ラージュドゥハーニー、大火に見舞われる
先ほどまで晴れ渡っていた夜空は、再び翳り始めていた。黒く縮れた魔女の髪のような雲が、月を絡めとろうとしていた。
白塗りの家々が、不安げな様子でこちらに顔を向けている。薄暗い中、灰色に浮かび上がって見えるそれらの壁は、これから起きる不吉な出来事を予告しているかのようだった。
ニドが無言で指差した方に、皆もまた無言でついていく。この夜更けに路地を駆ける集団は、俺達くらいなものだろう。辺りは静まり返っていた。
どうせ逃げたところで、またアーウィン辺りが千里眼で俺の周囲の人間の様子を確認すれば、見つけられてしまうのだ。それでも僅かな時間を稼ぐために。昼頃からろくに休めていないのだ。仮眠の時間くらいは確保したい。
「ここだ」
そこは広い敷地を石の壁で囲った屋敷だった。だが、今は捨て去られてしまったらしく、入口の金属の扉も半開きになったまま。
ジョイスがざっと目を走らせる。
「中は……問題ねぇ。休めるぞ」
既にクーとタウルが先行しているはずだ。彼らの無事を確認したのだろう。
庭に立ち入って見ると、建物の造りは少しフォレス風の邸宅に近かった。ファサードがあり、左右に階段がある。ただ、その脇に巨石が置かれているのは、いかにも東方大陸風だった。その正面を突っ切ると、中庭があった。外から見えない場所だからと、そこには既に灯火が点されていた。
「ご無事でしたか」
顔もほとんど見えないくらいの闇の中で、クーが神妙な顔で俺達を出迎えた。
「イーグーに助けられた」
「よかったです。急にイーグーさんが、助けに行くと言って飛んで行ってしまったので」
運よく危機に気付いてもらえたから、俺も死なずに済んだらしい。
それにしても、あれはなんだったんだろうか。人を斬った瞬間、なんともいえない感覚が全身に走った。内側から、何かが暴発しそうになるような。
「ファルス、よく休んだ方がいいわ」
「そう、だな」
「明らかに変だったじゃない。いったいどうしたの?」
俺にもよくわからない。この前、ドゥサラ王子の生母が死んだときに何人か斬った。あの時にもう何かを感じてはいた。だが、いまだに言語化できていない。このままいくと、俺はどうなってしまうのか。
「ギィ」
「ペルジャラナン!」
キースと彼のことが気にかかっていた。見た限り、無事らしい。
「逃げ切れた?」
「ギィ」
「キースは?」
「ギィィ」
俺は、察した。
「もう休んでるのか」
「ギィ」
一応、俺達に報告だけしようと待っていてくれたのだろう。彼も少しくたびれたらしく、それだけで背を向けて奥の部屋に戻っていってしまう。
「殿下、ご不便をおかけしますが」
「……いい。気を遣わなくていい。先に休め」
相変わらず俯いたままだったが、ドゥサラはメディアッシ達にそう命じた。
「今は平時ではない。作法になどこだわってはいられないだろう。疲れたら休んでくれ」
「はっ」
そう言ってくれるのはありがたい。王子様にまず快適なお部屋を、とかやられたら、無駄に気疲れするだけだから。
それから俺達は、思い思いに適当な部屋を見繕って、そこで横になった。見張りは、ジーヴィット将軍が連れてきた数人の兵士達に任せることにした。
二階の、とある寝室に俺は踏み込んだ。つい先日まで誰かのものだった部屋だ。一つだけベッドがあるが、その大きさの割に部屋が狭い。とすると、普段は使われない来客用の寝室かもしれない。
俺はベッドの縁に座って、ほっと息をついた。とりあえずは休める。だが、これからどうすればいいのか。
クロル・アルジンを倒そうとして、一度は溶かし尽くし、石に変えて海底に沈めもした。だが、どういうわけか甦って、今はどこかに飛び去って行ってしまった。ブイープ島にいるのかもしれないし、居場所はわからない。
いずれにせよ、俺ではあれに太刀打ちできない。イーグーでさえ、防戦一方だった。仮に攻撃を浴びせたところで意味がない。だいたいは防がれてしまうし、全身を完全に破壊しきっても、すぐ復活してしまう。移動速度でも破壊力でも、対抗できるところがない。
あれは確かに人間の手に負える代物ではなかった。龍神がやってきて倒してくれるのを期待するしかないのかもしれない。
ふと、思い出す。
俺はポーチから、黒い鏃を二つ、取り出した。ナシュガズでルアが俺に託したものだ。これで敵を討つことができるのだと。だが、どうやって?
小さなオリハルコンの鏃でしかない。なるほど、あれほど強力な魔法を使うクロル・アルジンが相手なら、この鏃も吸い付くように突き刺さるに違いない。だが、刺さったからって、それに何か意味があるのか? 小さな傷がつくだけだ。魔法の発動が終わったら、発散される魔力もなくなるわけで、鏃は当然に吸着力を失って落下する。だいたい、鏃がつける傷どころか、腐蝕魔術で全身を完全に破壊しても、あっさり元通りになったのだし。
考えても、疲れた頭では何も浮かんでこない。またポーチにしまうと、俺は横になった。
どれくらい休んだろうか。
多分、三時間ほどしか眠っていない。頭がずっしりと重い。だが、男達が口々に叫ぶ声が、眠りに沈み込もうとする俺の顔に火花を散らした。夜空の月を我が物とせんとするあの魔女の髪は、俺の手足にも絡みついていたが、それを引きずりながらなんとか身を起こす。ベッドから二階の窓枠に手をかけ、外を眺めた。
見張りについていた兵士達は、都の中心を指差していた。彼らの耳目がそちらに向けられるのも無理はない。なぜならそこには、巨大な火柱が立っていたからだ。
またパッシャが何かをしでかしたのか。何を目論んでいるのか、わかったものではない。どんな狙いであれ、黙って見過ごすわけにはいかない。
疲れた体に鞭打って、俺は身支度を始めた。
俺が中庭に降りる頃には、ほぼ全員が目を覚ましていた。
「動ける人だけで見に行こう」
俺がそう言うと、仲間の大半は黙って門に向かって歩き出した。ノーラ、ジョイス、ニド、フィラック、タウル、キース、ビルムラール、イーグー、それにペルジャラナン。そんな俺達を、俯きがちになりながらクーが見送っている。
年齢的にメディアッシやヒラン、バーハルには無理をさせられない。またジーヴィットは王子を護衛しなければならないだろう。そう頭の中で整理をつけて、俺も背を向けた。
「ちょっ、ちょっと待つネ」
ワングが慌てて腰を浮かせた。
「私も行くネー」
「何しにくるんですか。戦いになるかもしれないんですが」
「何言ってるネ。君ら全員出て行ったら、どこが安全ネ? 君らの傍が一番安全ネ!」
それも道理か。
だが、クーだけは連絡の必要から、ここに残る。それにディンもついていてくれる。それで十分と考え、改めて屋敷を出ようとした。
「待ってくれ」
ドゥサラの声だった。
「私も行く」
「殿下、危険です」
脇にいたメディアッシが止めたが、彼は首を振った。
「これ以上は見ていられない。今、これが起きているのは、私の国ではないか。それなのに何もせず、外国から来た騎士達にすべてを任せて、安全なところに隠れてやり過ごすのか」
「しかし」
「しかし? もっとはっきり言ったらどうだ? 私は役立たずだと。そうだ。私には、到底彼らのような武勇はない。ないが、できることがあるかもしれない」
それから彼は、俺に振り返った。
「頼む。私はこの目で見届けなくてはいけない」
「殿下」
俺は端的に問うた。
「では、殿下はあちらで何をなさるのですか。なさりたいこと、できることはおありですか」
ドゥサラは頷いた。その視線は、中庭の隅に立っていた赤の王衣の一族の生き残りに向けられた。
「バショウセンはどうした」
「はっ、今も保管しておりますが」
「ホムラは火を点し、バショウセンはそれを消すと伝わっている。我らの都が燃えているのだ。ぜひともそれを使わねばならん」
だが、ヒランが反対した。
「殿下、ですが、ホムラと違ってバショウセンは、これまでの歴史では一度も用いられたことのない霊具でございます。果たして役に立ちましょうか」
「試みてみなくてはわかるまい。案外、使う機会がなかっただけやもしれぬ」
鎮火の役に立ってみせる、ということか。
だが、少々の火なら、イーグーが魔法で消してしまいそうな気がするが。あれが放火なのか、ただの火災で、消し止める人がいないだけなのかは、よくわからない。だが、そういえば、泥棒の兄妹が言っていた。少し前から都の中心部の建物を取り壊して広場をこさえて、そこに可燃物を積み上げていたとか。
「危険になったら、先に逃げてください」
「済まない」
そのやり取りを、ワングは冷ややかな目で眺めていた。
隠れ家を後にして火柱のある方へと近づいていくと、だんだんと市内の混乱がどれほどのものかが明らかになってきた。
これまでの武力衝突で、市民の多くは自宅に引きこもっていた。クロル・アルジンという異形の怪物が聳え立つのが見えてからは、ますます外出を控えるようになっていた。だが、街を真ん中から焼き払う大火災ともなれば、話は別だ。
逃げる先などない、このまま我が家と心中するはずだった人々だったが、もうそんなことは言っていられない。とるものもとりあえず、家から転がり出てきて、とにかく遠くへと走っていく。汗を流し、顔を引きつらせて走る人々と俺達は、しばしば行き違いになった。
「これでは、街の中心部はほとんど焼けてしまったのではないでしょうか」
ヒランが重苦しい表情でそう言った。
「何のためにこのような真似を……焼くなら、せめて日中にしてくれればよいものを。夜中では、逃げ遅れて死ぬ者も出ように」
最初、避難する人達のほとんどは、若い男達だった。少し遅れて女や子供、それに老人が後に続いて逃げ去ろうとする。だが、誰もが元気に走れるわけではない。
路傍には、這いずる人の姿があった。俺達は、その姿に見覚えがあった。
「おお、あれは」
ドゥサラが、いかにも心を痛めたように、息を深くつきながら言った。
「あの男は、右足が奇妙な方向に曲がっているではないか。さては生まれついての跛か。哀れなこと、これでは遠くには逃げられまいに」
ラージュドゥハーニー到着の翌日、街を見物しようとしたときに見た。貧民窟に住まう乞食だ。物心つく前に親の手によって障害者にされてしまう。あとは死ぬまで乞食を続けるだけの人生だ。
普段ならそれでよかった。貧しいが、生きるだけならできる。だが、こうした非常時には、その肉体が大きな制約になる。
「しかし、なぜだ? あの男一人ではない。どうしてこんなに傷だらけの者達ばかりが固まっているのか」
ドゥサラ王子のこの問いに、臣下達は渋い顔をして、誰も何も言おうとしない。
ついにワングの堪忍袋の緒が切れた。
「この国が作った連中でございますよ」
「なに?」
「見てはなりません」
メディアッシが制止したが、ワングはやめなかった。
「殿下は王族で、こんな暮らしとは無縁でしょうがね。こいつらには他に仕事がない。だから乞食をしております。生まれながらの乞食で、死ぬまで乞食。だから、道行く人に憐れんでもらうために、親がわざと赤ん坊の足を折るんです。だから、ああなる」
「そんな」
愕然として立ち止まったドゥサラに、ワングは顔を寄せて言い募った。
「王族は生まれてから死ぬまで王族、乞食はずっと乞食、洗濯屋はいつまでも洗濯屋。だから私はこの国を捨てて、商人になったんだ」
利益を期待できなくなったからこそ、彼は正直になれたのかもしれない。初めて彼は、媚びるはずの相手に本音をぶつけたのだ。
「この国はいつも、いつまでもそうだ。何も変わらない、何も変えられない。洗濯屋の自分はまだ恵まれていた。こいつらに生まれていたら、きっと死ぬまで乞食だ」
「控えよ! 不敬であるぞ」
バーハルは一喝した。
「それでも、それでも! 予め定められた役割があればこそ、国は成り立つ。人も道を見失わずに済むのだ。だいたいからして、今、見舞われているような危機に、人に何ができるというのか」
「その危機を招いたのは、どこのどいつのせいだ」
「貴様、一介の商人の分際で」
「生きるか死ぬかってときに、商人も大臣様もあるものか」
思えば、俺がすべてを捨てて旅立ったときに抱えていたのは、この葛藤だったのかもしれない。
人の世は、張り巡らされた蜘蛛の巣だ。人は生かされ、殺される。そんな不自由から逃れたくて、俺は全てを捨てて旅に出た。
魔宮の地下で、俺はまさに不自由に囚われた人々を見た。それを解放することに迷いはなかった。
けれども、その自由がもたらす綻びがどんなものかを、スーディアで、人形の迷宮で、サハリアの紛争で、そして大森林の奥地で、見せつけられてきた。
パッシャを産んだ直接のきっかけは千年前の戦争でも、今なおそこに惹きつけられる者達が現れるのは、まさしく人の世の綻びからだ。それはどんな布地にも縁があるように、外側に立たされる人達がいるから。
そしてそうした綻びから生まれた存在は、人の世という布地に挑戦する。お前達はこんなにも歪で醜いのだと。それが今、逃げ遅れた乞食達という形を取って、目の前に現れている。
わかっていたことだ。草葉は伸びて陽光を奪い合う。それをシカが食い散らかし、オオカミがシカを食い殺す。だが、オオカミがシカを襲わなければ、森は禿げ上がってシカも餓死する。
男は女を愛し、女はそれを受け入れて子を生すが、それは避けがたく加害的だ。二人の思いはどうあれ、女は妊娠して産みの苦しみを味わう。だがそれを厭うなら子孫は生まれず、やがて人は死に絶えるだろう。
この世のやり取りはなべてこのように奪い合いでできている。
では、どうすればいいのだろう? 引き裂かれることが決まっているこの世界のルールを、何によって繋ぎ止めればいいのか?
だが、この非常時に、無駄な言い争いをしている場合ではない。俺は引き返して割って入った。
「くだらない喧嘩は後にしてください。パッシャがどこから顔を出すか、わかったものじゃないんですよ」
そう言われて、どちらも苛立ちを呑み込んだが、一番居心地悪そうにしていたのは、ほかならぬドゥサラ王子だった。
火元に近づくにつれ、逃げ出す人の姿はむしろ減っていった。逃げ切れる人はもう、家を捨てて立ち去ったのだろう。
だが、赤い炎に間近い、もう建物の反対側に火が燃え移っている辺りで、物音が聞こえた。もしかすると、火災で柱が焼け落ちでもして、瓦が落下しただけかもしれないが、俺とジョイス、ペルジャラナンが前に出た。
「ひ、人がいるのか」
子供の声だった。
「助けてくれ! 妹が」
俺達は目を見合わせた。罠である可能性を一応頭に入れつつ、駆け寄ってみた。
そこには、横倒しになった材木と下敷きになった少女がいた。彼らにもまた、見覚えがあった。そうだ、例の泥棒をしていた兄妹ではないか。
「お前は」
ジョイスは目を見開いた。
人々が逃げ去るときに、立てかけてあった木材が倒れ込んだのに巻き込まれでもしたのだろうか。木材の直撃を受けたのは膝の後ろらしい。その木材の上から、更に他の木材も折り重なっていて、とても少年の手に負えるものではなかったのだ。
助けを求めても、誰も手を貸してくれるわけはなかった。ただでさえ非常時だ。しかも、二人はどの共同体にも属していなかった。泥棒として生きてきた、またそうやって生きるしかなかった彼らなのに、どうして人情が期待できようか。
いずれにせよ、これでは材木を取り除けたところで、少女の膝は砕けてしまっているだろう。実際、膝から下はもう、紫色に染まりつつある。
「た、頼む」
「何やってんですかい」
後ろから追いついたイーグーが、俺達を促した。
彼は少年を一瞥すると、鼻を鳴らした。心を読み取ったのだろう。
「どんなやつかと思ったら、なんでぇ、泥棒じゃねぇですか。この火事で焼け出されたのが、他にどんだけいると思ってんですか。さっさと先行きやすぜ」
「待ってくれ」
ジョイスが俯きがちになりながら、そう言った。
彼は得物を手放し、材木を抱えて持ち上げようと力を込めた。
「ジョイス、今は時間が」
「ああ、急がねぇとな」
だが、鍛えた体をもってしても、一人ではとても持ち上げられる重さではない。
「意味のねぇことしやがりやすねぇ」
「イーグー」
「そのガキの膝から下、見てわかんねぇですかね。んなもん、材木どかしたって、すぐくたばるだけですぜ。悪い血が溜まってやすんで」
クラッシュ症候群、か。鬱血した足を解放したら、そこから筋細胞の内容物が静脈を流れて、腎不全や不整脈を起こす。
「だからって見捨てられるかよ」
あくまで材木を手放そうとしない彼の顔に、火の粉が吹きかかる。
「はー、んじゃ、邪魔だからどいてくだせえ」
イーグーはジョイスを押しのけると、材木を指差した。それだけで巨大な材木がひとりでに宙に浮いた。それをすぐ横に転がすと、手早く腰の巾着から丸薬を一つ取り出し、突っ伏したままの少女の足に落とした。それから詠唱すると、見る見るうちに紫色だった肌に血の色が戻ってきた。
「とりあえずはこれでよし……まだ歩けやしねぇんで、そこの兄貴、背負って行きな。もう助けはねぇと思うんだな」
少年は、信じられないものを目にして言葉も出なかったが、そそくさと妹を背負うと、急いで逃げ去っていった。
「やれやれ、治癒魔術の触媒は貴重なんですがねぇ」
イーグーは首を振って、他の仲間達がいる方に引き返していった。
「ジョイス」
俺は尋ねた。
「どうしたんだ」
「思い出したんだ」
放り出した棒を拾うと、彼は震える声で呟いた。
「見捨てちゃ駄目だと思ったんだ。なんでかわかんねぇけど、それはわかった。俺は」
訥々と、少しずつ声を絞り出しながら、彼は言った。
「多分、俺はこのために強くなりたかったんだ。妹一人助けられねぇで後悔し続ける、そんな俺を許せなかったから」
さっきまで材木を引き上げようとしていた掌を見つめながら、彼は声を震わせた。
「行こう」
背中を叩き、促した。
俺達のすぐ近くにも火が届いていた。だが、これはただの巻き添え、延焼でしかない。目的地は他にあると、既にわかっていた。
なぜなら、燃え盛る火災の一角だけに、天高く突き立つ火柱が立っていたからだ。
目指すところは近い。
仲間と合流した俺達は、速足になって先を目指した。




