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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十八章 精錬の庭
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一椀の飯

 断末魔の叫び。ひときわ大きな苦鳴の声が、俺の夢を破った。

 目を開く。真っ暗闇だった。俺は仰向けに寝たまま、肩で息をしていた。


 珍しく、真夜中に意識が戻った。

 窓は開けられたままだった。外を眺めると、うっすら雲がたなびく中に、金色の月が昇っているのが見えた。地上に光はなく、ただただ屋根瓦が静かに月光を照らし返しているばかりだった。


 いよいよ死期が迫ってきたのか。うなされ続ける体力もなくなってきている。

 どうすればいいのか。大きな問題で考えると、どうしても頭に霧がかかったようになって、答えが出てこなかった。漠然と生きる意味を考えても、知識も論理も、何も示してくれなかった。


 それより、身近なことが気になった。そちらは明瞭に思い浮かべることができた。死ぬという大事に比べれば、本当にどうでもいいことでしかないのだが。

 俺が死んだらまた棺桶を買わなくてはいけないだろう、汚れた死体を拭き清める仕事もある……すると、生前に本人がどれだけ身綺麗にしているかが重要だ。

 トイレにでも行こうかと思ったが、もうここ二週間、何も食べていないので、排泄しようがない。とすると、他には……


 俺が寝ている間に、窓枠のところにさっきのパンの入った茶碗が置かれていた。すぐ手の届くところに食べるものを用意しておこうと思ったのか。それにしてもミスマッチだ。東洋風の茶碗の中のパン。磁器の縁に月光が当たって冷たく輝いている。人の気遣いだが……ふと思った。これも返しておこう。

 起き上がろうとして、俺は体に力を込めた。ずっとろくに体を動かしていなかったせいで、バランスが取れず倒れそうになる。それでもなんとかよろめきながら、寝台の下に足を下ろし、立ち上がった。そろそろと手を伸ばして茶碗を取り、トレイに載せ、そっと歩き出す。


 カーテンをめくって、ふと思い出した。

 よくよく考えたら、俺はこの邸宅の中をろくに歩いてもいない。道順もわからない。では、やめるか? いいや。いっそ真夜中の探検といこう。茶碗一つ戻すことにどれだけ意味があるものか。俺がやるより、元気な誰かが済ませた方がいいのは合理的に考えてわかるのだが、なんとなくそんな気分だった。


 カーテンの向こう側はもう一つの部屋になっていて、こちらには背凭れのない椅子が二つ、丈の低いテーブルを挟む形で置かれていた。部屋の隅には燭台もある。突き当たりは焦げ茶色の扉だ。窓がないので、やたらと暗い。

 扉を開くと、通路になった。すぐ頭の上には屋根があるが、目の前は四角い中庭だ。それを囲むように、三階部分の渡り廊下があった。右手に進むと、下り階段になっていた。手摺に掴まりながら、慎重に一歩ずつ降りていく。

 二階部分の渡り廊下はもう少し幅広だった。そこまで降りて、これらの食器がどこにあるかを少しだけ考えた。炊事には火を使う。火事が怖い。となれば、水場の井戸から遠くない場所にあるはずだ。

 見渡してみると、一ヶ所だけ二階部分まで突き抜けている部分があった。今いる場所からまっすぐ歩くと、分厚い煉瓦の壁に囲まれた四角い部分がある。その脇に下り階段があるから、そこが炊事場ではなかろうか。


 そのまま降りていった。

 中庭の中央には何もないが、縁の部分にも特に装飾はなく、花すら植えていなかった。ハンファン人の文化は、意外と自然より人工物を好むところがある。特にここはワン・ケンという武人の家で、しかも大勢の門弟が暮らす実用的な空間だから、美しく飾り立てる理由も必要もなかったのだろう。

 井戸は、その隅にあった。そのすぐ脇、今の俺から見ると右斜め後ろ方向に、大きく口を開けた暗闇が広がっていた。足を引きずりながら、その中へと立ち入っていく。


 まず感じたのは、匂いだった。食品の残り香。うっすら焦げたようなのも感じる。匂いには、えてして圧縮された食品の味わいのようなものがある。

 そして、その匂いには、何か古い記憶を揺さぶるものがあった。


 手近なテーブルにトレイを置くと、俺は何かに導かれるようにして、よろめきながら前へと歩みを進めた。


 俺の目が捉えたのは鉄鍋だ。何に使われているのかを俺は直感的に悟った。

 気づけば手が伸びていた。それを釜の上に載せる。これだけでは駄目だ。鍋をテーブルに戻し、俺は当たり前のように引き返すと、井戸の方に向かった。


 もう夜の終わりが近い。金色の月が、中庭から見上げる瓦屋根に半ば隠されていた。静まり返った中、俺は一人、縄に手をかけて釣瓶桶を引き上げた。手足が思った以上に弱っていて、縄をしっかり握っているのも大変だった。息を切らしながら俺は水瓶をさっきの厨房に持ち帰る。


 手探りで探したが、やっぱりあった。櫃の中にあったのは、精米済みの米。それを俺はボウルの中に流し込む。米の粒がぶつかり、跳ね返る音に心が躍った。まるで天上の木琴のような響きだった。

 そこに水を注ぎ、丁寧に研ぐ。余計な力はかけない。一粒一粒、どれもかけがえのない大切な命だ。それから水に浸け、しばらく待つ。頃合いを見て、ザルに上げて水気を切った。

 鍋に水を入れた。米の質と量から、だいたいの目分量で判断した。体感だ。


 釜の下に薪を放り込み、火をつける。夜の清らかな空気を吸い込むと、釜は見る見るうちに橙色の光で辺りを満たした。それはどこか心にまで温もりを与えるかのようだった。

 鍋を火にかけ、じっと見守る。蓋がコトコトと揺れる。これもどこか懐かしい。だが、眺めてばかりもいられない。釜の火勢を若干弱めた。じっくり温めるうち、蓋の隙間から溢れ出る泡が収まってきた。手袋をつけてそっと蓋を開けて中の様子を窺う。パチパチと音がした。

 火を消すと、周囲は急に静まり返ったようになった。火種を拾うと、俺は隅っこにあった燭台に火を移した。先にやっておけばよかったのだが、そこまで考えられなかったのだ。


 蒸らした後に蓋を開けると、湯気と一緒に甘い香りが漂った。

 いつぶりだろう。こんなに美しい米粒を目にするのは。


 そっと茶碗によそった。

 鍋の隅の方からしゃもじを差し込むようにして取ったので、焦げた部分も目についた。だが、それは少しも見栄えを損ねたりはしなかった。


 探すと、箸もあった。焦げ茶色の質素なものだ。

 それをテーブルの上に置き、俺は近くにあった粗末な木の椅子に座る。そして、一椀の白米と向き合った。


 熱と水気を帯びて、白く透き通るような、輝く白米。

 なんとみずみずしいことだろう。


 火を通されたそれらに命が宿っているはずもない。だが、どういうわけか俺には、そこに果てのない慈愛のようなものを感じた。

 まるでわざわざ命を捧げてくれているような……死を通してもなお失われない愛のような。それはどのように生きればいいのか、死ねばいいのかの答えのように見えた。


 理屈で考えたら、そんなわけがないのだ。植物とて、殺されまいとしている。動物のように爪や牙で抵抗したりはしないし、走って逃げたりもできないが、有毒成分を生成することで食べられるのを防いでいる。それなのに、目の前のご飯は、俺を受け入れてくれそうな気がした。


 意を決して、俺は箸を取り上げ、ほんの一つまみを口に運んだ。

 ちゃんとした米だ。ドゥミェコンで食べたパサパサのそれではない。潤いと温もりに満ちた一口。


 嚥下した。

 何の衝動も襲ってこなかった。それどころか、体の内側から暖かなものが伝わってくるかのようだった。


 言葉にならない、天啓のようなものが下されたような気がした。

 この思いは、どう表せばいいのだろうか。


 目を閉じると、か細い光の道が見える。それは命の道だ。

 確かに。どんなに上手に断食しても、一ヶ月も絶食すれば人は死ぬ。水もなければもっと短い。食べ過ぎても体に悪いし、それで寿命を縮めるどころか、本当に死んでしまった人もいる。

 死の原因は食だけではない。病気、怪我、心の病からの自殺、寿命。数限りない。道は簡単に断ち切られる。まるで綱渡りだ。


 では、この恐ろしい道をなお渡り続ける意味があるのだろうか?

 全世界を見下ろす高峰から、霧の彼方の地上を眺める限り、それは見つからない。そこから見える景色は、確かに真実だ。人は動物を殺し、人も殺す。誰もが何かを奪って生きている。植物でさえ、陽光を独占しようとして伸びるのだ。では、今、見えているものがすべてなのか?

 すべてを見通す目をもってしても、なお見えない景色がある。それは、未来だ。


 人はどうやって生きてきた?

 飢えをなくしたい。寒さから逃れたい。もっと長生きしたい。それは苦しみに満ちたこの世界では、自然な願いだ。その思いを叶えるために、一つずつ階段を登ってきた。昔は見殺しにするしかなかった病人に、今は薬草を煎じて飲ませることができる。

 今を、受け入れるのだ。受け入れなくてはいけない。タマリアの言う通り、過去は運命だ。決して変えることはできないのだから。

 けれども、それは全てではない。


 受容を取り違えてはならない。

 今を受け入れることは、今のままの未来を受け入れることとは違う。


 祈り、願うのだ。

 多くの人が、これらをまぜこぜにしてしまっている。


 あるがままを受け入れること。

 それから、いかにあろうとするかを心に思い描くこと。


 地道な、そして丁寧な扱いを要する心の働きだ。道理を知っているからそれでよいというものではない。だから綱渡りなのだ。

 気を抜けば、俺の心の中にある現実の像は簡単に歪んでしまう。それはまるで、水面に映る自分の顔を見るようなものだ。こうあって欲しい、求める通りであってほしいという欲望に引きずられて、今いる場所を見間違える。

 その欲望は愛だろうか? いいや、そうではない。むしろ愛の働く場所は、その手前にある。

 考えてみれば、これも自然なことだ。現状を直視するから、願望が生まれる。ならば願望が生まれる前に、既に愛は静かに働いているのだ。また、意図して働かせなくてはいけない。できれば欲望の前に。


 現実と理想は常に食い違う。

 どんなに愛している人でも、自分の思い通りにはなるまい。ノーラにとっての俺がそうであるように。けれども、適切に自分の中の愛を知り、働かせることができるなら、現在と未来を繋ぎ合わせることもできるのだ。


 では、この愛はどこから来るのだろう? この、目立たない、静かな心の働きは、何物なのだろう?

 真実は近いのに、言葉にすることができない。


 けれども、大切なものが何かはもう、わかっていた。

 情景が思い浮かぶ。俺は米を炊き、野菜を切って肉を焼き、一膳の食事を用意する。目の前には、それを食べる人の笑顔がある。なんと素晴らしいことだろうか。


 俺の心の錨は、はじめから俺の中にあったのだ。


「あ……」


 気付けば、頬を伝う熱が通り過ぎ、冷たさに変わりつつあった。

 俺は、泣いていた。


 受け入れるしかない。今がその時なのだ。

 アイビィをこの手で葬った後、俺は自分で自分の心に蓋をした。彼女は俺に「生きて」と言い残した。けれども、この四年間、俺は生きていたと言えるだろうか。

 苦しみから逃れる道を求めて、俺は世界を彷徨った。ときに多くの人の血で手を赤く染めた。迷って迷い続けて、いつの間にかこんなところまで来てしまった。

 でも、これ以上、目を瞑ったまま歩き続けることはできない。


 それは苦痛に満ちていた。

 奪った命。引き起こした災厄。敵対した相手だけでなく、自分の身近な人々まで傷つけた。何度も間違えた。その道程のすべてを、改めて受け入れる。思い起こして受け入れ直すのだ。


 それでも、俺は許されている。

 今はもう、涙を流すことができている。どんなに醜態をさらそうとも、この大切な仕事を抜きにしてはいけない。


 落涙は嗚咽に取って代わられ、しばらくの間、俺は、あるがままの心の働きに身を任せていた。


 この日を境に、俺は悪夢に苦しめられることはなくなった。

 数日間の静養の後、やっと日常に立ち戻ったのだ。

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 今を、受け入れるのだ。受け入れなくてはいけない。タマリアの言う通り、過去は運命だ。決して変えることはできないのだから。  けれども、それは全てではない。  受容を取り違えてはならない。  …
[良い点] >知人からも、なろうで純文学風になろう小説を書いて、力の無駄遣いだと言われました……orz ジャンプにくそみそテクニック連載するようなものですよね。 いや、それよりひどいか。
[一言] 思うにこれはライトノベルの範疇では無く、夢枕獏とかを評価する指標を使って計る小説ではないのかと思います。 何と言うか、神々の山嶺を読んだような質量を感じる話です。
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