十三歳の誕生日
遠くから庭で鍛錬する門下生達の掛け声が聞こえてくる。窓の方に目をやると、春の静かな陽光が差し込んできていて、板の間を照らしていた。みずみずしい微風がそっと一吹き。頬をひんやりとさせて、そのまま形もなく消えた。
真っ白な壁を背に、俺はひたすらこの修行部屋に篭っている。広さはせいぜい四畳半の一間で、扉と窓があるだけの場所だ。ワン・ケンは、俺の状態を一通り見た上で、武術に関して教えられることはないと言った。その上で、彼は精神修養を勧めた。
俺の能力の秘密を知らない彼は、年齢に見合わない武術の腕前を、才能によるものと考えた。心身が育ちきる前に大きすぎる才能を授かっても、それはそれで不幸になることが多々ある。突然、莫大な遺産を相続するようなものだ。凄いのは偶然手に入れた大金に過ぎないのに、いつの間にか自分自身まで立派な人間になったと思い込んでしまう。そういう危険を彼は懇々と説いてくれた。先を急ぐより、自身をしっかり掌握するべきだ、と。
そして俺は、彼の提案を受け入れた。
目を閉じる。心の景色が見えてくる。
砂浜には大勢の兵士が倒れている。その向こうに、黒衣を纏ったデクリオンが仰向けに倒れている。あれだけの災厄を引き起こした人間なのだ。なのに、俺は剣を振り下ろす代わりに、言い聞かせた。終わったんだ、と。
あの時、俺の心の中にあったのは、怒りでも憎しみでもなかった。デクリオンは悪人だろうか? 彼が引き起こした事件の数々は、大勢の犠牲を出してきた。悪事だ。だから彼も悪人なのか?
心の中に憎悪を飼っていたのは、彼らだけではなかった。俺もまた、モーン・ナーの呪詛を携えてこの世に生まれ落ちたのだ。あの時、黒竜のローブを身に着けた遺体を見て、俺は逆上した。自分の中から溢れ出ようとする運命神の憎悪が暴発したのは、多分、あれがきっかけだったと思う。だが、あくまできっかけだ。あれは元々、俺自身の中にあったものだ。
俺は悪人だろうか? サハリアで数えきれないくらい人の命を奪ってきた。悪事でないとは言えない。
評価には大して意味がない。どうすればよかったのだろうか。彼には何が足りなかったのか。
現実にはあり得ない光景が、心の中に描かれる。
南部シュライ人の狭い家。ここはラージュドゥハーニー郊外の農家だ。そこに白髪のデクリオンが壁を背にして座っている。あの、南方大陸特有の、床板とも座席ともつかない中途半端な桟敷のようなところに。周囲には息子達がいて、そこに娘達が皿を運んでくる。今日は彼の誕生日だ。それを祝って、いつもより少し豪華な料理を拵えたのだ。けれども、いざ食べ始めてみると、なにしろ高齢だから、一口でおしまいだ。すると横から孫達が手を伸ばす。まだ幼い彼らは元気いっぱいだ。いくら食べても満腹なんかしない。既に父親になった息子達はそれを窘めるが、彼は笑って許すのだ。
そんな彼が、例えばピュリスに住んでいたらどうだったろうか。近所にいる、物知りで道理を弁えた爺さんだ。まだ子供の俺は、きっと彼から多くを教わったことだろう。俺だけじゃない。大勢の人にとって、彼はかけがえのない人生の一部になれた。
だが、現実には彼は、彼を家族と慕うハイウェジまで生贄にしたのだ。
では、ハイウェジはそのような死に相応しい人物だったのか。
彼を買い取ったのがパッシャの構成員でなく、本当に善良な人物だったら。恐らく彼は忠実な従者になれていたのではなかろうか。もちろん、障害を抱えた男の人生など、そう簡単には明るいものになり得ない。それでも、きっと居場所を見つけていたに違いない。
でも、今、俺が感じるのは怒りではなくて、悲しみだけだ。
こんな世界はなくなってしまえばいい。
二度と生まれたくない。
俺は、彼らとほとんど同じ望みを抱えていた。
ただ、少しだけ、何かが違っていただけだ。
彼の主張は間違っていただろうか? 誰も生まれなければ、誰も不幸にはならない。論理的には正しい。死者はもちろん、これから生まれる人々にも、抗弁の余地などない。過去と未来に積み上げられる犠牲者を無視して、俺達はなおも生き続けるべきなのか?
だが、彼の主張には、欠落している視点がある。それは「時間の概念」だ。歴史といってもいい。
これは、俺が賢いのではなく、前世の知識があるからわかることだ。俺があちらで死ぬ頃には、携帯電話も当たり前にあったし、抗生物質やウィルスのワクチンのようなものも実用化されていた。二十四時間営業のコンビニには、おいしくて安全な食品が山積みされていた。便利な生活を送ることができていたのだ。
だが、数百年前はといえば、そうではなかった。コンビニのスイーツなんか夢のまた夢。食べる物があればいい方で、治安は今よりずっと悪く、疫病が流行れば神頼み。子供は七つまでは神のうちで、悪霊に連れ去られないようにと、わざと汚い名前をつけたりもした。けれども、それより更に昔へと遡ると、もっと貧しい生活が見えてくる。
もちろん、古代ローマみたいに発展した社会もあったし、その直後にやってきた暗黒時代は、栄光の古代よりずっとみすぼらしいものになったりもした。振れ幅はある。ただ、それでも一貫して言えることがある。
それは、人が常に「今より良い未来」を求め続けていた、ということだ。そして、願いは力となって、少しずつ、ごく少しずつだが、世界を変えてきた。
だが、長い目で見れば素晴らしい未来がやってくるとしても、自分の生きているうちにそれを目にすることがないとすれば? それに、少しずつ世界は裕福になっていったけれども、どうせ人の世の苦しみはなくなってはいなかったのでは? 戦争もあれば貧困もあった。異論を差し挟む余地は、もちろんある。
結局のところ、俺が彼と同じ道を歩まずに済んだのは、この手の中に小さな欠片があったからだという気がしている。
前世、幼い頃の俺は、夢を見ていた。この掌の中に……心の中に、たった一握りの砂金を手にしておこうと。それは贈り物だ。どんなことがあってもこの手を開かない。自分のためではない。誰かに差し出すその日までは。
自分で自分を醜いと考えたくなかったのだとか、ただの現実逃避だとか、そんな風に片付けてしまうこともできる。だが……
あの時、誰かが俺を救おうとしてくれていたのを、今でも思い出せる。ノーラもまた、危険を顧みず、モーン・ナーの呪詛に立ち向かってくれた。それは助けにはなってくれたと思う。でも、それだけで俺が救われたわけではなかった。
あるがままを受け入れるしかない。
いや、今回は運よく受け入れることができたのだ。俺にとっての心の錨があってくれたから。
祈り、願うという。
同じような言葉だと受け止められているが、実は全然別物なのではないかと思う。なぜなら、願い事がなくても、祈りは成り立つから。願うとは何だろう? 欲すること、欲するものを明らかにすることだ。では、その前に置かれる祈りとは?
目の前には湯呑みが一つ。その中に水が入っている。俺は、それを取り上げて一口だけ飲んだ。
これはなんだ? 水の入った湯呑みだ。もう一口飲んだら、何と呼べばいいのだろう? 今、俺が飲んだ水は、いつから俺の一部になるのだろう? 水分が吸収されるその瞬間、境界線はあまりに曖昧だ。
わからないのだ。わからないが、感じている。言い表す言葉はなくとも、そこにある。
湯呑みの水から、今飲んだ水、それに体の中の水分……室内に通り過ぎていく風、俺の吐息。一切は混ざり合って一つの塊をなしている。言い表しようのない、名前のない何かで溢れている。これが実体だ。
これは水、これは湯呑み。そうした認識の前にある、名付けようのない認識。
あまりに儚いその瞬間を捉えるのだ。
ふと思った。
イーヴォ・ルーという神は、もしかすると、そんな認識の狭間に存在する「真理の神」なのかもしれない。
皮肉なことだ。かの神を誰より篤く信仰していた闇の組織。それを滅ぼした俺こそが、むしろその神の本質に近づいているとすれば。
この、言葉にできない感情はなんだろう? この、細切れになった世界を繋いでいる不可視の糸とは、なんだろう? あと少しで手が届きそうな気がするのに。
うまく言い表すことができない。
それでいいのかもしれない。
俺はどうすればよかったのだろうか。何が足りなかったのか。
アイビィをこの手で葬ってから、俺は俺でなくなってしまった。苦しみから逃れようと必死になって、旅から旅、戦いから戦いへと身を投じてきた。けれども、彼女が望んだ俺の人生は、そんなものではなかったと思う。街に住む知り合いと仲良く過ごして、毎日おいしい料理を作って楽しく暮らして欲しかったのだろうと。
できるわけもなかった。けれども、こう考えることはできないか。彼女はどこにも行っていない。俺もそうだ。過去はいつまでもそこに留まり、すぐ近くにある。彼女と暮らしたことも、彼女を手にかけたことも、互いに矛盾するわけではない。
今、俺の心はかつてなく静かだ。
けれども、これは今だけの平安だ。もし、ここを出て旅を再開したら、どうなるだろう? 使徒が現れて、ノーラ達を殺したら? 俺はまた激昂してしまうかもしれない。
狭い部屋の中だけの真理、平常心など、せいぜい模型と同じくらいの値打ちしかない。それも無駄ではない。いつかあるべき姿を指し示してくれる。だが、塵芥に塗れて俗世を渡るときにこそ、自身に立ち返る必要があるのだ。
外から足音が近づいてくる。
「ファルス? いい?」
ノーラだ。
この街にやってきて、はや五ヶ月。ワン・ケンの門下生と同じように、日々を鍛錬に費やしている。
「今、行く」
俺は立ち上がり、扉を開けた。
ノーラが着ている灰色のカンフースーツには、汗が滲んでいた。もう緑玉の月だ。昼近いこの時間、屋外はかなり暑くなる。
「そろそろお昼の時間だから」
「仕事しないと」
本来、食事の用意も門下生の仕事だ。みんながみんな、泊まり込みで修行しているのでもない。中には町の中からの通いもいるが、ごく安価な月謝を払って泊まり込みで我が身を鍛える門下生は、生活全般を自前でこなさなければいけない。
だが、せっかく俺も住まわせてもらっているのだ。料理くらいは引き受けたい。
最初は、こんなに長居するつもりはなかったのだ。遅くとも橄欖石の月が終わる頃に船出して、少し早めにミッグに行こうかと思っていた。そうすればミッグを出る頃には山の雪も解け、神仙の山までまっすぐ進めるだろうと。
だが、その時期にクーが風邪を引いてしまった。ワン・ケンから勧められた学校に通って勉強するようになったのだが、武術も諦めたくなかったらしく、どうやら無茶をしていたらしい。それで橄欖石の半ばにひどい風邪を引いて、寝込むことになった。
なお、この時、俺は別の心配に囚われてしまった。ただの風邪ではないのではないか? あの、ピアシング・ハンドが暴走した日、荒れ狂うモーン・ナーの力が一切を溶かし尽くしてしまった。もしかして、あれは腐蝕魔術と同じ効果があって、だから近くにいたクーも、他の仲間も汚染されてしまったのでは?
特にノーラが心配だった。俺がモーン・ナーの呪詛に絡めとられていた時、重傷を負った彼女は確かにあの灰色の腕に取り囲まれ、引きずり込まれたのだ。なのに何の影響もなかったのか?
幸いなことに、杞憂だったらしい。ノーラがあの髪飾りを使って全員の状態を確かめた。特に汚染はなかったと言っていた。それでも安心できず、俺もスキルを移植して自ら確認した。似て非なる何かだったのだろう。
ともあれ、他山の石というやつだ。クーのように頭がよくて才能に恵まれていても、ときとして自分の扱いを誤るのだ。ましてや俺は、もっと慎重でなければならないのではないか。
事実、このところの俺は、思考に強い制限がかかっていた。多分、サハリアの戦争の後から、余計にそうなった。
今では理由を自覚できている。自分の力を知ったから。ちょっとしたことで、それこそ俺の気まぐれ一つで、簡単に他人の人生が破滅する。それなのに、周囲には次々人が増えるばかり。自分という怪物を持て余し、巻き込んで死者を増やすことに怯え、いつもいつも正解を選び取ろうと腐心して、却って積極性を欠いて後手に回った。
力を持つ者は、その分自由を失う。ドゥサラが言っていた通りで、これ自体は正しいと思う。だが、その上でなお、自分を使いこなそうとなると、そのなんと難しいことか。
「声、ガラガラなの、治ってきたみたいね」
ノーラがそう言った。
年明けから、俺の声変わりが始まった。思春期ならではのイベントだが、ごく短い間に体が適応したらしい。
「ちょうどいい休みをもらった感じだよ」
だが、休みは休み、やるべきことの狭間にあるだけの時間だ。
じっくり考えることができた。やはり旅を続けなくてはいけない。もう不死などは二の次だ。だが、使徒と龍神だけはなんとかしなくてはいけない。そのために、俺は予定通りの目的地に向かう。多分、その途中で使徒が俺の前に立ち塞がることだろう。
「今日は何を作るの?」
「卵がたくさん入ったって聞いたから、チャーハンかな」
「チャーハンって、あの」
「そう、米を炒めた料理。それとスープと野菜もつけないと」
でも、今は目先の仕事だ。
ここの門下生は一日中鍛錬している。よく動くから、よく食べる。どうしても塩気の強いものが好まれがちだが、そこは仕方ない。お客様の舌に合わせるのが料理人の役目だ。
「そういえば、ワン師匠がまたぼやいてたわ」
「今度はなに?」
「またランさんが森林オオカミを乱獲してきたんだって。カーク家も今は大変らしいから、強くは言えないみたいなんだけど」
一度絡まれたきりで、俺達が彼女と接点をもつことはなかった。ただ、相変わらずの腕白振りで、周囲が注意しても聞かないのは変わらないらしい。
今の俺達の周りは、平和そのものだ。
さて、そんなことより、料理、料理。
そう考えて歩調を速めたところで、ノーラが立ち止まった。それに気付いて、俺も振り返る。
「それと、あの」
彼女は、少しだけ小声で、躊躇いがちな口調で言った。
「うん?」
「誕生日、おめでとう」
そうだった。
今日は四月六日。俺の生まれた日だったか。これで体の方も、やっと十三歳だ。
「ありがとう」




