支配者の眼差し
静かな夜だった。王宮の入口にある噴水が、月明かりの下に佇む妖精のように見えた。風一つなく、水音の他には何も聞こえてこない。多少の雲はあるが、頭上に懸かる金色の月は、まるで太陽に成り代わったかのように、沈黙を従えて夜空を圧していた。
謁見の間に立ち入るまでの広々とした石の床を、一人歩く。不思議な気分だった。三年前にここを歩いた時には、もっと緊張していた気がする。今は解放感しかなかった。
日中は、むしろ屋外より輝かしかった謁見の間の入口も、真夜中にはまるで洞窟の入口のようにしか見えなかった。でも、ただそれだけ。かつては伏魔殿のように見えたこの場所も、今は主なき洞穴に似ている。それでも、奥へと踏み込んでいくとすぐ、小さな灯火が遠くに見えた。
以前と同じように、タンディラールは玉座に腰かけて俺を待っていた。目は閉じている。
こうして暗がりの中で彼を観察すると、気付けることがある。初めて出会ったのはサフィスの供回りとしてだった。その時には、獅子にも似た男だと感じたものだ。それは今でも変わらないのだが、ただ……彼も老いたのだろうか? 玉座を占めてから五年にもなる。日々の激務と重責が、彼を苛んでいるのかもしれない。
自分の気持ちの変化に、軽い驚きを覚えた。俺は今、彼の身の上を思いやっていたのか。
「ファルス・リンガ、参りました」
声をかけられて、彼はゆっくりと目を開いた。こういう小刻みな時間さえ、彼にとっては貴重な休憩時間に違いない。
「もう、それでは名乗りをあげたことにはならんぞ?」
そうだった。ティンティナブリアの地に封じられた以上、封土に応じた呼称も併せて用いなくてはならない。
「改めて……名誉の叙爵だ。それも一代貴族ではない。おめでとう」
「ありがとうございます」
皮肉がこもっているのは重々承知で、俺も心のこもっていない感謝で応じた。
「くっ、くくっ」
力の抜けた笑いを漏らしながら、彼は椅子の上で背中を丸めた。
「いきなり本題を切り出してもよいのだが」
「はい」
「まずは恨み言を吐き出しておきたい」
そう言いながらも、彼は笑顔のままだった。皮肉たっぷりではあったが。
「少しだけ、気持ちをほぐそう。ファルス、よくも歴代の王達の努力を無にしてくれたな」
懐かしいやり取りだ。いや、これは彼のルーティーンなのかもしれない。
ただ、この件については、ただのウォーミングアップでは済まない話なのだが。
「やっぱりご存じでしたか」
「あれでお前の仕業とわからねば、とっとと退位してグラーブにこの座を譲るべきだな」
「仕方ありません。手を出してきたのはあちらですし、それに」
「それに?」
俺は肩をすくめた。
「どこまでご存じかはわかりませんが、あの紛争もパッシャの手引きだったんです。翌年のポロルカ王国の件もご存じでしょう。あれの下準備だったんですから」
「そうか」
彼は頷いた。
「だが、おかげで私は食事も喉を通らなかったぞ」
「それは気の毒なことでした」
「笑い事ではない。これでもう、赤の血盟は我が国に勝るとも劣らない力を得てしまった。関係も決していいとは言えない。むしろ長年の努力が裏目に出て、恨みさえ抱かれておるだろう。となれば、私としては」
その瞳が、強い光を帯びていた。
「どう転んでも、お前を抱え込むしか道はなかった」
そして、鼻で笑った。
「貴族になれてよかったな」
「そうでもないです」
「ほう?」
ただでは転ばない。やっぱり彼は狡猾王だ。
「一石二鳥といったところでしょうか? キトの税収をまるまる利用できるリンガ商会は潰せない。僕のことも、ティズとの関係を考えたら厚遇せざるを得ない。だったら、僕に実の伴わない名誉を与えて、利用し尽くせばいい。あれからどうなったか、状況を把握はしていませんが、多分、ティンティナブリアの復興は進んでいないんでしょう? オマケに、僕に与えた爵位は男爵で、土地の格に見合ってない。要するに、復興をやらせるだけやらせたら、しまいには伯爵まで格上げさせて領地は献上させるつもりなんですよね」
そして俺も、一切を承知で、おとなしく爵位を受けたのだが。
タンディラールは口元を歪めた。
「お前一人の利益より、領民どものそれを、王国の安定と未来を優先して何が悪い?」
「困ったことに、何も悪くないですね」
俺も頷いて、無駄を承知で決して受け入れられないだろう提案をしてみた。
「こうしませんか。リンガ商会は王家に譲ります。条件は、商会のみんなにこれまで通りの暮らしをさせてあげるだけで結構です」
「見返りに何を求める」
「何も。僕は爵位を返上して、今後は誰とも争わずに、ピュリスの片隅で焼き鳥屋を営業して余生を過ごします」
「ヤキトリ? なんだ、それは」
俺は人差し指を立てて説明した。
「鶏肉を串で焼いたものですよ」
「なんだ、串焼肉か。そんなものなら、王都にいくらでもある」
「ただ、特別なタレが必要なんです。生きているうちに再現したいですね」
この世界に醤油はなかった。なら、俺が発明するしかない。やりがいのある仕事だと思う。
「巨万の富や貴族の地位を返上してまで作る料理なら、さぞうまいのだろうな?」
「ええ、それはもう」
「だが、却下だ」
彼は苦笑いを浮かべながら首を振った。
「いったい何をしでかした」
溜息をつきながら、彼は目元を覆った。
「モゥハの鱗だと? そんなものを持ち出させるくらいだ。余程の事情があったのだろう」
「よかったですね。他のどんな宝物より値打ちがある」
龍神がタンディラールこそ、真のフォレスティア王だと太鼓判を押したようなものではないか。ヤノブル王がこれを知ったらどんな顔をするだろうか。
「それにあのヒジリといったか。あれは私でもわかる。只者ではあるまい。何をどうすれば、あそこまで睨まれるのだ」
「いろいろ知りすぎて、やりすぎたということですよ」
「そうだろう。お前の逃げ道を断つために、敢えてそれなりの身分を与えたくてあのようにしたのだ」
わかりやすく喩えるなら、結婚式と同じだ。
モゥハは、俺という存在が、呪いを齎すためにモーン・ナーが送り込んだ異物であると承知している。だからといって閉じ込めてやる、いざとなったら殺してやるなどと迫ったら、俺はどうするだろう? 最初はおとなしく従っても、息苦しさゆえに、そのうち背く可能性も出てくる。使徒のような危険な連中も、そこに便乗しようとする。
だから、表向きは素晴らしいものでいっぱいにするのだ。本当は俺を暴発させたくないから、モーン・ナーの思い通りにさせたくないからでしかない。それでも、美しい姫君や貴族の身分を宛がわれれば、普通は彷徨う足も行き場を失うというものだ。
もっとも、俺はそうした腹積もりも見抜いているつもりだし、彼らが差し出したプレゼントにも、まるで魅力を感じていない。世界の安定を望むものが、俺に首輪をつけるのは当然だと思うから、逆らわないだけだ。
「それも承知の上か」
「はい」
「道理でな」
タンディラールは静かに息をついた。
「お前の態度が以前とは違う。角が取れたと言おうか……燻る炭火のような、あのしつこく居残る怒りを、今は感じない」
そこで座り直し、背筋を伸ばすと、彼ははっきりした声で俺に確認した。
「旅は終わったのか」
「はい」
「ならば宿題の答えを聞かせてもらおう」
いよいよ、彼の問いに答えるべき時がやってきたのだ。
「まさか忘れてはおるまいな」
彼はいよいよ双眸を見開いて、俺を凝視した。
「取引が、人間の本質的な営みであるのは、なぜだ?」
ヒントならあった。それは、俺が体験したこの四年半の旅の中に。
取引とはなんだろう? それは契約だ。かくかくしかじかのものを、このようにすべしという取り決めだ。思えば、この旅に出る前、まさしくタンディラールからこの宿題を出された時にも、俺はそれを幻視していた。蜘蛛の巣のように張り巡らされる契約の糸、それが彼を中心に世界中へと広がっていた。
この糸は、しばしば理不尽な結ばれ方をしている。魔宮の中では、ただそうと定められただけで虐げられていた人々がいた。
だが、それが断ち切られた場所では何が起きたか? 人形の迷宮の中は無法状態に陥った。ひとたび休戦協定が破られるや、東部サハリアは血で血を洗うこの世の地獄となった。元々、何者もこの糸に縛られない南方大陸西部では、誰もが怠惰で、気まぐれだった。
この糸は、人を不幸にすることがある。と同時に、これがなければ人々はもっと不幸になる。
「……うまく言い表せるかわかりませんが……ミルークが述べたのは、まさにそれそのものだったと思うのです」
「ふむ?」
「取引がなければ、契約がなければ、人は人でいられなくなる。現にそうでした。大森林の奥地を探索した時、発見した財宝を独占するために、殺し合いが起きるのを見ました。でも、結果として、そうまでして奪い合った財宝を手にした人は、誰もいなかったのです」
契約がない世界。それは社会がない世界だ。
「ポロルカ王国では、違った意味で似たものを見つけた気がします。あの国に立ち入って間もない頃、街を見て回るのに、馬車を借りました。でも、お金はしっかりとる、いいえ、吹っかけるのに、こちらがどこに行きたいかも伝えているのに、まったく話を聞いてくれないのです。結局、適当なところで放り出されてしまいました」
「うむ」
「ラージュドゥハーニーには、一応の取引はありました。でも、それは物凄くやりにくくて、遠くて……それが通用するには身内の間だけで、少し縁遠くなると、もう取引より奪い合いの世界になってしまうのです。でも、そのせいで損をしているのは、きっとこちらだけではなかった。あれは、あの国は、いくつもの小さな社会が……それこそ身分ごとに、薄っぺらに切られたハムのような社会がいくつも別個にあるのだと思います」
タンディラールは、わざとらしく肩をすくめて尋ねた。
「それが何か問題か?」
「大問題です。想像してみてください。僕と陛下が、それぞれこの国の森林地帯に一人で分け入っていくとします。周りには誰もいない。自分一人で山菜を探し、獣を仕留め、或いは森の中に畑をこさえて暮らしていくのです。裕福な暮らしができると思いますか」
「思えんな」
「でも、僕と陛下が同じところにいれば、より安全で、より豊かになれます。僕が眠っている間、獣が来ないかどうかを陛下が見張っているし、逆もそうだからです。一人で森の中で眠るとき、狼や熊が、そんな約束を守ってくれるなんてあり得ません。それにまた、生き抜くための仕事を分担することだってできます。例えば僕は狩りが、陛下は弓や矢を作るのが得意だとしたらどうでしょう? 僕は自分で狩りのできない陛下の足下をみて、吹っかけるかもしれませんね。横暴で不公平です。でも取引をしないなら、二人揃ってもっと貧しくなる。それでは人間も獣のようにしか生きられない」
「もうよい」
彼は頷いた。
「纏まってはおらんが、まぁ、及第点といったところか」
そう言いながら、タンディラールは立ち上がった。
「それを突き詰めて考えれば、私が帝都を否定する理由もわかろうものだ。お前は今、取引の重要性を力説した。それがなければより貧しくなるし、危険にもなる」
彼は腕を突き出した。
「人間の王者の手を見るがいい。剣を握るのでなければ、野良犬一匹、殺せやしない」
「はい」
「獣は獣でも、実に弱々しい。それが人間だ。だが、野良犬さえ殺せぬはずの私が、無数の契約の網の目の上にあるがゆえに、何千という兵士を動員し、彼らに鋼鉄の剣を持たせ、魔物の群れを討ち滅ぼすことさえできる。お前が言ったのは、まさにこのことだ」
「その通りです」
俺に向き直ると、彼は付け加えた。
「もう一つ、お前は重要なことを言っていたな。狩りが得意なお前と、道具作りに長けた私。そう、それが人間だ。これがもし、私とお前がめいめいで自分の仕事をするばかりだとしたら、非効率この上なかっただろう。自分だけで弓を作り、自分だけで獲物を追う。だが、二人でいれば、私達はそれぞれ自分の仕事だけに専念できる。いつしかお前は狩りの、私は弓作りの達人になるだろう。これも取引があればこそだ」
彼は自分の目元に人差し指を当てた。
「これを王者の目から眺めると、こうなる」
長々と語ったことを、彼は実に簡潔に纏めてみせた。
「人は皆異なる。ゆえに不平等だ。互いに異なるがゆえに取引を必要とする。その取引は必ず不公平だ。だが、そんな契約でできた網こそが社会なのだ。ならば社会は必ず差別の体系となる」




