために、非常時が日常になってしまってはいたのだが。
「だとしてもそれは」
立ち止まり、俺を睨みつけてマホは言い切った。
「帝都の理想が完成していないから。充分に実現できていないから、よ」
「どうだかな」
既に辺りは暗くなり始めていた。
「とにかく、わかった」
「何がよ」
「いくつか。一つは……お前は、お前がやっていることを正義だと信じている。自分の損得のためじゃない」
「当然じゃない」
だが、マホの周りの連中は、必ずしもそうではないようだ。
「だけど、気になるのは……どうして、こう、目の前のことで頭がいっぱいになるんだ?」
「なに? どういうこと?」
マホの頭は悪くない。ただ、奇妙に近視眼的になっているような気がしてならなかった。
未婚のまま、市民権を失いそうな女性達にはあれほど同情するのに、挺身隊員として辺境で死んでいく男達のことは、まったく視界に入らない。同じように、帝都の正義は大切にするくせに、辺境伯たる俺の離反によって引き起こされる戦争でどれだけ人が死のうとも、これまたそこまで気にならない。
目先のことばかりに心を動かされている。そんな印象がある。というより、遠くのことに思いを馳せる能力がないのかもしれない。今日にしても、俺の都合を事前に確かめたりもせず、急に予定をねじ込んできた。
「あと二つ。俺は帝都の、ああいう政治活動には関わらない。それと、あんなことをいくら続けたって、帝都から不幸な女がいなくなるなんてことはない」
「どうして言い切れるのよ」
主催者側の心を読んだから、だが、それは説明できない。
「一時の気晴らしになるだけだ。むしろ、怒りのせいで問題の根本から余計に遠ざかっている。連中は、それを見越した上で……悪いことは言わない。ああいうことからは距離を置いて、自分のことを頑張るんだな」
「私の勝手でしょ」
確かに、それはそうだ。
溜息をつくと、俺は身を翻した。




