最果ての港町
空が、いつになく青かった。
もうすぐ下船というのもあって、俺達は甲板に出てきていた。突き抜けるような快晴だ。せっかくの天気なのに、薄暗い船室に留まる理由がない。涼しさを感じさせる微風に吹かれていると、それだけで心が洗われるようだった。
陸地も近くなっていて、右手を見ると東方大陸北部の、荒々しく刻まれた入り江が見える。今は初夏というのもあって、ほとんどの部分が緑に覆われているが、海に近い辺りでは低木すら滅多に生えていない。薄っぺらい緑の絨毯の切れ目には、暗い藍色の岩肌が垣間見える。
「なんだか、一気に遠くに来た気がするわね」
明るい陽光と、それゆえに深い影を落とす陸地の起伏を眺め渡しながら、ノーラが呟いた。
頭の中で世界地図を広げてみる。ミッグは、港湾を備えた主要都市としては、最北に位置している。ティンティナブリアより北、フォンケニアやタリフ・オリムと大差ないくらいの北国だ。ここより北にある主要都市となると、アヴァディリクくらいしか思い浮かばない。
東方大陸は、大きく四つの地域に分けることができる。まず最も広大な南東部。チャナ王国が栄えたのもここで、かつてはソウ大帝もこの地域を中心に大陸全体に支配を広げた。暗黒時代の大崩壊、軍閥同士の抗争を経て、今では共和制国家が成立している。北東部には神仙の山があることが知られているが、もちろん人の住む土地もある。南東部の支配を受ける時期もあったが、世界統一前には、ここにも独自の王国が存在していた。また、反対側の南部には現在、ワノノマ豪族の居留地がある。かつては大陸全域がチャナ王国に委ねられていたのだが、偽帝に発する一連の戦乱によって、ワノノマも軍事力を行使せざるを得なくなった。その名残だ。
そして、これから俺達が向かうミッグは、北西部の中心地だ。
「ミッグ、か……」
何か思うところがあるのか、フィラックがポツリと言った。だがその視線は、なぜかチラリと俺に向けられる。
世界統一の四百年前のこと。大勢のフォレス系の人々が、セリパシア帝国の支配から逃れて、東方に向かった。そこで現地にいたハンファン系の人々を征服し、定着した。そうして生まれたのがインセリア王国だ。だが、その独立は長続きしなかった。同時代の大陸の南東部にはソウ大帝がいたのだ。山脈と砂漠に遮られているとはいえ、強盛を誇る大国相手には服属する以外の選択肢などなく、以後、この地域は王国とは名ばかりで、南東部の帝国の属領としての地位にとどまった。
だが、ギシアン・チーレムの出現によって、それがひっくり返る。時の王は、後継者であるはずのナード王子を彼の下につかせ、軍勢まで与えた。サハリア系豪族の支援を取り付けたギシアン・チーレムはティンティナブリア……当時のノヴィアルディニク東部より上陸し、後にロージス街道と呼ばれることになる道を辿ってセリパシア帝国を征服した。ポロルカ帝国も支配下に収め、最後に彼は東方大陸の制圧に乗り出した。南東部の帝国は当時分裂状態に陥っており、その地にいた魔王ゼクエスも、たった一日の戦いで打倒された。
世界統一事業に尽力したインセリア王国の権威は、かつてないほど高まっていた。だが、ここで奇妙な出来事が起きる。何を思ったのか、インセリア王は自ら地位を放棄し、ナード王子を後継者から外した。他に男子がいなかったので、ナディア王女をギシアン・チーレムの部将の一人、チャド・ステイシーに嫁がせ、後継者とした。王国から公国へと格下げされ、以後、インセリア公国は帝都パドマの衛星国家となった。
この不可解な論功行賞については、歴史家の解釈も一致していない。本来なら、インセリア王国が東方大陸の支配者に収まっていても不思議はなかったのだ。一説には、目先の地位より名誉を取ることで、全世界への支配権をもつ帝都での影響力を手にしようとしたのだ、という。確かに、ナード王子はこの後、帝都で議員になったし、救世十二星将の一人にも数えられるに至った。
ただ、それ以上のものは何も得られなかった。ナード王子は子を生さずに世を去ったと伝えられている。インセリア王国の血筋が以後の帝都で権勢を振るったという記録はない。それどころか、統一の三百年後には、アルティ軍との対決で大公の嫡男も戦死し、ほどなく始まった世界規模の混乱によって、インセリア公国の血筋は絶えた。
今でもミッグを中心としたインセリア共和国は、帝都の衛星国家であり、その日々の消費を支える穀倉地帯でもある。
「何か?」
「いや、ファルス、お前」
真顔で何を言うのかと思ったら。
「背が伸びたよな」
「はい?」
「アリュノーで服を新調したけど、もうピチピチになってる」
「まぁ」
彼の視線は、甲板の上で胡坐をかく俺のあちこちに向けられた。
「鎧もなくした」
「もうボロボロになってたし……」
青竜のブレスをまともに受けた時に、肩当が片方外れたのもある。それに、調整しても着用できないくらい、体格が変わってきてしまっている。
「剣もない」
「あれは」
魔宮モーから持ち帰った剣は捨ててもらった。だからこの半年間、俺は丸腰のままだ。
「ミッグなら、冒険者ギルドの大きい支部があるはずだ」
冒険者ギルドの歴史は、各地の傭兵・私兵に対する帝都の一括支配に始まっている。大きな混乱に見舞われたとはいえ、世界統一後は一貫して帝都の支配下にあったミッグなら、間違いなく支部がある。もちろん俺もそれをあてにしている。今後の旅費も、そこで引き出すつもりだからだ。
「いろいろ用立てないか? こう、言ってはなんだが、見た目もみすぼらしくなってきているし」
「そ、そうです……いや、戦う予定はないんだけど」
そこらの職人が打ったような剣なんか持っていたところで、使徒相手に役立つとは思えないが、ないよりはマシか。
「丸腰では侮られかねない。お前が強いのは俺は知ってるが、赤の他人は知らない。それとも何人か撲殺して思い知らせるのか?」
「まさか」
「それにそろそろ、その体つきながら、大人の男扱いされだすだろうしな」
俺の頭からスッポリ抜けていた視点だ。将来など、あると思っていないから。このまま前進すれば、使徒か龍神に殺される運命が待っている。一応、できる限りは立ち向かうつもりで、ピアシング・ハンドの力、つまりモーン・ナーの呪詛に頼って能力を入れ替えておいた。特に体調不良に襲われることがなかったのは幸いだったが、焼け石に水だろう。
できれば同行者には死んでほしくない。だからフィラックには、こっそり高速治癒の神通力を移植した。
「わかりました。じゃあ」
「それと言葉遣いもだ。身分からすれば俺は従者で、ファルスは騎士なんだ。貴族なら、年長者でも身分が下なら、普通はへりくだった物言いをしない。変に礼儀正しすぎたり、腰が低すぎたりすると不自然に思われる。いや、もっとハッキリ言うと……未熟な奴、周囲に頼っている世間知らずのガキだと舐められる」
その面は、これまでもあったかもしれない。残念ながら、謙虚さや優しさを人徳と認めてもらえるのは、強者の特権だ。もしかすると、これまでの道中も、もっと尊大な態度をとっていれば、より多くの人に嫌われはしただろうが、悪意を招き寄せる度合いも小さくできたのかもしれない。
「……わかった。少し雑に振舞うようにする」
「そうしてくれ。但し、服装はちょっとこぎれいにしよう」
ともあれ、これは彼の気遣いだ。ありがたく受け止めて、従うことにしよう。
オムノドのような華やかな雰囲気を期待して船から降りた俺達だったが、波止場の倉庫の横を抜け、海に面した黄土色の城壁を見上げ、薄暗い城門の下をくぐって市街地に立ち入ると、思わず足が止まってしまった。
なんとも無骨な印象の街並みが広がるばかりだったからだ。
これまで見てきた西部沿岸の美しい家々はどこにもない。古びて薄汚れた土壁の上に、黒ずんだ大きな屋根瓦が腰を据えている。どちらかといえば、ハンファン風の建物が多い。敷地を区切る壁のすぐ脇に溝がある。そこに生活排水が流れているのだが、あまりちゃんと清掃されていないらしく、場所によっては悪臭が漂う。
日焼けしたハンファン人の中年男が、額に汗を浮かべ、険しい表情で急ぎ足で通り過ぎていく。ほとんど真っ黒な作務衣みたい格好だったが、すれ違う時に汗の臭いがした。
とある民家の庭に腰かける老婦人と目が合った。彼女は無表情のままにこちらを凝視していた。それでいて話しかけてくるでもなかったが、とにかく不気味でならなかった。
ノーラが周囲を見回して言った。
「北側の高台に行けば、もうちょっと綺麗なところに出られると思う。この辺は港で働く貧しい人が多いから」
そっと声を落とした。
「治安もよくないみたい」
それで俺も理解した。
ノーラは周囲を警戒して、こっそり人の心を読み取ったのだ。で、俺はというと、いちいち魔法に頼らずとも、この土地の人間の不穏な雰囲気には気付いていたが、それがどこに起因するかについて、認識を新たにした。
インセリアといえば、この世界における正義の中心地たる帝都……その忠実な協力者というイメージが先行する。だが、その歴史を振り返れば、そんな清らかなものではないとわかる。
この地まで逃げてきたフォレス系の人々が、土着のハンファン系の人々を暴力で追いやり、或いは支配下に置くことで成立した秩序なのだ。虐げられた人々がやっと自由を手にしてやったのが、もっと弱い人々を虐げることだった。
そして、その力関係は現在までひっくり返ることはなかった。ソウ大帝もインセリア王国から恭順の意を示されたことで満足してしまったし、ギシアン・チーレムの世界統一後は、むしろ身分が固定してしまった。そして偽帝アルティの軍勢も、東方大陸に立ち寄りはせず、チャナ王国の内紛と分裂にも、地理的に隔離されていたせいで巻き込まれなかった。
ステイシーの血統が絶えた後も、社会の上層を占めたフォレス系の人々の地位は揺らがなかった。帝都にしてみれば穀倉地帯を失うわけにはいかないので、この地域の混乱を看過することがなく、体制が転換される機会は常に潰されてきた。
帝都の平等を下支えするために温存された差別……そんなフレーズが頭をかすめていった。
北側に向かうと、市街地がいったん途切れ、人家がまばらな地域に差しかかる。そこで坂を上ってまた平らなところに足をつけた時点で、なるほどと納得した。壁が煉瓦になっている。フォレス系移民の子孫が主に暮らす地域だからだ。ただ、こちらにしても、華やぎとは無縁だった。煉瓦の壁の色も、どことなく暗い。家々も古びている。こちらはフォレス風に近い石造りで、だいたい二階建てくらいの四角いのに、角度のきつい三角屋根が据えられている。
さっきの港近くの市街地は、平屋ばかりだった。屋根だけはしっかりできていたし、冬場には結構な降雪があるのかもしれない。
行き交う人々の人種が微妙に違う。フォレス人でもなければ、ハンファン人とも言い切れない。先住民との混淆が起こったのだろう。
服装はさまざまだが、フォーマルなのがフォレス風で、ラフなのがハンファン風の作務衣らしい。いずれにせよ、みんなくすんだ色の服ばかり着ている。
「なんだか……なんだ? この雰囲気」
フィラックが怪訝そうな顔をして尋ねる。
「そういう土地柄みたい。とりあえず、ここであれこれ喋らない方がよさそう。歩きながら……いろいろ覗き見してみたけど」
人の心を読み過ぎて、ノーラも気分が悪くなったらしい。
「とりあえず、ギルドはあっち。近くにまともな商店もあるから、そこで着替えもまとめ買いして、宿で休みましょう」
「だな」
人を拒絶するような煉瓦造りの塀を横目に、俺達は大通りを歩いた。
ギルドで旅の資金を引き出してから、まっすぐ衣料品店に向かった。一通り、体に合うサイズの真新しい服を買い揃えてから、俺は恰幅のいい店主に尋ねてみた。
「ところで」
「なんでしょうか」
俺の言葉遣いに対して、彼の返事はというと、やたらと恭しい。金の腕輪が威力を発揮しているのだ。
「旅の途中で剣をなくしてしまった。金に糸目はつけない。いい剣を売ってくれるところはあるか」
この、なんでもない質問に、彼は一瞬、硬直したが、すぐに取り繕って言った。
「この辺りには、武具を売っているお店もそれなりにございますが」
だが、この反応で俺はピンときた。
ありきたりの店なら、いくらでもある。だが、そうでないところにも心当たりがあるのだ。
「一流の鍛冶屋を探している」
「あー、ま、まぁ、ですね。お客様はお目が高い! 東方大陸は優れた職人の多い土地柄ですから。きっとお近くのお店を見て回れば、満足なさると思いますが」
「ファルス」
後ろからノーラが肩を叩いた。
心を読む時間は充分だ、という意思表示だろう。
「わかった。せっかくミッグまで来たのだから、せいぜい店を冷かして回るとしよう」
それで、俺達は店の外に出た。
「どうだった?」
「有名みたい。腕利きの鍛冶屋のいる場所。だけど」
ノーラは顔を顰めて首を振った。
「相当に気難しくて、人目にもつきたくないって人らしいわ」
「事情を説明して、居場所を教えるだけならよさそうなものなんだけど」
「揉め事になったら怒鳴り込まれるとかって」
「おっかないな」
フィラックは、腰に手をおいて溜息をついた。
「どうする? 俺が言い出したことだけど……その辺の店でいいものを見繕って終わりにしてもいいんじゃないか?」
「どうしようか」
だが、俺はすぐ考えるのをやめた。
「とりあえず、先に宿に入って休もう。それからでいいと思う」




