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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第四十五章 社交の季節
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両手に握るは花か炭火か

 傍から見れば極楽、実は地獄。そういう状況は、あらゆる世界において、少なからず存在するものだ。


「帝都に来て一年半になりますけど、考えてみれば、こうしてお友達のおうちにお邪魔するのは、初めてですわ」

「まあ。私も同じく、一年半もこの街におりますけれど、お友達を自分の部屋にお招きするのは、初めてですね」


 例えば前世の中間管理職なんか、それではなかったか。周囲からは栄転だの出世だのと言われるが、責任は重く、仕事はキツくなる。上司からは成果の達成を求められるのに、部下は不満タラタラ、頼んだ作業もロクにこなしてくれない。それで疲弊する毎日なのに、気付けば手取りは減っている。残業代がつかなくなるからだ。それで毎日奥さんの小言が止まらなくなった……そうボヤいていた知り合いがいたっけ。

 思い出一つ、遠い青空の彼方へと現実逃避したところで、この状況は変わらない。


「それにしても、リシュニア様は日傘もお持ちではないのですね。日焼けしてしまいません?」

「多少の日焼けくらい、気になりません」

「あなたが気になさらなくても、いずれお父様がお決めになる婚約者の方が気にするかもわかりませんよ」


 そう、マリータは日傘を手にしていた。今はそれを頭上に掲げているのだが……


「先のことですし、あまり興味がございません」

「いけませんわ。得てして夫婦の不和というものは、そうした小さなことがきっかけで始まるものです。貴顕の家が無事に保たれなければ、下々の者共も惑わされるのですよ」

「なるほど、マリータ様は今から、まだ顔も名前もわからない、いつか婚約を定められるどなたかのために、熱心に備えておいでなのですね。立派なことだと思います」


 ……日傘の大きさからして、俺は内側に入ってもリシュニアには十分に日陰が届かない。


「あら、私は私で、思うところがありますのよ」

「それはどのような」


 以前のマリータは、はっきり公言していた。覚えている。結婚はしないし、しても婿を取る。王族じゃなくなるなんて、ゾッとするから。公爵領をもらって、あとは好きなことをして暮らせばいい。


「欲しいものは、それがどんなものであれ、何をしてでも手に入れる、ということですわ」


 怖い。

 人間の本質は、やっぱりそうそう変わらないものだ。雀百まで踊り忘れず、というが、まさに。


「それよりファルス様」

「なんでしょうか、マリータ様」

「もう少し詰めてくださる? これではリシュニア様のところまで日傘が届きませんわ」


 そういって肩を寄せてくる。左側にはリシュニアがいて、更にその向こうは、寮の敷地と道路を仕切る煉瓦の壁がある。


「あの、僕が後ろを歩けばいいのでは」

「殿方も、身分によっては無駄に日焼けなどしない方がいいのですよ」

「はぁ」


 見る人が見れば両手に花。しかも、どちらも美貌のお姫様。どこからどう見てもモテモテ、青春を満喫する恵まれた若者の図。

 でも、実際には事実上の敵対関係にある国同士の王女が両脇にいる……針の筵といっていいんじゃないだろうか。

 どうあれ、俺が後ろに退くという提案は成立しようがないらしい。言葉を交わすのは二人でも、俺というクッション抜きには彼女らの対話などやりようがない。


 横を歩くリシュニアが、なんだか微妙に驚きの表情を浮かべて、俺とマリータを見比べていた。なんだ?


「もうすぐ夏の社交の季節になりますけど、そちらは何か変わったことはありました?」

「あら、つまらないお話をなさるのですね。そんなのは私がいちいち指示を出したりはしませんのよ。よきに計らえ、ですわ」

「それでは皆さん、お困りでしょうに」

「逆ですわ。私は出しゃばらず、必要なところで顔を出して、お客様のお相手をするだけ。あとは皆がやりやすいようにやればいいのですから」


 受け答えを聞いているうちに、俺も軽い驚きを感じ始めてはいる。

 なんか、変わった? 我儘放題のお姫様、という印象だったのだが、言葉の端々からは、下々の人々の姿が視界に入っているような感じがする。あの子蛇姫が、よくもまぁ、立派になったものだ。


 グラーブのような、自ら主導して物事を進めるリーダーシップは、それはそれで自然なものだし、何か悪いわけでもない。だが、彼女の言う通り、実務そのものからは手を離す君主のありようというのも、間違っているとは言えないのだ。それぞれ一長一短がある。

 ただ、これは境遇の違いが大きいのかもしれない。グラーブは、事実上の唯一の王位継承者だ。だからなんでも自分でこなせなければいけない。一方のマリータは、兄のルターフが王位を継ぐことがほぼ確定している。ある意味で気楽な身分だからこそ、敢えて手綱から手を自由にして、乗っている馬に行き先を委ねることができるのだ。


「それよりファルス様」


 そう言いながら、ついにマリータは俺に肩をぶつけ始めた。押されてリシュニアの肩にも俺の二の腕が触れる。ぶつけられるのは仕方ないとして、俺がリシュニアに触れるのは、どう考えてもまずい。

 内心で対応に悩んでいると、リシュニアが口を開いた。


「そうですね。私も次から日傘を持つようにします」

「それがいいかと思いますわ」

「今年は特に日差しが厳しいようですし、傘をこちらに寄せていただけますか」

「これ以上は届きませんわよ」


 すると、あろうことか、リシュニアが俺の左腕に肩を寄せた。


「そこをもう少し、寄せていただけますか」

「仕方がないですね」


 すると、マリータまで俺の腕をグイと掴むと、ガッチリホールドして抱き寄せた。


 両手に花が完成してしまった。でもこれ、どういう状況なのか。こんなことなら、事前に詠唱抜きで魔法を使えるように準備しておけばよかった。二人が何を考えて、どういう駆け引きをしているのか、サッパリわからない。

 先に俺の腕を掴んできたのはリシュニアだが、彼女が俺に特別な感情を抱いている可能性はまずない。誰にでも微笑む、初恋の人候補ナンバーワンの八方美人だから。ゆえに、こうした行動に出たのは、マリータに対して何か思うところがあるからだ。

 あれか? シモール側に俺を奪わせないという意思表示とか? 欲しいものは手段を択ばず手に入れるとか、直前に言われたわけだし。だとしても、普段のお淑やかな態度からは想像もつかない過激さだ。何がどうなっている?

 マリータはマリータで、わけがわからない。仮にも領地まで与えられた隣国の貴族が、それこそ地続きでもないのにそちら側の国に鞍替えなんて、できるはずもないだろうに。仮にそうするとしても、そんな重大な判断を、たかが女の色香一つで決められるわけがない。

 二人は表向き、フォレス語でやり取りしているが、その実、俺には分からない言語で会話している。


 理解できない。怖い。理解できないものは怖い。誰かに目撃されたらまずい気がする。怖い。

 助けて。助けて、ヒジリ。


 左手の壁が柵に代わり、青々とした芝生が視界に広がる。確か、ここがリシュニアの暮らす寮だ。それとケアーナもここで生活しているはず。


「着きました」


 やっと手を離してもらえた。


「ふと思ったんですが、あの」

「はい?」

「ここ、女子寮なのでは」


 帝立学園の寮だが、実は学園が直接運営しているものではない。帝都の業者が学園側の認可を得て、自前で営業している。だから、どれだけの生徒を受け入れるか、どんな価格設定をするか、すべて自由だ。なら、一般の賃貸住宅とどう違うのか、という話になるのだが、入居できるのが学生だけに制限されること、一定以上の品質と安全を確保すること、利益の一部を学園に上納しないといけないこと、その代わり学生数が減る年度にはそれが戻ってくることなどの条件がついてくる。

 そして、ここは上流階級の女性限定の寮だった。脇を見ると、目立たないが黄土色の四角い建物が門の脇にある。守衛の詰所だろう。


「少々お待ちくださいね」


 俺とマリータを残してパタパタと駆けていき、出てきた守衛に二言、三言を告げると、またリシュニアは戻ってきた。


「日暮れまでにここを出るか、マリータ様と一緒に出てくるなら構わないそうです。ただ、どちらにしても夕食の時刻になる前には出ないといけませんが」


 差し詰め、高級サービスアパートメント、といったところか。

 一階部分に踏み入ると、まずひんやりとした空気が頬に触れた。何かのお香が焚かれているのもあって、すっと世界が切り替わる。玄関のすぐ前に小さな噴水があり、いかにも涼しげだ。長方形の窓があるが、どれも小さいので内部は薄暗い。それを補うかのように、一定間隔に燭台が設置されている。

 通路の部分は黒大理石で覆われていて、高級感がある。まるでホテルのフロントのような受付があって、職員らしき女性がじっと立って目を伏せていた。玄関付近を離れると、壁が一面ガラス窓に切り替わるのだが、そこはカーテンに覆われていた。やたらとガランとしている中、やたらと台座のようなものが並び、その上には高級そうな壺とか、彫像のようなものが置かれていた。

 リシュニアに続いて歩くと、ぐるりと建物の内側を一周するような格好になった。そちら側のガラス窓はというとカーテンを掛けられておらず、外の光が入るようになっていた。そして、こちらの空間については、余白を埋めるためのオブジェなどなく、ソファとテーブルが置かれていた。察するに、季節に応じて配置を変えるのだろう。

 階段を昇ると、半屋外の廊下になっており、北側の壁にはぽつぽつと扉が見られる。その中の一つが、リシュニアの部屋だった。


「中へどうぞ」


 玄関から繋がる先には、広間しかなかった。ここから東西方向に廊下が繋がっている。そして、南側には広いテラスがあった。


「ここでは落ち着きませんから、こちらへ」


 靴を履いたままで過ごすことを想定している住居かと思ったが、それはこの入口の広間だけらしい。右手に進むと、カーテンを潜った先には、靴箱があった。

 そこから先が、居住者のプライベートスペースなのだろう。足下には絨毯が敷かれていて、ソファと丈の低いテーブルも置かれていた。そして、そこには既に住人がいた。


「ただいま、ムトゥルク」


 リシュニアが優しく呼びかけても、その犬はあまり目に見えた反応を返さなかった。

 犬種としては、アイリッシュセッターに近い。大型犬で、体毛は綺麗な深みのある茶色だった。耳や尻尾の辺りだけ毛の量が多く、フサフサになっている。ただ、微妙に毛並みが良くないのと、動作が緩慢なのが気になった。これは世話が行き届いていないから、ではない。


「老犬、ですか」

「ええ」


 犬の前で膝をつき、優しく頭を撫でていたリシュニアが振り返る。


「私が五人目の飼い主らしいです」


 それから彼女は立ち上がった。


「あの、もしかして」

「はい。従者も使用人もおりません。今、お茶を用意しますね」


 それで俺は、取り残されたムトゥルクに目を向けた。人間を見ても、特に反応はなかった。喜ぶでもなし、怯えるでもなし。手を伸ばしても、動こうとしなかった。頭を撫でてみると、されるがままだった。

 態度には出さなかったが、溜息が出る思いだった。この犬は、とっくに人間に失望している。だが、生まれつきそうだったはずはないのだ。老犬になるまで生き延びることができたのは、帝都の犬としては幸運だった。けれども、最初の飼い主がいなくなり、次の飼い主もいなくなって、愛着の対象が次々姿を消していくのを目の当たりにして……そうして、信じるのをやめた。愛嬌を振りまく意味もない。人間どもは勝手にやってきて、勝手に喜んで、勝手にいなくなる。


 俺が撫でるのをやめても、彼は相変わらず寝そべったままだった。


「お待たせしました。どうぞ」


 ムトゥルクの毛色のように深みのある色合いの紅茶が運ばれてきた。


「なんだかさっきから申し訳ないですね」

「えっ?」

「殿下は仮にも一国の王女なのに、一日のうちに一度ならず、二度までもお茶を用意させるなんて」


 俺の発言に、一瞬真顔になったが、すぐまたいつもの当たり障りのない微笑を浮かべた。


「せっかく帝都にいるのですから、その辺は気になさらないでください」

「建前でしょう」

「ええ。でも、帰国したら、もうその建前もなくなってしまいます」


 このやり取りを横目で観察していたマリータが、矢のような鋭さで口を挟んだ。


「難儀なことですね」


 俺の代わりにムトゥルクを撫でさすりながら、彼女は言った。


「頭の中身を切り替えてはいかが? 私とて王族に生まれたことに重苦しさを感じなかったわけではないのですよ? でも、そこから逃げ出したいと願って、逃げ場などありまして? 世界のどこに行こうとも、フォレスティス王家の名はついてまわりますわ」

「仰る通りです」

「発想が貧困なのです。王族に生まれるのと、庶民に生まれるのと……仮に庶民の方が幸せだったとしても、どうせなりようなどないのですから。でしたら、いかに王族として自分が満足できる日々を送るか。割り切ってできることを、なぜ、どうしてではなく『いかに』と考えた方が賢明でしてよ」


 彼女の返答に、リシュニアは微笑と沈黙で応えた。

 マリータの述べるところは、半ば正しい。本人の言うように、それは賢明でもある。と同時に、彼女が骨の髄まで王族なのだと再確認できる言葉でもある。だって、そっくりそのまま反転したら、どういう言葉になる?


『考え方を変えろ。お前らは庶民に生まれたのであって、王や貴族ではない。我らが富み栄えているのが羨ましいとしても、我慢せよ。こちらを見るより、農民としてどうやって自分の暮らしに納得するかを考えよ』


 こんな風に言われたら、憤る人が大半ではなかろうか?

 それに、この思考回路はうまく使わないと、ただの現状追認になってしまう。運命に逆らうべきか、それとも受け入れるべきか。どちらが正解で、どちらが間違いということはない。


 リシュニアも、自分が恵まれた身分であろうことは、重々承知しているはずだ。ことに帝都では、母国にいる時とは比較にならないほど、庶民と近いところで生活するのだ。その庶民からすれば、顔と名前を知らないうちは、せいぜいのところ「いいとこのお嬢ちゃん」でしかない。そこでもし名乗りをあげれば、驚きと緊張を伴う空気の変化を感じ取ることになるだろう。自分の身分がどれほどの衝撃を齎すか、それを実感しなかったはずはない。


「それはそれとして、ファルス様は」


 マリータが俺に話を向ける。


「お茶がお好きなのですか?」

「好き……まぁ、好きですね。ただ、今はもっと他のものに夢中です」

「他、と言いますと」

「コーヒー、です」


 こう言われても、二人ともその存在自体、知らない。


「わからないとは思います。でも、あと何年もしないうちに、この世界を征服する飲み物になるでしょう。楽しみにしていてください」


 そうだ。試作品の状態ではあるが、手元にはまだ豆もある。


「うちにあるので、殿下、よろしければ今度、少しお譲りしますよ。試しに味わってみてください」


 俺はリシュニアの方を向いてそう言ったのだが、反応したのはマリータだった。


「献上品でしたら、喜んで受け取りますわ」


 これには、俺もリシュニアも軽く噴き出した。

 なお、その間もマリータはムトゥルクの頭を撫でさすり続けている。


「あと一年半しかないのですよ」


 鋭い口調でマリータは言った。


「思い残すことがないように、今のうちにできることはやりきってしまうのですね」

「そうです、ね」


 リシュニアの視線がムトゥルクに向けられた。


「そういう意味では、この子に感謝ですね。犬を飼ってみたいと思っていましたから」

「ああ、いやですわ、そういうところが」

「と仰いますと?」


 するとマリータは身を起こして、相変わらず寝そべるままのムトゥルクに覆いかぶさるようにして掴みかかった。


「この子ときたら、何をしても無反応ではありませんか! もっと愛嬌のある子がいくらでもいたでしょうに」

「愛嬌のために、また新しい子犬を買い取って、帰国する時に誰かに押し付けるくらいなら」

「偽善ですわ」


 身を起こしてから、彼女は言い放った。

 なんともとげとげしい言葉のチョイスだ。ただ、それが彼女らしいといえば、そうなのだが。耳障りではあるものの、慣れればそれが悪意のこもったものではないとわかってくる。


「どう足掻いても、あなたがかわいがるために犬を欲しているのでしょう。どんな犬でも、飼い主が居場所を定め、食べる物を決め、いつ散歩に連れていくかを選んでいるのです。子犬を新しく飼うのは残酷で、老犬を引き取るのは残酷ではないなんて、そんなことがあるものですか」


 人間が人間の都合で犬を囲い込むのだ。それはひとえに自分の欲望のため。なのに、そこに一握りの配慮を混ぜ込んだだけで、その強欲さを洗い流せると思うのか。

 実に正論ではある。剥き出しの刃物のように、容赦がない。


「あの、殿下……マリータ先輩?」

「なにかしら」


 ただ、そうなると俺としてはツッコミを入れずにはいられない。


「仰ること、まったくごもっともなんですが、では、先輩は公館でご自分の犬を飼ってらっしゃったりはするんですか」

「いいえ? 私、合理性のないことはしたくありませんもの。犬というものは、誰より自分を世話してくれる人間に懐くもの。ですけれど、私が犬の相手をできる時間は限られていますから、散歩に連れていくなどの時間のかかることは、召使達の仕事になってしまいます。召使達は、そこまで犬が好きでなくても、私のために犬の世話をするのです。それなのに、犬が最も愛するのは私ではなく、彼らになってしまう。まったくばかばかしいことですわ」

「ええ、まぁ、そうでしょうね」

「何を仰りたいんですの?」


 俺は肩を竦めて答えた。


「今の飼い主にも愛想を振りまかない老犬に誰より構っている先輩が、偽善だなんだと言っても説得力がないというお話ですよ。欲しいものなら、手に入れればいいじゃないですか」

「言ってくれましたね!」


 ほら、怒ったフリだ。

 それにしても、四年前と比べると、随分な変化ではないか。根っこのところでは子蛇姫らしさが見えるのだが、まさかこんな風になるとは思っていなかった。


 出されたお茶を飲み終える頃には、窓の外が茜色に染まりつつあった。


「今日は急なこともあって、あまり時間がありませんでしたね」


 守衛に叱られないうちに、特に俺は帰らないといけない。そういうことなら、と俺もマリータも立ち上がった。


「ここまででよろしくてよ」


 建物の一階の玄関のところで、マリータがそう言うと、リシュニアは意味ありげな視線を彼女に向けた。俺でさえ引っかかりを覚えるような。


「あと一年半、でしたね」

「え、ええ」

「たとえ徒花にしかならなくても、願いは叶えてしまわないといけませんね」


 それから俺に目を振り返った。


「そのうちにお供の方が追いついてくるかと思いますが、それまではマリータ様をお送りしていただけませんか? 治安のいい帝都とはいえ、お一人では」

「わかりました」

「ふふっ、今日は楽しかったです。ありがとうございます」


 それで、俺とマリータは女子寮を後にした。

 これ、暗くなる前に帰りつけるだろうか。また遅くなって、ヒジリを待たせたらと思うと、少し落ち着かない。


「何を考えていらっしゃいますの?」

「えっ?」

「きっと他の女性のことでしょう?」


 勘が鋭い。もっとも、俺が感じているのは不安とか負い目であって、愛情とかそういうものではないのだが。


「ですけれど、仮にも目の前に淑女がいるのに、他所の女性に気を取られるのは失礼極まりないと思いませんか」

「ははは」


 もう、そういう芸風だと思っているから、笑って流してしまう。それで文句も言われない。


「あと一年半で卒業、帰国ですか」

「ええ」


 前を見て歩きながら、マリータは呟いた。


「無為な半年間でした」


 半年?

 だが、深く考える前に、彼女は振り向いて言った。


「お淑やかそうな顔をしておいて、随分な女狐でしたわ」

「はい?」

「でも、これは悪口ではありませんからね」


 わけがわからない。女狐なんて表現は、悪口でしかありえない。それにリシュニアが女狐? あのやり取りの中で、何がそういう要素だったといえるのか。


「ファルス様は、今年は保養地に行かれるのですか?」

「そうですね」


 少し考えて、返事をした。


「本当は、領地の方が気になります。みんなに任せきりにしてきて、こんなところで遊んでいていいのかと、いつも気が咎めるのですが、これも務めと思うしかありません」

「噂では、ティンティナブリアは相当に荒廃しているとのことですけど、やはり余裕がないということですか」

「そうでした。去年までは」

「去年までとは?」

「とにかく食糧不足が深刻だったのですが、どうも今年の春から劇的に改善したようなので、夏休みの間に無理して帰らなくてもよくなったようです」


 マリータは頷いた。


「それでしたら、何も気にする必要はありませんわ」

「そういうものでしょうか」

「ええ、そういうものです。高貴な立場の人というのは、何か問題が起きた時に出ていって、責任だけとればいいのです。何もない時まで居座られると、それはそれで窮屈だと思われてしまいます」


 そうかなぁ……自分の場合は当てはまらない気がする。支配者らしい支配者になりきれていないから、というのが大きいのだが。

 もちろん、それでもなんでも、何かあった時の責任だけは、ちゃんと引き受ける覚悟はしているが。領地をタンディラールに返すまでは、一切が俺自身の問題だ。


「来年は千年祭ですから、悪くすると、私にとっては最後の夏ですし」

「ああ、今年までとは比較にならないほど、人が集まるでしょうからね」

「ええ。よそ行きの顔で、朝から晩までお付き合いをして。気が付いたら日が暮れて、いつの間にか夏も終わってしまうのでしょう」


 東に向かって大通りの脇の歩道を歩いていると、前方から数人の人が、こちらめがけて近寄ってきているのに気付いた。


「あれは、お供の」

「お迎えがきてしまいましたね」


 足を止めると、彼女は握り拳を作って、俺の胸を軽く叩いた。


「つれないにもほどがありますよ」

「はい?」

「私とお話したって、何も起きなかったでしょう?」


 入学式以来、ずっと接点がなかったことを「つれない」と言っているのだろうか。ただ、こちらからマリータに接点を持つ理由がなかった。ただそれだけなのだが。


「確かに、ペン先で刺されたりはしませんでしたね」

「ひどい人。私、ファシエには悪いことをしましたけど、あなたを傷つけたことはありませんでしたよ?」


 そろそろお別れだ。

 彼女は最後に挨拶した。


「夜の浜辺で月を見上げるのもいいかもしれませんね……ではまた、近いうちに」

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― 新着の感想 ―
エスタ=フォレスティアとシモール=フォレスティアそれぞれの王女様が、片方の自室に招かれてお茶をするって歴史的にも類を見ないかなりレアな出来事なのではないでしょうか あとリシュニアの >「なるほど、マ…
やっぱりノールと結ばれてほしいと思う今日この頃 授業中手元にタブレットを隠していつも呼んでいたのですが最近友達が増えるにしたがい煽られつるし上げられることが多くなり辛いです。3人は道連れにしてやりあ…
[一言] 二歳でマザーファッカーになって将来有望だったファルス君の繁殖能力がこんなに衰えているなんて・・・。
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