学びなき学び舎の憂鬱
再度告知です。
2023/08/08(火)より、夏の不幸? 祭りを開催します。
頭上の雲が流れる。流れていってしまう。黄土色のグラウンドにくっきりとした影を落としながら、音もなく。その後には、また灼けつく地面が取り残されるだけだ。
日除けもないところに、未来の貴公子達がただ立たされている。今は剣を振る手も止めて、勝負の成り行きを見守っている。そんな彼らの頬に、意地悪な夏の風が吐息を浴びせるのだ。
誰も身動きしない。だが、対峙する二人は、動かないながらも集中を切らさない。それは手にする得物が大きく、無駄な動きが許されないだけ、尚更のことだった。
それでも、より消耗しているのは、明らかに年老いた方だった。若い挑戦者には疲労の色が見えない。なくすものもない。一方、彼はと言えば、講師という身分が付き纏っているだけに、敗北は許されない。消極的な動きで無様を晒すのも駄目だ。今こそ「最強必勝の剣技」なるものの真髄を、生徒達の前で披露しなくてはいけない。
「動かねぇな」
ラーダイがぼそりと呟いた。
事の発端は、ギルが戦闘訓練の授業の講師ティンセルに、戦い方の指導を要求したことだった。最初、このハゲた講師は、お前達にはわしほどの膂力がないのだから、まずひたすらに剣を振っておればいい、などと言って済ませようとした。
だが、ギルはといえば、十三歳から大剣を手に、オーガと戦ってきた本物だ。そんな彼だから、俺に言われるまでもなく、ティンセルの腕前がハリボテであることに気付いていた。それで彼は、自分もティンセルと同じようにやれるぞと、大きく重い木剣を振り回してみせた。
要するに、不満だったのだ。彼にとっては、留学費用も安くはない。日々をアルバイトに費やしてやっと成り立つ学生生活なのに、教師の質が低くてろくに学べるものがないなんて。
そういう経緯があって、指導という名の練習試合が始まったのだ。だが、いざ向かい合ってみると、最強必勝の剣技は、最初の一手を封じられただけで、途端に鳴りを潜めてしまった。睨み合うばかりで、何も動きがない。
この状況、ティンセルの方が消耗が大きい。彼は大剣の間合いを読ませまいと、横ざまに構えたまま、じっとしている。逆にギルはというと、ずっと楽な姿勢だ。切っ先を斜め下に向けた下段の構え。重量のある大剣だ。捧げ持つだけでも腕が強張るのだから。
だがもちろん、この構えにはもっと別の目的も含まれている。
「また詠唱?」
コモが上擦った声を漏らす。
そう、ティンセルの切り札、常勝パターンは既に破綻していた。
彼の戦い方とは、つまり間合いの広い大剣を横ざまに構えて敵の接近を遮りつつ、離れた相手に初歩的な風魔術……『風の拳』で不可視の一撃を浴びせるというものだった。ギルが遠距離用の武器を持たず、また魔法も使えないことから、ティンセルはこれで優位を保てると考えた。
だが、予め戦法を知っている以上、事前に対策を考えることもできる。そのための下段の構えだった。
ギルは剣の柄を引き寄せ、身を縮めた。
詠唱が終わる。グラウンドの上を、小さく砂塵を散らしながら不可視の一撃が駆け抜けていく。ギルは両手で柄を持ち上げ、大剣を捻った。
何のことはない。風の拳は曲がらない。まっすぐ飛ぶだけの攻撃手段だ。そして、攻撃そのものは視認しにくくとも、詠唱というわかりやすい合図がある。しかもそれは、要はただの打撃に過ぎない。だから、重量のある大剣を盾代わりに使えば、うまく逸らすこともできる。
「終わる」
「えっ?」
これまで、じりじりと間合いを詰めてきた。だが、そろそろギルが勝負をかける。
風の拳を払った大剣、また腕を下ろして下段の構えに戻ったかと思いきや、そのまま前に出している右足をドン! と踏み鳴らした。これに釣られて、ティンセルは剣を振り抜きかけ、辛うじて踏みとどまった。だがもう、こうなってはおしまいだ。
相手が動かないことも織り込み済み。澱みのない動きで、ギルは大剣を斜め前に大きく振り、そこでピタリと止めた。まだ、相手には届きようもない間合い。だが、ティンセルの剣の進路を塞ぐ場所に切っ先がある。
ティンセルが負けずに済ませるには、この瞬間に即応するしかなかった。だが、ごく僅かな隙間の時間に、ギルは自分の体を入れ替えていた。剣を振り上げると同時に、摺り足で左足が前に出ていた。
左脇に大剣を抱えたままのティンセルが、それこそワンテンポ遅れて、ここでやっと真横に振り抜いた。それは最悪の選択だった。
ギルの動きはコンパクトだった。大剣を沈めるように、まっすぐ背を立てて右後ろへと身を縮めながら回転した。体捌きだ。いつもの慣れで剣を大振りしてしまったティンセルの上半身が、泳いだ。
大きな得物をあくまで小さく引き寄せ直したギルは、しかし十分な重みを乗せて、正面から講師の肩口を打ち据えた。
「そ、それまで!」
小さな呻き声と共に、ティンセルは後方へと仰け反って、しまいには尻餅をついてしまった。生徒達からはざわめきの声があがる。
「うおっ、すげぇ。ギルの野郎、勝ちやがった」
俺からすれば、順当な勝利でしかない。体力でも技量でも、そして心構えでも、ギルの方がずっと優っていた。
いい動きだった。一つ一つの動作にしっかりと意味があった。大きく動くべきところと、小さく的確に動くべきところをしっかり意識できていた。動作が大味なものにならずに済んだのは、そのコンパクトな動きができたから。そしてそれを可能にしたのは、鍛えこまれた関節のおかげだ。しっかりとした握力、頑丈な手首が役立っていた。彼は自分の武器を使いこなしていると言えるだろう。
フェイントの使い方もよかった。踏み込むフリでティンセルが剣を振り抜いてしまえば、それはそれで突きかかる絶好の機会となった。だが、今回のように動かなかったとしても、今度はその硬直自体に相手が縛られる。敵の剣の進路を塞ぐ大振りから体の入れ替えが済むまでの一瞬の間、そこに割り込まれる危険をぐっと小さくすることができた。
「む、むう」
ティンセルは、落ち着きなく目を泳がせながら、なんとか言葉を捻りだした。
「わしも年老いたか。いや、あと十年若ければ」
ああ、これは本格的に駄目だ。まるで剣というものをわかっていない。殺し合いに言い訳の余地などないというのに。
「一度とはいえ、わしの剣をかいくぐるとは大したものよ。その腕なら、どこでも通用するだろう。十年に一度の逸材だな。だが、驕るでないぞ? 更なる高みを目指すなら、お前も魔術を学ぶがいい」
共感性羞恥というか、聞いているだけで恥ずかしくなってくる。こんな奴から学べる何かがあるだろうか? 俺はそっと手で顔を覆った。
「マジでギルは強いんだな」
一方、ラーダイはというと、ギルに対して若干の憧れのような視線を向けていた。
「まぁ、そうだな。よくここまで育ったとは思うよ」
俺もしみじみと頷いた。
するとラーダイは、今更のように質問を浴びせてきた。
「そういやお前ら、出身が別々なのに、なんで知り合いなんだ?」
「ああ、以前、タリフ・オリムまで行ったことがあって、その時に」
「へぇ」
それ以上、質問しようとも思わなかったのだろう。言葉が途切れる。
だが、すぐ彼は笑みを浮かべると、俺の肩を叩いた。
「安心しろよ。俺は認識を改めた。ギルはギルで大した野郎だが、お前はお前で見どころがある奴だって思ってるから」
これはまた意外な。いつの間に彼の評価が上がったんだろうか?
「こっちに留学する前に親父に言われたんだ。世の中の人は、一見、ダメそうでも、どこか何か優れてるところがあるもんだってな。お前は調子に乗りやすいから、弁えろとも言われた。今じゃ納得してる」
それはよかった。ただ、そうなると俺の見どころってなんだろう? そういえば、貴族だってことは合コンの時に知られてしまっていたっけ。
「お前、元々は農民の子だったんだろ? 聞いたけどよ。それが一代で貴族って、すげぇじゃねぇか」
「あ、まぁ」
「どんな手を使ったにしたって……スライムも殺せねぇのに……逆にすげぇよ」
あれ? 俺がタリフ・オリムで近衛兵を次々倒した件は、まだ伝わってない? だとすると、ラーダイは俺のどこを評価している?
料理かな? でも、振舞ってやったことはなかったはずだが。
「とはいえ、俺としちゃ、どっちを向くかっつったら、まぁギルの方だな。俺もあれくらいは強くならねぇと。今の俺じゃあ、ああはいかねぇ」
その評価は間違ってはいない。ギルは俺と違って、正攻法でティンセルを下したのだし、これは文句なしの完全勝利と言える。ラーダイにとってはいい目標だろう。
だが、勝利を収めたギルは、にこりともしなかった。
「何をしたらいいんだよ……」
その日の夕方、最後の授業を終え、教室に戻ってから、彼は机に突っ伏していた。
「何にも役立ちそうなもんがねぇじゃねぇか。俺は何しに学園に通ってんだよ」
「うん、まぁ、それは自分も感じないでもない」
「くそっ、デタラメ言いやがって」
「うん?」
何がデタラメなのか、と思った俺に、彼は補足した。
「ほら、入学式の日にさ、担任が言ってたじゃねぇか。この学園には床もなければ天井もねぇってよ。あれでちょっとは期待したんだぜ? 俺じゃあまったく歯が立たないような強ぇ奴が技を教えてくれるんじゃねぇかって……けど、現実は見ての通りだ。床も天井もない、その通り。家自体建ってねぇんだからよ!」
乾いた笑いを返すしかなかった。
「一応、ギルが知らないことを知っていて、できないことをできる人もいるとは思うよ。あれで担任のフシャーナも、多分だけど、魔法を使えるだろうし」
「あん? お前、それ、なんでそう思うんだ?」
「噂で聞いただけだよ。でも、この学園で魔法を教えてるのはいるわけだしさ」
机に肘をつき、顎を乗せて頭を抱え込み、その指先で髪の毛をガリガリと引っ掻きながら、彼は言った。
「噂か……言われてみりゃ、まぁ魔法くらい使うんだろうな、あの女」
「それはどうしてそう思うんだ」
ギルにされたように訊き返すと、彼はちゃんと根拠を示した。
「いやぁ、人づてに聞いた話なんだけどよ。ここの担任、なぜか学園長らしいじゃねぇか」
「初日に誰か指摘してたな」
「それがよ、学園長になったの、今から三十年くらい前だっつう話で」
不老の果実を得ているのだから、彼女が若々しいままなのは別に謎でもなんでもない。但し、俺にとっては、だが。
「で、それ聞いて、図書館で記録を調べたんだけど、この学園の入学式とか。その三十年前からずーっと仕事してる形跡がねぇのよ。毎回、副学園長のケクサディブが挨拶してんだぜ? 変じゃね?」
「なるほどなぁ」
「そんな、なーんもしねぇ学園長が、なんでこの学級の担任だけポロッと顔出ししてまでお仕事してんだよ? まぁ仕事っつったって、居眠りばっかだけど」
問題は、やはりそこだろう。自意識過剰かもしれないが、これは俺のせいかもしれない。
忘れっぽい俺だが、神仙の山でクル・カディが帝都とワノノマに連絡を入れた件は覚えている。その結果、ワノノマはヒジリという駒を配置した。なら、帝都は?
もしかすると、だからフシャーナとヒジリは、裏で繋がっているのかもしれない。もちろん、そういうことならさして問題でもない。帰宅すればヒジリが、通学すればフシャーナが俺を見張る。俺の気分はどうあれ、あちらからすれば必要な措置だろう。
「ったく、仕事して欲しいもんだぜ。俺がこうやって燻ってんだからよ。もうちょいマシな講師でも用意しやがれってんだ」
「ギル、そこはどうかと思うな」
「なんだよ?」
床も天井もない。自主独立がこの学園の気風なら、お膳立てだってしてくれはしない。
「多分、そういうもの含め、自前でなんとかしろっていう話なんじゃないか。講師は必要最低限のことを教えてくれるだけ。貰えるのは卒業証書一枚。だから、学ぶなら自分で学ばないといけない。そういう話だっただろう?」
「あ、ああ」
「この学園には、有力者の子女が大勢やってくる。お前だって、分家とはいえ名門ブッター家の男だし、他にも裕福な商家や歴史ある騎士の家、貴族の息子なんかも来ていたりする。要するに、教材や教師も、そんな中から自分で調達してみせろってこと。ゆくゆくは、それが自分の就職先にだってなるかもしれないんだから」
俺の指摘を受けて、彼はしばらく呆けたようにしていた。だが突然、パッと目を見開くと、俺をまじまじと見た。
「そうだな。すっかり忘れてたぜ」
「はい?」
「お前を練習台にすりゃいいんじゃねぇか!」
「ちょ、ちょっと待て」
しまった。藪蛇だったか?
ギルの役には立ちたいのだが、俺は俺で今、困った問題を抱えている……
「心配すんな。今のところ、稼げる仕事の世話まで頼もうとは思っちゃいねぇし」
「いや、できることなら手助けはするけど」
「あー、でも、俺の方が時間足りねぇんだよな。じっくり鍛錬する暇があったら、まず稼がねぇとだし」
「そこが悩みどころだな。働きながら学べて、しかも将来に繋がる……」
たくさん勉強したり、強くなったりしても、最終的には有力者に見初めてもらえなければ、あんまり意味がない。
ジレンマだ。いい環境を得るのには優秀である必要があるのに、優秀になるための環境は自分を売り込むことでしか掴めない。だからサロンが大事ということになるのだろうが、ギルの場合、イリシットの件もあって、アルディニア王国関連の集まりには頼れない。それにまた、どうせ今はこれといった大物も学園にはいない。
「大変だな」
「ああ。こんなこと言いたかねぇけど、やっぱお前が羨ましくもなるよ」
頷きつつも、俺は俺で行き詰まっている。
「恵まれているのは自覚してるけど、これでも悩みがないでもないんだ」
「お? なんだ、困ってることでもあるのか」
「大有りだ。結局、学園には料理の授業がなかっただろう?」
「なんだよ、それ」
ギルは笑い出してしまった。
「お前、俺には講師に頼るなって言っておいて、お前も結局、学園の講師に料理を教えてもらいたがってんじゃねぇか!」
「まぁ、そうなんだけど……今回、やろうとしてるのは、多分、帝都のどこの厨房に行っても学ばせてもらえないような代物なんだ」
醤油を作るには、麹が必要だ。麹を用意するには、種麹が必要だ。
だが、この種麹作りが、思ったようにはいかなかった。要は大豆や玄米に黴が生えるようにするのだが、洗浄が不十分だったのか、玄米の蒸し方が不足していたのか、温度管理がまずかったのか、それとも何か別の菌類を持ち込んでしまったのか、とにかくしくじってしまった。
反省点を洗い出して、近々もう一度、取り組むつもりではいる。しかし、残念ながら俺は料理人であって、醤油醸造の専門家ではないのだ。基礎的な知識をもっているだけで、経験はそんなにない。既にある醤油を使えば済むお仕事をしていたのだから、それも当然ではある。
「だから、どんなきっかけでもいいから、何か資料でも残ってないかなと思って」
「ふうん、なんか知らんけど、難しいことしようとしてんだなぁ」
「帝都で遊んでるわけにはいかないんだよ。ここで今、開発中の調味料を完成させて持ち帰って、領地の特産品にしないと。だから、料理の授業が本当に欲しいところなんだ」
俺自身の願望や欲もあるが、半分は本当に領地のため、そして全世界の食のため。どんな手を使っても、この三年間で達成したい目標だ。
「ふふふ」
そんな俺達の後ろから、女の含み笑いが聞こえた。振り返ると、そこにはマホが立っていた。
なんだか不安になる。というのも、彼女はほとんど笑わない。いつも怒っているイメージしかないからだ。
「少しだけ、話は聞かせてもらったわ」
「お、おう」
「ギル君ね? それからファルス君も」
「ああ、何か言いたいことでも?」
すると彼女は、ない胸を反らして自信たっぷりに言った。
「お料理や武術の鍛錬にはならないけど、先々に繋がるお仕事なら、紹介してあげられないこともないわよ?」




