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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十八章 精錬の庭
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呪詛、降りかかる

 ふと、光を感じて目を開いた。

 白い土壁に焦げ茶色の木の窓枠が美しい。窓は開け放たれていて、ここからだと空が垣間見える。薄曇りだった。それでもほぼ真上からの日差しを感じるということは、今はもう昼近いのだろう。

 どうしてこんなところに……と思考を巡らせる。ずっしりと体に重さを感じていた。仰向けになって寝かされていて、布団もかけてもらっていた。


「ファルス、起きたの?」


 ノーラの声に、俺は首を回した。

 そうだ、ワン・ケン師に会ってマオ・フーの手紙を渡して。その訃報を耳にするや、バッタリ倒れ込んでしまったのだ。

 彼女は、俺の寝ている寝台のすぐ横、椅子に座ってずっと様子を見てくれていた。


「うん」


 返事をしたが、声がかすれていた。


「どうして……ううん、当然だわ」


 ノーラの後ろには部屋の出口があった。出口の上の方はアーチ状になっていて扉はなく、カーテンが垂れているだけだ。すぐ外にいたのか、俺が目覚めたのに気付いて、みんなドカドカとこちらにやってきた。ジョイスとクーの姿がないが、きっとワン・ケンのところにいるのだろう。


「おう、生きてるか」


 フィラックが俺の枕元にやってきた。少し呆れているらしい。苦笑していた。


「極端だよなぁ、毎回。普段は俺じゃ歯が立たないってのに、倒れるとなったら急に弱っちまうんだから」

「フィラックさん」


 だが、ノーラには笑えなかったらしい。彼女は非難がましい眼差しを向けた。


「こうなるのは当然じゃない」

「ああ、まぁな? けど、ノーラ、お前もそうだろ。昨日の夕方まで寝込んでたのは同じだ」

「私はもう平気よ。でも、ファルスはそうじゃない」


 その視線が再び俺に向けられる。


「私は昨日の昼過ぎにはもう、少しものを食べたりもできたけど、ファルスはもう丸二日は食べてないのよ」

「わかってる」


 真顔に戻って、フィラックは頷いた。


「だから今、ワン・ケン先生が医者の手配をしてくださってるんじゃないか」


 初対面なのに、いきなりお世話になってしまった。申し訳ない。


「あの、先生は」

「病人があれこれ気にするな。一切合切、纏めて面倒見てくださるそうだ」

「ここは」

「ああ」


 フィラックは、手近な椅子を引き寄せてその上に腰を落ち着けた。


「ここ、広いだろ。ワン家はもともとこの街の顔役みたいなもんで、ここの道場も代々受け継いできたものなんだってさ。なんでも、正式な門弟はここに住み込んで毎日修行するんだそうだ」


 つまり、俺が寝かされているのは、そんな広大な屋敷の一角で、来客用の部屋ということなのだろう。


「クーは」

「ああ」


 溜息をつきながら、彼は説明した。


「ワン先生の弟子と一緒に、タウルとラピの棺を探しに行ってくれてる。あと、医者も連れてくるはずだ」

「僕がやらないといけないのに」

「全部、直接やることはないさ」

「そうよ」


 ノーラには何か含むところがあるらしい。


「いつでもなんでもやろうとして、結局押し潰されてるんじゃない。人に任せて休まなきゃダメよ」

「それはそうだけど」


 彼女に言われたくはない。

 ピュリスのブラックタワーでどんな生活をしていたか。地上二階の仕事部屋に睡眠用のブースだけ設けて、あとは朝から晩まで働き詰めだったじゃないか。


「遅くなりました」


 カーテンの向こうから、クーの声がした。


「今、お医者様をお呼びしました! ……さ、先生、中に入っても驚かないでくださいね」


 医者が来たからということで、ノーラもフィラックも、診察の邪魔になってはと立ち上がって場所を空けた。

 カーテンを潜ってやってきたのは、ハンファン人の医師だった。茶色い浴衣のような上着に、腰には黒い前掛けみたいなものを身に着けている。頭にも茶色の帽子だ。丸顔に丸い鼻の、いかにも人のよさそうな小男だった。


「どれどれ、患者さんはこちらかね」


 彼は一瞬、部屋の中にいるペルジャラナン達を凝視したが、すぐ目を逸らして、シュライ語でそう言いながら、俺の横に座った。


「さぁて、気分はどうかね? いや、言葉は通じるかね」

「はい」

「それはよかった。倒れたと聞いたのでね、まずは脈を拝見」


 患者を安心させる、いかにも陽気な声色だ。彼はいい医者なのだろう。


「では、舌を見せてくださらんかな」

「舌?」

「そう、舌の苔を診たいので」


 そうすると、今度は立ち上がって、俺の布団をめくりあげた。


「失礼。お腹を」


 服をずらして、腹部を触診した。その後、元通り布団をかぶせ、椅子に座り直した。


「随分とお疲れですなぁ」

「はい」

「お若いのに無茶をなさる……それで、お食事は」


 クーが横から口を出した。


「それが、二日も食べてないんです」

「おぉ、それはよくない。胃も弱っているようですしなぁ」


 すると、彼は持ち込んだ木箱を開けて、中の薬をあれでもない、これでもないとぶつくさ言いながら選んでいた。ようやく取り出した紙包みを手に、お湯を所望した。クーが湯呑を手に戻ってくると、そこに彼は粉薬を溶かし込んだ。


「さ、これをお飲みなされ」


 出された薬からは、いかにもな臭いが漂っていた。

 布団の上で上半身を起こしているだけというのもあって、彼は抜かりなく木桶を下に添えている。多少は吐き戻すかも、というのも見越しているらしい。


「息をせずに一気に飲むのがコツですぞ」


 まずかろうがなんだろうが、薬なのだから飲むべきだ。それで俺は、言われた通りに息を止め、一気に喉に流し込んだ。多少の苦みはあったが、耐えられないということはない。


「おっ、一気にいきましたな、上々、上々」


 ほっとノーラが胸を撫で下ろした。

 味はよくなかったが、これで多少は体調も良くなる……


 空になった湯呑をクーに手渡し、ふっ、と息をついた。その瞬間。

 何かに突き飛ばされでもしたかのように、急にこみ上げる何かを感じて、盛大に嘔吐した。


「おわっ」


 医者も驚いてしまった。飲めない患者はいても、飲んでから吐き戻す奴は珍しかったのに違いない。


「ファルス!」

「水を持ってきます」


 木桶があったのが救いだった。

 この後、クーが持ってきてくれた白湯だけは、辛うじて飲むことができた。医者は安静にするようにとだけ伝えて、そのまま帰ってしまった。


 夕方。

 何もせず、この三階の窓から、灰色の雲の下の部分が橙色に染まっていくのを、木々の黒々とした影を眺めていた。

 歩けないわけではないが、とにかく食事が喉を通らない。二日も食べていないので、トイレに立つこともなく、またそもそも起き上がる元気もなかった。


 足音が近付いてきた。


「よぉ」


 ジョイスだった。

 手にはお盆を持っている。皿の上にはサンドウィッチみたいに肉と野菜を挟んだパンがあった。


「どうしちまったんだ、お前」

「ああ、どうにも調子が悪くて」

「食えよ」

「危ない」


 寝台の上で半身を起こした俺の膝の上に、お盆を置く。パンだけではなく、温めたミルクも添えてある。


「やっぱ食いなれたもんが一番だろ」

「済まない」

「気にすんな」


 二日もの絶食に、なんでもいいから食べる気になるものをと、わざわざこの地域では珍しいフォレス風の食事を用意してくれたのだ。

 だが……


「駄目か」


 パンを持ち上げ、口に近付ける。すると、焼かれた肉の匂いや野菜の生臭さのようなものがムッと押し寄せてきて、何も考えられなくなる。

 理屈では、これはおいしい、これはいいものだとわかるのに、どうしても受け付けられない。


「あー、なぁ、ファルス」

「うん」

「明日、葬式すっから」


 ラピは遺体があるが、タウルのは持ち帰る余裕がなく、放置してきてしまった。それでも、ここで墓だけは作るのだろう。


「タウルの方は、しょうがねぇからフィラックが持ってるタウルのナイフ? あれを代わりに墓に入れるんだとよ。ま、そのナイフも予備で、あんまし使われてなかったらしいけど」

「そうか」

「ラピの方がなー、葬儀屋に遺体は洗ってもらったんだけど、日持ちしねぇからな。せっかくかわいかったんだし、腐らせるのもかわいそうだろ」

「そうだな」


 そこで会話が途切れた。

 不意にジョイスは俺の肩を乱暴に叩いた。


「あんま気にするな。しょうがねぇだろ」

「しょうがなくは、ない。僕に責任はあると思う」

「んなこと言ったら、まず俺だろ? 油断しねぇで全員の心を覗いときゃ、あんな不意討ちは食らわなかったんだ」

「それは、でも」


 少し考える。

 疲れのせいか、空腹のせいか、思考が鈍っている。


「そもそも、僕がパッシャとか、その他いろんなものに恨まれるような生き方をしてきたせいだ」

「だったら、そういうお前と一緒に旅をしたことが自業自得だろ? タウルなんか、出世したくてお前についていったんだし」

「ラピは違う」

「そっちはもっと仕方ねぇだろが。お前がクース王国で拾ってなきゃ、とっくに嬲り殺しにされてたんだしよ」


 いちいちその通りだと思う。

 だいたい、あの大森林を生きたまま抜けられただけでも、ほとんど奇跡みたいなものだった。クロル・アルジンの脅威に直面しても死なずに済んだ。ここまで生きられただけでも、運がよかったのだ。


「わかってる」


 俺は頷いた。


「僕は別に、見殺しにしたつもりはない。完全ではなかったけど、できる限り助けるために駆けずり回った。でも……」

「ああ。どっちかっつーと、ノーラのがしょげてたぜ。お前の前じゃ何も言わねぇけど」

「なんて言ってた?」


 するとジョイスは肩を竦めた。


「二人で寝ていたところに、いきなり神通力か何かで、壁に大穴開けられたんだってよ」


 そしてそこに、パッシャの戦士が雪崩れ込んできた。能力だけ付与されたノーラには、キースならできるだろう「即応」ということができなかった。何が起きたかを見極めようとするままに、一撃を浴びてしまった。硬直していたのは、ラピも同じだった。『人払い』をかけたはずなのに、で思考が止まってしまっていたのだろう。

 だが、そこは死線を越えてきただけあって、ラピはすぐさま小屋の奥に引き下がったし、ノーラも襲撃者の二人を『変性毒』で片付けた。更に、小屋の外にいた一人も同じように始末した。

 しかし、パッシャの戦士が手にしていた刃物が問題だった。ミスリルの武器ゆえにノーラは激痛に見舞われ、それ以上、何もできなくなった。立ち上がって逃げることもできない。もちろん、傷が回復したりもしない。

 ラピは、ノーラの荷物を背負って、負傷したノーラに肩を貸して、近くの森に逃げ込んだ。だが、神通力に目覚めたパッシャの戦士相手では、逃げ隠れするにも限度があった。しかも、ノーラの体調は目に見えて悪化していく。


『逃げて』


 自分を捨てて逃げるようにと言われたラピは、逆に覚悟を決めてしまった。


『やっとお役に立てますね』


 彼女は、荷物の中の黒いローブを身に纏って、一人走り出した。

 黒竜のローブは、ちょっとやそっとのことでは傷つかない。だから、ノーラは護身用にそれを着用するのかと思って見過ごしていた。激痛に思考が妨げられていたのも大きい。

 だが、ラピが走り出す直前になって気付いた。


『やめて! いけない!』


 だが、もう彼女は振り返らなかった。

 パッシャの標的がノーラであることは明らかだった。というのもノーラはサハリアの戦役でも死なず、マバディの手によって重傷を負っても復活した。クローマーは、なんらか獣人その他と同等の回復能力があるのではないかと推測して、ミスリルの武器を持たせたのかもしれない。

 では、ノーラを助けるにはどうすればいいか? ラピは、敵に自分をノーラだと誤認させるためにローブを利用したのだ。


「そんなことが」

「だから、あいつも自分のせいだってよ」


 俺は首を振った。


「ノーラのせいじゃない」

「お前のせいでもないさ」


 壁際にあった小さなテーブルを引き寄せ、そこにお盆を載せると、ジョイスは席を立った。


「食えるだけでも食っとけ。よく休めよ」

「ああ」


 それだけで彼は手を振って出て行ってしまった。

 だが、何度皿を見ても、食欲が戻ってくることはなかった。


 それに……


 再び、窓の外を見る。

 もう夕暮れ時も終わりだ。さっきまで残照に染まっていた雲が、いまや暗い藍色の空に溶け込もうとしている。


 そして、俺には予感があった。

 昨日と同じ。夜闇が深まるとともに、次第に全身に苦痛と倦怠感が戻ってきた。そして耳には、最初は囁きのように、次第に大勢の呻き声が、怒りと悲しみの叫びが響いてきた。

 やっぱりそうだ。今夜もきっと、一睡もできない。


 それから、俺は寝台から起き上がることができなくなった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 絶食してたところに、サンドイッチは胃に負担がかかるなぁ。麦粥を出してくれた、ファルスの母の優しさを思い出しますね。
[一言] ノーラは血液量が戻ったっぽいので、超回復を戻せば体内栄養素も元に戻りそうだけど、お腹減って動けないわけではないだろうから、そういう問題ではないんだろうな。
[良い点] これはいけません 懐かしの準主役定食で栄養を摂取すべきですね
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