台風一過
洞窟を出ると、頭上が明るくなってきているのに気付いた。強い風が雲を押し流している。
螺旋階段を登って危なっかしい通路を渡り、トンネルを抜ける。それから階段を駆け上がって、小山から駆け下りた。そこからは、幅広の砂浜が一望できた。
この僅かな時間のうちに、この世界の一切を灰色に塗り潰していた雲は、きれいに追い払われていた。
今は強い南風が吹いている。そして頭上には、千切れ飛んだ綿のような雲が少しあるだけで、あとは南国らしい青々とした空が広がっていた。
まず目についたのは、大勢の人影だった。ただ、一人の例外もなく倒れ伏している。銀鷲軍団の兵士達は、ついさっきまで操られていた。だが、いまや電池切れになったオモチャのように動きを止めていた。
では、と思って見渡してみると、人の腰くらいの高さのある岩に凭れかかる影が見えた。俺はいそいそと駆け寄った。
「よぉ」
俺に気付いたらしく、キースはしゃがみ込んだまま、声をかけてきた。
「やっとかよ」
「そちらは」
「見りゃわかんだろ」
一仕事済ませて、今は起き上がるのも億劫らしい。無理もない。彼の白い陣羽織は、今やほとんど赤黒く染まってしまっている。ほとんどは返り血だろうが、ここまで奥深く、たった一人で敵軍のど真ん中に突っ込んだのだ。
振り返るとそこには、首を裂かれて横倒しになった馬と、肩口から真っ二つにされたベルバード将軍の姿があった。そのすぐ近くには、両断された丸い鏡があった。恐らくあれが銀鷲軍団の兵士達を操っていた魔道具なのだろう。
そこから更に数歩離れたところに、大の字になって横たわる、白いローブに黒いマントの老人がいた。俺は、そっと歩み寄った。
「デクリオン」
もう虫の息だが、それでもまだ、彼は生きていた。胸に深い裂傷がある。もう長くはない。
俺の声を聞いて、彼はなんとか瞼を開いた。
「ファルス、か」
「全部終わった」
なぜだろう。彼は敵だ。結果を報告する必要などない。生きているのならトドメを刺すか、それともあえて生かして尋問するか。けれども、どちらもする気になれなかった。
「アーウィンはもう動けない。クロル・アルジンも」
「知っている」
彼は弱々しく頷いた。
「目の前で海に落ちるのを見た」
計画の失敗にもかかわらず、いや、だからこそなのか、彼は穏やかだった。
その表情を目にして、やっとわかった。俺はデクリオンに怒りを感じていない。彼は最悪の未来を齎そうとした。仲間であるはずのハイウェジすら欺いた。けれども、そこには不思議なほど、悪意がなかった。ただただ、絶望だけがあった。
この世界の理不尽とどう向き合えばいいのか。これは、彼なりの答えであり、試みだった。だが、それは今、頓挫した。
「デクリオン」
彼を生かしておくわけにはいかない。このまま死ぬに任せるしかない。そうしなければ、きっとまた、この世界を滅ぼそうとするだろう。
でも、それでは……
「終わったんだ」
……俺は、何もしてやれないのか?
彼は罪人だ。大勢の人命を奪い、街を破壊した。では、俺達はその死を喜べばいいのか?
いや、いや。赦免を伴わない裁きに、裁きとしての意味があるのだろうか? それではただの闘争だ。人の世に立ち返る余地があればこそ、罪は罪たり得る。ならば罪は手段だ。目的ではない。
もはや死が定められた彼に、重ねて罰を与えたいとは思えなかった。極刑によって贖罪がなされるのなら、そこから俺達は何をすべきだろう?
「終わりはせん」
力みのない声で、デクリオンはポツリと言った。
「私が死のうとも、組織が滅び去ろうとも、決して」
彼は穏やかに微笑んで、目を閉じた。
俺は、彼の計画を瓦解させた張本人だ。なのに、やっぱり彼もまた、俺を憎んでいるようには見えなかった。
「覚えておくのだ……終わりなど……しない」
それが彼の最期の言葉だった。
ベルバードとデクリオンの近くにいた兵士の多くは斬殺されていたが、その他は本当に眠りこけているだけだ。まるで砂浜に撒き散らされた石ころのような彼らを避けて、海に向かって歩く。
黒々とした海面の上に、今は奇妙なオブジェが鎮座していた。真っ白な山だ。少し近づいてよく見ると、それは四つの手足……首のない、歪な人体のような形をした何かが、山積みされたものだった。さっき見た切り株の方と同じで、こちらもどうにもぬめぬめしているようだ。もちろん、既に生きてはいなかった。そういう、変質しきった元人間の体と思しきものが折り重なっていたのだ。
ということは、あの切り株の方に残されていたのは、人間の頭部だろうか? もしかするとそれだけではなく、いくつかの重要な臓器も一緒に取り込まれていたのかもしれない。
波打ち際に近づいて、俺はそれを眺めた。
見て気持ちいいものではないが、こんなものを目にするのは、きっとこれが最初で最後だろう。
「……いい気なもんですね、若旦那」
感慨に耽る俺の足下から、低い呻き声が聞こえてきた。見下ろすと、そこにいたのは眠りこける銀鷲軍団の兵士ではなく、すっかり泥まみれになったイーグーだった。
「無事だったのか」
「無事なもんですかい、見てくだせぇ、こいつを」
彼が手にしていた杖はへし折れており、先端のクリスタルは見るも無残に砕かれていた。それだけでなく、彼の周囲にはいくつか、小さな饅頭くらいの大きさの宝珠がいくつも転がっていたが、そのいずれもがひび割れていた。
「今日までちまちま貯め込んできた切り札だってぇのに、全部使い切っちまった。大損害ですぜ」
「死なずに済んだだけでも、儲けものだ」
「へっ」
口論する気にもなれないらしく、彼はふてくされて脱力した。実際、起き上がる力さえ、残ってないのだろう。
この戦い、最大の活躍をみせたのは、間違いなく彼だ。時間にして二十分にもならないくらいの間でしかなかったが、あのクロル・アルジンを相手に被害を抑え続けたのだ。
そこでふと、思い出したことがあった。
周囲を見渡すと、浜辺を駆けてくる小さな影が見えた。その後ろから、ノーラも追いかけてきている。ちょうどいい。
「ファルス様!」
クーだ。表情に何か切迫したものはない。俺の無事を知って、安心している顔だ。
「問題ない。クー、無事でよかった」
ノーラも追いついてきた。
「アーウィンは?」
「もうあれはまともに動けない……それより」
俺が声を低くすると、案の定、二人は察した。
「頼みがある。今のうちに、あの小山の建物に向かう通路の左側、下り階段の向こうに行ってきて欲しい」
「何をすればよろしいでしょうか」
「半透明の……ちょうど肘から指先くらいまでの長さのものが、三つある。それを拾って、目立たないように持ち帰って欲しい。頼めるか」
詳しい説明をしている時間はない。
だが、クーは飲み込んでくれた。
「承知しました。ただ、後から人が来ないように」
「それはわかっている。ノーラ、早速で悪いけど」
「ええ」
頷くと、すぐさま二人は速足でそっとこの場を立ち去った。
それから俺は、足を船の方に向けた。
再確認させられたが、よく俺達は島まで渡りきれたものだ。船は、見るも無残なありさまだ。前半分が斜めに裂けているだけでなく、後ろ半分が完全に折れて横倒しになっている。もちろん帆柱は全滅だ。
船に近づくと、倒れている兵士の数が増えた。デクリオンに操られて、一挙にドゥサラ王子に襲いかかったのだろう。個々人の技量ではこちらに分があったが、なんといってもあちらは数が違った。魔物討伐隊の武人達も、さすがにこれでは手加減できず、兵士の遺体が折り重なっている。
運よく死ななかった兵士も少しだけいて、既に意識を取り戻しているが、彼らは痛みを訴えてのたうち回っている。それをビルムラールは周囲の仲間達に取り押さえさせて、手持ちの薬を飲ませ、傷口を縛って止血していた。
「よくぞやり遂げてくれた」
俺に気付くと、ドゥサラ王子は両手を広げて近付いてきた。そして、俺の手を掴んで揺さぶった。
「あの怪物が、急に力を失って海に落ちていくのを見た。もう、ここで死を迎えるしかないと思ったところだった」
「運に恵まれました」
「キース殿もだ。あの逆賊ベルバードは、操られていたわけではなかった。それをパッシャの首魁と同時に相手取って、見事に討ち果たしてくれた。だが、そなたらだけではない。ここまで共に戦ってくれたそなたの仲間達もいてこそだ。感謝の言葉もない」
彼が手を離すと、俺は背後を見遣った。
「彼らはどうなりますか」
「銀鷲軍団の兵士は、デクリオンの魔術に操られていただけだ。この戦いで命を落とした者も、逆賊として辱めることはしない。犠牲者として弔うこととしよう。生きている者達は、また我が国に貢献してもらいたい」
俺が王子と話していると、後ろからタバックとクアオ、それにバーハルとペルジャラナンもやってきた。
タバックが言った。
「立派に手柄を挙げられましたな」
「皆さんの功績でもあります」
だが、彼は首を振った。
「我々ではとても。ファルス殿の連れ歩く仲間とは、どうなっておるのですか。このペルジャラナンとかいうリザードマン、魔術だけかと思いきや、剣の方もとんでもない腕前でしたぞ」
バーハルも頷いた。
「亜人に獣人が、ポロルカ王家を守って戦うとは……わしの中の常識など、どこかで吹き飛ばされてしまったようじゃわい」
大森林の奥地に隠れ住むルーの種族にとっては朗報になるだろう。ポロルカ王の庇護と承認を受けられれば、彼らも怯えずに済む。長老達から与えられた使命の一つは、これで解決できるのではないか。
「殿下、それより」
後ろからやってきたメディアッシが声をかけた。
「まずはこの兵士達を起こして、正気に返らせませんと。それに、こやつらが使っていた船も見つけませんと、我々は都に戻れませんぞ」
「それもそうだ」
現実に引き戻されて、彼らは肩を落として首を振った。面倒な仕事が待っている。
俺も手伝おうとして、船の下に引き返していく彼らについていった。そこには、地面に突き刺さった船の舳先を見つめるディンの姿があった。
「フリュミーさん」
「ああ」
彼は一瞬だけ笑顔を見せたが、また表情を曇らせてしまった。
「どうなさったんですか」
「僕は船乗りだからね。こうして船が台無しになるのを見るのは、なかなかに堪えるものがあるんだよ」
「今回は仕方ないです。あのバケモノが相手だったんですから」
だが、彼は肩を竦めて溜息をついた。
「こう言ってはなんだけど」
「はい?」
「僕はもう、君を乗せたくないね」
「どうしてです?」
彼は腕を振って、ひどい状態の船を指し示した。
「君を乗せた船は、次々沈むからさ。最初もそう。今回もそう。そしたら、次も沈むんじゃないのか?」
もちろん、半分冗談だ。口元に皮肉笑いが浮かんでいる。
「そうかもしれません」
その時、ひときわ強い南風が吹きすぎていった。思わず目元を庇って身をよじる。
そうして俺の目に映ったのは、遠浅の浜辺をうろつくワングの姿だった。右へ左へとウロウロしては、手を泥だらけにして海底の砂をいじくりまわしている。
「サオーの真珠」
彼の甲高い声が耳に届く。
「エインの珊瑚」
と言いながら、彼の手にそれらしい品があるのでもない。
「クース王国産の金の延べ棒。東方大陸の絹。シャハーマイトから取り寄せた刃物。西部サハリアの薬。この国で仕入れた香木」
バシャリ、と濁った海水を撥ね飛ばしながら、彼はその場に膝をついた。
「ぜぇんぶパーネー!」
そして大声で泣き始めたのだ。
なるほど、確かに気の毒ではある。大損害だ。頭ではそれと理解できる。だが。
俺とフリュミーは、思わず笑いだしてしまった。俺達だけではない。周囲にいた魔物討伐隊の武人や、ドゥサラ達も。
損害? 不利益? それは日常を生きる人間の心配事だ。
ワングの泣き声のおかげで、やっと戦いが終わったのだと、再確認できたから。これは安堵の笑い声だった。
見上げれば抜けるような青空に、真っ白な太陽が大地を圧していた。
砂浜に打ち寄せるやや荒々しい波の音を、今、初めて聞いたような気がした。
混沌と変調の時間は終わり。
再びこの地に、いつも通りの世界が戻ってきたのだ。
三十六章、ここで終わりです。
冬の不幸祭りもここで終了。
もうちょっと書きたかったのですが、さすがに作者もこれ以上の毎日連載は無理です。
そしてここが連載八百回目でもあります!
続きは来週の水曜18時から。
週間連載に戻る……予定です。




