犬の日(下)
今日のようなよく晴れ渡った、日差しの強い日には、純白のギルド支部はとりわけ美しく見える。あの、ケーキの上の生クリームをちょんとのせたような、建物の上端部分が光と影のコントラストをなしていて、見上げて見飽きない。
ただ、今日はその支部の前に、ちょっとした人だかりができていた。
「あれは?」
「存じません。何かの催し物……いえ」
近付いてみて、正体がはっきりした。お立ち台の上には一人の痩せた中年女が立っている。それが声を張り上げ、拳を突き上げて絶叫しているのだ。
「市民の皆さん! 栄えある帝都の皆さん! 私の率いた挺身隊が、実に千年以上前から世に蔓延ってきた邪悪を討ち滅ぼしたことを、もう一度思い出してみてください! この世界にはまだまだ魔境と呼ばれるところが数多くあります! それらすべてを浄化するまで、帝都は戦い抜かねばなりません!」
政治活動らしい。段の下には、彼女をサポートする男女の係員が立ち並んでいる。
この、熱い熱い演説を横目に見ながら、冒険者達は立ち止まったり、無視して通り過ぎたり。反応はさまざまだった。一応、小さな人だかりができていて、時折拍手が降り注ぐ。
「幸い、皆様の支持を得て、私達は世界を平和にする大事業に携わることができました! 世界は今も、着々と前進しています! サハリア東部の豪族達がポロルカ王に忠誠を誓い、世界秩序に復帰したのは、その一例でしょう! ですが、大切なのは次です! 挺身隊の規模拡大! ムーアン大沼沢と南方大陸大森林の健全化こそ、帝都が担うべき大いなる使命であります!」
そして、俺は立ち止まってしまった。
「どうなさいました?」
「この女……キブラ・アシュガイ?」
ヒジリは視線を演説する女の足下から左右に向けて、頷いた。
「立て看板にそう書いてございますが」
「なにやってるんだ、こいつは」
「なに……演説です」
人形の迷宮を討伐したのは女神挺身隊の手柄じゃないだろうに。ケッセンドゥリアンを葬り去ったのは俺だし、そこに至るまでの道を切り開いたのはキース達だ。
無駄に大勢の若者を死なせただけのクソババァがこんなところで功労者のフリとか、どれだけ面の皮が厚いのだろう?
「まずは来年! 統一時代のはじまりからちょうど一千年を祝して、かの英雄の功業を思い起こしましょう! そして二年後! 二年後の両院選挙には、ぜひ皆様のお力添えを」
四年前の彼女は、恐らくは名門アシュガイ家の一員ではありながら、負け組だったはずだ。でなければ、あの辺鄙なドゥミェコンにまわされたりはしなかっただろう。だが、そこで迷宮の攻略という、これ以上ない実績が手に入ってしまった。おかげで今では中央政界で幅を利かせる立場にまで登り詰めた、か。
そういえば、あの時、女神挺身隊も帝都への帰還を許されたはずだ。とすると、コーザも無事、帝都に帰ることができたんだろうか。市民権だって与えられているはずだが。
なお、今年は女神暦一千年だ。しかし、帝都として何かイベントを開催する予定はない。それらは翌年、千一年に予定されている。
その理由は、ギシアン・チーレムの昇天による共和制の始まりにある。帝都が今の体制になったのが世界統一から一年後以降なので、それから一千年を祝う、という理屈らしい。
「言わなくてもわかると思うけど」
「いえ、おっしゃっていただかなくてはわかりかねます」
「あのキブラって女は、ろくでもない」
ヒジリは頷いた。
「やはりそういう評価ですか。現場にいらした方としては」
「帝都ではどうなんだ?」
「二分されていますね。またとない成功を手にした功労者という人もいれば、大勢の犠牲者を出した横暴な指導者、という声もあります」
俺は溜息をついて首を振った。
「実態を知らなければ、仕方がないな」
「はい。最初は手柄だけ伝わって、補選で正義党の一員として上院議員になりました。ですが、徐々に問題が表面化してきてしまい、おかげで去年まで、彼女は挺身隊参加者の遺族相手に訴訟を起こされていました」
で、それを首尾よく切り抜けて、いまや党の顔、堂々と政治活動をできるようになった、か。
支部の建物の中に入ると、すっと涼しくなった。午前中の依頼を終えたのか、冒険者達の姿のちらほら見える。この広いホールには足音が反響する。そのせいか、どちらかといえば閑散としているのに、たまに思いもしないほど騒がしくなったような気がする。
「ギル様は……まだおいでではないのですか?」
「もう少しで来ると思うけど、見当たらないな」
大柄なギルは目立つ。だが、依頼の前にはこの支部に顔を出すはずだから、ここで待っていればきっと出会える。
「少し小腹が減ったな」
「本当なら、さっき召し上がっていたはずですからね。ですけれども」
ヒジリは、皮肉交じりの笑みを浮かべた。
「私達が去った後、果たしてあちらに残った方々で、お食事を楽しめたでしょうか」
「うわぁ、休み明けに謝らなきゃ」
「ふふふ」
きっと彼らは、すぐ気まずくなって散会してしまったに違いない。いや、でも、ラーダイ達に対してはむしろ、助けてやったに等しいのだが。自由恋愛が許される帝都だからこそ、夢を見てしまうのだろうが、そこに付け込む毒蛇の罠にはまるよりは、残念な思いを抱いて帰宅する方がマシだろう。
「ところで」
「はい」
「昨日聞かなかったが、ギルの件、何が問題なんだ?」
尋ねると、ヒジリは目を細めた。
「問題ではないのです。まず違法とはされないでしょう」
「ギルドからの依頼なんだから、違法になんかなりようがないだろう」
「ただ、その……ご自分が何をしているかをお知りになったら、きっと傷つかれると思ったのです」
「というと?」
意を決して、彼女は言った。
「では申し上げます。なぜこの時期に内港に野良犬が増えるのでしょうか」
「なぜって、犬の繁殖期……なんてものはなかったっけ。ってことは」
「御想像の通りです」
人が、捨てた? でも、なぜ? どうしてここに?
でも、他には考えられない。これは自然現象ではなく、人為的なものだ。
「もしかして」
原因に思い至るのと同時に、視界の隅に大柄な男の影が見えた。あちらでも俺に気付いたらしい。
「おっ? あれ? ファルス、お前今日」
背中に大剣を背負い、鎧もしっかり身に着けた格好で、ギルは俺に笑顔で歩み寄ってきた。
「おおっ!? マ、マジか」
俺の横に女が立っているのに気付いて、何気なくそちらに視線を向けたのだが、それが想像を超えた美女だった。
数秒間の硬直後、目に見えて落ち込みながら、ギルはその場に沈み込んだ。
「畜生、やっぱり俺も行けばよかった……」
「い、いや、ギル、これはな」
だが、説明をする前に、彼はガバッと起き上がると、身を乗り出してヒジリの肩をがっしりと掴んだ。
「お、お嬢さん!」
「は、はい?」
「こいつ、ファルスっていうんですけど、あ、名前はわかりますよね! ちょっと変わってるしアレなところもないでもないけど、基本、いい奴なんで、大事にしてやってください!」
「は、は、はい!」
さすがのヒジリも驚かされたらしい。
でも、「基本、いい奴」なのはギルの方だ。俺を羨みはしても、まったく妬まない。自分は雑用に野犬退治にと貧乏学生をしているのに、俺の幸せを願ってくれている。
「ギル、落ち着いてくれ」
「俺は落ち着いているぞ」
「この人、彼女はな」
「おう、おめでとう」
「ワノノマの皇女、ヒジリだ」
するとまた、石像のように硬直してしまった。
「ど、ど、どうなってるんだ? おい、なんでそんな人が飲み会なんかに」
「悪い。いつもお前が忙しそうで、落ち着いて話す時間がなかった。あのな、飲み会に来た人じゃなくて、この人、婚約者なんだよ」
理解が追いつかず、ギルはもはや本物の石像同然になってしまった。
「はじめまして、ギル様。あなた様のことは、以前より旦那様から聞かせていただいておりました。お会いできて幸いです」
数秒して、やっと我に返った彼は、ヒジリと俺を見比べながら、やっと俺に尋ねた。
「あ、あの、さ」
「ああ」
「もしかして、メチャクチャ偉い人?」
「もしかしなくても、僕より身分が高いぞ」
農民の子がたまたま成り上がった結果、やっと貴族の末席に名を連ねただけの俺と、六大国の王女様。だから、常識的にはそうなる。
ギルは口をパクパクさせている。
「別にいいんじゃないか? 子供の頃、お前だって陛下のお腹をポンポン叩くくらいはしただろ?」
「それとこれとは違うだろ! あ、あの姫様、ごっ、ご無礼を」
「とんでもございません」
優雅に一礼してから、ヒジリは言った。
「こうしてお会いできて、本当に気の良い方でいらっしゃると確信できました。いつもお世話になっております。あなたのような方がいらっしゃるのであれば、私も心から安心できます」
「いっ、いやっ、まぁ」
だが、狼狽から立ち直ると、ギルは本来の用事を思い出したらしい。
「っと、済みません、姫様。俺……僕はここに仕事を貰いにきたんで、そろそろ失礼させてもらおうかと」
「それなのですが」
これだけ近くでヒジリの顔を見ていればわかる。うっすら笑みを浮かべているが、これは作った表情だ。
「ギル様、お仕事なら、ちょうどお願いしたいことがございまして……私どもが暮らしているワノノマの旧公館の二階ですが、使用人の手が足りておらず、まだ清掃が行き届いていないのです。よろしければ、こちらのお掃除をお願いできますでしょうか?」
ヒジリの考えはわかる。ギルには事実を伝えるより、何も知らずに支援してやった方がいい。でないと、善良な彼の心に傷がつく。
だが、ギルは自立を重んじる男だ。
「済みませんが、姫様、それはよくないです。僕は僕、ファルスはファルスなんで。そりゃあ僕には、ファルスみたいな腕前はありません。でも、せめて自前で稼いで食うくらいはしないと、ファルスと対等に口を利けなくなっちまいます。ですので、せっかくのお気遣いですが、お断りさせてもらいます」
「ギル様」
あてが外れてしまった。そして、ギルは断固として振り返らず、大股に受付カウンターの方へと踏み出していく。
だが、そこで異変が起こった。
「プッ……ハハハ」
近くにいた、髭面の冒険者の一人が、堪えきれずに笑い出したのだ。それが自分に向けられたものだと、ギルは気付いた。
ひたと足を止めると、彼は振り返った。
「おい、おっさん」
正面から睨みつけながら、彼は言った。
「何がおかしいんだ。言ってみろ」
「別に? なんもねぇさ」
「ざっけんな。近頃、俺が仕事を請けるのを見物しながら、いっつもヘラヘラ笑ってやがったんじゃねぇか」
「なんもねぇって言ってるだろ? おい、俺がお前に何かしたか? 悪口すら言ってねぇだろがよ」
確かにそれはそうだ。道理がないと考えて、苛立ちながらもギルは振り返り、受付嬢の方へと向き直った。
だが、その受付嬢の顔にも、嘲るような笑みが浮かんでいたのだ。
「ギル!」
俺とヒジリは追いついて肩を引っ張った。
「もういいだろ。充分稼いだはずだ。今日は休め」
「なんなんだてめぇら」
だが、彼の視線は受付嬢や周囲の冒険者達に向けられたまま。
理由を知ったら、もっと怒りだすだろう。でも、言わなくては納得させられそうにもない。
「説明する。聞いてくれ」
ギルはゆっくりと俺の方に振り返った。
「内港にいる野良犬はな、野良犬なんかじゃないんだ」
「はぁ?」
「人間が捨てた。だからあそこにいる」
「誰が捨てたってんだよ」
その続きは、ヒジリが言った。
「ギル様、帝都に留学した学生の多くは、厳しい実家から離れて、自由な空気を楽しみます。それでつい、特に貴族の娘などは、自分の楽しみのために犬や猫を飼い始めるのです。ですが留学は三年間で終わり。すると、勝手に飼い始めた犬や猫を連れ帰ることはできませんから、自分の目下の誰かに預けて、飼い続けるようにさせるのです。それはだいたい、貴族ではなくて騎士の家の娘ですとか、いくらか身分が下で、あまり裕福でもない人になります。そうなりますと、その人が学園を卒業していなくなる時、次に犬を預ける人がいなくなるのです」
理解が追いついてくるにつれて、彼の息がだんだん荒くなってきた。
「出国手続きを済ませて内港を離れる直前に、何かで犬の気を引いて自分から引き離してしまえば、もうその向こうは外港です。こうして置き去りにされた犬達が、そのまま野犬になります。当局としては放置できないのですが、飼い主は既に出国した後ですので、どうにもなりません。ですから、その後始末をギルドに依頼することになるのです。ですが、事情を知っている人は請けたがらないお仕事です。そうなりますと、どうしても……」
ヒジリの説明が途切れると、周囲から少しずつ、嘲笑の声が漣のように広がり始めた。目の前の受付嬢も口元を抑えている。そのすぐ隣のカウンターにいるのも肩を揺らし始めた。俺達の後ろにいる数人の冒険者達は、遠慮なく大きな口を開けている。
そして、ギルは肩を震わせていた。
「そんなに面白ぇかよ」
今にも爆発しそうな様子で、彼は声を絞り出した。
「貧乏な田舎モンがカネ欲しさに犬ッコロ必死に追い回すのが、そんなに面白いのかよ! ああ、俺はいいぜ。土臭ぇアルディニアのド田舎から来た貧乏人だ。けどなぁ!」
拳を握り締め。肩を怒らせて。ギルは絶叫した。
「犬どもはどうなんだ! 昨日までかわいがられてて人間を信じてた犬どもが、今日になったら同じ人間に裏切られて、追い回されて殺されるんだぞ! てめぇらっ! それをなんで笑えるっ!」
「待て! やめろ!」
今にも暴れ出しそうなギルを、慌てて後ろから羽交い絞めにした。
「放せ! 放せっ! 胸糞悪い! こいつらブッとばす!」
「馬鹿! やめろ! そんな真似したら大変なことになるぞっ!」
ヒジリが急いでギルの前に回り込み、その手を握り締めた。それで彼はいくらか正気に返ったのだろう。俺もヒジリも、自分のために止めてくれているのだと理解して、やっと力を抜いた。
俺が手を放すと、彼は受付に背を向けた。
「……帰る」
「今日くらい、ゆっくり休め」
返事はなかった。
そのまま、ギルはとぼとぼと歩き去っていた。いまだにニヤつく冒険者どもの横を通って。
「旦那様」
その姿を見送ってから、ヒジリは声を殺して言った。
「帝都パドマは世界のどこよりも平和で、美しい街です」
「ああ」
「ですが……今日ご覧になられたもの」
彼女は周囲を見渡してから、また言った。
「これが、帝都のもう一つの顔なのです」




