陳情は却下
夕暮れ時までは、まだあと少し。廊下の窓から見渡す校庭は、僅かに黄みがかってはいるものの、まだまだ青い空の下で、じっと大地を圧する陽光に耐えていた。
真夏の帝都は、時折、信じられないほど蒸し暑くなることがある。特に今日がそうだ。風の流れもないと、身を包むこの空気が、まるで押し付けられた布団のように暑苦しい。掌で扇いでも、人肌と変わらない温さの弱々しい風が頬に触れるだけ。
この後の面倒な用事がなければ、このまま急いで帰って、水風呂に飛び込みたいくらいだ。
「来たわね」
廊下の突き当たりから外に出て、半屋外になる連絡通路に出ると、声をかけられた。腰に拳を当てて肩を怒らせながら、マホは俺が来るのを待っていた。別に不機嫌というのではなく、そうでもしないと肩に提げた鞄がずり落ちてしまうのだろう。
「元気だな」
「当然でしょ。些細なことでも、これも帝都の正義のため、よ」
肩にかけていた鞄から小さな本を取り出し、また肩にかけ直すと、彼女は俺に告げた。
「ここからまっすぐ行けば、研究棟だから」
そして歩きながら、なんと読書を始めた。
「お、おい」
「なに?」
「前を見ないと危ないぞ」
「いいんじゃない? 人通りなんか滅多にないし。いつもこんなよ? だいたい歩いてるからって頭を休ませるなんて、もったいないじゃない。人にぶつかりそうになったら、あなたが止めてくれればいいんだし」
いつも歩きながら本を読んでいるとか、こいつはなんなんだ。前世は二宮金次郎だったとかじゃないだろうな。俺は別に怒らないけど、他の人相手でも同じことをしているとしたら、さすがに失礼じゃないか。
そんな感想を抱いて、俺は呆れて溜息を洩らした。
「それ、何の本?」
「これ? 社会運動史。帝都の八百年代の社会運動と、その思想背景について。復興期を終えて、ようやく帝都が帝都らしくなった時期のお話よ」
「帝都らしくって、どういう意味?」
そんなことも知らないの? と言わんばかりにマホは肩を竦めた。
「偽帝のせいで帝都がメチャクチャにされたでしょ? だから、不本意ながらも、しばらくは帝都が本来の理想を脇に置いていた時期があったということ。自由や平等を後回しにして、海賊なんかと戦ってばかりいた野蛮な時代もあったのよ。そこから立ち直って、社会正義が取り戻され始める誉むべき時代の、まぁ、詳細な記録」
「そんなに勉強ばっかりして、何をしたいんだ」
マホはあからさまに軽蔑の色を浮かべると、本を鞄に放り込んだ。
「だから、帝都の理想の実現、よ。全世界に自由と平等が行き渡るまでは、声をあげ続けなきゃいけないの」
声をあげ続ける、か。
なんだか妙に引っ掛かりを覚える。
「あなた、小耳に挟んだけど、今、ティンティナブリアの領主なんでしょ?」
「ああ」
「恥ずかしいと思わないの?」
「えっ? 何が?」
恥ずかしいかと言われれば、まぁ恥ずかしい。復興途中の領地を任せきりにして留学なんて。でもそれも王命だし、領地の再生のために私財もつぎ込んでいるのだし、言い訳できないほどでは……
と思ったら、斜め上の叱責を受けてしまった。
「どこの国の領土であれ、元はと言えばすべて帝国、統一国家に属するべきものでしょう? どうして王に仕えているのよ」
「いや、それはだって、僕はタンディラール王から爵位を授けられて、ティンティナブリアに封じられたんだし」
「その王の地位だって、要は六大国、つまり皇帝の承認があってはじめて意味をなすのに、どうして帝都より王国を優先して考えるのよ。本末転倒じゃない」
いやいやいや。何をメチャクチャ言ってるんだ?
「常識で考えてくれ。そんな勝手なことをしたら、陛下は当然お怒りになる。諸侯の軍勢を率いて領地に攻め入ってきたら、大変なことになる」
「ええ、大変ね。でも、できっこないわ」
「どうしてわかる」
さすがにそんな、帝都に鞍替えするので独立します、とか言い出したら、普通なら反逆者として討伐されかねない。俺がやる分には、彼も直接的な武力行使は検討しないかもしれないが。
「あのね、帝都の一部になるって宣言したのに攻め込むって、世界秩序への反逆よ?」
「はぁ」
「だからできるわけがないの。なのにどうして帝都に帰順しないのかと言ったら、貴族の身分が惜しいからでしょ?」
「いや、何を言ってるのか」
論理的に破綻している。
タンディラールが帝都の秩序を重んじない悪王である、とするなら、俺が仮にティンティナブリア全域をパドマ領であると宣言したところで、そんなの彼がまともに受け取るわけがない。なぜなら彼は悪王だから。現に王国を帝都に捧げていないのだから。
チーレム島には攻め込んでいない、ティンティナブリアはフォレスティアの一部として皇帝の委任の下、フォレスティア王が統治すると定められている、反逆者ファルスは帝都の正義を口実に謀反を企てたゆえに討伐した……なんとでも言える。
だいたい、そんな理屈で世の中が動いているのなら、とっくに世界は再統一されている。
「それは死ねと言ってるのと同じだ」
「身分をなくしたら死ぬの? 贅沢病だわ」
「首から上をなくすと言ってるんだ。それだけじゃない。戦争になったら領民も大勢死ぬんだぞ」
無論、そんなことにはならない。なぜなら、そんな理由で俺が戦うなんて絶対にありえないから。
「領民のせいにするの? 搾取だわ」
「搾取?」
「ええ、搾取よ。財貨を搾り取るだけでは飽き足らず、言い訳まで領民から調達するのね」
もはや開いた口が塞がらない。
「あなたの貴族の身分は、領民への搾取によって成り立っているのよ。罪悪感というものがないのかしら?」
オディウスみたいな圧政を敷いているならそう言える。でも、俺は一応、領地に居座る盗賊団を壊滅させたり、整備がおろそかになっていた道路を再建したりと、できることはやってきたんだが……
しかも今は絶賛免税期間中だし、何も搾取してはいないはずなのだが、なんかえらい言われようだ。
「それとも、後押しでもしてもらえなきゃ、覚悟も決められないの?」
「そういう問題じゃない」
「帝都にもね」
軽蔑の情を隠そうともせず、マホは吐き捨てた。
「騎士だの貴族だのってのをありがたがる、頭の軽い女がいることはいるの。情けないったらないわ」
なんだか、前世で初めて蛇肉を食べた時のことを思い出した。こちらの世界では先日味わったばかりだし、大森林でも他になければ食べていて、もう慣れがあるから何とも思わないのだが……あの時は、どうコメントしたらいいかわからなかった。とにかく馴染みがない味と歯応え。水っぽさが気になるくらいで、あとはおいしくもまずくもない。
マホの悪態は、俺にとっての蛇肉だった。俺は貴族で、だから領民を搾取する圧制者らしい。だけど、今日、俺は何のために彼女と待ち合わせていたのか。他の陳情と併せて、料理講座の創設についてもザールチェク学園長にお願いするために足を運んでいる。つまり、ある意味で俺はマホの協力者のような立場なのだ。これから学園長にあれこれ提案して、要求を受け入れさせようとしているのに、同じ陣営にいるはずの俺に罵詈雑言を浴びせるとか、こいつの頭の中はどうなっているのだろう?
怒りとか不快感とか、それ以前に、まるで理解できない。鳩に豆鉄砲だ。
「ここ」
言われて立ち止まった場所は、まるで要塞のようだった。煉瓦ではなく、ここだけは石積みで、入口付近はそれこそ砦の出城みたいに丸みを帯びている。その真ん中に、重そうな金属の扉が据えられていた。
「これを……よっ!」
小柄な鳥ガラボディゆえか、非力なマホには、この扉を引き開けるのも難しいらしい。俺は上から手を伸ばして、ぐっと引っ張った。暗い廊下の向こうから、冷たい空気が流れ出てきて、一瞬、我を忘れた。
「ふ、ふん、行くわよ」
薄暗い廊下だった。左右にも金属の扉がいくつかあるが、いずれも固く閉ざされている。高い位置に外の光を取り込むための小さなガラス窓があるが、それも直射日光が差し込んできているのでもないようだ。
前にも来たことがあるのだろう。マホは迷わず、突き当たりの扉の前に立ち、ノックした。
「失礼します」
入っていい、という返事など待たず、マホは扉を押して中に立ち入った。
一転して、視界は煌びやかな光に塗り潰された。左右には棚が何段にも分かれて据えられていて、そこにぎっしりといろんな物品が置かれている。何かの鉱石、どこかから持ち込まれてきた古代の石板、乾燥させた花びらを詰めた瓶……整頓は行き届いているようで、足の踏み場もないということはないのだが、一気に道幅が狭くなったような感じがする。
フシャーナはというと、建物の中こそ涼しいものの、外は真夏の暑さだというのに、いつものように黒い外套を身に着けたまま、俺達の入室にも拘わらず、背を向けたまま、机に向かって何かを熱心に書き続けている。
俺は物珍しさもあって、左右の品々を見比べながらゆっくりとマホに続いていたのだが、ふと、とある物品に目が留まった。
それは奇妙な卓上用の鏡だった。大人の掌より少し小さいくらいの大きさで、角が丸みを帯びた縦長の六角形だ。その横の角のところに支えになる金属の軸があるのだが、それは鏡の後方へと湾曲していて、その先に、まるでバッタの胴体のような形のパーツが繋がっていた。これはただの比喩ではなく、本当にその胴体から極細の足のようなものがМ字型に突き出ていた。その先端はピンセットみたいに細いが、よく見ると何か釣り針の返しのようになっている。また、胴体の背中のところには、小さな翅のようなものまでついている。
随分と悪趣味な鏡だ。いや、案外、昔の南方大陸の物品だったりして。虫を模した服があるくらいだから、そういう小道具があっても不思議はない……
「それに触らないで」
背を向けたままのフシャーナが鋭く言い放つ。思わず興味から身を乗り出していた俺は、慌てて手を引っ込めた。
そんな俺を一瞥し、また前に向き直ったマホは、勢いよく歩いて、教授の真後ろに立った。
「教授」
「なにかしら」
振り向きもせず、手の動きを速め、あるところで断念したのか、ペンを置いて、いかにも嫌そうに振り返った。その視線が一瞬、マホの後ろにいる俺に突き刺さる。
「陳情に来ました」
「また?」
やっぱり、という思いだった。こうやってしつこく学園長相手に「声をあげる」活動を繰り返してきたわけだ。
それにしても、学内の改革をするべきとして意見を通したいなら、むしろクレイン教授が自ら進言するのが筋ではないか。それをしない辺りに、彼女のいやらしさを感じてしまう。マホに自覚があるかどうかはわからないが、教授の中では捨て駒なのかもしれない。
「今日は新しい陳情もあります」
「そのようね」
また、俺に視線を向けてくる。その目つきがやけに鋭い気がする。
「この学園には、調理室はありますが、料理講座がありません。その創設を、ファルス君は要求しています」
「……どうして? 何のために?」
「それは」
俺が説明しようと口を開きかけたところで、マホが一気にまくしたてた。
「これは素晴らしいことです。ファルス君は男性で、しかも貴族の身でありながら、既存の性役割を超えて料理を学びたいと言っているのです。長らく、特に西方大陸では、料理は女性の仕事、それもあまり敬意を払われないものとされてきました。平等の理想を掲げる帝都、その帝都を代表する学園としては、このような要求には前向きに対処するべきだと考えます」
こいつは何を頓珍漢なことをほざいているんだ……
そう思わずにはいられなかった。正直、これには苛立ちを覚えてしまった。
まず、俺自身は、別に料理を女の仕事などと認識していない。むしろ、客商売としての飲食業は力仕事、肉体労働であって、女性向きとは言えない。熱々のスープでいっぱいの寸胴鍋を持ち上げる時に手を滑らせたらどうなる? それに、女性には生理もある。その体調変化のせいで微妙に味覚が変わってしまうこともあるらしいが、だとすればその点も料理人としては不利なところと言える。
俺には俺の目標があって、料理を学びたい。大半のことは自前でなんとかする。ただ、できれば過去にギシアン・チーレムが残したかもしれないレシピが書庫にあれば……そう、かつてアイドゥス師が治癒魔術を学んだ書庫に、醤油の醸造などについて古代の記録が残されていれば参考にさせて欲しいと、それだけの話だ。
それを勝手に、俺が帝都の平等主義に同調したかのように、こちらの意志を捻じ曲げて伝えるとか、どういうつもりなのか。
「はぁ」
髪の毛を掻きむしって、その手を止めて。
フシャーナは二秒だけ考えて、そっけなく答えた。
「却下ね」
「どうしてですか!」
「論外。考えてみればわかるでしょ? そんな料理講座を用意して、だけど受講生が何人申し込むと思うのかしら。この学園に入学してくる生徒、帝都出身の学生もいるけど、多くは外国のいいところの坊ちゃん嬢ちゃんばかりなのよ。いい家の息子や娘が、自分で料理を習いたいなんて思う?」
マホは引き下がらない。
「思うかもしれないじゃないですか!」
「思わないし、思ったところで意味がないの。国に帰ったらみんな、そのまま主君に仕えるのよ。武官なら剣を手にするし、文官なら政庁で仕事をする。たった三年間だけ料理を学んで、果たして何の役にたてられるのか、聞かせて欲しいわ。第一、故郷にはもう、腕のある料理人が別にいるのに」
肩を竦めると、フシャーナは首を振った。
「例外が一人だけいるからって、わざわざお金をかけて講師を招いたりして、設備も使えるようにして……そんな無駄はできない。学園長として当然の判断よ」
「じゃあ、ファルス君はどこで学べばいいんですか」
「あなた、頭ついてる? この学園には天井もないけど、床もないの。どうしても料理をやりたければ、いっそ授業をサボってくれてもいいわ。卒業はさせてあげるから、好きに修行なさい。帝都の有名料理店でも訪ねて、頭を下げて弟子入りでもさせてもらえばいいじゃない」
「あの」
皿洗いからの下働きも、決して厭うところではない。ただ、恐らく、今の帝都のどの料理店も、俺の求める知識や技術を有していない。
「ちょっといいですか」
「ええ」
「僕は自分で料理の修行はします。ただ、知りたいことがあって、もしそれがあるとするなら、この学園にしかないと考えてのご相談なんです」
「どういうこと?」
俺が俺の考える理由を自分で説明できる機会が巡ってきた。身を乗り出して、力説する。
「これでも僕は、それなりの腕のある料理人のつもりです。だから普通の修行は自分でなんとかできるのですが、ただ、どうしても足りない情報が欲しいだけなんです」
「というと? よくわからないわ」
「具体的には、古代に、ギシアン・チーレムの時代にあったかもしれない調味料を再現したいと思っています。それで、できれば書庫を見せて欲しいと思って」
「書庫?」
そう言葉にしてから、フシャーナは俺をまじまじと見つめた。
「図書館なら、学園の生徒であれば誰でも自由に図書を閲覧していいことになってるわ。欲しいものがあるのなら、そこで探して頂戴」
「いや、あの」
「私から言えることは以上。他に新しい要求がないなら、帰って頂戴」
態度を硬化させるばかりのフシャーナは、ついに椅子から立ち上がると、俺とマホを部屋から押し出してしまった。




