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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第四十章 小帝都にて
847/1082

彼らしい詩

 その宿の二階は、普段は宿泊客に食事を供するのに使われている。この少し高い場所から、運河を行き来する小舟を眺めるのは、心配事のない旅人にとっては、ちょっとした楽しみにもなるのだろう。だが、今の俺とノーラは、少し落ち着かない気分だった。

 今朝、ユンイの邸宅に乗り込んで、彼の秘密の手紙の数々を引っ張り出し、公衆の面前で焼き捨てた。そのまま街を出てやろうと思ったのだが、フィラックとホアが当局に拘束されたままでは出発できない。脅迫者の処分は済んだのだし、しばらくすれば戻ってくるだろうということで、俺達はついさっき後にしたばかりの宿に戻って、もう一泊させてくれるようにと頼み込んだ。


 何とも言えない気まずさだった。

 あの最低の男、顔だけきれいで行いは不潔そのものの男が、ノーラの父親だった。いや、わかっていたことだ。彼女の母を強姦した無法者だったのだから、どうせこんなものだった。けれども、それを目の当たりにしてしまったら。しかも、俺達自身の手で引導を渡してしまった。

 結局、スッキリしない問題も残った。では、俺はノーラの弟なのか? そうではないのか?


 ノーラは、俺よりもっと憂鬱そうな顔をしていた。

 こうなると、変な疑いが頭を擡げてくる。さっきノーラはユンイの心を読んだものの、俺の親と関係があったか、手掛かりを探したがわからなかったと言った。これは事実か?


 だが、今日まで彼女を支えてきた夢は、なんだったのか。今までそれどころではなかったから、あえて意識から追い出していたのだが、昔、俺に語ったままの想いを抱き続けていたのだとすれば、ノーラの目標は「ファルスのお嫁さん」だ。

 無論、俺が別の女性を選んだら、その時は俺の意志を尊重する覚悟だった。もしそうなっても、彼女は俺を人の世界に連れ戻すという目標を捨てたりはしなかっただろう。とはいえ、簡単に割り切れるような思いではない。この街に来た夜だって、一番安い腕輪を買っただけであの喜びようだった。


 では、仮にユンイの記憶から、彼がリンガ村で俺の母親らしき女性と関係を持ったという事実が読みだせていたとしたら? もちろん、ノーラは俺の母親の顔を知らない。それでも可能性を手にしていたら?

 読み取った記憶を俺の記憶と照合する? まさか。最悪の場合、俺の意思とか、気持ちとか、そういうもの一切と関係なしに、彼女の夢は断ち切られることになる。しかし、事実を明らかにしないなら、それはそれで悩み続けることになるのだが。


 ただ、実際にユンイがリンガ村に立ち寄っていない可能性もまた、少なくないのだ。というのも、ティンティナブリアからコラプトに向かうなら、南東寄りの出口からあの盆地を出なくてはいけない。リンガ村があるルートというのは、キガ村やヌガ村がある方面だ。先の強姦事件を意識してコラプト周りでピュリスに向かったのなら、ユンイが帰路にリンガ村に立ち寄ったというのは、あり得ない想定になる。

 では、行きの時に寄ったのでは? それはもちろん可能だが、そうなると、俺とノーラの誕生日の差が説明できない。ユンイが数ヶ月間もあのティンティナブリアの田舎に留まっていたはずはない。やはり先に聖都に行ってから、すぐさまクララに手を出して、また大急ぎで逃げてきたに違いないのだ。


 結局、何が真相なのかはわからない。ノーラの記憶を無理やり引っこ抜くのは憚られる。お前を信じていないんだと言わんばかりではないか。それに肝心のユンイ自身にとっても、十年以上前の記憶なのだ。


 まぁ、慌てることはない。どうしてもとなったら、またユンイを探し出して、記憶を抜き取ればいいのだから。

 それに俺は、どう転んでもノーラの夢が実現しない未来を想定している。モゥハが俺を殺したり封印したりすることを期待しているのだから、むしろ彼女が望みを捨て去る理由ができてくれた方がいいという、歪な考えもあるのだ。


 生ぬるい夕方の微風が頬を撫でた。そろそろ空の色に黄色いものが混じりだしている。もうしばらくしたら、俺達はここを立ち退かなくてはいけない。宿の人が夕食の準備を始めるからだ。


「やっぱり、南の水門まで出かけてくる」


 一応、昼間に一度役所まで行って、フィラック達に宿に戻ったことを伝えてくれとは言ってきたのだが、ちゃんと伝達されている保証はない。だったら、今朝、別れた場所まで行って、二人が俺達を待っていないか、見に行く方がよさそうだ。

 それで俺は席を立ち、廊下に出ようと一歩を踏み出した。その時、階下から足音が響いてくるのが聞こえた。狭く薄暗い階段を譲るつもりで立ち止まっていると、そこから見えたのはフィラックの白いターバンだった。


「おっ」

「お疲れ様」

「おう、なんか急に出してもらえたぞ」


 もともと言いがかりのような理由で捕まっていたので、出てくるのも簡単だった。なんでもチュエンの入市税というのは、市外に出るまでに支払えばいいという規則になっていたらしい。それも、商売絡みでないフィラック達にかかる税金は、実は銅貨二枚。銀貨一枚というのは、商用で市内に入った人に課せられる額なのだそうだ。実際には、市外に出ようとしたときに、船頭から「税金払ったか」と確認されてから、慌てて近くの出張所で支払いを済ませればいいものだった。

 だが、そういう無法も、本人の切り札がなくなったという事実が広まれば効力を失う。それでやっと二人も解放されて、ここまで戻ってくることができた。


「で、どうする? さすがにこの時間だしなぁ」

「出発は明日にしよう。もう、無理して急ぐ理由もない」


 翌朝早く、今度こそチュエンで最後の朝食を済ませ、南の水門に向かって歩き出した。

 アーシンヴァルの手綱を引いて、路地に踏み込んだ。普通、小舟に乗る方が早いのだろうが、馬の大きさを考えると、陸上を行くほかない。この早い時間だというのに、路地には既に、数人の売り子が並んで立っていた。この街に来た時に見た、あの蒸しパン屋も営業中だった。


「おはよう!」


 売り子の娘は、満面の笑みで俺を出迎えた。


「おはようございます」

「おひとついかが?」

「えーっと、そうですね、せっかくですから戴きます」

「はい!」


 一つだけ買って味見してやろうと思っていたのに、どういうわけか、彼女は前から手渡すつもりで準備していたらしい。紙袋にまだ温かさの残る蒸しパンが詰まっているのを、ひょいと差し出された。


「この街を出るんでしょ? お弁当にでもして」

「ええと、おいくら」

「タダ、タダ! 気にしないでいいから!」


 どういうことだろう? ともあれ、好意に俺は頭を下げた。

 ところが、この奇妙な異変は、なおも続いた。少し先の店の軒先に立つ娘が、俺の袖を引いたのだ。


「ちょっといいかしら」

「は、はい?」

「せっかく男前なのに、南の方は暑いのよ? 日差しで肌が荒れちゃうし……うちの香油はいかが?」

「えっと」

「はい、試供品だと思って、使ってみて!」


 どうもおかしい。俺達は顔を見合わせた。

 それからも路地を進むごとに売り子の娘に声をかけられ、その都度、荷物が増えていった。到底、俺だけでは抱えきれず、アーシンヴァルの背に荷物を括りつけてから、後ろにいるフィラックやホア、ノーラにも持たせた。


「もう持てないぞ」

「両手が塞がったままじゃ、どこにも行けねぇよ」


 そう話し合っていると、一人の男が俺達の行く手を遮った。見覚えがある。眼鏡をかけた男だ。あのユンイの供回りの一人だった。


「ファルス、といったな」

「なんでしょうか」

「これから、この街を離れるのか」

「はい」


 彼はやけに神妙な顔つきをしていた。


「済まんが、少しだけ付き合ってくれないか」

「なぜですか。もう僕らはユンイさんとは関わり合いたくないんです。ほっといてもらえますか」

「いや、君には一部始終を見届ける責任がある」

「責任?」


 指先で眼鏡をグッと押し付けて、彼は頷いた。


「責任、というのは言い過ぎかもしれないけどな。心配しなくても、これっきりだろう」


 そう言って、彼は先に立って歩き出した。俺達は目を見合わせたが、仕方なく彼についていった。

 行き先は案の定、ユンイの邸宅だった。表の門も開けっぱなしで、玄関にも鍵はかかっていないらしく、彼は挨拶も声がけもなく、一切の遠慮もなしに奥へと踏み入った。

 家の中は、やけにしんとしていた。人の気配がない。


 やがて、彼はユンイの寝室の前に立った。そこで俺達の前に振り返り、確認した。


「連れてきておいてなんだが、気をしっかり持ってくれ」


 そう言って、彼は扉を引き開けた。部屋の中は……


「うぇっ、なんつうもんを見せんだよ!」


 ホアが顔を引きつらせながら後ずさり、眼鏡の男の肩を叩いた。

 そうしたくなるのもわかる。寝台の上には、枕とクッションに背を預けたままのユンイが横向きに座っていた。ただ、上着ははだけていたし、ズボンも穿いていない。そして、剥き出しの下半身には、あるはずのものがなかった、代わりに赤黒い血溜まりが固まりかけている。その彼の断片はというと、寝台のすぐ下に無造作に転がっていた。上半身にも暴行を受けたと思しき傷跡がいくつか見られるが、致命傷ではない。ユンイの息の根を止めたのは、彼自身の右手が喉の奥深くに突き刺している短刀だろう。


 さすがに絶句した。

 どうしてこんなことに? 脅迫材料を失った。そのことを市民に知られたのだから、俺はてっきり、ユンイがこの街から逃走するものだとばかり思っていたのに。まさか、命まで奪うつもりはなかった。


 そこで気付いた。座り込んだままの彼の右手の壁には、血文字で詩らしきものが書かれていた。


------------------------------------------------------

 ビーチでビッチがピッチピチ

 美女の秘所はビッショビショ

 具合はバッチリ、ポッチャリオッケー

 俺の息子はイキがいい


 いつでもどこでも有名人

 冴えないボッチをブッチギリ

 白い歯見せて微笑めば

 ビッチは叫んでブッチュブチュ


 親父が死んで、気楽になった

 地元のビッチに飽きた俺

 世界の女を抱いてやる

 そうイキごんで、旅に出た


 名前も売れた、女も抱いた

 だけど足りずに足掻くうち

 俺の財布はいつの間に

 パッツパツ、パッツパツ


 帝都のビーチが懐かしい

 俺の息子はイキがない

 気づけばボッチは俺だった

 ビッチ、ビッチ、ピッチピチ


 ビッチビチ

------------------------------------------------------


 なんとも彼らしい詩ではある。

 カネとオンナへの欲望、そして承認欲求の垂れ流しでしかないが、盗作よりはずっとマシだ。


「……ユンイは病死したらしい」


 この異様な言いざまに、俺は思わず振り返った。


「出よう。歩きながら説明する」


 また眼鏡を抑えながら、彼は言った。


 彼はユンイの旧友だったという。少年時代は一緒に遊んだりもしたそうだ。実家がそれなりの規模の商家で、裕福なのもあって、シュウファン家と関わりがあったのだ。


「あの頃のユンイは、ちょっと狡賢いところはあったが、まぁ、頭もよくて活発な少年だったと思う」


 だが、両親が年を取ってから授かった子というのもあり、甘やかされたせいもあってか、帝都に留学する前には、はち切れんばかりの野心家に育っていた。誰も彼に掣肘を加えることがなかったのだ。

 帝都でどんな日々を送ったか、彼は実際には見ていない。ただ、ユンイは青春時代を満喫したらしい。言葉の端々から、当時の奔放な性生活が読み取れたという。

 ユンイが三年間の留学から戻ってきて間もなく、彼の両親は相次いで世を去った。最初は形ばかり喪に服していたが、それが明けると、生来の衝動的な性格を抑えるものは何もなくなった。父が残した莫大な財産を元手に、途方もないものを食べ、途方もないものを飲んだ。そして毎晩のように美女を侍らせ、情欲を満たした。

 ただ、彼は同時に、名声をこよなく愛していた。そこで自分がまだ何も成し遂げていないことを思い出すと、当時の知り合いに声をかけて、西方遠征に出かけることにしたという。


「実のところは、何かやらかして、ほとぼりが冷めるまで逃げ回ってたってとこなんだろうがな」

「同行されたんですか?」

「いいや。でも、その時にユンイと一緒に旅に出た連中は、それきり全員、奴と縁を切ったよ」


 必然だった。旅先で女を見かけるたびに手を出して、現地の人相手に揉め事を引き起こしてきたのだろうから。判明しているだけでもノーラの母と、クララが犠牲になっている。

 帰国してから、ユンイは旅先で目にした風景や、体験した出来事を元に詩や紀行文を著そうとしたらしい。だが、生来飽きっぽい性格でもあり、努力は長続きしなかった。それで彼は、手にしていたクララの詩集を雑に翻訳して、自作の詩として売り出した。中には意味不明になってしまった部分もあったのだが、うまく訳せた部分は、クララの優れた文才もあって高く評価された。

 何も事情を知らない、ユンイの父の知り合いだった貴族院の議員は、友人の一粒種の面倒を見るつもりで、シュウファン家に議席を一期分、割り振った。ここまでは順調だったに違いない。今から十年前の彼は、詩人としての名声と議員としての地位を得て、肩でこの街の風を切っていた。


「でも、それで我慢ができるような奴じゃなかった、ってことだ」


 縁談まで面倒を見てもらっていて、このまま人生は順風満帆……だが、衝動的な性格にはまったく歯止めがかからなかった。議会があるのに前日の夜にたらふく酒を飲んで二日酔いで欠席したり、婚約者がいるのにあちこちで人妻や未婚の娘を抱いたり。あまりのことに、世話をした議員も怒り狂い、彼を見放した。

 だが、下劣な振舞いにもそれなりの見返りがあるというもので、ユンイは他の議員の家の女と密通することで、個人的な秘密を収集することができた。これが材料となって、誰も彼の暴挙を止められなくなってしまったのだ。


「それ、全部知っていて、彼と付き合っていたんですか」

「いや、実はユンイとつるみだしたのは、ここ四年ほどだ。まさかこれほどひどいことになってるとは知らなかった。逆に聞かされたのは……いかに議員どもの連中の頭が固いか、強欲で不公平かってことばかりで、最初は自分もうっかり信じ込んでしまっていたんだ」


 だが、幼馴染とよりを戻してしばらくすれば、その振る舞いのおかしなところにもだんだんと気付いてくる。ほどなくして、彼を含む取り巻き達は、葛藤を抱えるようになった。


「こう言っちゃなんだけど、これでよかったんだと思う」


 ここまでの説明が済んだところで、俺達は中央広場に辿り着いていた。


「あいつもたびたび漏らしてたから。これからどうすればいいかわからないって」


 地に足のつかないことをずっと続けてきたのだ。いくら外見を若作りしてみせたところで、肉体の衰えもごまかせない。性欲だって、実は落ちてきていたのではないか。散々人様に迷惑をかける生き方をし続けてきたが、本人もまた、行き詰まってしまっていたのだ。


「恨みをかってたから……あいつ、妙に打たれ弱いところがあって。お前らに手紙を焼き捨てられてから、家に帰って不貞寝してたらしい」

「不貞寝? 何を暢気な」

「自分も手紙が焼かれた件を聞いて、これはまずいと思って奴の家に行ったんだ。そしたら、女どもの群れが、裁ちバサミを持って殺到していて。寄ってたかって取り押さえられて、まぁ、あとは見た通りだ。けど、女どもも、奴を殺したりはしなくて。自分としては、どうしようもない奴だとはわかっていても、ほったらかしにはできないから、医者を呼んでくるって言って、飛び出して……戻ってきたら、あのザマだった」


 女遊びが何より好きだった男が、財産も使い果たし、切り札だった他人の秘密も焼き捨てられ、性器を切り落とされて、選んだのが、衝動的な自殺だった。


「で、病死というのは」

「奴に意趣返しした女達は無罪放免ってことだ。お偉いさんも脅されてたから、相当、腹に据えかねていたんだろうな」


 そこまで説明して、彼はまた眼鏡の位置を直した。


「一応、君らは当事者だったからな。見届ける責任はあると思って、説明もさせてもらった」

「そうだったんですね」

「でも、あいつが死んだことについては、君らの責任じゃない。それを言ったら、ああなるまで止められなかったこの街のみんな、傍にいた自分の責任のが重い。そう思ってる。悪かったな」

「いえ」


 彼は身を翻した。


「南の水門の外に、馬車が用意されていた。手荷物の件はそれで片付くだろう。旅の無事を祈るよ」

「ありがとうございます」


 それだけで、俺達は彼と別れた。


 南の水門前で入市税を支払い、小舟に乗って城壁の外の岸壁に這い上がると、離れたところに大きな馬車が用意されているのが見えた。誰が用意したのかと思ったが、すぐ考えるのをやめた。

 俺達は言葉少なに立ち働いた。荷物を馬車に積み、アーシンヴァルからは馬具を外すと、御者に出発するよう伝えた。真後ろには立派な城壁が聳え立っている。誰も後ろを振り返ろうとはしなかった。


 こうして俺達は足早にチュエンから立ち去り、スッケを目指すことになったのだ。

四十章、これで終わりです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 手紙を焼かれてから逃げずにふて寝したとこに妙なリアルさがありますな……
[良い点] ユンイの詩が地味に好き。下品なんだけど自分の表現方法でにこいつ自身の心の内を吐き出したんだろうなって内容からなんだかんだこいつも少しとはいえいいとこあったんだな…って。
[気になる点] ユンイのように背景が描かれる屑とロヒブやザモザッシュのように背景が描かれない屑がいること
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