独身男性の街へ
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ありがとうございます m(_ _)m
乗合馬車から降りると、そこはもう別世界だった。
入道雲の下、道路沿いに肩を並べるのは、いずれも緩やかな片屋根の三階建ての家屋ばかり。どれも決め打ちで建てたのか、幅に違いがない。壁の色もほぼ真っ白だが、微妙に薄汚れている。一階部分は例によって商店になっており、歩道に庇が迫り出している。
俺が今まで目にしてきた帝都の街並みといえば、タマリアの暮らすスラムやギルの下宿を別とすると、大半が上流階級の暮らす地域ばかりだった。俺の身分もあってか、いわゆる庶民の生活領域とは距離があった。だが、今日になってやっと、この街に住む普通の人々の姿を目にしたのかもしれない。
軒先には、決してピカピカとはいえない木箱の中に、さして品質も保存状態もよくはない野菜や果物が山積みにされている。道路とほぼ同じ高さの石の床に砂利が忍び込んでいる。その床の上に、大きな麻袋が堂々と腰を据えている。中身は小麦か、米か。
衣類を売る店もある。だが、今、俺が着ているようなお洒落な品はどこにもない。安くて、丈夫で、汚してもいいような服。装飾も何もない。そんなのが、軒先のハンガーから大量に吊り下げられている。道行く人の服も、まさにそういうものばかり。
調理済みの食品を売る店もある。中には量り売りしている店もあるようだが、串焼肉のようにその場で食べるようなものが多い。ここの客層に適しているからだ。
「騒がしいところですな」
遠く離れたところから、まるで大波が打ち寄せたかのような歓声が聞こえてきた。
供として俺の後ろについてきたマツツァが、口元を歪めて首を振る。
「これも庶民の娯楽だ。とはいえ、自分としても、いい印象はないな」
帝都の南東部、競技場のすぐ近く。今日も暑い中、熱いレースが繰り広げられている。この街に暮らすのは、多くが港湾の肉体労働に従事する人々だ。この辺の家は三階建てばかりなのだが、その最上階に他所から来た若い人が住むものらしい。もちろん、大半は独身男性だ。
つまり、ここは彼らのライフスタイルに合わせた街だ。帝都の市民権がなかったり、或いはなんとか手に入れたものの、おいしい仕事の席はなく、これといった技能もない。自分の若さと体力だけが売り、といった男達。ただ、本当の底辺労働を移民が受け持つ帝都では、彼らの身分もまだ底辺とは言えない。市民権保持者なら、数年の経験を積めば、現場の小頭程度には出世できる。
それでも基本的には単身者ばかりでもあり、また彼らの住居が狭小なのもあって、家事の一部を代行するようなサービスが提供されている。だから出来合いの料理を売る店が多いし、洗濯屋なんかもあったりする。ただ、この辺は特に、その場で食べられるスタイルの、いわゆるファストフード店が目立つ。あとは、ちょっとした居酒屋か。
居酒屋といっても、もちろんこぎれいな場所なんかではない。一階部分は壁がなく、特にこの時期にはカーテンすらなく、外から丸見えだ。打ちっ放しのセメントの床に、古びた木の椅子が雑に並べられている。そんな薄暗い空間に、今はポツポツと年嵩の男達が座っていて、静かに酒を呷っている。だが、あと少しして、今日のレースが終わったら、うまいこと馬券を当てた連中が大挙してやってきて、飲み騒ぐのだろう。
こういう生活感のある空間は、本来、俺の好むところだ。キレイに整えられたお金持ちのための高級ホテルより、そこに住む人々の息遣いを感じられる庶民的な街並みの方が、ずっと気持ちが安らぐ。
但し、競馬場はダメだ。あれだけは好きになれない。前世の父が、ことあるごとに通っては散財し、母と揉めていたことを、どうしても思い出してしまう。そういう意味では、酒にもあまりいい思い出がないのだが、残念ながら、料理と切っても切り離せないものなので、こちらはある程度、受け入れるしかない。
「ここから少し運河寄りの方になります」
「案内してくれ」
「はっ」
少しだけ西に向かって歩くと、競技場付近の商店街は途切れ、ただの住宅地に差しかかる。ただ、あちこちに大きな倉庫のようなものが建っているおかげで、朝早い時間ということもあり、歩く場所を選べば日陰に留まることができた。
「あの公園の向かいにあるのが、そうだと思います」
マツツァが指差したところには、果たして木々に囲まれた四角い公園があり、そこから一段高いところに四階建ての幅広の建物が聳えていた。一見すると立派だが、赤紫色の屋根瓦も、どことなく古びて見える。近付いてみると、なんとなく不安にさせられるものを感じてしまう。
違和感の原因を探すと、まず窓に気付いた。真夏とはいえ、朝早い時間なのだから、窓を開けているのは自然なこと。ただ、木の窓枠は古びていて、白いペンキが剥げかけている。風にたなびくカーテンも、真っ白とはいえなかった。庇の突き出た玄関先も、どこか殺伐としている。観音開きの扉は開けっぱなしで、中は薄暗い。
「デモ隊はまだ来てないようだな」
「昼前には来るんでしょう。それまでは施設側もいつも通り、といったところではないかと」
俺は、右斜め前に聳える施設の建物を見やりながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
ギルやウィーはもう、この現場に到着しているだろうか? ともあれ、俺としては彼らと相談しないという選択肢はない。できれば、こちらから金を払ってでも退職してもらった方がいい。
なぜなら、状況がどうもおかしいからだ。
まず、直接のきっかけ。俺が正義党と手を結び、タンディラールに与えられたティンティナブリアについて、帝都に属するものと宣言したという噂。もちろん、こんなのは非現実的な話だ。まるで子供が考えたような雑な物語でしかない。少なくとも、俺の身近にいる人達なら、それがノーラやフィラックであれ、またヒジリであれ、本気にするようなのは一人もいない。
だが、これを真顔で受け取る可能性のある人々がいる。誰よりタンディラールがそうなのではないか。なぜなら、彼は俺の異常な能力を知っている。彼の中での俺は、サハリア東部の三十年に渡る対立を、赤の血盟の圧勝で終わらせた怪物なのだ。そして、俺のものの考え方にウェルモルドと似通ったところがある点も理解している。一方で、帝都の理想……自由と平等がそんなに簡単なものではないという現実についての認識があることも、わかってくれてはいるはずなのだが……
この噂が事実となると、赤の血盟はもちろん、ポロルカ王国も浮足立つことだろう。半独立勢力となった俺との関係をどうするか? 少なくともティズなら、タンディラールと敵対してでもこちらにつこうとするだろう。アスガルが敏感に反応したのも、無理のないことだ。
そこまで考えた時、このアホらしい噂を流したのは誰で、何のためかという疑問が湧いてくる。
最も足下に近いところから考えると、やはりクレイン教授とその手下どもとするのが適当だろう。正義党の議員がエスタ=フォレスティア王国に好意的なはずがない。ただ、こんな噂を流すメリットが小さすぎる。なぜなら彼女らは、俺の本当の力を知らないはずだから。世間に出回っている情報から俺の姿を組み立て、可能な限り高く評価したとしても、せいぜい腕っぷしの強い有望な若者、王様に気に入られて成り上がった、といった程度の人物像しか浮かび上がってこない。
俺という存在を、ある種の脅威として認識している誰かにとってでなければ、こんな策謀に意味などない。そして、真っ先に容疑者の中からタンディラールとティズは外れてしまう。二人とも、無意味に俺を怒らせる理由のない人物だ。ワノノマの関係者、オオキミやウナ、ヒジリも俺のことを知っているが、やっぱりそんな真似をするわけがない。神仙の山のクル・カディもそうだろう。
そうなると、神仙の山からの連絡を受け取った帝都。この中に容疑者がいる。
ヒジリから聞いた限りでは、そちら方面の窓口は女神教総主教ということになっているが、現時点でこちらとワノノマとのパイプは機能していない。魔物討伐隊の派遣に関わるギルド本部との関係すら、強固とは言えないのだ。
しかし、この仮説にも穴がある。クル・カディは俺の能力を盗み見はしたが、俺がサハリアで暴れた件については、少なくともこちらから説明などしていない。すると、俺の情報を受け取ったであろう総主教には、このような謀略を仕掛けるための材料が不足していることになる。大きな力を備えているらしいことと、戦場で敵を大勢殺せる能力とは、必ずしもイコールではないから。
つまり、考えられる中での最悪の可能性、それは……
「婿殿、どうなされた」
「いや、なんでもない。行こう」
……使徒の介入、だ。
俺とマツツァが入口に踏み込むと、くすんだ色の半袖の上着を身に着けた西部シュライ人の若者がのっそりと出てきて、俺に掌を向けた。部外者の立ち入りはダメだ、と言わんばかりだ。まだ言葉が不自由なのだろう。
「済まない、デモ隊の人間ではない。ここにギル・ブッターは来ていないか」
声をかけられた彼は、あからさまに面倒そうな顔をして、奥へと引っ込んでいった。勝手に踏み込むのも悪いかと思い、その場にとどまっていると、パタパタと足音が近付いてきた。
「もー、なんで厄介事が」
さっきのシュライ人の声ではなさそうだ。もちろん、ギルでもない。フォレス語で愚痴を吐き散らしながら、こちらにやってくる。声色からして、若者なのは間違いなさそうだ。
「ただでさえ忙しいのに、ったく所長がいないときに限って」
訪問者に聞こえると思わないんだろうか? 思慮が足りない人物らしい。
廊下の向こうから姿を現した時、いったん彼は立ち止まった。あまり背の高さのない、フォレス系の帝都人だ。年齢の割にどことなく幼さを感じさせる顔つきをしている。精悍さがない。目つきと、あとは姿勢のせいだろうか。
「あの、今、取り込んでるんで」
と言いかけたところで、その若者は言葉を飲み込んで、俺の顔をしげしげと見つめた。
俺も少しびっくりしている。
「あの……もしかして」
「コーザさん?」
俺の後ろにいるマツツァに視線を向け、また俺の方を向いた。そして目をパチクリさせる。
人形の迷宮以来の再会だ。まさか広い帝都で、こんな風にバッタリと出会ってしまうとは。
「どうしてここへ? まさか立国党のデモに加わってるとか」
「そんなわけないですよ。ちょっとこちらに来ているはずの知り合いを探しにきただけです」
「ええと……」
しばらく戸惑いながらも、コーザは思考を整理したようだ。
「では、管理室へどうぞ。お茶くらいは出せます」
薄暗い廊下を通って、高い位置に小さな窓があるだけの小部屋に通された。古びたソファが向かい合うように置かれ、その間に丈の低いテーブルがある。隅の方には書類や備品を収納するための棚があった。
出されたお茶は、なんともいえない代物だった。ぬるいのは仕方ないとして、茶葉もろくなものを使っていないのがよくわかる。まるで水溜まりの泥水みたいだと思った。
「えっと、まずは、お久しぶりです」
「こんなところでお会いするとは思いませんでした」
「それで、今日はどんな御用でこちらへ?」
説明しようとして口を開きかけて、いったんやめた。情報量過多。コーザに使徒の話なんか、有害無益だろう。
「こちらに世界融和協会から派遣されたギル・ブッターという人が来ていないかと思って。僕の知り合いで」
「あー、そういうことですか」
彼は首を振った。それから少し考えて、俺に尋ねた。
「その、ファルス君は、正義党の関係者? それとも立国党の」
「どちらともまったく関係ないです。単にギルの知り合いというだけです」
「うーん、ま、いいか。説明するとですね、その、ギルって人が誰なのかはわからないですが、融和協会の人は今、ここにはいませんよ」
はて? 俺が場所を間違えたとか?
そう疑問に思ったところで、コーザが言った。
「だって、ここは半官半民の養老施設ですよ? 公金もらって建物維持して、市民権保持者の老人を住まわせてる場所です。あくまで事業なんです。だから、どこかの市民団体と直接繋がってたりはしないんですよ。うちはうち、他所は他所ですから」
「えっ? でも、ここが今日の仕事場だって、ギルが」
「それはそうですよ。なんか何人かこっち来てくれましたけどね。すぐ出発しました。だってあちらさんのお仕事は、あくまで立国党支持者の過激派がデモの最中に暴動を起こしたりしないか、見張ることなので。この施設を直接守るために来てるんじゃないんです。ただ、デモの最終目的地がここってだけですから」
そこまで言われて、やっと納得できた。
「じゃあ、ここで待っていれば、そのうち会える、と」
「そうですね。昼前には戻ってくると思いますよ」
少し慌てすぎていたのかもしれない。
俺は肩の力を抜いて、ソファの背凭れに身を預けた。




