業
黒い靄が解けていく。まただ。
足下の土間は冷たく、湿っていた。空気の流れはなく、頬に触れるのは自分の吐息だけ。そこに言葉にしがたい独特の臭気が混じる。
揺れながら周囲を照らすランプの灯。今にも消えそうだった。照らされる土壁は妙に青白く、木の柱はやけに黒ずんで見えた。
まったく無音だった。ここにはあと三人いるが、俺が動かなければ、誰も物音をたてたりはしない。
赤黒い染みがところどころに見える頭陀袋の中には、一人の少年が横たわっていた。上半身は袋の外側に出ている。胸に深い切り傷があり、血が噴き出した痕があるが、もうそれ以上の流血はない。彼は目を見開いたまま、唇に黒い血の塊をつけたまま、まるで何かに驚いたかのような表情を浮かべていた。
もう一人。中年男だ。首に深い切り傷がある。目立つ外傷はそれだけだが、肩には血の汚れがべっとりとこびりついている。さっきの少年とは対照的に、その顔には表情がない。ただただ静かに力尽きたような静寂が見て取れる。
最後の一人は、若い女だった。既にできていた血だまりの上に仰向けに倒れている。これまた目立つ外傷が一つだけ。頭の天辺に古びた鉈が深々と食い込んでいた。こちらはまだ、そこから血が漏れ出し続けている。白い顔に鼻血の筋が一本。その顔立ちは整っていたが、今は憤怒と驚愕に引きつっていた。
もう、見慣れてしまった。
あの頃の俺とは違う。死を目の当たりにしたからといって、喚き散らしたり慌てて走り出したりはしない。それでも、心の中に滑り込む、あのぬるりとした思いが拭い去れるわけではない。
視界が切り替わる。
その瞬間、彼は確かに生きていた。けれども、自らの死を悟ってもいた。まさかこんな死に方をするとは思ってもみなかっただろう。
横薙ぎに振るわれた剣を避けようとした。けれども、彼の右足はもう、思ったように動かなかった。飛び退いた先は、崖の向こう側だったのだ。
わかりきっていた結果を、俺は確認する。
強い風が吹き、雨が降りしきる中、その男は崖下の砂場に仰向けに転がっていた。吐血したのか、それとも墜落の衝撃で体のどこかが裂けたのか、既に小さく赤い染みまで見えた。
視界が切り替わる。
薄暗い石のドームの下、外から真っ白な光が差し込んでくる。そこから前後にそれぞれ二人ずつ、担架から突き出た持ち手を掴んで運んでいるのが見えた。運ばれているのは、遺体だった。よく知っている。全裸で城の上から濁流へと身を投げた。その前にも、あちこち傷だらけだったのだ。
布をかぶせてあるので、はっきりとは見えない。だが、布の下からだらりと垂れ下がった腕が、彼の死を実感させた。
彼は卑しい生き方をしてきた男だったのかもしれない。けれども、彼には彼の物語があったはずなのに。城下のスラムには、馴染みの女もいたのだ。だが、俺の一存で彼は人生を奪われた。
視界が切り替わる。
暗く冷え冷えとしたトンネルを抜けると、夕暮れ時の空が見えた。黒雲が続々と南の方から押し寄せてきていて、赤い空はその狭間にちょっと見えるだけ。
城門の外は、ほぼ廃墟といってよかった。軍勢が幾度となく通り抜けたのだ。大通り沿いの建物は、或いは打ち壊され、或いは略奪され、また或いは焼け落ちていた。そんな中、黒い影を落とす荷車と、そこに据えられた檻が目に映った。
中には、薄汚れた老人が一人いるだけだった。三日もの間、飲まず食わずで過ごしたのだ。萎れかけた草のようだった。落ちくぼんだ眼窩に皺だらけの顔……彼の姿は、ある意味、死より死を強く連想させた。
俺が縄を切って解放すると、彼は檻から転げ落ち、助け起こしてくれるようにと要求した。だが、軽蔑の気持ちが募るばかりだったので、俺はただ彼を見下ろした。
彼が自力では生きられないことを、俺はよく知っていた。だからついてくるままに任せた。
やがて、流民街でも最悪の場所に立ち入った。泥の壁は砕かれ、家を支えていた柱が剥き出しになっている。放火もされたのだろう、あちこち炭化している。体を強張らせて丸く縮こまったままの焼死体も、当然のように転がされたままだった。
そんな破壊の末に生まれた広場には、薄汚れた男達がしゃがみ込んでいた。誰の顔も煤に塗れていた。離れたところに裸の女の死体が寝そべっていた。それがいかにも無造作だった。
俺の後ろについてきた老人が身分を明かすと、彼らは静かに立ち上がり、黙って距離を詰め、そして掴みかかった。
自分達を虐げた領主が今、目の前にいる。そうと知った彼らによって、老人は生きたまま食い殺された。俺は確かに、それを眺めながら愉悦に浸っていた。
視界が切り替わる。
『ま、待って! 待って! 許して! お願い!』
既に数人の男達が死体になっている。爆発でへし折れた樹の下敷きになったのもいれば、最初の爆発で手足が吹き飛ばされたのもいる。
『なんでもするから! 殺さないで!』
戦意を喪失した相手でも、俺は躊躇しなかった。
這いつくばった女の長い金髪を引っ張り、ちょうどよく四つん這いになっているところに、容赦なく剣を振り下ろした。
殺すだけなら、これで終わりだった。だが、俺はわざわざその首を、すぐ目の前の崖の下に投げ落とした。
視界が切り替わる。
ブスタンの南門の前には、死体が積み重なっていた。
雑に切り裂かれた男の体が横たわっている。剣術の定石に従って肩口から斬り下されたのではなく、どこをどう断ち切ったのか、腹から胸へと、斜めに肋骨が露出するような形できれいに切れていた。まるで解体されたマグロみたいに見える。
手にはまだ、頭蓋骨が砕けるあの感触が残っていた。一人ずつ、俺はじっくりと味わった。ただ殺すだけではもう、飽き足りなかった。
視界が切り替わる。
塔の上から淡い黄色の大地を見下ろしていた。そこにゆっくりと壮年の男が頭から落ちていく。
『さあ、謝罪してみろ』
『くたばれ!』
『お前がな』
言葉で相手を呪うしかない相手。それを一方的に嘲笑い、殺す。
次の戦士を引っ張り出した。
『お前もいずれ死ぬぞ』
『そうだな』
俺の中には、憎しみしかなかった。
いや、憎しみなど通り越していて、あとはもう、自分の命も含め、ゲームのトークンでしかなかった。
『普通なら、誰でも死ぬ。どうせ死ぬ。だったら』
トークンはトークンだ。得点を記録する石ころでしかない。
『死ぬ前に一人でも多く殺したほうが、得だな』
だったら、一点でも多く稼いだ方がいい。ただそれだけのこと。
俺は偽善者だろうか?
親しくしていた人が殺されたと思ったら、どこまでも残虐になった。殺さざるを得ないから殺すのではなく、憎いから殺した。憎しみの果てにあったのは、他人も自分もゴミクズ同然に扱う狂気だった。
だが、これではデクリオンと何も変わらないではないか。むしろ、悲劇の再生産をさせまいと建設的に考えていただけ、彼の方が理性的で、善良だったとさえいえる。
復讐の時間が終わる。終わってしまう。
するとまた、俺に問いかけが迫ってくる。
世界を満たすのはいまや白い光だけだ。あの輝く剣身だけが見える。
これを手にすればいい、これに従う以外、もう道はない……
それに逆らおうとすると、全身に激痛が走る。
耳を聾する怨嗟の声が響き渡る。
いつまでも続くかのような苦しみだ。既に時間の感覚もない。
けれども、次第に痛みが引いていき、俺にだけ聞こえる騒音も遠ざかっていく。
窓の外から、明け初めた空の光が見えた。
地平線に沿って橙色に染まっている。手前にある建物の黒い影が、この時間ならではの素晴らしいコントラストを描き出していた。けれども、今の俺にはその建物の姿すら、罪を問う審問官のように見えてしまう。
外から流れ込んでくる空気が頬に触れる。明け方の空気は一番冷たい。南方大陸とはいえ北の方、もうすぐ縞瑪瑙の月、季節としては冬だ。
既に俺の中には、自ら温もりを生み出す熱量がない。
毎日、明らかに衰弱している。原因は明らかだ。
階段を登る足音が聞こえた。
「あ、起こしちゃった?」
そっとカーテンをめくったノーラが、いつになく弱々しい声でそう言った。右手には、温めたミルクと柔らかそうな丸いパンを載せたトレイを持っている。パンはご飯を食べるお茶碗の中に納まっていた。意図するところはわかる。パンをミルクに浸けて、ふやかして食べてもらおうというのだ。
毎朝、彼女はこうして通ってくれている。それが心苦しい。
「ううん、ありがとう」
「ありがとうって、そんなことより」
摺り足でそっとこちらに近づいてきて、トレイを差し出した。
「今日はどう? 少しでも食べられそう?」
「ごめん、まったくお腹が空かないんだ」
「でも、もう何日もその調子なのよ?」
何日も、どころか。
俺がモーン・ナーの残留思念に囚われ、断罪の剣という触媒によって運命の時針の力を暴走させてから、二週間も過ぎている。その間、俺は水以外、何も口にできていない。
「固いものが食べられないなら、スープでもなんでも用意してもらうから」
「ワン・ケン先生に申し訳ないね。ろくに挨拶もできなかったのに」
「後で頭を下げればいいじゃない」
今となっては、ノーラも無理して食べさせようとはしてこない。そんなことをしても、俺が吐き出してしまうから。
ノーラからしてみれば、あの無数の灰色の腕の件も説明されていないし、急に俺が絶食するしで、訳が分からないだろう。申し訳ないとは思うが、彼女も今はあれこれ問い質さず、とにかく俺の回復だけを考えてくれている。
だが……
「今はゆっくり休んで」
あれこれ言いたくなるのをぐっと抑えて、彼女はトレイを脇のテーブルに残し、去っていった。
多分、彼女はわかっている。
今の俺には、生きようとする気力自体がないことを。
デクリオンが口にした、亡者の意見。俺はそれを否定できない。
生きれば生きるほど殺す。悲劇の連鎖だ。だが、大人しく殺されたところで、きっとまた生まれ変わる。いや、俺が生まれ変わらなくても……そういう魂がどうのというのがただのオカルト、今を生きる俺の妄想でしかないとしても、これからもずっと殺し合いが続く。
であるなら、どうしてわざわざ今を生きなくてはいけないのか。虫けらにでも生まれ変わってしまって、そのまま何もかもを忘れてしまえばいいのではないか。
いっそ物欲に我を忘れてしまえるなら、その方がいいのかもしれない。力任せに暴れて金を奪い女を抱き、美食を味わって……でも、それができるような人間だったら、今、俺はこんなところにはいない。きっと他人の肉体を奪って、王侯貴族になりすまして、欲の限りを尽くしていたことだろう。
なら、さっさと自ら命を絶ってしまって、今度こそ記憶が消えることに期待するしか……
でも、それも今となっては望み薄と言わざるを得ない。モーン・ナーが俺に前世の記憶を残したのは、生まれ変わる前から抱えもっていた憎悪とか、惨めさとか、そういう気持ちを抱き続けて欲しいからだろう。だから何度生まれ変わっても記憶は残るし、仮に人間以外になって生涯を終えても、何度目かの復活で人間に戻ったら、また記憶も付き纏うんじゃないかと思う。
だから、何もせずにいる。
どうにもならないのだ。俺個人のことも、この世界の仕組みも。
生きるということは、奪うということだ。奪うという意志は俺達の体に、生命そのものに深く刻み込まれている。それに突き動かされて行動し、俺達は命を再生産する。食事を摂ればそれを材料に細胞を作り、子孫をもてばそれが俺達の死後にまた殺戮に勤しむ。
誰が悪いのでもない。俺達の生存そのものが苦しみの原因なのだから。そして死んでも終わりはない。また生まれ変わって、また苦しむ。いつまでも、どこまでも。
死が近付いているのは実感している。
ただの絶食だけならまだなんとかできたかもしれない。バクシアの種の中には、断食の神通力があるのだから。しかし、このところ毎晩苛まれ続けている。
眠れるのは日が昇ってから。それもごく浅い睡眠しかとれない。ノーラがさっさと立ち去ったのも、それが理由だ。といって、夜中はというとずっとうなされているらしく、どんなに揺り起こそうとしても無駄だったらしい。休めるのは、今からだけなのだ。
さすがにこれではもう、身がもたない。
死が恐ろしくないわけではない。たとえ二度目でも、あれだけ殺しても、怖いものは怖い。それに二度も葬式を引き受けさせては、ワン・ケンには申し訳ない。俺の中の人の意識はそう考えている。
もちろん、人の世のしきたりに合わせて、うまく立ち回ろうという思いがないのでもない。出されたものを食べ、元気に起き上がり、笑顔さえ見せる。全部演技だ。では何か、俺は一生、他人と自分に嘘をつき続けなくてはいけないのか?
それができるなら、やってもいい。でも、俺はわざと食べ物を吐き出しているのではない。どうしても、受け付けられないのだ。自分にどれだけ言い聞かせても、心の深いところが食べることを拒んでいる。
本当に、罪悪感だけがある。
考えてみれば贅沢な話だ。俺がこれまで殺した人の数を考えれば、そもそも論じるに値しない。生きられないならとっととくたばるべきだ。俺には泣く資格すらない。モゥハやヘミュービがやってきて、俺をズタズタにしたところで、何が悪いものか。
だが、それすら傲慢な考えか。俺は大勢の人間を殺したが、仮にそうした人生を歩まなかったとしても、日々何かを食べていたに違いない。食べ物とは、即ち誰かの命だ。人の命だけが尊くて、動植物のそれはどうでもいいのか?
人も、人以外も。誰もが奪い、殺し、苦しみ、死んでいく。なら生存は悪だ。いかなる幸福も、最後にはそれを上回る不幸に塗り潰される運命なのだから。
すべてを終わらせようと望んだモーン・ナーは、デクリオンは、何も間違ってなんかいない。少なくとも、俺には反論の用意がない。
ノーラは、今まで変わらず俺に好意を向けてくれている。なら、彼女に縋って泣いてみようか? なるほど、彼女は俺を受け止めようとしてくれるかもしれない。でも、駄目だ。
一人、暗がりに転げ落ちた時、それを救う希望はどこにあるのだろう? 誰か他の人の愛情か?
だが、それはもう試みた道だ。アイビィの最期を忘れてはいない。同じ苦しみに同じ逃げ道を探して、同じ落とし穴に落ちるのか? もしここから這い出るのなら、今度は俺が俺自身の力でなさなければならない。
けれども、どうすればいいのか、何をもって生きるに値するのか、それがわからない。
どうしようもない。生にも死にも等しく価値がない。そうとしか思われない。
……それでいいのだろうか?
内心、引っかかりはある。
それでもなお生きるべきだとしたら? その手掛かりはどこにあるのだろう? けれども、窓の向こうに広がる朝焼けは、それは美しくはあったが、俺に何かを教えてくれたりはしなかった。
ようやくまどろみが覆い被さってきた。
俺はそれ以上、何かを考えることができず、ただただ身を委ねた。




