荒廃のティンティナブリア
「他所を当たってくれ。悪いことは言わん、とっととこの村から出て行ってくれ」
ボサボサの白髪、古くなったパンのような肌、光のない瞳。実年齢よりずっと老け込んで見えるその農夫は、まったくもって不愛想だった。なおも声をかけ続けようと手を挙げると、彼は乱暴に扉を閉じてしまった。その扉もボロボロで、表面には何重にも木の板が継ぎ足されている。
「ここも、か」
「親切な方だと思うわ」
一見すると的外れなノーラの指摘に、俺も頷いた。
シュガ村の荒廃も目も当てられないほどひどかったが、ここフガ村も大差なかった。住民の半分くらいは家を放棄したらしく、その農地の多くが荒れ地に様変わりしていた。
領地の視察のためもあり、俺達は見晴らしのよさそうな場所を探した。このフガ村の脇にもエキセー川の支流がある。その川沿いに大きな岩山があって、大昔からの墓地になっている。そこから見下ろすと、また一層、村の悲惨な状況がよくわかる。あまりに貧しく惨めな暮らしを目にしたせいか、それとも夕暮れ時の長い影のせいなのか、俺にはこの村の家々が、どれも斜めに傾いでいるようにさえ見えた。しかもそのうち、三分の一くらいは屋根に穴が開いている。住民がいないか、いても補修していないのか。まるで小舟の集団が大海の渦に飲み込まれようとしているかのようだった。
「仕方ない。今夜も村から少し離れた場所で、野営しよう」
コラプトから北上を始めて目にした風景は、いつもこんな感じだった。
さっきの村人の態度は、この地域の極度の治安悪化によるものだ。王都周辺の成功とは裏腹に、タンディラールもティンティナブリアの復興には手を焼いていた。もう、ただの貧困では済まない。野盗に身を落とす人々があまりに多くなったために、地域全体が半ば無法地帯と化してしまった。その結果、他の地域の犯罪者も、当局の取り締まりを回避できる場所として、恒常的にこの地に流入するようになった。
だから真面目に暮らす領民は、二重支配を受け入れなくてはいけなくなった。ティンティナブラム城からやってくる王家の兵には逆らえない。だから表向きにはそちらに恭順の意を示す。だが、彼らが去った後にはすぐ、盗賊団の首領が顔を出す。
さっきの村人が俺達を泊めてくれなかったのは、悪意があるからではない。追い剥ぎの片棒を担ぐのが嫌だったからだ。五十年も生きてきたということは、あのオディウスの圧政が始まる前の時代も覚えている。この地に平和と喜びがあった頃を知ればこそ、良心を捨てきれないのだ。
これほどまでに状況が悪化しているのを悟ったのは、シュガ村に入ってからだった。村人の態度が以前にもまして閉鎖的になっていて、話しかけてもろくに返事さえしてもらえない。ジョイスの実家にも行ってみたが、誰も居残っていなかった。それでやむなく村外れに野営したのだが、そこに纏まった数の盗賊が現れて俺達を襲撃した。もちろん、やすやすと返り討ちにした上で全員生け捕りにしたのだが、馬車にも余裕がなく、連行する手段がない。この時点で初めて身分を明かし、村長に拘留を命じておいた。しかし、俺達が村を離れてしばらく、盗賊団のボスがやってくるとあっさり寝返った。
「どこまで行っても、相変わらずひでぇド田舎だなァ」
「帰っていいぞ」
「へっ、冗談だろ、王子様……いや、男爵様か」
叙爵にまつわる一連の手続きが済むと、俺はピュリスに引き返した。ヒジリもまた用事が済んだので、俺と同じくピュリスに向かったが、そこから先の行き先は別々になった。俺は準備を整えて領地に向かわなくてはいけないが、彼女はこれから帝都に向かうと宣言した。パドマ市内にオオキミの所有する物件があり、そこを俺の留学中の住居として整備するとのことだった。また、併せて俺の世話をする召使なども用意するそうだが、言うまでもなく、一切は完璧な監視体制を構築するためのものだろう。
そうして埠頭から遠ざかる彼女の船を見送ったのだが……「芝居の下手な女」という感想しか出てこなかった。元々の設定を忘れてやしないか? 俺に一目惚れして姫巫女に口添えしてもらったにしては、一緒にいられる時間を作ろうとするでもなし、あまりにあっさりしすぎている。まぁ、俺が彼女の意図を見抜いていることをヒジリ自身も承知はしているのだろうが……なんだか呆れてしまった。
で、留学までの数ヶ月間も俺を野放しにするつもりはないらしく、彼女は俺に郎党達を貸し出した。武芸に長けたワノノマの男達が十名ほど、今回の旅に帯同している。加えて、ホアについても俺の好きにしていいということで、置いていった。
「おい、新入り」
「あ?」
ホアは優れた職人だが、いろんなところが欠落している。社会性もその一つだろう。
ガリナが後ろから肩を掴んだ。
「確かにここはクソド田舎だけどよ」
「おう」
「一応、あたしらの故郷なんだ。余所者にけなされたかぁねぇよ」
口の悪さが当たり前になってしまっている彼女だが、悪気があるのでもない。指摘されて、目が泳ぎ出した。
「あ、お、おう、悪ぃ」
「わかりゃぁいい」
リンガ商会をガラ空きにはできないので、カトゥグ女史やビッタラクは置いてきた。だが、思うところがあって犯罪奴隷組の女達は全員同行させている。ペルジャラナンとディエドラも連れてきた。ピュリスの治安は相当にいいので、モライカとマルテロ、また彼らが率いる商会の私兵で十分に中心街を守れる。ただ、マルトゥラターレだけは敢えて残しておいた。精神操作魔術のあの設備があるのだから、活用しない手はない。あれがあれば、ティンティナブラム城からピュリスと通信することだってできるのだ。
「ねぇ」
ノーラが尋ねる。
「もうこれ、領地って言える状態じゃないと思うんだけど、どうするの?」
「ここまでひどいとはね」
こうなると、末端の盗賊を一匹ずつ捻り潰してみたところで、キリがない。
「優先順位は考えてある。まず、頭を潰さなきゃ」
「その前に……やるのね?」
「ああ、仕方ない」
貴族にしてもらって嬉しいな、なんて話ではない。ノーラが俺に尋ねたのは、文字通り「どうするのか」だ。こんな状態の土地を復興させる義理がどこにあるのか、と。どうせうまくやってもタンディラールが引き取るつもりでいるのだし、旨味なんてない。
その通り、俺にそんな責任などない。なんなら一応頑張ってます、というポーズだけで、あとは放置でも構わない。彼は俺に支配者としての心得を説いたが、それを素直に受け止める必要もない。つい先日、いろんな思惑の末に叙爵されただけの、なんちゃって貴族でしかないのだから。生まれながらの貴種と違って、その地位による恩恵を受けてきたのでもない。
だから、俺は俺自身の考えで、ティンティナブリアの復興に乗り出すつもりでいる。
別に大した考えがあるのでもない。俺ならできるかもしれないし、またそれをするだけの力を運命から与えられている。ここに至るまで、あらゆる我儘を通して不死の探求をしてきた。なら、そろそろこの世界に何か一つくらい、お返しをすべきじゃないかと、そんな程度の理屈だ。
それに付け加えるなら、やっぱりこれまで俺と関わってきた人達の幸せに寄与できるから、というのもある。
ただ、なんとなくだが、俺はこの仕事に手をつけるべきだ、という直感のようなものがあった。まだ自分の中できれいに言葉にできないのだが。
「優先順位か」
先日のリーアとの再会以後、いまだに元気のないフィラックが言う。
「何からやるべきだと思う?」
「治安。これが解決しないと、他に何をやっても全部空振りに終わる」
まず、一定期間の免税を実施するつもりではいる。他にも、この地域を富ませる方策はいろいろ考えてはいるが、それもこれもすべては治安ありきの話だ。どれほどポテンシャルの高い土地でも、治安が悪ければあらゆる政策が効果を発揮しない。
「まずは城まで行こう。そこで改めて状況を確認する」
曇天の下、遠目に見るティック庄はひっそりとしていた。これが春の風景とは思えないほどに寒々しかった。城下町の石造りの街並みは、ほとんど廃墟といってよかった。元々の造りがしっかりしているらしく、いまだに崩落する気配などはないのだが、相変わらず住民が一人もいないゴーストタウンのままだった。城の近くにある町の入口の噴水も、どこか配管が目詰まりでもしているのか、今では涸れてしまっている。
目の前に聳えるティンティナブラム城の威容に変わりはなかったが、城壁の上に掲げられた王家の旗は、風雨にさらされ続けたが故なのか、ひどく色褪せて見えた。守衛の姿も見えないが、これは日中だからだろう。盗賊団が攻城用の兵器を持っているはずもないので、もしここを襲撃するとなれば、川を小舟で渡って、その先にある何メートルも上の窓まで這い上がるしかない。それを昼日中にやるなんて、勇敢を通り越して無謀でしかないのだ。
それにしても、静まり返った城砦は、いかにも陰鬱だった。城門は固く閉ざされたまま。俺達が川の上の橋を渡って門の前までやってきても、誰何する兵もいない。これだけでも現状が推察できるというものだ。
守備隊の手が明らかに足りていない。平時であれば十分な兵力でも、荒れ果てたこの地を立て直すには足りないのだ。できれば一気に大戦力をぶつけて盗賊どもを一掃するのがいいのだが、盗賊は盗賊なだけあって、正面からの決戦などせず、逃げ隠ればかりする。しらみつぶしの面の制圧など、コストが高すぎて、とても追いつかない。
だからここの指揮官は、現実に対処するしかなかった。最重要拠点であるこの城だけは死守する。五年近くもの間、それはもう、果てのない泥濘を彷徨うような苦労を味わったことだろう。
そんな彼に、辞令を手渡さなくてはいけない。俺の気分も憂鬱そのものだが、仕方ない。
「開門せよ! 王都より参った!」
俺が呼びかけると、城門の上に一人の兵士がのっそりと立ち上がるのが見えた。何事か下に伝えているのがわかる。しばらく待たされた挙句に、やっと門が開いた。
数台の馬車が、あの地下ロータリーのような城砦の腹の中に入り込むと、背後で門が閉じられた。槍を手にした兵士達が俺達を取り囲んでいる。俺は改めて馬車から飛び降りると、右手に丸められた辞令を手に、兵士達の代表者を探した。
「指揮官はどちらか。王都からの辞令を携えてきた」
「しばらくお待ちを」
小隊長と思しき男がそう呼び掛けると、無言で兵士の一人に顎で指示した。一人が身を翻して階段を駆け上がっていく。だが、それからまた、しばらく待たされた。ややあって、小さく石の階段を打つ硬質な音が、一切を説明してくれた。
その男は、杖を突きながら階段を下りていたのだ。分厚いロングコートのようなものを羽織っているが、とっくに色落ちしてしまっている。昔はさぞ見栄えがしたのだろうが、今ではそれが却って彼の姿をみすぼらしいものにしていた。かつてはその長い巻き毛も美しく整えられていたのに、こうなってしまっては、まるで老犬の毛並みのようだ。身なりを気にしているのかいないのか、上から無理やり帽子をかぶって乱れた髪を覆い隠している。
「勅使がいらしたと聞いたが、どちらにおいでか」
誰もが静かに立ち尽くす、このホールのような空間で、彼の声は小さいながら、よく響いた。
「私です」
俺がそう名乗り出ると、彼は杖を突きながら、ゆっくりとこちらに近づいた。その身の上を気遣ってこちらから歩み寄ろうとしたが、彼は手ぶりでそれを押しとどめた。こういうところは、やはり貴族なのだと感じさせられる。勅命を手にした使者は王の代理人なのだから、敬意を払うべく自ら出向かねばならない。
「勅命をお伝えください」
俺の前に立った彼は、一切の表情を浮かべることなく、淡々とそう言った。それがあまりに痛々しく、また申し訳なかった。
「済みません」
俺は一礼して、勅命の記された巻紙を差し出した。異様な振舞いに、彼は目を見開いた。本来なら、勅使たる俺が内容を読み上げるべきだからだ。
「非礼をお許しください。これは、私の口から申し上げることは出来かねます。閣下自ら、ご確認くださいますよう」
内容は既に知っている。だからこそ、とてもではないが、彼にそれを叩きつけるなどできなかった。
一瞬、怪訝そうな顔をしたが、すぐに内容を予期したらしく、彼は落ち着いた表情でそれを受け取り、杖を自分の体にもたせ掛けてから、ゆっくりと勅命を開いて目を通した。
表情の変化はごく僅かだった。だが、わかる。わかってしまう。彼は怒りに燃えていた。だが、辛うじて抑制が勝った。手にした勅旨を引き裂きもせず、震える手で、それを俺に差し戻した。
「……委細、承知致しました」
およそ承知したとは思えないような眼光で俺を睨みつけながら、彼はそう言った。
『フォレスティア王タンディラールが命じる
本書状の到着をもって、特別方面軍および軍団長ユーシス・ドゥダードの任を解く
ティンティナブリアの安定を任務としながら、状況の改善がみられないがゆえである
本日に至るまでの四年間の成果思わしくなく、その怠慢は厳しく問われねばならない
王家はこの地に平和を齎すべく、新たにファルス・リンガを叙爵し、統治権を委任した
以後、特別方面軍は解体の上、新領主の裁量の下に置かれるものとする
軍団長の処遇についても、新領主の定めによる
本書状の確認がなされた後は、一切が遅滞なく行われるべきものとする』
今日に至るまでの労苦の日々を全否定された挙句に、この屈辱。
彼は俺を無言で見据えたが、俺もかける言葉が見つからなかった。




