ワン・ケンの道場
クリーム色の外壁に囲まれた広い庭。草木の一本もない。装飾らしいものもほとんどなく、壁の上には瓦屋根、そのすぐ下に一本だけ、朱色の線が引かれているばかりだ。庭の内側は平らに均されていて、足下はごく固い。
そこに大勢の門下生が立ち並び、一斉に同じ動作をする。左に向き直って正拳突きだ。師範代が声をあげると、また右に向き直って裏拳を打ち下ろす。みんな灰色のカンフースーツを着用しての、一糸乱れぬ動き。なかなかに壮観だ。
そこに一人だけ、黒いカンフースーツの老人が立っている。高齢ではあるが、いまだに背筋がまっすぐで、衰えが見えない。
許しは出ているので、俺は後ろからおずおずと近付き、頭を下げた。
「ワン先生」
彼が振り向いたのを確認して、改めて頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。本当にお世話になりました」
「気にせずともよい」
彼は鷹揚だった。
「マオ・フーの門弟ジョイスの兄弟同然というのなら、ファルスよ、お前も親族同然だ。ここを我が家と思って過ごすがいい」
「ありがとうございます」
言葉は優しいし、その善意にも嘘はない。だが、彼の顔つきを見ればわかる。マオ・フーが「白虎」とあだ名されたのに対し、ワン・ケンには「黒狼」という二つ名がある。なるほど、今でも獲物に噛みつく勢いはなくしていない。武人らしい、ある種の獰猛さがはっきりと見て取れる。
「それに、門弟達に貴重な鍛錬の機会を与えてもらっておる。よく訪ねてきてくれた」
笑いかけながら、彼はすぐ後ろの本堂のほうに視線を向けた。幅広の低い階段の上には、正門の向かいにある本堂がある。前世でいうところの大きなお寺みたいな感じで、太い木の柱に支えられた大きな屋根が大層立派だ。
その階段のところに、ペルジャラナンとディエドラが腰掛けていた。
「特にあの、リザードマンの方は、相当な腕前のようだ。武器を持たせたら、門下生どころか、わしでも及ばぬところがある」
組み手の相手としては、重宝しているのだろう。
ワンはまた視線を、鍛錬中の門下生に移した。彼らの隊列の隅の方には、ジョイスやノーラ、それになぜかフィラックやクーまで混じっている。ジョイス以外は正式な門弟ではないが、一応、基礎訓練くらいは受け入れてくれているのだ。
「よし、やめ!」
ワン・ケンが命じると、全員、構えを解いて直立した。
「組み手を始めよ」
師範代が適当な二名を指差した。他は壁際に下がって、その様子を見学する。
「はじめっ」
開始の掛け声と同時に、離れて向かい合った二人が構えをとる。さて、どう戦うのか、と見ていると……
一方の男が両手を左右に広げた。かと思うと、ふわっと浮かび上がり、そのまま滑空するかのように相手へと迫っていく。
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チー・フェイ (17)
・マテリアル ヒューマン・フォーム
(ランク5、男性、17歳)
・マテリアル 神通力・飛行
(ランク5)
・マテリアル 神通力・幻影
(ランク5)
・マテリアル 神通力・怪力
(ランク1)
・スキル ハンファン語 5レベル
・スキル シュライ語 5レベル
・スキル 棒術 5レベル
・スキル 拳闘術 5レベル
・スキル 投擲術 4レベル
・スキル 軽業 4レベル
・スキル 商取引 3レベル
・スキル 料理 3レベル
空き(6)
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飛行している? 神通力で?
その、チー・フェイなる門下生は、勢いをつけたまま、相手に蹴りかかり、そのまま頭上を通り越していく。だが、着地すると鋭く振り返り、地面を這うようにして諸手狩りを狙った。その肩に蹴りが入る。
「そこまで!」
師範代が二人を見比べる。
「フェイ、お前は大技を狙い過ぎだ。シン、よく見抜いた」
恐らく、最初の滑空からの蹴りという大技に注目させておいて、次に幻影を見せたのだろう。相手の意識が上に向けられている間に、足を刈りにいったのだ。だが、その作戦は見抜かれていた。幻影のような、相手の精神に干渉する神通力は、その意識や精神状態に大きく左右される。気付かれたら、こうして裏をかかれることになるのだ。
それはわかったが、不可解なのが最初の滑空だ。どうしてフェイは空を飛ぶことができたのか。
「せっ、先生」
「どうした」
「なぜ、今、フェイと呼ばれた方の門下生の方は浮かび上がったんでしょうか」
「神通力だ。ここでは武術だけでなく、その取扱いも教えている」
では、飛行の神通力も活用できる? 人間の体のままで?
「はて? ジョイスから話は聞いている。神通力を見るのは、これが初めてではないだろうに」
「はい。驚いたのはそこではなくて、飛行の神通力を人間が使いこなしていることです」
「なるほど。では、基本的なことを知らないのだな」
「基本的?」
俺が訝しげにすると、彼はさも当然のように言い放った。
「神通力は女神が人に授けた恩寵だ。ゆえに、あらゆる神通力は、人間の体を通じて活用できるのだ」
言われてみれば、それも納得はできる。アドラットが教えてくれた話でもある。女神が人に与えた力なのに、どうして人以外がそれを習得しているのかという謎はあるが、それは各地に根付いた魔王、異世界の神が、既存の世界のシステムを流用したからと考えれば、不自然ではなくなる。
「フェイ、こっちへ来い」
「はい」
「軽く飛んでみせてやってくれ」
すると彼は、さっきしたように両腕を広げた。そこで気付いた。彼は親指をまっすぐ真横に向けている。こんな姿勢を取ったら、腕の内側、血管のある脆い側が剥き出しになる。武術的に考えるなら、決して好ましい姿勢とは言えない。
だが、そのポーズをとることで、神通力が正常に働くのだ。ごく小さく指を動かしただけで、まるで鳥が羽ばたいているかのように、彼の体が空中へと持ち上げられていく。俺の肩くらいの高さまで浮かび上がったところで、彼は両手を折り畳み、着地した。
「飛行の神通力を使うときには、このように鳥の姿勢を真似る」
「鳥? これが?」
「どうも親指が鍵のようでな。そこをうまく意識して使いこなせるようになると、腕を曲げた状態でも飛んだり、向きを変えたりできるようになる」
親指、と言われて少し理解が追いついた。
鳥の羽の大部分は、延長した親指の骨に繋がっている。この神通力は、人が鳥の動きを模したものなのだ。
「何かのきっかけで神通力を得ても、正しく理解して使わないと、害になることもある。それを武術と一緒に学ぶのが、この道場だ」
こんなにあっさり神通力持ちを育成できるのなら、量産してあちこちの国の武力にできるのでは、と考えてしまうのだが、既に軽く教えてもらった限りの話では、そうしたケースは稀だという。
鍵となる神通力の覚醒の儀式については、ワン家の秘伝ということで、公開はされていない。また、こうした門下生もカークの街を安易に離れたりはしないという。というのも、ワン・ケン一人がすべての神通力を習得し、指導するわけにはいかないからだ。現に飛行の神通力についても、ワン・ケン本人は未習得で、知識があるだけだ。だから、一部の高弟は、ずっとこの街に留まって、道場を支える役目を果たす。マオ・フーのように外の世界に挑む事例もあるが、それが主流ということはないのだとか。
「よし、次!」
師範代が、次の組み手を命じた。
門下生達が練習試合を繰り返している中、門前に一人の少年の姿が見えた。師範代がそれと気付き、駆け寄っていく。心なしか、遠慮がちというか、少年に対する親切さのようなものが滲み出ている。
少年はといえば、こちらの基準でいうとややだらしない格好をしている。特に髪型だ。まるでひっくり返したバナナの皮みたいだ。ただ、顔立ちはそこそこ整ってはいる。とはいえ、表情にはある種の癖がある。体格はヒョロヒョロで、鍛えているようにはまるで見えない。
背中には、小さなリュックを背負っている。
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エオ・カーク (11)
・マテリアル ヒューマン・フォーム
(ランク5、男性、11歳)
・スキル ハンファン語 5レベル
・スキル シュライ語 5レベル
・スキル フォレス語 3レベル
・スキル 政治 1レベル
・スキル 管理 2レベル
・スキル 棒術 1レベル
・スキル 書道 3レベル
・スキル 絵画 6レベル
空き(3)
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随分と歪なスキルセットだ。この若さで政治や管理の能力が伸びているということは、既にそうした仕事に関与しているのだ。それと、武術は少しかじったが、才能がないのか、すぐやめたらしい。それより、書道と絵画の能力が伸びている。特に絵画が異常だ。まだこの若さで、既に常人の遥か上に達している。いわゆる天才肌というやつか。
「おお、エオ! こんなところまでどうした?」
ワンは大袈裟に手を振り、笑顔を見せて彼に歩み寄った。
身を縮めるエオは、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
「この度は兄が大変に失礼致しました。そのことをお詫び申し上げたく」
「気にするな。お前が責任を感じるようなことではないぞ」
けれども、エオの背筋は丸まったままで、目には怯えのような、後悔のような暗い色が浮かんでいた。
悪い子ではないのだろう。けれども、気遣いというのは真面目な振舞いだけでは完璧とはいかないところがある。察するに、彼の兄がワンに相当な負担をかけてしまったのだろう。そのことで彼は謝罪のためにここを訪れたのだが、ワンからすればエオに含むところなどない。むしろ、エオは兄の後始末をさせられた立場ではなかろうか。それがこんなに申し訳なさそうな顔をされたのでは、逆にワンの方が気の毒に思ってしまうのだ。
「おお、そうだ」
ややわざとらしく、ワンは俺に目配せした。
「いい機会だ。エオ、紹介しよう。ファルス、いいかな」
「はい」
「こちら、エスタ=フォレスティア王国の騎士、ファルス・リンガだ。修行の旅に出て、もう三年近くになる。ファルス、こちらはエオ・カーク、先代の町長の三番目の子で、これがなかなか見どころのある少年だ。名家の子女だから、ゆくゆくは帝都で再会することもあるだろう」
客分たるもの、少しは居候先の役に立たねば。俺は笑顔を浮かべて、手を差し伸べた。
「ファルスです。よろしく」
少しだけ砕けた口調にした。宜しくお願い致します、では少年らしくない。十歳を越えたら、この世界では子供とはいっても、全く責任を問われない立場ではないのが常識だが、一応、十五歳まではまだ大人のカテゴリーには含まれないのだ。
「エッ、エオです、宜しくお願い致します」
けれども、あちらには余裕がなかったらしい。仕方のないことだ。
彼は肩がカチカチになるくらい硬直したままで、握手に応じた。
「ゆっくりしていくといい」
それだけでワンは門下生への指導に戻った。
俺に丸投げか。
「あ、あの」
「はい」
「いきなりで失礼かもしれませんが」
「なんでしょうか」
エオは瞳を輝かせながら言った。
「似顔絵を描いてもいいですか?」
「えっ?」
「は、恥ずかしながら、僕は物覚えが悪くて……いちいち絵を描いてじっくり観察しないと、すぐ忘れてしまうんです。よく一度会っただけの人の顔を忘れてしまって、失礼なことになってしまうので」
だからっていちいち似顔絵を描くか?
いや、これは考えていた以上に、特定の才能に偏った少年らしい。
「もちろんですよ。好きに描いてください」
俺が本堂の前の幅広の階段に座ると、彼は既にそこにいたペルジャラナンとディエドラを目にして、棒立ちになった。それからいそいそと背中のリュックからスケッチ帳と、なんとイーゼルを引っ張り出した。すぐに組み立て、ペンを走らせる。
「お話には聞いていましたが、め、珍しいものをお連れなんですね」
リザードマンや獣人を間近に観察できる機会など、そうそうあるものではない。
だが、俺からすれば、いつでもどこでも絵を描けるように準備している人間の方が珍しい。彼は謝罪のためにここを訪れたはずなのに。
「じっくり描きたいです」
手を止めずに、彼は舌なめずりした。
こういう少年だから、絵画の才能が花開いたのだろう。
けれども、こうしてみると、才能というのはなんだろうとも思う。他人から見れば、いい面だけ見て「恵まれている」と感じるものだが、本人はというと、自分でも気付かないうちに自分の才気や能力、衝動に引きずられてしまうのだ。
そういう意味で、俺は凡人でよかったのかもしれない。




