恥辱と配慮
元は上等だったらしいテーブルには、細かな装飾が施されていた。縁には金箔が貼られていて、そこに浮彫が施されている。けれども、過ぎ去った年月がその華やぎを、むしろ惨めなものに変えていた。ニスに覆われていた表面には傷が残っていて、窓の外からの弱々しい光によってその部分に影ができる。職人が心を込めて仕上げたであろう浮彫の一部は摩耗して、金箔も剥がれている。それは年老いたかつての美女にも似ていた。まったく、こんなことになるくらいなら、最初から美しく生まれるのではなかった!
だが、無情にもその上に真新しい純白のソーサーが置かれ、ついでカップが据えられた。人のうちでは最も美しい娘が、そこに琥珀色の香り高い紅茶をそっと注ぐ。この残酷な扱いに、テーブルは不平の声をあげることもできない。
「どうぞ、ユーシス様。キトの茶葉の中でも、最上のものです」
彼はじろりと俺の顔を睨め回し、何かを言いかけて唇を震わせて、結局沈黙した。
俺としては、可能な限りの敬意を示しているのだ。ノーラには、わざと給仕をさせている。タンディラールのリクエストは、経営センスに優れたノーラをこの地の代官に据えることだ。しかし、これほどユーシスのプライドを傷つける人事もあるまい。
「どうも」
憮然としつつも、やっと彼は手を伸ばし、少しだけ口をつけた。
「ユーシス様には、今後ともお力添えをいただきたく」
「必要なかろう」
彼の眼差しには、当然ながら、敵意のようなものが滲んでいた。
「御身はこの地の領主と認められたのだ。今後は自由に一切を裁けばよい。陛下の仰るように、四年もかけてこの地に安定を齎すことができなかったのは、私の不明のせいだ」
彼がヘソを曲げるのも無理はない。タンディラールは王国に公平を齎そうとしている。そう表現すれば聞こえはいいが、要は利権をどう分配するかだ。つまり、誰かが得する一方、損する人もいる。レーシア水道を見てもわかるが、彼は良民にとっては善き王だが、貴族、それも彼のような零細貴族にとっては最悪の存在なのだ。
そして四年半前の内乱で最も割を食ったのが、他ならぬユーシスだった。彼個人の才覚と努力で疾風兵団の軍団長にまで上り詰めたものの、太子派でも長子派でもなく、巻き込まれる形で屍山ドゥーイの傭兵団の襲撃を受けた。それでも、我が身を囮にして各地に援軍を求める使者を送りだしたのだが、その際に重傷を負ったのみならず、戦後は「敵に背中を見せた」として解任され、貴族の称号まで剥奪された。
実は、旅立ちに際して俺は一度、コラプトで彼の姿を目にしている。馬から降りた際に、片足を引きずっていた姿が印象的だった。貴族の地位と名誉を取り戻すべく、傷ついた体に鞭打っての強行軍だったのだ。
だが、それからの努力のすべては、ついさっき無になってしまった。こんな惨めな状況で、後任者に対して好意的であれというほうが無理というものだ。
「こちらも余裕がないのです。端的に説明させていただきますが、陛下はこの地を僕に与える気がありません」
「だが、正式に領主になったそうではないか」
「ティンティナブリアなのに男爵という時点で、わかりそうなものではないですか。本来の爵位に据える代わり、領土は没収。あとは年金ですよ」
「ふん、あの王らしい。で、年金貴族になったら、次は爵位剥奪か」
悪態をついてから、けれども感情を吐き出したせいか、彼に冷静さが少し戻ってきた。
「ではなぜ、そんな話を受けてここまでやってきたのだ」
「いろいろ理由はあるのですが、一つには、断れる話ではなかったからです。ただ、できることならこの地を平和にしたいという気持ちも、ないではないです」
「そんなことをして何になる」
「ユーシス様、僕はこの地の生まれです」
怪訝そうな顔をする彼に、俺は付け加えた。
「かなり前にお会いしたこともあるのですが、おわかりになられませんか」
「いや、申し訳ないが、記憶にない」
長らく王都にいた彼だから、宮廷人の有名どころはみんな知っているはずだ。有力貴族の家中の重要人物まで把握しているかもしれない。だが、さすがに俺については心当たりがないらしい。タンディラールの即位式に彼は立ち会わなかったし、その後は余裕もない中で、すぐこの地に送り込まれた。あとは悪戦苦闘を繰り広げるばかりだったのだから。
「先の内乱の際、ユーシス様は王都の安全について案じておられました」
「あ、ああ」
「それで、トヴィーティ子爵を訪ねて、ピュリスの海竜兵団の状況をお尋ねに」
「それは覚えている。結局、援軍要請は届いたようだが、戦局を変えるには至らなかったようだ」
軍団長のバルドがクレーヴェの手によって殺害されたために、せっかく王都に駆けつけたものの、半死半生のウェルモルドを討ち取ることさえできなかった。あの時、最終的にタンディラールの勝利を決定づけたのは、表向きにはゴーファトの介入ということになっている。
「その際に、子爵の……今は伯爵ですが、サフィス様の邸宅でユーシス様をもてなした下僕の一人が、僕です」
「なんと」
「その時もお茶をお出ししたのですが」
記憶を今聞いた話と結びつけようと彼は俺の顔を凝視したが、どうしても思い出せないらしい。
「あの後、サフィス様は今の陛下の側について、大臣に取り立てられました」
「それは知っている」
「僕の方は、これを機に海外に出て見聞を広めるとともに、ピュリスに商会を立ち上げまして、これがうまくいったのです」
本当は俺が自発的にやったことではないのだが、話を簡単にするためにそう説明する。
「今では大きな利益が転がり込んでくるようになったのですが、そこに陛下が目をつけられまして」
「あの男はいつもそうだ!」
深い溜息をつくと、ユーシスはタンディラールへの敬意をかなぐり捨てた。
「ですが、元はこのティンティナブラム領の、リンガ村というところの出身です」
「リンガ村? そんな村はなかったと思うが」
「はい。先のオディウスの時代に焼き討ちされて、今はありません」
彼は何も言わなかったが、さもありなんと思ったのだろう。
よかった。話を聞いてくれる態勢になっている。
「孤児になった僕は奴隷として売り出され、エンバイオ家に引き取られたのです。その後、平民の身分に戻していただいて、幸運に恵まれて今があるのです」
「皮肉なものだ。では、私こそ、そのうち奴隷の身分に落ちるのかもしれんな」
「いいえ、お許しいただけるなら、ユーシス様には今後も騎士の腕輪を帯びて、この地の平和のために働いていただきたいと思っています」
彼の中では、反発する気持ちが半分、受け入れる気持ちが半分といったところか。
まだ青二才のこの俺が、利益が見込めないながらも社会貢献としてティンティナブリアの復興に取り組むと言っている。成人前の若者が献身を申し出ているのに、元貴族の彼が自分の損得を云々して手を引くというのは、いかにも卑しいと思われるのだろう。
「この地を立て直したところで、僕の利益にはなりません。でも、もし役に立てるなら、できることはしたいと……一応、生まれ故郷ですから」
本音では、そういう気持ちはそこまで強くない。どちらかというと、やはり心の中に圧し掛かっているのは、旅の最中での殺戮の数々ではないかという気がする。
俺は悪事を積み重ねてきたと思う。以前にも罪悪感から善行を自分に課そうとしたことはある。今思えばあれは逃避だったが、今回はそうした自分自身を受け入れた上で、落ち着きをもって事に当たろうと思っている。
ここで疲弊したティンティナブリアを救ったところで、俺のやらかしたことは消えない。それは罪を帳消しにするものではない。あくまで悪の続きに善が置かれるだけだ。それは忘れるべきでない。
とはいえ、それだけが動機なのでもない。
周りの人のためにとか、単に善行だからとか、いろいろ思いつくが、本当のところ、俺自身の気持ちはどこにあるのだろう?
「なるほど」
彼は腕を組み、頷いた。
「志はわかったが、状況は非常に難しい」
そうしてユーシスは、状況を語り始めた。
ティンティナブリアの治安維持のために送り込まれたのは、その大半が、元はといえば、近衛兵団第二軍団の兵士達だった。反乱に与した罪人だが、王国に対して然るべき奉仕をすれば免罪しようというお話だ。他、岳峰兵団からも、第一軍団、つまりヒオナットに従った者達が、同じように扱われた。また、ルースレスに率いられていた雑兵達の一部も、混じっていた。
再び反乱を起こされたらどうするのか? 一応、対策はしてあった。まず、部隊を解体して元は別々の所属の者達が改めて組織されるようにした。小隊単位の指揮官には、元捕虜以外の誰かを宛がった。つまり、他の兵団から栄転ということで希望者を募った。任務を完了して年季が明けたら、実績に応じて再雇用される話にもなっていた。うまくすれば、王都に返り咲けるのだ。
ユーシス自身、自分の預かった兵士達の問題点を認識していたので、用心深く振舞った。自身の不満は覆い隠して、もう一度、元の地位を取り戻すために頑張ろう、と声をかけた。
「途中まではうまくいっていた。だが、王家の想定以上にこの地は荒れ果てていた」
きっかけは、給与の遅配だった。得られた税収は想定よりかなり少なかった。金が足りない。金があっても食料が足りない。この点、タンディラールの失策もある。ティンティナブリアといえば四大貴族の一角を占める広大な伯爵領であり、荒れたとはいえ、それなりの収益があるはずだと楽観視していたのだ。しかし、オディウスの圧政は、王都にいた彼らの想定を遥かに超えたものだった。
とにかくユーシスは陳情したし、タンディラールも然るべき対応をした。だが、要するに遅すぎた。元々、誇りをなくした兵士達の集団だった。どうして空腹をこらえてまで、上役の言う通りにしなくてはいけないのか?
こうして兵士達の一部は、支援が届く少し前に、不正を働くようになった。彼らは警備するべき村落に顔を出しては、口実を見つけて金銭や食料を徴収した。そしてユーシスがこの事実に気付くまでに、かなりの時間がかかってしまった。というのも、足を悪くしてあまり出歩けなくなったのもあって、直接現場を目にする機会がほとんどなかった。かつ、部隊の兵士達は寄せ集めで、まだ十分には信頼関係が構築できていなかった。
綱紀の緩みに気付いた彼は、もちろんすぐさま処断した。だが、その頃にはもう、手遅れになっていた。
「兵士達の一部が、そのまま野盗に成り下がるとは……だが、どうにもできなかった」
ユーシスは、そう言って歯噛みした。
こんな寄せ集めの兵士で領地の再建を任せたタンディラールが悪い? もちろん、その通りなのだが、彼には彼の事情がある。ただでさえ、内乱で王都からまるまる一軍団分以上の兵力が失われた上、その後はゴーファトが不穏な動きを見せていた時期でもあった。もし、精鋭部隊をティンティナブリアに送り込んでいたら、今度は王都がどうなっていたかわからなかったのだ。
だったら内乱を起こすような真似をしないで普通に即位すればよかったではないか、という話になるが、それはそれで難しかったのだろう。フミールやウェルモルド、ショーク伯など、明らかに新王に忠実とはいえない連中をそのまま抱え込むことになる上、オディウスやゴーファトといった頭痛の種も残っている状態なのだ。ろくに政権運営などできやしない。
こうしてまたしても、ティンティナブリアが犠牲になった。
不満を抱えた兵士達だけでなく、その兵士達に村を荒らされた人々もまた、盗賊団に身を投じるようになった。社会の解体が、更なる崩壊を促進する負のスパイラルに陥ってしまったのだ。
「今では、大盗賊団が三つほど領内を我が物顔で闊歩している。奴らは離合集散を繰り返しておる。無論、離反した兵士はごく一部だ。正面から戦えば、こちらが敗れることはないとは思っている。ましてや連中がこの城を攻め落とすなど、できやしない。だが、そもそもそういう決戦になってはくれない」
「お話、わかりました」
ここに来るまでに、ある程度の状況は把握できている。だがこれで裏付けを取ることができた。
「策があります。お力添えいただけますでしょうか」




