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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第四十三章 衣錦還郷
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胸に秘する悲恋

 息が詰まる思いがした。

 俺が大森林の奥地でなんとなく見出したことを、彼もとっくに悟っていた。取引が人間の本質なら、必然的に差別もまた、そうなのだ。

 魔宮での出来事を思い出す。例えば醜さゆえに暗部に引き取られたヘルは、確かに差別の被害者だった。生まれながらの障害ゆえに、他の人々より厳しい人生を強いられたのは間違いない。では、彼は泣き寝入りするしかなかったのか?


 しかも問題は、そんな表面的なところにあるのではないのだ。よろしい、障害者を差別するのはやめよう。でも、ヘルが差別されない社会でも、きっとどこかで誰かが理不尽な扱いを受けている。

 例えば、ヘルが神聖教国の暗部を引き受けるのでなければ、他の誰かがやらねばならない。あの国ではたまたま使えそうな身体障害者にそうした汚れ仕事を強制していたのだが、今度は別の基準で闇の仕事人を募集することになる。そして誰もその仕事をしてくれなければ、聖都の秩序は保てない。


 他の仕事もそうだ。ラージュドゥハーニーではゴミ拾いや洗濯屋という底辺の仕事があり、その割り当ては、血縁でほぼ自動的に決まっていた。それを市場経済に任せるのか、因習と規範によるのかはやり方次第だろうが、とにかく誰かが、その稼ぎの悪い大変な仕事を引き受けなくてはいけない。

 もし、洗濯屋は稼げないから、といってみんなが仕事をやめてしまったらどうなる? ワング一人が国を捨てて去るくらい、なんてことはなかった。でも、ケナランやその他の同業者が一斉に辞めてしまったら、ラージュドゥハーニーの市民はみんな、汚れた服を着たままで過ごすしかなくなる。そしてもちろん、ケナラン達にしても日々の生活が成り立たなくなる。


 さっきの仮定の話もそうだ。俺とタンディラールが森の中で暮らす。獲物を狩れるのは俺だけだから、もしかしたら俺が彼に対して、横暴な態度に出るかもしれない。でも、彼は肉や毛皮を分けてもらうために矢を作り続けるしかないし、俺もまた、彼の作る弓矢がなければ、狩りをするのが難しくなる。

 人は皆異なる。だから得手不得手に差が出てくる。ゆえに違った役目に専念するしかない。そうでなければ、俺もタンディラールも、野生の獣にも劣る非効率を受け入れなくてはいけなくなる。


 そして、その仕事の価値は、必ずしも等しくはない。例えばこの場合、直接に獲物を狩る俺の仕事の価値の方が、そのサポートをする彼のそれより、高い価値をもつかもしれない。

 しかも、その価値は変動する。もし、俺と彼の暮らす森に、別の弓の名手……ウィーやミルークがやってきたら、俺による資源の独占は崩壊し、逆に唯一の職人となったタンディラールは俺を搾取するようになるだろう。

 戦時には英雄だった兵士も、平和が百年続けはただの穀潰しでしかない。現に魔物討伐隊は仕事を失った途端に謀反を起こしてしまった。


 俺達は協業を強いられている。さもなければ獣にも及ばないから。だがその協業……取引は、その関係性において搾取を避けられない。

 どこかで誰かが虐げられる。でも、それをやめたら万人が等しく虐げられるのだ。


「自由で平等な社会というのは、乾燥した水というのと同じだ。前に言った覚えがあるが」

「はい」

「仮にもし、自由で平等な社会を作ったら、どうなると思う?」


 それはきっと、誰もが幸せに生きられる理想郷……

 なんてことにはならない。


「きっとそれは、一時的には天幻仙境のような素晴らしい世の中になるでしょう」

「うむ」

「ですが、そう遠からず争いが絶えない世界になるでしょう。誰もがよりよい居場所を求めるから。そして気付けばまた、不自由で不平等な社会になっているのではないか、と」


 彼は頷いた。


「それがわかっているのなら、とりあえずは安心だ」


 玉座に座り直し、息をついた。


「もうお前は自由ではいられないのだ、ファルス・リンガ・ティンティナブラム」


 その言葉だけでも締め付けられるような気がする。


 彼の論理には、心の中に小さな引っ掛かりが残る。なぜというに、それではあんまりではないか。常に犠牲になる誰かがいる。夢も希望もなく、虐げられ続ける人がいる。それを見殺しにしながら、俺は貴族を名乗るのか。

 では、パッシャは、デクリオンは正しいではないか。どう転んでも救われない人が、どうして社会とか人類のために我慢しなければならないのか。なのに俺は、いまやこの社会における支配層の一員になってしまった。

 無論、それはタンディラールも承知している。だから置き手紙にも書いてあったのだ。自由でいられるのは今夜まで、と。地位が高まれば高まるほどに、それに比例して自由を断念しなければならない。さもなければ、亡者の復讐に正当性を与えてしまう。


「貴族の地位を与えるのに、この道理すらわからぬではどうしたものかと思っていたが、進歩はあったらしい。これでやっとお前を帝都に送り出せる」

「帝都? ですか?」


 前々から俺を帝都に留学させるとは言っていた。だが、今日の朝に領地を授かったばかりなのだが。


「あの、今、ティンティナブリアの状況は」

「最悪だな」


 彼の口元が皮肉に引きつる。


「使い古しの指揮官と兵士どもを送ったはいいが、いかんせん、野盗どもが跋扈するばかりで討伐も追いつかん。最新の報告では、大きな盗賊団が三つほど、好き勝手にうろつきまわっているという。私の失敗のせいでもあるが、コラプトより北は、安全といえる場所はもう、点在しているくらいだと言っておこう」

「そんな状況で僕にのうのうと留学などしておれと」

「ノーラといったか? お前のところに、使えそうなのがいたはずだが」


 呆れた。本当に、使うとなったらとことん、残り滓まで余さず利用するつもりなんだろう。


「お前が領主の権限で、代官に任命すればよい。ピュリスを牛耳った手腕はなかなかのものだった。あれなら、お前が帰国するまでの三年くらいはもつだろう。途中で駄目になったら、その時は私がどうにかして代わりを送り込む。問題ない」

「いや、あの、陛下」

「なんだ」

「そんなにノーラを買っているなら、普通に官位を与えて任命すればいいじゃないですか」


 だが、彼は首を横に振った。


「それはせぬ。ヤノブルはどうあれ、我が国では断じて女性官僚などというものは制度として設けない」

「なぜですか?」

「それも帝都で学んでもらうつもりだ。よいかファルス、帝都のあり方を反面教師とせよ」


 現代日本から転生した俺からすれば、随分と過激な意見に聞こえる。こちらの世界ではそうではないが、前世では社会における平等は大原則だったのだから。


「ついさっき、平等の弊害について語ったつもりだったのだが」

「女性についても同じことが言えますか。ゴーファトは、帝都のことを女の都だといって、それはもうひどく罵っていましたが」

「奴とは、そこの部分では同じ意見だ。その通り、本音のところでは、我が国の貴族の娘達には、帝都留学などしてもらいたくはない。ろくなことにならん」

「ですが」

「ああ」


 彼は苦々しげに吐き捨てた。


「諸事情あって一年遅れになったが、今年から既に、グラーブとリシュニアが帝都で暮らしている。来年は、お前と一緒にアナーニアも行くことになっておる。だが、大した理由もなくこれをやめさせれば、さすがに周辺国からいい顔はされん」


 現代の六大国の正統性は、帝都の存在によって裏付けられている。だから、どれほど帝都を嫌っていても、遠ざけるには限度がある。


「でも、ノーラは使いたいんですか」

「本音では、すべての女が役立たずなどとは思っておらん。有能なのも、中には必ずいる。覚えておるぞ……サフィスの妻、あのエレイアラといったか、あれはなかなかのものだった……だから、できることなら、同じように働く機会を与えたくはある。だが、一人、そういう例を出してしまうと、私も私もと騒々しく喚きたてる無能が出てくる」

「男にも無能はいるかと思いますが、それは?」

「無論、いるにはいるが、それならそれで理由をつけて更迭すれば済む。だが、女というのは、そうはいかんのだ。まぁ、それはあちらで学べばよい。とにかくノーラのことは、あくまで領主たるお前が個人的裁量で、私的に家臣の枠で代官に任命せよ。もちろん、他にもっと有用な人材がいるのなら、そちらに任せても構わん」


 一息つくと、彼は脇道に逸れた。


「そういえば、女で思い出したが、あてはあるのか」

「はい? あて、ですか」

「ノーラは領都に残すとして……まぁ、ピュリスで調達すれば、見た目はいいのが見つかると思うが、妙なことを考えだすと面倒なことになる」

「ちょっと、あの、何の話をしているんですか」


 彼はジロリと俺の顔を睨め回した。


「お前は一代貴族でなく、世襲貴族だ。それが氏素性もわからぬ卑しい女と子作りなどしたのでは、せっかく落ち着きつつある我が国の北東部が、また騒々しいことになりかねんではないか」

「子作りって」

「真面目な話だぞ。帝都は誘惑の多い街だ。だから、それなりの貴族なら、嫡男を送り出すときには、言い含めておいた女をつけてやるものだ」


 そういえばイフロースが昔、ノーラの使い道として検討していたっけ。サフィスの嫡男ウィムが留学する際の世話係として。

 ただ、サフィスの父のフィルはというと、貧乏すぎてそれどころではなかったらしいが。元かっぱらいの少年と狭いアパートで二人暮らし、それを三年間続けたのだから。ただ、だからこそ、逆に女をあてがう必要もなかったと言える。わざわざ貧乏人を誘惑する女などいないからだ。


「それなりの家柄の女なら、そのまま庶子を産ませてもいいが、そうでなければ避妊だな。おとなしく捌け口になってもらう」

「ひどいですね」

「ひどいものか。いいかファルス、完全無欠の人間などいやしない。ましてや帝都に留学すれば、国王たる私の目も、家長の目も届かないのだ。禁欲と自制を前提にすれば、却って躓くばかりだ。必ず出口は用意しておかねばならん。王に限らず、身分ある人物の肉体は、治める地域の安定と直結しているものと心得よ。過ちを犯すまいと思うより、安全なところで過ちを犯すべきなのだ。そこで一人や二人、ただの女を犠牲にしたところで、なんだというのか。ましてや一切が済んだ後に約束通りの金銭を与え、その後の暮らしを保証してやるのなら、踏みにじったことにもならん」


 理屈として納得はできる、が……


「といって、お前の元の主人はサフィスだが、こちらには任せられんからな。あいつはまだレーシア湖にいる。それと、その他のエンバイオ家の人間は、今はトヴィーティアだ。王都の屋敷には、フーリン家の連中しか居残っておらん」

「えっ」


 時間ができたら、久しぶりにリリアーナとナギアに挨拶しようと思っていたのだが。してみると、家中の権力闘争は完全にフーリン家を中心とした守旧派の勝利で終わったか。なら、今、一番あそこで偉いのは、帝都への留学さえ難しい、あのルードか。

 どちらにせよ、サフィスが俺のために、都合のいい女をあてがってくれるなんて、想像つかないのだが……


「万一のことがあってはならんしな。私自身のためでもある。なんなら私がお前に用立ててやろう。貸しと思う必要もない」

「い、いや、それは結構です」


 反射的に、俺の中の倫理観がそう叫ばせた。


「なぜだ?」

「僕、もう婚約してるんですよ」

「ヒジリは王女であろう。素性がそのままその通りであればだが。なら、それくらいの弁えはあって然るべきだ」


 いや、でも、それで納得するわけにはいかない。


「それに、ここまで僕を支えるためについてきてくれたノーラのこともありますし」

「だが、お前はヒジリと婚約したのだろう? わけがわからんな」

「こちらが望んだわけではないですから」

「ふん、なるほどな……では、お前はノーラに義理立てして、他の女を寄せ付けないというわけか」


 彼は面白くないと言わんばかりに顔を引き締めた。


「そう一言で言い表せる関係でもないんですが」

「くだらん考えだ。女の熱情など何年も続きはせん。それともノーラだけは特別だと、そう信じているということか?」


 信じている……

 そうかもしれない。でも、そこは少し違う。彼女が俺を裏切るかもしれない、という可能性は、既に俺にとってはさほど重要ではなくなっていた。


「そうでもない、ですね」


 自分でも想像しなかったほど、静かな声が口から洩れてきた。


「ふむ?」

「裏切られたとしても構わないです」

「何を馬鹿なことを」


 理解できないとばかり、彼は肩をすくめ、両手を広げた。


「お前は裏切られないと固く信じているのだな? そうなった時のことを想像できないのだ」

「そうではなくて、もう十分に尽くしてもらったと、だからこれ以上、何かを求めたいとは思ってない、というだけです」


 本音だ。一度は見返りなしに命を懸けてくれたのだ。

 たとえこの後、俺の人生にどんな未来が待っているにせよ。既にこの上ない恩恵を受けているといえる。


「そうか」


 嘆息しながら、タンディラールは頷いた。


「羨ましいことだ」

「はい?」


 彼は立ち上がり、それからどうするつもりだったかを忘れてしまったかのように、歩き出そうとしてまた立ち止まった。もう一度、息をついて、それから玉座の裏を指し示した。


「外に出よう」


 相変わらず静かな夜だった。ただ、上空ではゆっくり風が流れているらしく、頭上の雲はほとんどなくなっていた。存在感のある金色の月は、ほとんど満ちていた。その輝きは夜の太陽と呼んで差し支えないほどで、それを取り囲む星々はくすんでしまっている。


「およそ二ヶ月前だ」

「はい」

「クッシュロキア公が死んだ」


 フミール王子のことだ。


「死んだのではなく」

「無論、私がそうさせたのだ。今まで生かしておいたのも、利用価値があったからでしかない。私も自覚はしている。相当強引なやり方でこの国を動かしているからな」

「そういえば」


 王都に来る途中の農地。四年半前とはまるで景色が違った。


「レーシア湖の水道事業は、うまくいっているようですね」

「誰の目にも明らかなほど、開発が進んでいるだろう? だが、その過程で多くの木っ端貴族から、既得権益を引き剥がしてきた。その不平不満からくる期待は、いまだ存命のもう一人の王子に向けられる、というわけだ」

「で、反乱分子を誘い込むのに利用した、と」

「そうだ。あれで案外、引き寄せられる間抜けが多かったのもあって、計画より長生きさせることになったが……ただ、本当に反乱を起こされてはたまらない。それに、どのみち、あれは葬り去るつもりだった。予定通りに、そう、予定通りに……最後はでき得る限りの汚辱に塗れさせて、死に追いやった」


 少し珍しい顔をしている、と思った。

 タンディラールは、これで意外と感情を表現はする。ただ、それはどこかねじくれていて、皮肉笑いだったり、相手を挑発したりと、どこかで角を曲がらないと理解できない形をしていることが多かった。だが、この件については、単純極まりない怒り、憎しみが滲み出ていた。


「殺しても満足していないように見えますが」

「そうとも。奴は……私の最愛の人を奪ったのだから」


 少し驚いて、思わず振り返った。


「あまり詳しく話すわけにはいかんのだがな」


 そう言いながらも、彼は簡単には説明した。


「ちょうどお前くらいの頃、帝都留学の一年前だ。当時は兄……もう一人のマオット王子も存命だった。よもや自分が王になることもあるまいと思っていたあの頃が、今にして思えば、一番気楽だった」


 彼は夜空を見上げた。


「あの夜も、今夜のように月が美しい夜だった。父と共に夜会に顔を出した彼女が、たまたま一人で夜風に当たっていた時に、巡り合ってしまったのだ」


 彼には似合わない話だと思った。だが、よく考えてみれば、当時は十四歳なのだ。しかも、王者としての自覚もない。


「幸い、彼女の家は男爵、しかも領地のない宮廷貴族の家柄だった」

「身分がほどよく低いと……王の弟なら、大貴族の娘をもらうのは望ましくない、ということですね」

「そうだ。だから婚約も夢ではなかった。これから彼女と一緒に帝都に留学し、帰国と同時に結婚。小さな公爵家を構えて王国に奉仕しつつ、慎ましく生きる人生が待っていると、そう思っていた。だが」


 チーレム島に向かう船に乗った時には意気揚々としていた彼が、運命の変転を知るのは間もなくだった。


「最初に気付いたのは、学園のどこにも彼女の姿がないことだった。だが、それについて問い合わせようと思った時、本国からの連絡が二つ、届いた」

「それは、もしかして」

「知っているのか」

「ウェルモルドが少し、話してくれましたが」


 彼は頷いた。


「なら話は早いな。兄のマオット王子が毒殺された。もちろん、表向きには急病で亡くなったことになっている。それをしたのも、あの馬鹿王子だった」

「そのせいで立太子されたのですね」

「そういうことだ。本当に、奴はどこまでお前に語ったのか……まぁいい。他所で喋っていい話ではないことくらい、承知していよう」


 そんな知らせが届いたのでは、留学どころではなかっただろう。


「夏季休暇を待たず、私は大急ぎで船に乗った。兄の死も立太子の件も問題だったが、ではなぜ、彼女が帝都に来なかったのか。だが、帰国した私を待ち構えていたのは、父と……父が選んだソルニオーネだった」


 侯爵家の令嬢との縁談は、とても断れるものではなかった。もはやただの王子ではない。太子なのだから、妃にもそれなりの家格が求められる。しかもセニリタートは、まだ留学中の彼に、一刻も早く男児を挙げるようにと強いた。いささか乱暴ではあるが、これはセニリタートに分がある。せっかく三人も王子がいたのに、一人が死に、一人が廃された。タンディラールに何かあっては、王統が途絶えてしまっても不思議はない。

 あれよあれよという間に結婚式が挙げられてしまった。では、初恋の人は?


「やっと自分の時間が取れるようになってから、大急ぎで彼女の身の上を調べた。そうしたら……呆れるしかない。あの馬鹿王子が我が物としていたのだ」

「そんなことができるんですか」

「考えてもみろ。当時はフミールが太子だった。それが疑心暗鬼に駆られて弟を毒殺しはしたが、そうするまでは立場が保証されていたのだ。そんな次期国王から、側妾にしたいと強く言われて、どうして木っ端貴族が断れる?」


 つまり、家の存続を第一に考えた男爵が、フミールの脅迫めいた要求に屈して、彼女を差し出してしまった。ところが直後、マオット王子の毒殺事件が起きてしまい、セニリタートはフミールを見限って、留学中のタンディラールを太子に据えた。


「彼女は実家に送り返されていた。だが、かつての彼女は、まるで初夏の日差しの下で咲く百合の花のようだったのに」


 そう言って彼は首を振った。


「男爵はすっかり怯えていたよ」

「無理もありません」

「急に状況が変わってしまったのだ。フミールが放り出した娘はもう傷物、どこにも引き渡せない。そんな中、薄々彼女と交際があったであろう私が顔を出したのだ。まだフミールの側にも逆転の目はあったものの……あちらの派閥の人間とみなされたのでは、お先真っ暗だろうからな」


 彼は瞑目して、呟いた。


「だが、まるで幽霊のようになってしまった彼女でも、私は……」


 彼にとってのこの一連の悲劇が起きた年。スイキャスト二世の暗殺の一年後で、ネッキャメル氏族によるトーキア襲撃事件の四年前だ。そしてこの十年後には、トーキアは王領に組み込まれ、一連の事件に一応の決着がついた。


「どうなさったんですか」

「男爵は、好きなようにしてくれていいと言った。だから帝都に連れ帰った。既に彼女の留学は取り消されていたが、せめて華やかな帝都で元気になってくれればと……私の気持ちは変わらなかった。だが」


 苦々しげに、彼は言った。


「以前のように笑ってくれることは、もうなくなった。帰国してからはずっと後宮の日陰暮らし……そのまま土の下だ」


 死因は、とは訊けなかった。自殺かもしれない。或いは、運命の変転に耐えられずに心身が衰弱した結果かも。もしかすると、宮廷内の悪意ゆえに毒殺された可能性もある。どちらにせよ、この一連の事件が影響してのことなのだろう。


「彼女が、私の愛した……最初で最後の女性だったのかもしれない」


 そして、ここから今のタンディラールに至る日々が始まったのだ。


「王太子になってからは、私はただ、自由のない人生を受け入れてここまで生きてきた。表向きは明るく振る舞いもした。他の学生達と馬鹿騒ぎもしてみせたし、酒を片手に徹夜で語り合ったりもした。だが、私は私の役目を忘れたことはなかった」

「役目? ですか?」

「私の後に学園にやってきた……サフィスもそうだ。後に私の臣下となるはずの若者達を、じっくりと観察した。私は彼らに愛されなければいけない。彼らが心を寄せるように……それでいて私だけは冷徹に彼らを評価していた。彼らが笑っていたら、私も笑う。だが、心から笑うことはなかった。そしてその結果が……」


 彼は両手を広げた。


「どうだ? この華やかな王宮は? 王都の南に広がる田園地帯は? いまや都は潤い、誰もが私の善政を称えている。善き王、タンディラール! 誰からも愛される王、タンディラール! これは素晴らしいことだ。恵まれている。世の人の大半は、ただ人から愛されるためだけに、その人生の大半を使い切ってしまう。しかも、そうまでしても、やはり愛されはしないのに。だが」


 広げた手を、力なく下げ、俺に振り返った。


「万人に愛された私に、何が残る?」


 答えられなかった。

 彼は、愛されはしても、愛せないのだ。愛といい、富といい、およそ人が喜びとするものすべてが、毎日、凄まじい勢いで流れ込んでくる。けれども彼は、その喜びを貯め込むばかりで、どこへも受け渡すことができない。

 誰からも尊敬され、愛されながら。これほど孤独な身の上があるだろうか?


「それでも、私は王だ。王は、契約の網の目の上にあるから王なのだ。契約を確かなものにするのは信頼だ。だから、私は愛され、求められ続けなくてはならん。王として生きるなら、恐らくこれで正しいのだ」


 彼は、ここから降りられない。だが、それが彼にとって幸せなことかといえば、そんなはずはない。


「どうしてこんなお話を?」

「わからん。急に言い残しておきたくなった」

「そんな、縁起でもない」


 まるでこれから死のうとしているかのようではないか。

 彼は皮肉な笑みを浮かべて首を振った。


「実を言うとな」

「はい」

「死を望まないでもない」

「やめてくださいよ」


 玉座にあると、急速に老いる、か。

 自由のない中、重責ばかりがのしかかる。ずっと昔の初恋の思い出が、唯一、彼の自由になる箱庭なのだ。


「私が数々の悪事に手を染めてきたことも、お前は知っていると思う」

「ええ」

「敵対者を炙りだし、葬り去るために何千という命を犠牲にした。他にも、ありとあらゆる陰謀に手を染めてきたとも。だが、私はそれを過ちだとは思っておらん。また、王者であるなら、それを過ちだと考えてはならん。およそ私が王として必要に駆られてしたことに、一切の罪悪感はない。それが我が身を罰することもあり得ない」


 その時、彼は見たこともない表情をした。本当に恐れおののいているかのような、まるで罪を懺悔するかのような。


「だが、一つだけ……私は、一つだけ、道を踏み外した。決して許されない過ちを」

「陛下?」

「もしかしたら……もしかすると、その過ちが、私を殺してくれるのかもしれない」


 不吉な物言いに、言い知れない不安が胸に忍び寄ってくる。


「そんなことになったら」

「この国にとっては災難だろうな。無論、そうはさせん。私なりに最善を尽くすつもりだとも」


 もう、彼の表情はいつも通りだった。


「だが……もしその日がきたら、きたとしたら、きっとその時、やっと私は人間に戻れるのかもしれない、とも思う」


 哀れな人だ。すべてを持っているのに、何一つ持っていないのと変わらない。

 けれども、俺に感慨に耽る時間など与えず、彼はさっさと元通りになっていた。


「余計な話をし過ぎたな。とにかく、お前に言っておきたいことは一つだ。今日からは支配者としての自覚をもて。とはいえ、来春からは帝都留学だ。三年間の猶予がある。その間は、若者らしく過ごすがいい。大きな問題を起こすのでもなければ、口出しする気もない。それと」


 彼は腰に帯びていた剣に手を添えた。鞘ごとベルトから引き抜くと、俺に差し出した。


「これは祝いの品だ。いや、お詫びの品と言った方がいいか?」


 柄は黄金色。その柄頭には大粒のルビーが嵌めこまれている。そっと引き抜いてみると、剣身は青白く輝いていた。


「以前にも騎士の腕輪を与えた際、短剣を授けはしたが、場所柄によっては、あれを佩いていくのでは少々格好がつかないこともあるだろう。実戦の道具というより身分に見合った飾りだが、それも使いようだ。帝都では武器の携帯も制限されることがあるし、暴力沙汰も厳禁だ。短剣の方とは違って、この長剣を携帯できる機会は限られるはずだが……これまでの旅とは違った戦いを、うまく生き抜くのだな」


 どんな顔をすればいいかわからない。そんな俺に、彼は悪戯めいた笑みを浮かべて言った。


「そんな宝剣一つで買い取れるとは、やっぱりお前は随分と安いらしい。これから荒れ果てたティンティナブリアの復興を押し付けられるというのに」

「陛下」

「はっははは!」


 不思議な関係だと思った。好悪だけでも利害だけでもない。一応は主従だが、忠誠を誓ってはいないし、誓われていると思われてもいない。なのにいつの間にか、こうして笑い合ったりもしている。


 ああ、そうか。彼は俺に同情しているのだ。そして俺もまた。

 そして、一緒に重荷を引き受けて欲しいのだ。責任を負うべき身分という重荷を。

 それを思うと、彼を嫌いにはなれなかった。或いはそう思わせることも含めて「愛されるタンディラール」なのかもしれないが。


 それにしても静かな夜だった。月明かりは、あくまで優しげだった。いつまでもこのひと時が続くかと思うような。

 夜が明ければ、またすべてが現実に引き戻される。俺は手続きを済ませたらピュリスに帰り、それからティンティナブリアに向かわなくてはいけない。それから留学までの半年以上の時間を、多分、領主としての仕事に費やさねばならなくなるのだろう。

 けれども今は、そんな現実の狭間にある、安息の時間なのだ。


 いつかの夜に感じた、あの感情がまた、甦ってくるのを感じた。

 言葉にならない、言葉にしがたい……祈り。


 願わくば、あるがままであれ。

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