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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第四十五章 社交の季節
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クレイン教授の私邸にて

「な、なぁ」


 ギルが不安そうに声をあげた。


「こんな急に、大丈夫なのか? 偉い人なんだろ?」


 滑るように路面を走り抜ける馬車。学園の北の大通りをまっすぐ東に向かっている。


「平気ですって」


 向かいに座るマホはなんでもないかのように笑顔を返して、小首を傾げた。見る人によってはかわいらしい表情なのかもしれないが、なぜか内心にざらつくものを感じる。いつもカリカリしているイメージしかない女が、こんなにニコニコしているのだ。裏がありすぎて怖い。なんか、前世で見た、宗教の勧誘のために家庭訪問にやってきた女みたいに見える。


 さっき学園の正門を出た時、俺は内心で舌打ちした。だが、今更、馬車に乗りませんなんて言えない。だいたいおかしいだろう? どうしてこんな馬車が……真っ白に塗装された車体、目を引く真っ赤な装飾、だが何より目を引いたのは御者が身に纏う制服だ。要するに、これは帝国の公用車なのだ。


「学園の教授の一人でもあるんだし、ただ学生が顔を出すってだけのことじゃない?」

「そうはいっても」

「クレイン先生は、それはもう立派な方なんだから、心配しなくて大丈夫なのに」


 政治闘争に巻き込まれるのか? だが、ここまできたら、相手の目論見を確かめずに逃げる方がリスクではないか?

 迷った挙句にやむなく馬車に乗り込み、走り出してから、俺は行き先を尋ねた。マホは笑顔で教えてくれた。

 上院議員、ミル・クレイン。彼女は帝立学園の教授の一人であり、現在、帝国議会において政権を掌握する正義党の有力者でもある。そして、これから向かうのは、旧帝都の北東部にある彼女の私邸なのだ。


「クレイン、教授?」

「そう、正教授。もう七十になるわね」

「何を教えてる人だっけ」

「倫理学と政治学。あ、履修は二年次以降になるから、今は直接取れる授業、なかったと思う」


 横目でギルの横顔を盗み見た。そしてそっと唇を噛む。

 俺のせいじゃないのか? ギルは名門の出とはいえ、騎士階級の家の次男坊でしかない。一方、俺は一時的にとはいえ、広大な領土を治める領主だ。議員として、唾をつけておきたいのがどちらかくらい、容易にわかるというものだ。

 俺は最初の自己紹介の時、自分の身分を伝えなかった。平等主義の帝都の理念にかこつけて、一般人っぽい顔をして過ごそうとした。ゴーファトの教えを忘れてはいなかったから。それでも、結局、ラーダイ達との付き合いの中で、俺の身分は知られてしまった。

 そしてマホは、何かのきっかけで俺を引っ張り込むべく、目をつけていた。たまたま今日、公用車が近くに停まっていました、なんてあるわけない。うまくいった時にトントン拍子に事を進められるようにと、事前に待機させていたのだろう。

 クレイン教授とタンディラールの関係がどんなものかは知らないが、多分、好ましい間柄ではないはずだ。もしそうなら、こんな風にギルを介した形で声をかけてきたりなんかしない。


「でも、そんな人が俺らに何の仕事を頼むってんだ?」

「議員でもあり、教授でもあるけど、市民団体の代表でもあるから……まぁ、いろんな人から引っ張りだこにされてるのよ。だから何かにつけ、手が足りてないの」


 馬車が左に曲がる。

 まっすぐ東に向かえば、大富豪の豪邸が建ち並ぶ区域に入るのだが、北に向かうと、そろそろ帝都の外れに差しかかる。低階層の落ち着きある住宅街だ。だが、そのどこかに立ち寄る様子もなく、馬車はまっすぐ北へと走り続けた。

 まだ実際に目にしたことはないのだが、このまま更に北に突っ切ると、帝都の郊外の公園に出ることになる。広大な敷地面積を誇っていて、高台の一部には救世十二星将の石像も飾ってあったりするという。また、市街地に流れ込む運河の上流に位置するので、水路を小舟で渡るデートコースなんかもあるらしい。

 やがて道路の左右に街路樹の姿が見えるようになってきた。夏の夕暮れ時の赤い光に焼かれて、心なしか生気がないように見える。それでいて、垂れ下がった枝の影は、これからやってくる夜を予感させるほどに黒々としていた。


「どこまで行くんだ」

「もうすぐ」


 本当にあとちょっとで公園の入口というところで、やっと馬車が右に向きを変え、小径に滑り込んだ。


 馬車が止まったのは、まさに駐車のための門前のスペースだった。半円形のターミナルのようになっている空間があって、その真ん中に真っ白な門が口を開けていた。そこから続くのは、一見、森の小径にしか見えない無造作な茂みだったが、もちろんしっかり人の手が入っている。帝都の北東部のあの豪邸の数々とは違うが、これはこれで豊かさの印といえるだろう。広大な庭を維持できるだけの財力がなければ、こうはならないのだから。

 入口からは、真っ白な建物が遠くに見えるだけだった。せいぜい二階建ての、決して大きいとは言えない家があるだけらしい。俺達はマホに先導されて、踏み石の上を歩いた。


 夕暮れ時もそろそろ終わりという時間帯。真っ白な玄関に、まるで板チョコのような扉が佇んでいた。マホが呼び鈴を引くと、しばらくして中から足音が聞こえてきた。

 内側から扉が開くと、そこからは若い女性が顔を出した。若いといっても、二十代半ばほどだろうか。飾り気のない長袖の上着にパンツルック。髪の毛も肩に触れない程度に短く切り揃えられている。


「あら、マホじゃない」


 顔見知りだろうか? それから、その女性は俺とギルの方をじろじろと睨め回した。いや、本当にそう表現するしかなかった。キョロキョロしていた、目が泳いでいた、なんてかわいいものではない。なに、こいつら、という心の声を感じ取れるような視線だった。


「こちらの方々は?」


 言葉は一応、丁寧なのだが、だからこそさっき感じた敵意のようなものが引っかかる。


「例の件で。先生に頼まれていたから」

「そう。じゃ、案内しないと」


 扉を大きく開くと、彼女は俺達を招き入れた。


「お連れしました」


 部屋の中に声をかけてから、俺達は室内へと立ち入った。


 そこは広い書斎だった。右側の壁は一面、本棚になっていて、そこにはギッシリといろんな本が詰まっている。左手には丈の低い棚があり、そこはちょっとした収納スペース兼、部屋の飾りになっていた。棚の上にはそれぞれ、南方大陸産の香炉や、東方大陸の壺などが並べられている。その上、壁には長方形の彫刻が架けられていた。緑の木々、絡まる蔦、それがまるで森の中から切り抜いてきたかのように作りこまれている。

 部屋の中央には長椅子が置かれている。恐らく南方大陸で作られたものだろうが、植物の蔓をよく編み込んで仕上げられていた。まるでメッシュ加工のようだ。その手前に置かれている丈の低いテーブルも、装飾はほとんどないが……深みのある、どこか赤みがかったこの色合いは、紫檀だろうか?

 その奥には、本格的な執務のための大きな机があり、一人用の椅子も用意されている。その背後には大きな窓があるようだったが、今はカーテンがかかっていた。


 南方大陸趣味、か。

 そんな風に思った。そこに何かどこか、鼻持ちならないものを感じた。


 重さを感じさせない白亜の建造物は、それ自体はフォレス風に近い。貴族の邸宅と違って、例の大袈裟なエントランスはないが、広大な庭に手間暇かけて形を整えた草木がある。要するに、気取らず力まず、しかも程よく豊か。それなのに、奥の間に立ち入ると、そこは異国趣味でいっぱいだ。

 そもそも、なぜ南方大陸の文物が帝都で好まれるのか? この部屋に立ち入った瞬間、その疑問が浮かんで、またすぐさま氷解してしまったのだ。


「よく来てくれました」


 奥の椅子に座っていたクレイン教授が立ち上がった。

 上院議員という肩書ながら、初めて見る彼女の姿は、普通の老婦人だった。とはいえ、年齢の割には若々しい。その赤毛は、ほとんど男と変わらないくらいに短く刈りあげられている。顔は不思議なほど真っ白で、口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。太りもせず、痩せすぎもせず、背筋もまっすぐだ。真っ白なブラウスに、大胆なデザインの大きな柄のついたロングスカート。五十年前に着ていても違和感のない服だ。

 彼女をどう表現するのが適切か、言葉を紡ぎだせなかった。その辺にいるお婆ちゃん、ないしオバちゃん、と言ってしまってもいいのだ。ただ、それにしては若さを感じるというか。フォレスティアにいる同年代の女性にある何かが、彼女には欠けている。だが、その欠落は、決して能力とか知性とかいったものではないのはわかる。本棚に並ぶ書籍の数々は、決してただの飾りではないのだろうし。


「マホは前からうちに遊びにきてくれていまして。同じ学級に有望な若者がいると教えてくれたので、顔を見たかったのですよ」

「初めまして、クレイン教授。ファルスと申します」

「ギルです。よろしくお願いします」

「まぁまぁ、そんな固くならなくても……そこへおかけなさい」


 何かに似ていると思ったが、少なくともその目つきには心当たりがあった。タリフ・オリムのユミレノスト師。あれにそっくりだ。

 つまり、彼女は何かを企んでいる。勘でしかないが。


「聞きましたよ。ギル君は、前から随分と難儀をしているのだとか」

「お恥ずかしい限りです」


 さて、早速本題らしい。


「冒険者ギルドの雑用では、稼ぎが安定しないでしょう」

「はい」

「であれば、世のためにもなり、あなたの利益にもなるお仕事があります。簡単に言うと、警備員のお仕事なのですけれど」


 はて? 警備員?


「いかがでしょう? 半日で、金貨三枚で」

「そ、そんなに?」

「学業の合間にするお仕事なら、割が良くなくては困るでしょう」


 引っかかる。ただの警備員なら、それこそその辺の冒険者をギルドで雇えば済むはずだ。前のめりになるギルを抑えながら、俺は尋ねた。


「なぜですか? 警備のお仕事というだけなら、ギルドで人員募集すれば、困らないかと思いますが」


 俺の問いに、彼女は小さく溜息をつき、苦笑いを浮かべた。


「一つには、口実を設けて学生を支援するためです。もう一つは……身元確かな人を雇いたい、という事情があるからです」

「と言いますと」

「警備する先の場所なんですが、養老施設なのですよ」

「はい」


 老人ホーム。こちらの世界でそんなものがあるのは、帝都くらいなものだろう。

 なぜなら、フォレスティアでもどこでも、伝統社会の中の老人は、家族と同居するからだ。そして死ぬまで、なんらかの立場で働き続ける。血縁や地縁があるから見捨てられることは滅多にないが、だからこそいずれかの役割を求められ続けるのだ。

 だが、そうした繋がりが希薄な、核家族化が進んだ帝都では、専用の施設がなければ老人を包摂できない。


 なんだか、大都市の下水道みたいだな、と思った。

 流れ込んでくる雨水を、ただ排出するしかできない。農村にとっては恵みの雨でも、都市にとってはただの邪魔な流水でしかないのだ。


「私が正義党の議員であることはご存じだと思うのですが」

「はい」

「近頃は、最大野党の立国党のデモが、その辺りでよく行われます」


 俺は首を傾げた。


「でも、デモでしょう? なにか、死傷者が出るような、そんな危険なものなんですか?」

「滅多にそういうことにはならないでしょう。ですが、万一のことがないように、それなりの抑止力があることを、目で見てわかるようにしたいのです。ギル君は大柄なようですし、うってつけだと思いまして」


 帝都の治安の良さは有名だ。現実問題、ギルが群衆によって袋叩きにされる可能性など、ほとんどないのではないか。ましてや殺されるなど、考えにくい。

 いや? 帝都は安全と思い込んでいるだけで、実は情勢は変わりつつあるとか? 思った以上に社会の分断が進んでいる可能性も考えられる。

 いずれにせよ、クレイン教授にしてみれば、ギルそのものに利用価値などない。あくまで彼を引きずり込むことで、俺まで巻き込もうとしているに過ぎない。


「ただ、待ってください」

「なんでしょうか」

「これは、ただの仕事ではないですよね。半ば政治活動なのではないですか? いえ、もっと具体的にお伺いした方がよさそうです。ギルに支払う賃金は、誰がどんな名目で出すのでしょうか」


 クレイン教授は、俺をじっと見据えて、それからおもむろに口を開いた。


「……ギル君を雇用するのは、世界融和協会という市民団体です。正義党の下部組織でもあります」

「今からそういう繋がりができることが、後々に影響するとすれば、決していいお仕事とは言い切れないですね」

「逆ですよ。公然の秘密のようなものです。帝立学園に入学する意味がどこにあるか。有力者との繋がりを持ち、卒業後の仕事に繋げるためという面も大きいです。で、失礼ながらギル君は、どうやらご実家の方で有利な立場を与えられることもなさそうという状況のようですし……それとも、他に何か、あてにできる先があるのですか?」

「あっ、いや」


 俺が何を気にして割って入っているのか、うっすらと察していたギルだが、話を向けられると、戸惑うしかなかった。


「何もない、けど」

「ええ。後ろ盾がいらっしゃらないだろうことはもう、察しています。であれば、卒業と同時に、帝都の市民としての人生を歩んでもいいのではないでしょうか」

「ただの就職なら、それでもいいでしょう。でも、そのお仕事はギルにとって、納得できるようなものなのでしょうか」

「それを決めるのはあなたではないでしょう」


 それはその通り。ただ、俺が釘を刺したので、クレイン教授も説明をしないでは済まなくなった。これでいい。


「では、正義党の考え方、姿勢と、世界融和協会の目的、普段の活動内容について簡単に説明しましょう」


 彼女は頷き、ギルに向き直った。


「正義党とは、帝都建国の理念に忠実であろうとする政党です……」


 帝都の理念とは、全世界の融和だ。魔王の勢力を相手に戦うが、人間同士は互いに助け合うべきと考える。かの英雄の目指すところを実現するべきというのが、彼らのいう正義だ。

 英雄の目標とは、自由と平等だ。俺の前世の先進国の思想をそのまま持ち込んだような代物だが、ギシアン・チーレムの出自が俺と同じ異世界人という可能性が濃厚なのもあり、俺にとって驚きなどない。


 では、その考え方を具体的な行動に落とし込むと、どういった政策になるのか?

 まず、移民の受け入れには積極的だ。帝都の市民も海外の人々も、同じ統一された世界の同等な人間として扱われるべきだからだ。その割には、移民に元々の市民と同じだけの権利がないという問題があるのだが、彼らの論理では、これは決して不当な差別ではない。なぜなら、帝都生まれの子女であろうとも、一定の基準を満たして市民権を獲得しなければ、正式な市民になれないからだ。つまり、機会平等からのメリトクラシーを是としている。

 このような考え方がベースにあるので、正義党は女神挺身隊の派遣に積極的である。人形の迷宮こそ滅ぼされたものの、まだまだ世界には魔物の領域が広がっている。これらを掃討するために帝都が人員を派遣し、また犠牲を甘受するのは当然だ。それに挺身隊は、あくまで彼ら自身の自由意志に基づいている。帝都としては、何も彼ら隊員に参加を強制などはしていない。ただ、帝都の理念に忠実で、その実現のために労苦を引き受けたら、その見返りに市民権を与えるとしているだけなのだから。

 男性がそうした過酷な選択を迫られるのに対し、女性はみなし市民権を三十歳まで行使できる。一見すると差別だが、これも性差に基づく能力の違いということで片付けられる。目下、少子化が続く帝都では、次世代を生み出す女性を優遇しないという選択はない、という理屈だ。

 自由と平等を旨とするので、権力の暴走は抑止すべきものと考える。ゆえに立法府の優越を重視している。立国党は大統領制の導入を主張し、強い行政府を求めているのだが、正義党はこれに反対する立場だ。強権の行使が許される人がいるとすれば、それは皇帝以外にはあり得ない。

 また、ここまでの政策からすれば自然な選択だが、経済面では自由主義的だ。つまり、貿易その他経済活動について、政府はなるべく介入を行わないのをよしとしている。


「世界融和協会の活動目的は、弱者の救済です」

「弱者、ですか」


 クレイン教授は頷き、口元だけで笑ってみせた。


「ええ。ギル君はセリパス教徒ですか?」

「あっ、はい。神壁派ですが」

「結構です。では、もしあなたの目の前に、身寄りのない貧しい老婆がいて、困っていたらどうしますか」


 ギルは即答した。


「それはもちろん、できるだけ手助けします。何ができるかはわからないし、僕の手に負えることではないかもしれないけど、何もせず見殺しにしたら、正義の女神も僕を見殺しにするでしょう」


 これに彼女は深く頷いた。


「常識ですね。そう、そういう弱者を守るのが世界融和協会のお仕事です」

「っと、でも、守るも何も、じゃあ、なんですか? 帝都は世界一平和だっていうのに、そういう人達をいじめる誰かがいるんですか」

「嘆かわしいことですが」


 そこでクレイン教授は笑みを消した。


「貧しい暮らしを強いられている老婆達に対する公的支援を縮小せよとか、移民を排除せよとか、そういう声をあげる人達がいるのですよ。ですが、そのような立場を受け入れるわけにはいきません。もちろん、暴力で排除するのではなく、議場で争うのですが、それはそれとして、現場で万が一を防ぐために立っていてくれる人が欲しい、ということです。本当に、ただの警備員のお仕事なんですよ」


 そうしてまた、笑みを浮かべると、今度は俺に向けて言った。


「ギルドから人を呼ばないで、高いお金を出す理由も、そういうことです。信用できる人を選ばないと、そもそも警備員の意味がありません」


 つまり、対立する野党の回し者が内部に滑り込んでくるのを防ぎたい、か。

 帝都において、人間関係が希薄で利害の繋がりも希薄なギルに声をかける合理性はある、と言わざるを得ない。


「ファルス君も、よろしければどうですか」

「いえ、その辺は少し検討させてください」

「ふふふ、別にあなたが自分でやる必要はないでしょう? ただ、周りの人で、このお仕事をやってもいいと思う方がいらっしゃったら、紹介してください」

「わかりました」


 と、そういうことか。

 俺自身は素知らぬ顔をしていても、俺の仲間がみんな正義党に首を突っ込んでいたら……


 これ、グラーブ辺りはどう受け止めるんだろうか? 相談しておいた方がよさそうだ。


「先生、あの、もう一つご相談が」


 マホが口を挟んだ。


「何かしら」

「ファルス君の要望がありまして」


 そうだった。

 結局、一年の前期にはやりたい授業がなく、惰性で過ごしてしまった。料理講座が一つもなかったからだ。


「学園の方で、料理の授業がないということが不満だと」

「そうなんですか」


 興味深い、といった顔で、クレイン教授は俺に向き直った。


「特に西方大陸では、料理は女の仕事とされることが多いようですが、あなたは料理を学びたいのですか」

「それは、はい、そうです」


 彼女は腕組みして、自分の椅子の背凭れに身を預けた。


「学園の問題といいますか。基本的に、上流家庭の子女しか来ないところでしょう? そうなると、西方大陸でも貴族の娘なんかは、料理の心得が最初からなかったりしますね」


 少しばかり砕けた口調になっている。何か気に入られるようなことを、俺が言ったか?


「大昔には料理の授業もあったのですが、廃止されてしまいました。要するに、受講希望者が少なすぎて講師が用意されなくなった、というのが経緯としてあるようなんです。でも、他ならいざ知らず、帝立学園が学生に望む講座を提供できないなんてことがあってはいけませんね。マホ」

「はい」

「その他の陳情案件と一緒に、この件も持ち込むようにしなさい。その辺は学園長の判断だから」

「ええと」


 この指示に、マホは多少の戸惑いを見せた。


「いつものように、ケクサディブ副学園長に」

「いいえ、今回は直接、ザールチェクのところに行きなさい」


 いつものように、か。

 とすると、俺が知らないところで、マホは学園内での陳情を繰り重ねてきているということになる。


「いいんですか?」

「いい加減、仕事をしないなら退いてもらわないといけませんしね。学生に必要な講義を提供できてないというのは怠慢でしょう。殊に帝立学園の学園長というのは、特別な立場ですから」

「あの」


 いい機会だ。せっかくだし、質問してみよう。


「その、学園長のことなんですが」

「なんでしょう?」

「あの若さで、本当に三十年前から学園長だったんですか?」


 この質問に、彼女は目を見開いた。だが、返答はすぐだった。


「そうですよ。だいたいそれくらいです」

「じゃあ、本当は相当なお歳なんですか」

「魔術の研究を通して、若さを保つ秘法を偶然発見した、という話は聞いていますが……」


 クレイン教授は首を振った。


「では、どう再現するのか、については、うまくいかないの一点張りです。他の研究は……あの箱車みたいに提供してもらえているのですが。そう考えると、どこまで本当のことを言っているのか、わかりません。私の見立てでは、学園長としての権限の濫用があるのではないかと思っています」

「と言いますと?」

「学園長は、統一時代以来の貴重な史料を管理する権限と責任があります。統一時代と言えば、治癒魔術全盛の時代でしたから、多分、その辺りの知識を使って若さを保っているのではないかと想像しています」

「なるほど」


 つまり、ザールチェクは真実を伏せている。南方大陸に不老の果実が実在した、ということを、誰にも伝えていないのだ。

 話を終えると、クレイン教授は立ち上がった。俺達も席を立った。そろそろ夕食の時間も近い。


「では、いい返事をお待ちしています。ファルス君の方は、陳情の件、引き受けました。帰りの馬車も用意してあります」


 彼女の思惑がどこにあるのか。それはまだ読み切れていない。情報が足りていないのもある。


「ありがとうございます」

「気をつけてお帰りなさい」


 俺とギルは一礼すると、彼女の執務室を後にした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 不幸祭り始まってて嬉しい [気になる点] まぁ、若返り手段を秘匿してると思われたら強硬手段を使う人間は出ますよね [一言] 主人公の功績を正しく知ってたら、扱いにくさに頭抱えると思うんです…
[良い点] 待ちに待った不幸祭りですね。嬉しいです。 とはいえ、そこまで不幸になりそうな要素がなさそう… 流石に「帝都が大爆発!」とかは無いでしょうから、政治やら人間関係やらの、それなりの面倒ごとに巻…
[一言] ふこーまーつーりー!
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