新王ドゥサラの治世
その日、政庁は美々しく飾られた。南の大門からまっすぐ続く幅広の通路には、一定間隔で王家の旗が立てられた。階段を登った先、屋根のある所には、赤、青、緑、黄と、王家を守護する者達を象徴する四種の色で飾られた布が垂れ下がっていた。
もっとも今のポロルカ王国には、これ以上に見栄を張る余裕などない。花びらを撒き散らしたり、お香を焚いたりといったことは全部省略された。動乱が収まったとはいえ、今も非常時であるのには違いがない。すべては略式で済ませなくてはいけない。
あくまで個人的な感情としてはだが、どんなに飾り立てようとも、この場所を色眼鏡抜きにして眺めるなどできそうにもない。ティーン王子の生首とか、目の前で首を切り裂かれて死んだチャール王子とか、ひどいものばかり見てしまったからだ。
気持ちは、ここに居合わせる者達みんな同じなのだろうが、さすがに貴族の方々は微笑みを絶やさない。なぜなら今日は、新王即位の日なのだから。
「我らをお導きください、尊き血に連なるお方よ! おお女神よ、我らが君主を祝福し給いますように」
動乱の際には王都から逃げ出していたバンサワンだが、ちゃっかり戻ってきていた。今はこの簡易化された即位式のトリの部分、つまり王笏を差し出して、受け取ってもらう役目を引き受けている。
「この地に生きる民よ、ドゥサラは今この時をもって、我が身を万民に捧げた。この手にあるは、その証である」
「万歳」
居並ぶ群臣が一斉に諸手を挙げて喜びを表した。それが収まるのを待って、バーハルが新王ドゥサラの御前に進み出て、膝をつき、深々と頭を下げた。
「おお陛下よ、新たな王を戴いたこの日はよき日でございます。さりながら今は国家存亡の危機。速やかに我ら臣下の者どもにご命令をいただきたく」
パッシャの計画が挫折したから危機を脱した、ではない。今、ポロルカ王国の首都機能はガタガタだ。特に防衛や治安維持については。王都を守る五つの軍団のうち、四つが崩壊してしまっている。一番マシなのが紅玉蠍軍団で、それでも生存者は半分強。緑玉蛇軍団に至っては、ほとんど生存者がいない。将軍にしても生き残ったのは三人だけで、しかも青玉鮫軍団の指揮官は、青竜討伐失敗で既に罷免されている。
だから、仮に今、赤の血盟が艦隊を派遣したら、まともな戦闘など行われることなくラージュドゥハーニーは陥落するだろう。まずあり得ないことではあるが。
「その通りだ、バーハルよ。本来の手続きからすれば、内府が計画を立案して外府に下命するべきところではあるが、今は正規の手順を踏んでいる余裕がない。他の者達も、遠慮なく提案してほしい。まず余は何をするべきだろうか」
「申し上げます」
そして、王子の声に早速反応したのは……動乱中はまったく存在感のない男だった。
「陛下が即位なされた以上、まずすべきは法の峻厳を明らかになさることと存じます。聞けば先にベルバードが反逆した際、暴徒が王宮に乱入し、狼藉の限りを尽くしたとか。このような悪事を見逃していては、王家の威信は保てません」
耳にへばりつく不快な声色だ。なぜそう感じるのかといえば、これが真心ではなく、媚びる気持ちから出ているからだろう。
緑玉蛇軍団の将軍ヴィデルコは、あの城塞消失と同時に死亡したと考えられていたのだが、なぜか生き延びていた。丸い顔、丸い腹をした、まるで武威を感じさせないこの中年男が、どうしてあの混乱を生き延びることができたのか。そこに思いを巡らせると、不快感は一層際立つ。
「私に命じてくださいませ。必ずや罪人を捕らえ、陛下の御前に差し出してみせます」
ドゥサラは、振り返ってヴィデルコの顔を見た。それから正面に向き直った。
「他に何か」
「陛下」
まるで無視されたかの格好になったヴィデルコは、なおも言い立てた。
「私は陛下が実に親孝行な方であること、よく存じ上げております。あのような悪行を働いた者達への怒りはいかばかりでございましょうか。きっと私が陛下の、いや、母君の無念を晴らしてご覧にいれます」
「バーハル」
ドゥサラは、言われたことには答えず、目の前で跪いたままの宰相に命じた。
「王宮で管理している国庫を開き、急ぎ貧窮している民の救済に充てよ。費用に上限は設けぬ。必要に応じて用いるがよい。それでも不足する場合は、改めて余に相談せよ」
「御意」
「メディアッシ。そなたはバーハルを助け、また国庫からの支出を記録するように。だが、そなただけでは手が足りぬだろう」
新王の視線は、メディアッシの隣に立たされたもう一人の元重鎮に向けられた。
「ヒランよ。余はシェフリ家の貢献を知っている。本日をもって、過去の一切について免責するものとする。我が国は志ある者の助けを必要としている。直ちに貧窮者の支援に回ってもらいたい」
「ははっ」
「ありがたき幸せ」
オロオロするヴィデルコを放置して、ドゥサラは次々と命令を下していく。
「ジーヴィット」
「はっ」
「今、王都の広い範囲が大火に見舞われ、大勢が家のない暮らしを強いられている。飢えに苦しむ者もいることだろう。それ自体は憐れむべきであるが、ゆえに罪を犯すものが増えてはならぬ。兵士達を率いて市中を歩き、その威を示せ。遠からず王家の助けがあることも、併せて伝えよ」
「仰せのままに」
それからやっと、ドゥサラはヴィデルコに向き直った。
「それで、なんだ」
「あ、う、そ、その」
だが、愚かなこの男は、なおもくだらないことを口にしようとした。
「私は罪人を」
「ヴィデルコ将軍。あの恐ろしい日、緑玉蛇軍団の城塞がパッシャの使役する怪物に吹き飛ばされた日に、そなたはどこにいたのだ」
「えっ、そ、それは市内の巡回に」
ドゥサラは頷いた。
「では、銀鷲軍団が王宮に攻め込んだところも目にしたはずだ。なぜ戦わなかった」
「いえ、多勢に無勢では、犬死するだけでございます。それゆえに城塞に引き返す途中でした」
「その城塞の近くにはメディアッシ達が辿り着いていた。だが、そなたの姿を見かけたとは聞いていない」
「たまたま行き違っただけでしょう」
「もうよい」
これ以上、不毛なやり取りをするつもりはないらしい。彼は始末をつけた。
「緑玉蛇軍団は事実上、もはや存在しない。いったんこれは解体とする。ヴィデルコよ、そちが当日、どこにいたかは知っているが、この場ではあえて言わずにおく。して、そなたは既に兵なき将だ。兵がいないのなら、将も不要であろう」
「おお、陛下」
「壇上より降りて、家に帰るがよい」
宣告を受けたヴィデルコは小刻みに震えていたが、やがて背後にいた兵士達に促されて、こっそりと列の後ろから退出させられた。
「さて、此度の混乱では、異国の勇者達の活躍に助けられるところが大きかった。その功績に報いねばならないのだが」
彼の視線はようやく、俺達に向けられた。今の彼の立場と、その優先順位からすれば、これでも遅すぎるなんてことはない。
「長年この世界を蝕んできた闇の組織パッシャの悪意を挫いた彼らは、紛れもなく現代の英雄である。余は、彼らと共にあったことを生涯誇りとするであろう」
ドゥサラの視線を受けて、脇に立つ補佐官が手にした書面に従って読み上げる。
「キース・マイアス、前へ」
俺の横に立っていた彼は、まったく場にそぐわない格好をしていた。以前のような服装を強制されるのは嫌だと、着替えを断固拒否したのだ。だから今は、漂白の済んだ白い陣羽織に、帯剣したままの格好だ。だが、今となってはそれを誰も咎めることはない。
キースは、実に面倒そうに前に出た。
「キースよ。パッシャの首領を討ち、また逆賊ベルバードをも討ち果たしたそなたこそ、まず賞されるべきである。望みのものはあるか」
ヒランが冷や汗をかいている。先にキースは、国宝を寄越せと言っていた。ホムラか、バショウセンか、それとも今、ドゥサラが身に帯びているシロガネか。今になってから約束を履行しませんというわけにはいかない。あの時点でヒランが想定していたより、遥かに重大な問題が起きて、キースはその解決のために最後まで身を挺して働き続けたのだから。
「……ない」
しばらく間を空けてから、キースは短く答えた。
「そなたの功績は既にして大、王家は報いないわけにはいかない。また、我が国は今、一度に大勢の将軍を失い、軍の中核となる人物を求めている。もし、そなたがよければ、正式に我が国の将軍となってはもらえないか。無論、領地とともに、伯爵の称号をも授けたい」
「務まらない」
キースは首を振った。そこでヒランが進み出た。
「恐れながら発言してもよろしいでしょうか、陛下」
「よい。申せ」
「先に王宮がパッシャの者どもに襲われた時、私の屋敷にはキース殿がおいででした。私はイーク王太子の命を救うべしとして、キース殿に戦っていただくようお願いしました。その時、私は約束をしたのです。王家が所有する宝、即ちシロガネ、ホムラ、バショウセンのうち、いずれかを差し上げると」
この暴露には、さすがに群臣もざわめいた。
「これは王家の許可を得ずして、私が勝手に請け合ったものです。ですが、一切が過ぎ去ってみれば、確かにキース殿の功績は、まさにこのような報奨に見合うものでしょう。願わくば陛下、キース殿に爵位と領地、将軍の地位を与えるにとどめず、更に王家の剣たるシロガネをお授けくださいますよう、差し出がましくも進言させていただきたく存じます」
王に向かって王家の剣を差し出せと。しかも、その根拠が臣下の、それも謹慎中の無役の人間の発言によるというのだから、政庁のざわめきはますます大きくなった。
俺も少し驚いたが、しかし、すぐ思い直した。なるほど、やっぱりヒランは政治家だ。あれこれ見越してものを言っている。だが、これではキースが困るだろう。俺はざわめきを利用して、隣に立つノーラに耳打ちした。この窮状から救ってやらなくては。
ドゥサラは頷き、腰の剣を帯から外した。すると政庁は逆に水を打ったように静まり返った。
「ヒランよ、そなたの申すことには利得がある」
それからキースに向き直った。
「シロガネは王家の剣であるが、王者に求められるものはひとえに民への慈愛であって、武威ではない。それは王国を守るよき者達の徳であろう。ならば最も優れた武人こそがこれを持ち、威光を示すのが道理である。では、本日よりキース・マイアスを五人の将軍の筆頭とし、再編される金獅子軍団の長とする。また併せてメンヒーティン伯爵の称号とその領地を授ける。このシロガネは、我が国の将達の頂点に立つ者に預けるものとする」
ヒランは恩知らずな人間ではない。もちろん、ポロルカ王国を救うために戦い、デクリオンを討ったキースには感謝している。だが、それはそれとして、やはり王家への忠誠が最優先なのだ。
彼の目論見はこうだ。まず、ここで何も言わなければ、キースには「約束を反故にした」と責められかねない。盗み出してでも国宝を与えると言ってしまったのだから。よってドゥサラには、ここで国宝を与えよと言わないわけにはいかない。
だが、そのタイミングは選び抜いていた。キースが以前にイーク王太子から登用されるのを断っているところは、彼も目撃している。だが、軍が半壊し、将軍達も半分以上がいなくなった今、優れた武人は喉から手が出るほど欲しい。
そしてドゥサラは形より実を取った。王の剣を寄越せというと、一見、法外な要求に聞こえるが、彼は「最も優れた将軍にシロガネを預ける」としか言っていない。仮にキースがこの要請を受諾した場合、シロガネは彼の手に渡るだろうが、彼の死後はまた、王家が王の名において新たな将軍に剣を預けるだけで済む。実質、何も失っていない。
つまり、キースがどう答えようとヒランは約束を果たしたことになる。ドゥサラはシロガネを譲ると言ったのだから。但しそれには、やりたくもない将軍の仕事と貴族の地位がくっついてくる。
「陛下に評価していただけるのは、大変ありがたく、また光栄なことと感じております」
苦虫を噛み潰したような顔をして、キースがぎこちなく答えた。
「さりながら、私は一人で剣を振るうことこそできても、兵を率いるような器量は持ち合わせておりません。私が王家の宝を所望したというのは事実です。ただそれは本意でなく、ただヒラン様の覚悟のほどを試そうとて尋ねたに過ぎません」
こんなきれいな言葉遣い、キースにできるわけがない。もちろん、俺が言わせているのだ。ついさっき、ドサクサに紛れてノーラに詠唱してもらい、『精神感応』でキースと通話を接続したのだ。
「私にとっての何よりの報奨は、王国の平和と、そこに生きる民の安寧です。シロガネはこれまでと変わらず王家を守護する剣であるべきです。せっかくの仰せではございますが、私はいまだこの歳にして道半ば、栄光に浴するのはまだ早いと心得ます。なお高みに至らんとの志、何卒ご理解あってお赦しくださいますよう、お願い申し上げます」
さっきまで敬語もろくに口にしなかった彼が、こんなにきれいなお断りの文句を喋り出したので、ドゥサラとヒランは狼狽えながら目を見合わせた。
だが、なんとか気を取り直したドゥサラは、うまく纏めた。
「そなたの志はよくわかった。では、別の形で報いたいと思う。少しの間、考えさせてもらいたい」
「御意」
跪いて、キースは俺達の横に戻ってきた。ハァ、疲れた……という顔をしている。
「では、続いて……ファルス・リンガ、前へ」
さて、こちらについてはもう、備えがある。何を言うかはもう決めてある。
一方、ドゥサラの顔には、微妙に焦りの色が浮かんでいる。もしかして、キースだけではなくて、誰も報奨を欲しがっていないのでは?
「そなたの貢献も大変に大きかった。単身敵地に乗り込み、王都に災禍をもたらしたあの魔物の弱点を打ち砕いたと聞いておる。若年ながらその功績は大、ゆえにナーハン男爵の称号とその領地を授けるものとする」
「恐れながら陛下、それは三つの点において、私の肩には重すぎる報奨でございます」
そのまさか、だ。
ドゥサラにとっては、俺をこの国に引き留めるメリットが山ほどある。武力云々は別としても、対岸の赤の血盟はなぜか俺にやたらと好意的だ。この国の貴族になって落ち着いてくれれば、どれだけ助けになることか。だが、俺が望んでいない。
「一つ。陛下も仰るように、私はいまだ若年で、人の上に立つべき器量を備えておりません。二つ。私は騎士の腕輪を帯びており、その使命に従って、人の世の安寧そのものを我が歓びとするものです。かかる上に陛下からの報奨を受け取っては、立場を弁えない強欲ということが言えましょう」
彼の顔に失望の色が浮かぶ。
「三つ。私自身への報奨とは別に、他にお願いしたいことがあるからです」
「な、なに? では、そなたは何を望むのだ」
すると、俺の後ろにディエドラがやってきて、膝をついた。
「これなる獣人、ディエドラに見覚えがおありでしょうか」
「無論である。余を守るために奮戦したこと、忘れはせぬ」
「彼ら亜人、獣人は大森林の奥地にあって、人に疎まれておりました。しかしながら、本心では平和と安寧を願っていたものです。もし陛下のお許しがあれば、彼らは陛下の威徳に服し、また領邦あげて王国に仕えることを望んでおります」
せっかくの機会だから、ここでルーの種族への敵対行為をやめさせるきっかけ作りをしておこう、というのが俺の考えだ。
「ファルスよ、今、領邦と言ったが、それはどこにあるのだ」
「はい。私どもは大森林を縦断しまして、彼らの領邦を目にしました。当地ではケカチャワンと呼ばれる大河がありまして、その南岸にいくつもの村がございます。北端のラハシア村に始まって、目にしただけでもビナタン村、カダル村、アンギン村といくつもの集落がありました。また、彼らの都もありまして、それをナシュガズといいます」
聞いたこともない話に、再び政庁の中はざわめきに包まれた。
「静粛に」
騒ぎが収まるのを待って、俺は説明を続けた。
「その地に住まう者達は、亜人、獣人にとどまらず、巨人、小人なども含め、皆性質は温厚で、争いを好みません。陛下には何卒彼らが平穏に過ごせるよう、王国の民たることをお許しいただきたく」
「では、具体的には何をせよというのか」
「はい。ラハシア村より南には、彼らの許可なく立ち入ることを禁じてくださいませ」
これが実現すれば、ルーの種族の身分はほぼ守られたも同然になる。
「だが、そのような村がどこにあるかを、我々は知らぬ」
「ご心配はご無用です。なぜなら、その村より南には広大な沼地が広がっております。そこは巨大な蜂とワーム、窟竜の住処で、備えのない者が生きて通れる場所ではございません」
また小さなざわめきが起こったが、じきに鎮まった。
少しの思考の末に、ドゥサラは頭の中を整理した。
「よかろう。ではディエドラよ。そなたにナシュガズ伯爵の称号を与える。この称号の継承は世襲によらず、改めての王家の承認を必要ともしない。また、臣下としての一切の賦役や軍役を免除する。ポロルカ王国は今後、大森林に住まう亜人、獣人への不当な略取を禁じる。この法は、六大国の王権に基づいて、ウンク王国にも順守するよう求める。但し、我が王国の領邦として、ケカチャワン以北、大森林以南の人の住まう領域を侵犯しないことを義務として課す」
俺に促されて、彼女は頭を下げた。
「アリガタきシアワせ」
そこでメディアッシがドゥサラの横に立って、何事かを耳打ちした。ドゥサラも頷いた。
「だがファルスよ。それはそれとして、何も報いずそなたを帰すわけにはいかぬ。では、ポロルカ王国は今後、貴族と同様に、そなたには一切の税を課さぬ。また、そなたは木に熟する豆の土地を欲していたとのこと、伝え聞いている。それについても余がそなたの代わりに買い取り、それを与えよう」
「かたじけなく存じます」
これで俺の番も終わった。
引き下がって様子を見ていると、目録を手にした補佐官が困惑した表情を浮かべていた。
「次……イーグー……」
姓がわからないのだ。
しかし、問題はそれだけではない。呼びかけても、この場に姿を現す者はいなかった。ドゥサラも俺達の列を見回したが、やはりイーグーはいない。
「ファルスよ、済まぬが」
「はい」
「あの、抜きんでた魔術師であるイーグーは、どこへ行ったのか」
「わかりません。今朝から姿が見えませんでした」
クロル・アルジンを引きつけて奮闘した彼には、お褒めの言葉すらかけてやれない。面目が立たないとはこのことだ。
「なんということだ」
王国が受けた人的損害は、軍だけではない。魔術師にしても、赤と黄の王衣を失うという被害を受けている。イーグーを登用できれば、どんなによかったか。
ただ、さすがにそれは無理というものだろう。
「メディアッシよ、なんと嘆かわしいことか。余の治世は、恩義に報いる術さえない恥辱から、始められねばならんのか!」
「は」
叩頭して少しの思案の後、彼は意見を述べた。
「陛下、私が考えますに、真に気高く善意に満ちた人々には、金銀や知行をもって報いることはできません。彼らは安逸ではなく、常に自らの善行そのものを報いとするからです。そのような高潔は我らの手の届かないところにある光ですが、しかし、それを賛美することはできます」
「では、どうするのだ」
「偉大なる者達の石碑に、此度の勇者達の名を余さず刻みましょう」
ドゥサラはやや間をおいてから、大きく頷いた。
「では、そのようにしよう」
実際、これはいい落としどころだ。
本音では、ドゥサラとしても、実はビタ一文出したくない。都がこのザマなのに、手柄だからといって金品をバラ撒く余裕などないからだ。
「それから」
彼の視線は、再びバーハルに向けられた。
「三代に渡って王国に仕えた宰相よ。我が国の伝統はまことに美しく、その規範は国の礎石である」
「はっ」
「そなたが常々言うように、人はおのが分を知り、それぞれの務めを果たすべきである。それは下々から余に至るまで、例外はない。余は本日より、歴史ある我が国を統べる重責を担った。余の心がいずれにあろうとも、玉座にある限り、役目より逃れることはもはや能わぬ」
「仰せの通りにございます」
頷いてから、彼は続けた。
「けれども、改めねばならぬものは、やはりあるのだ。バーハルよ、我が国にはまた、汚点も残されていた。遥か昔、戦乱の時代に罪を得て、今に至るまで宮内官の役目を引き受けてきた一族がいることは、そなたもよく知っていよう」
ドゥサラは、マバディの恨みを忘れなかった。
人は生まれで役割が決まる。少なからず、それは避けがたい。それは必要で、しばしば理不尽なものでもある。だが、ではそれはいったいどこまで本当に必要といえるのか?
規範は社会を支えるが、それについての反省もまた、常に必要とされるのだ。
「今後は宮内官の職制を革める。既存の役目を望む者達には、そのままであることを許すが、そうでない者達のために、内府の職務を再編し、分離することとする。この仕事にはそなたと、メディアッシ、ヒランに取り組んでもらう」
「御意」
「ことはこれで終わりではないぞ。私は市井の貧困を目の当たりにした。自ら我が子の手足を断つような親がいなくなるように、我々貴顕の者達は、身を粉にして働かねばならぬ。下々は自由に生きて構わぬが、我々に気儘な暮らしなど許されぬ。心せよ」
彼の今の内心はどうだろう? 彼は王になることを望んでいなかった。できることなら、一人の自由人として生きていけたらいいとさえ思っていたのだ。だが、自分個人の幸福を断念したはずの今の彼は、決して不幸そうには見えなかったし、前よりずっと大人びているようにも見えた。
「最後に、もう一つ、バーハルよ」
「はっ」
「王統を絶やすわけにはいかない。良家の娘を迎えて王妃となし、王家の血筋を保つのだ。これもそなたの役目とする」
「承知致しました」
ドゥサラは、改めて政庁を広く見渡した。
「皆に告げる。恐怖と悲嘆の時は去ったのだ。今日を夜明けとしよう。前に倍する歓びをこの手にしようではないか」
たった一週間で世界が変わってしまいましたね。
こっちで核兵器みたいなのが出てくるお話がやっと終わったと思ったら、現実で核戦争の脅威とか。
しかし、よくよく考えれば、これは今までの積み重ねの結果だったのかもしれません。
シリアでのやりたい放題、ジョージアの領土侵犯。
ウイグルの人権侵害。
そして2014年のクリミア危機に対するどっちつかずの対応。
既にドイツなどは軍拡を選びました。
小説を現実が追い抜いていく様子を目の当たりにしています。




