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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十八章 精錬の庭
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傍観した夜

 皿を重ねる音が、大食堂のあちこちから聞こえてくる。夕食後の後片付けも、門下生達の仕事だ。皿を運ぶところまではみんなで、洗うのは今日の当番がやる。

 窓の外は深い藍色に染まっていた。遠くの家々の屋根がうっすらと黒いシルエットになっているのが見えるだけ。食堂の壁際には燭台がいくつも立てられていて、蝋燭が室内を温かく照らしていた。


「どうも、ごちそうさん」


 俺に話しかけてきたのは、フェイという門下生だ。あの、飛行の神通力を使いこなしていた彼だ。

 ハンファン人らしい顔立ちだ。鼻が低く、髪は黒い。日々を鍛錬に費やしているのもあって、肌は日に焼けている。一見してジャガイモのような印象だ。


「いかがでしたか」

「いやぁ、俺が作るよりずっと旨いね」


 彼は住み込みで修行している。俺が厨房に立ち始めるまで、食堂の仕事は彼の領分だったらしい。もっとも実家も飲食業者で、彼も以前は親の手伝いで屋台を引いていたのだとか。


「けど、もうじき行っちまうんだよな」

「ええ、その予定です」

「残念だ。そうなる前に、飯の秘訣も盗んでやろうと思っていたのに」

「えっ?」


 俺は首を傾げた。


「あの、別に盗まなくても、作り方のコツを知りたいんでしたら、教えますけど」

「えっ? マジ?」


 せっかくだ。ここには半年近くもお世話になったのだし、むしろレシピの一つや二つは残していきたい。


「どうせですから、これからも皆さんに少しでもおいしいものを召し上がっていただきたいですからね」

「そいつはいいね、いい」


 俺も皿の片づけを手伝いながら、彼に尋ねた。


「そういえば、ここの皆さんですけど」

「うん」

「神通力まで覚えて修行して、将来は何かご予定でもあるんですか」

「そりゃあな」


 彼らの事情を詳しく尋ねたことは、そういえばなかった。


「あと二、三年修行したら、帝都に行くつもりなんだ」

「帝都ですか?」

「最初は四大迷宮に行くけど、そこそこ腕がありゃ、あっちで金持ちの護衛とか、そういう仕事が見つかるからな。で、しっかり稼ぐ。うち、貧乏だからさ、俺が頑張んねぇと」


 道楽ではなくて、ちゃんとした目的ありき、か。


「神通力があれば、引く手あまたでしょうね」

「あー、そいつはちょっと違うんだ」

「と言いますと? 覚えるのに使わないんですか?」


 フェイは首を振った。


「使ってもいいけど、目立たないように使うんだ。お前、この街に来た時、お師匠のところに行くって言ったら、街の人が警戒してなかったか?」

「言われてみれば、屋台のおばちゃんも、急に真顔になってましたっけ」

「神通力のことは、あんまり余所者には言わないことにしてるんだ。なんか凄いことできる武術があるって噂だけど、どうせ尾ひれがついてるんだろって思わせときたいからな」


 確かに、その辺がオープンになってしまうと、習いにくる連中が殺到するだろう。当然、悪用するのも出てくる。ワン・ケンがいくら習得方法を秘匿しても、それすら奪い取ろうとするのも出てくるに違いない。

 利益を得るにしても、ほどほどのところで満足しようという考えなのだ。


「んでまぁ、十年くらいかなー、小金貯めたらこっち戻ってきて、道場の師範代やりながら、今度は俺が屋台を引くんだ」

「えっ」

「そりゃあさ、要は信用の前借りってやつだ。神通力のコツを教えるのは、覚えた奴の仕事だからよ。この街の財産ってやつだ」


 なるほど、そうやってカークの街は、武力兼文化遺産を守っているわけだ。あくまで外の世界では芸を見せ、金を稼ぐだけ。大事な技は、内々で継承していく。

 その発想が前提にあるなら、なるほど、料理のコツだって普通は教えないと考えるわけだ。


「この街、海賊にやられたこともないんだ。これといって金になるようなもんはないところだけど、昔ながらの神通力と武術を受け継いでるのは、街の誇りってやつだよ」

「へぇー……あ、でも、じゃあ」

「ん?」

「マオ先生のことはどうなるんですか? あ、ピュリスの冒険者ギルドで支部長やっていたので、僕もご縁があって顔見知りだったんですが」

「ああ」


 皿を置くと、フェイは頭をガリガリ掻きむしって、少し真面目な顔をして言った。


「元々、俺みたいな出稼ぎが許されるようになったのも、マオ・フー様様だからな」

「えっ」

「だってそうだろ? 神通力を学べる場所なんか、世界にいくつあるんだよ。目覚めた奴は、そこらに……まぁ、それだって少ねぇけど、ポツポツいるけどさ」


 学べる場所……ワン・ケンの道場を別として、俺が知る中では、あと三箇所しかない。アドラットが修行した神仙の山か、それとも既に滅ぼしてしまったがパッシャの本部か。あとはセリパシアのリント平原の北に隠れ住む、贖罪の民くらいなものだ。どれも一般人が知る場所ではない。

 魔術も貴重で、学べるところは限られるが、そうは言っても、高額であったとはいえピュリスでも魔術の基礎教本は購入できたし、帝都の学園やワディラム王国の賢者の塔でも教えているという。お金を出せば、魔術にはアクセスできるのだ。だから裕福な貴族の家の、地位の高い従者の中には、魔術を学ぶ機会を与えられているのもいた。例えば、フォンケーノ侯に仕えていたギムみたいに。


「マオさんが何をしたんですか?」

「三十年くらい前に、サハリアで戦争があったろ。あれの余波で海賊がこっちでも増えてさ。この街は平気だったけど、他の街が被害に遭って。で、助けに行くために、マオ・フーが冒険者登録して、出ていこうとしたんだ」


 冒険者の仕事として、街を守る用心棒になりにいったわけか。なるほど、出稼ぎのはしりといえる。


「それは技の秘密を漏らすことになるからってことで、反対する人も結構いてさ。でも、試合で決着つけることになったんだけど、どういうわけか」


 ここでフェイは声を潜めた。


「それまで、うちのお師匠は一度もマオ・フーに負けたことなかったらしいんだぜ? なのに、その時だけは負けちまってさ」


 それで、外の世界に出る道が開かれた、というわけか。

 しかし、だからこそマオは外の世界で朽ちるしかなかった。


「結局、条件付きでマオ・フーは外の世界に出たんだ。本当の門弟にしていいのは、既に神通力に目覚めてしまった人だけ。それも正しく導くためにやるんならってことで。お前と一緒に来たジョイス以外、正式な弟子はいないんじゃないかな」

「なるほど、納得です」


 食堂の流し場に皿を運び終えたところで、彼が言った。


「あとは俺がやっとくよ」

「いや、後片付けも手伝いますよ」

「いいからいいから。元々俺の仕事なんだしさ」

「でも、フェイさんに悪いです」


 すると、彼はピタッと動きを止めた。


「お前さ、ちょいカタいよ。何ヶ月ここにいるんだよ。ラクに話せばいいだろ。フェイでいいよ」

「あ、はい」

「お前、エオには、ちゃんとエオって呼び捨てしてるだろ?」


 それは本人からそうしてくれと、年長者なんだからと言われたのと、ワン・ケンからもそうしてやってくれと頼まれたからだ。

 確かに、身内があれだからといって、ずっと腫れ物扱いでは本人がつらい。


「いや、でも、他人をフェイと呼び捨てるのは、ちょっと引っかかりが」

「あ?」


 俺は慌てて理由を説明した。


「いえ、僕は昔、とある貴族の下僕だったんですが、その時につけられた名前がフェイだったんです」

「あっは! じゃ、俺と同じか!」

「はい」


 そこまで話した時だった。

 食堂の扉を、誰かが乱暴に押し開けたのが聞こえた。


「誰かーっ」


 走りに走って、声がかすれている。

 俺とフェイは食堂に戻って訪問者の顔を見た。


「おっ、エオ」

「助けてください! 街に! 西から魔物が!」

「なに」


 挨拶しかけたフェイが身構えた。


「どうした」

「街の、西門、近くに! 大きな蟻が」

「なんだって? ったく、んなもんが湧くってことは……いや、いい。すぐ連絡してくる。ファルス、エオを頼む!」


 それだけ言うと、フェイは外に走り出し、すぐに両腕を広げて浮かび上がった。

 俺はへたりこんだ彼に駆け寄り、より詳しい情報を聞き出そうとした。


「大丈夫か」

「は、は、はい」

「蟻というと、大森林の、あの巨大蟻のこと」

「そう、です。あれが湧いたのは、姉さんのせいかも」


 眉根を寄せた俺に、彼は説明した。


「森林オオカミを狩りすぎると、餌になるものがなくて出てくることがあるって、昔から言われているんです。だけど、うちは父さんが亡くなってから、お金に困るようになってたから」


 エオはほとんど泣きそうな顔をしていた。


「街のみんなを守るのが町長なのに、その家がみんなに迷惑かけて」

「蟻を今すぐ片付ければ、問題ない」


 ノーラを見つけなくては。

 いや、フェイが先に様子見に出た。あれで蟻の発生を確認したら、またこちらに戻ってみんなを招集するんじゃないか。こういう時こそ、この街の伝統武術の出番なのだから。


「修練場に行こう。みんないるはずだから」


 エオを助け起こして、俺がそこに向かうと、既に門下生達が勢揃いしていた。


「ノーラ!」


 俺が呼びかけると、あちらもすぐ気付いて駆け寄ってきた。


「大森林で見た蟻だ」

「そうみたい」

「髪飾りは」

「念のため、持っていくつもり」

「そうしてくれ。出し惜しみして怪我人が出たんじゃアホらしい」


 押し寄せてくるのが蟻だけなら、さほどの困難もないだろう。だが、例の魔物の暴走のように、その後ろからより強力なのが迫ってきたら、どんなことになるか。


「お前達」


 ワン・ケンが前に立って命じた。


「これまで鍛えた技は、今日のためにある。行け! 行って街を守れ!」

「はい!」


 これだけで足りた。門下生達は、或いは走り出し、またフェイのように空を飛ぶのもいた。全員が外へと出て行った。

 俺も行こうとしたのだが、そこでやっと思い出した。腰にいつもの剣がない。俺は丸腰だ。


 立ち止まった俺の後ろから、啜り泣きが聞こえてきた。


「……街の人が、伝えにきたのに、兄さんは部屋から出ようとしないんだ……っく……姉さんだけ、慌てて武器もって外に出て……こんなの、恥ずかしすぎるよ……」


 ワンはゆっくりと歩み寄ると、エオの肩に優しく触れた。


「お前が恥を知っているのなら、それでよい」


 彼の兄、マースの噂は知っている。この街に半年近くも留まっていれば、住民の声だって自然と聞こえてくる。

 もともと怠け者で、子供時代から勉強もしなければ鍛錬もしない。精神的に傷つきやすく、部屋に閉じこもってばかりだったという。だが、父のギリオが不真面目な上に浪費家で、しかも不摂生が祟って早死にしたせいで、自動的に長男の彼が町長に繰り上がった。マースは既に二十代半ばだが、いまだに何をしているのか、誰も知らない。たまに部屋の外に出た姿をエオが目撃しているが、無精ヒゲもそのままで、無気力そうな眼をしていたという。

 カーク家は、元をただせば世界統一前からの名家の分家だそうだ。東方大陸南東部から、こちらに移住してきたという。その歴史と血筋ゆえに、ずっとこの街の代表として担がれてきた。だが、二代続けて無能な当主がその地位についたことについては、町の人々も困り果てているのが現状だ。

 そんな中、一人気を吐くランが、ああなってしまったのも仕方ないと言えなくもない。せっかく恵まれた体格があって、武術の才能にも優れていたのだ。家の零落を食い止めようと、彼女なりに頑張った結果が、これなのだろう。


「ファルス」


 やはり自分も、と外に出ようと一歩を踏み出したところで、ワンから声をかけられた。


「何もせずともよい」

「でも」

「ここでエオを見守ってくれればよい。わしは思うのだが」


 一息ついてから、彼は言った。


「とにかく我が事と考えるのは大切ではあるが……それはそれとして、なんでもかんでも自分でやらずとも、世界はそれなりにまわっていくものではないかな」


 そうだ。

 この問題は、解決することが分かっている。ノーラも腐蝕魔術を使う準備をして出ていったのだし、ペルジャラナンやディエドラもついていってくれた。万が一なんてあり得ない。慌てる理由なんかない。

 この半年間、のんびりとここで過ごしたのは、頭を柔らかくするためでもあったはず。俺は深呼吸して、気を落ち着けた。


 俺はワンの屋敷から、遠く街の外に見える灯火をのんびりと眺めていた。旅に出てから、この手の騒動を外野の立場で眺めるのは、これが初めてだった。考えてみれば、これが普通の人の目にする景色なのだ。

 街の騒ぎは一時間ほどで収まった。俺が心配するようなことは何一つ起きなかった。ランの責任は追及されるかもしれないが、それはそれだ。俺が気にすることではなかった。


 それからこの街を去る日まで、これといった事件は起きなかった。

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