二つ目が欲しい
静かだった。
ほとんど真っ黒な夜空は、珍しく晴れ渡っていた。虚空に星屑が無造作に散りばめられて光を放つ。するとそこだけ暗い藍色に染まる。地上を照らす月の光はあくまで穏やかで、清らかでさえあった。
これだけ大勢の人々がこの場に会しているのに、誰も何も言わなかった。離れたところから波の音が、揺れる船の舳先が海沿いの石の壁にこすれる音が、ここまで聞こえてくる。
そんな中、その男はたった一人でこちらに向かって歩み寄ってきた。
髪は短く切り揃えられている。月光に照らされた右半身は青から紫のグラデーションに染まっていた。防具のようなものは身に着けておらず、上半身は裸。その引き締まった肉体は、どこから見ても無駄なく鍛え上げられており、完全無欠だった。
「少々、想定していた状況とは異なるようだ」
アダマンタイト製の黒い棒で自らの肩を軽く叩きながら、彼はざっと俺達の様子を確認した。
「ファルスを倒すなら今しかない、とは言われたが、ここまで脆くなっていようとは……」
さっき人を斬り殺したときに感じた、あの謎の衝撃から、俺はまだ立ち直ることができていなかった。膝をついたまま、わななく体を抑え込むので精いっぱいだった。
しかし、脆くなっているとは? なぜ今が俺を倒す好機だと?
「めぼしい強敵もいない。興が削がれる状況ではあるが」
狩られる。
わかっている。俺が動かなければ、動けなければ、誰もウァールには勝てない。モートが言った通りだとすると、ウァールには毒も通じないし、魔法も防がれてしまう。
この場にはメディアッシやヒラン、ビルムラールという魔術師もいるし、ノーラもいる。ジョイスとニドもいるが、多分、二人がかりでもウァールには勝てないだろう。
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ウァール・ウブンジャーチ (102)
・マテリアル ヒューマン・フォーム
(ランク7、男性、36歳)
・マテリアル 神通力・霊力遮断
(ランク7)
・マテリアル 神通力・高速治癒
(ランク6)
・マテリアル 神通力・怪力
(ランク6)
・マテリアル 神通力・俊敏
(ランク4)
・マテリアル 神通力・鋭敏感覚
(ランク5)
・マテリアル 神通力・超柔軟
(ランク5)
・マテリアル 神通力・疲労回復
(ランク5)
・マテリアル 神通力・危険感知
(ランク5)
・マテリアル 神通力・探知
(ランク3)
・マテリアル 神通力・断食
(ランク2)
・マテリアル 神通力・念話
(ランク2)
・スペシャルマテリアル 龍神の祝福
・スペシャルアビリティ 毒液の血
・スキル ルイン語 5レベル
・スキル フォレス語 5レベル
・スキル サハリア語 5レベル
・スキル シュライ語 5レベル
・スキル ハンファン語 5レベル
・スキル 格闘術 8レベル
・スキル 投擲術 8レベル
・スキル 棒術 8レベル
・スキル 軽業 8レベル
・スキル 隠密 6レベル
・スキル 水泳 5レベル
・スキル 裁縫 2レベル
・スキル 料理 2レベル
・スキル 医術 4レベル
・スキル 薬調合 4レベル
空き(74)
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これまで見てきた贖罪の民の中でも最強といっていいほどの能力を備えている。魔法を弾くという能力については表記がないが、恐らく肉体そのものへの改造だから、道具と同じでピアシング・ハンドの判定対象外とされているのだろう。義足をつけているからといって表記が追加されないのと同じだ。
一つ引っかかったのは、なぜか龍神の祝福が残っていることだ。贖罪の民を裏切ってパッシャの一員になったのに、どうしてこれが消えていないのだろう?
対するに今の俺は、クロル・アルジンを倒すために、いくつか能力を入れ替えてしまっている。これでは体調が万全だったとしても、正面から戦って必ず勝てるとは言い切れない。それに強さは数値だけでは量れない。実力が近接している場合、その人物の実際の経験の質が大きくものを言う。借り物の力で暴れるだけの俺が彼に必勝を期すなら、ピアシング・ハンドが必要だった。
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(自分自身) (13)
・アルティメットアビリティ
ピアシング・ハンド
・マテリアル プルシャ・フォーム
(ランク9+、男性、12歳)
・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力
(ランク9)
・アビリティ 超回復
・アビリティ 病毒耐性
(ランク7)
・スキル フォレス語 7レベル
・スキル シュライ語 6レベル
・スキル 剣術 9レベル+
・スキル 格闘術 9レベル+
・スキル 身体操作魔術 9レベル+
・スキル 料理 6レベル
空き(3)
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ウァールは、自分を見つめる連中など視界に入らないかのように、まっすぐ俺に向かって歩き出した。そのままヒランのすぐ横、三メートルも離れていないところを通り抜けようとしていた。それがプライドを刺激したのか、それとも単に危機に反応したのか。
「おのれ」
ヒランが袖の奥に隠した丸薬を握り潰した。その瞬間、紫電が走る。
それは確かにウァールの左肩に触れたが、吸い込まれるようにそれが体の右側に流れ込んでいき、消えてしまった。攻撃されたと認識して、彼はゆっくりと振り返る。
「フッ」
だが、彼は反撃すらしなかった。
「慌てるな。お前達は後だ」
常人であれば一撃で体が痺れて動けなくなる。そんな『電撃』の魔法なのに、彼にはまったく効き目がなかったのだ。
「だめ、ファルス」
ノーラが小声で俺に言う。
「本当に毒が効いてないみたい。だけど『腐蝕』は」
彼女は息を継いで、苦しげに言う。
「どういうことなの? 溶かし尽くしたら、普通の人間の何倍も汚染が……これじゃ、私達みんな、助からない」
もしかすると、彼の肉体に施された魔法防御の刺青を分解するのに、膨大な力が要求されるせいかもしれない。
いずれにせよ、三人の魔術師は役に立たない。ノーラも力にはなれない。無論、一般の兵士達がウァールに太刀打ちできるはずもない。となれば……
「う、うおお!」
ニドが身を乗り出して腕を突き出す。そこから紅蓮の炎が噴き出して……ウァールが指を向けた途端、それは霧散してしまった。
神通力を抑制する神通力。恐らくは『霊力遮断』の力だろう。ということは、ウァールには大抵の魔法が効かないし、神通力もほぼ通用しない。それだけで、別にアーウィンのような殲滅力を有しているのでもないが、彼の卓越した身体能力と戦闘技術ゆえに、倒すとなると途方もなく難しくなる。
「待てよ」
ジョイスがなんとか声をあげた。
「ほう?」
それにウァールは興味をおぼえたのか、やっと足を止めた。
「お前はもう気付いているはずだ。乗り越えがたい力の差に」
「うるせぇ」
手にした棒を構え直して、ジョイスは俺とウァールの間に立ち塞がった。
「どうせ黙って見過ごしたって、俺も殺されるんだろが。だったらやることは一つだ」
「正しい考えだ。だが、その正しい考えを理解しながら、それでも何もできない人間の方が多い……お前は少し上等な男らしい」
啖呵は切ったものの、ジョイスの額には脂汗が浮いている。ニドも身構えた。
「だめ、だ」
やっと声が出るようになった。だが、足が痺れて立ち上がれない。
というより、無理して動こうとすると、何かが内側から溢れてきそうになる。だが、それが何なのかがわからない。わからないが、きっと恐ろしい何かだ。
「よかろう。死力を尽くせ」
余裕をみせながらウァールがそういうと、二人はにじり寄る。だが、気圧されているのか、どことなく体が硬くなっていた。
不意にジョイスは気合いと共に棒を突き出した。と、不自然に前につんのめったかと思うと、もう膝をついていた。この隙を狙って横から飛び出したはずのニドも鳩尾を蹴り抜かれて少し離れた場所に転がっている。瞬きするほどの間に決着がついてしまった。
「待て」
声色からしてもう、余裕のなさがわかる。フィラックだ。
「ノーラ! ファルスを連れて逃げろ!」
「愚かな」
身を盾に立ち塞がった彼だったが、これも一秒で意識を刈り取られてしまった。
覚悟を決めたのか、ノーラは俺を引き起こそうとするのをやめ、棒を手に前に立った。
「ノーラと言うらしいな」
「手加減はいらない」
「いい覚悟だ。だが、お前も、そこの王衣の一族も、殺すつもりはない」
「なんですって?」
ウァールは足下に転がるジョイスを見遣りながら、意味不明なことを言い出した。
「神通力は、人から人に伝授することはできない。だからこれ自体をそのまま素材にするほかない。だが、魔術は違うだろう?」
「何のこと」
「お前達魔術師は、生かしておいてやろうというのだ。霊樹の中で、大勢の贄に魔術を指導する役目があるからな」
「まさか」
彼は、思った以上にあっさりと、秘密のはずの計画を口にした。
「霊樹の苗は、まだあと三つもあるのだ。二つ目のクロル・アルジンを作るのは当然のことだろう」
そんなことをされたら、本当に手に負えなくなる。あれが二匹?
そうなると、一匹を攻撃に回しながらもう一匹を防御にあてるという運用もできるようになる。駄目だ。そうなったらもう、弱点も何もない。人間の力では、どうこうできる可能性はなくなる。
「とはいえ、今度はあまり時間もかけられん。組織の技術で、そこらの人間を強制的に神通力に覚醒させてから、次々放り込むのもよさそうだ。副作用を気にする必要もないからな」
でも、これで辻褄は合った。
なぜパッシャは手に入れたクロル・アルジンで大虐殺をしないのか。二体目、三体目のクロル・アルジンを製造するためだ。
魔術は、大勢で一つの術式を構築した方が大きな威力を出せるし、展開も速い。どうしてクロル・アルジンの魔術関連のスキルがあんなに高かったのか。素材になった魔術師がそれだけ優秀だったというより、それに加えて大勢の人間が生贄になり、霊樹の内側で魔術師の補佐をするようになったから。その全員のスキルレベルの合計が、あれなのではないか。
「フッ」
結局、俺が立ち直り切れず、誰も相手にならない。そのことに彼はついに耐え切れなくなって、噴き出してしまった。
「ふっははは! あっけない! なんと、こうも簡単」
「クソジャリが」
見当外れの方向、群衆の中からボソッと悪態を吐くのが聞こえた。
と同時に、ウァールはずっと向こう、海側の道路の近くにまで、吹き飛ばされていた。
石畳の上を踏みしめる足音。焦げ茶色の杖の先には、銀の装飾に守られたクリスタルが、七色に輝いていた。
「ったく、若旦那、どうしたんですかい? らしくもねぇ」
「イーグー」
運がよかった。
キースもペルジャラナンも戻らない今、時間稼ぎすらできないところだった。本当に、このまま殺されるか、捕らえられるかという状況だったのだ。
「ま、それよりまずはあの野郎ですかね」
「待った、奴に魔法は」
「今、見てたでしょうが」
確かにそうだ。魔法が通用しないはずの相手に、イーグーは魔法を仕掛けた。
「ああいうのは、一度そうとわかりゃあ、いくらでもやりようはあるんでさぁ。とりあえず、見ててくだせぇ」
そう言うと、イーグーは詠唱もなしにふっと浮かび上がった。
一方、ウァールはやや取り乱しつつも、その場で起き上がった。
「貴様」
「この前は運がよかったっすねぇ、龍神の手下のなり損ないが……けど」
空中で、イーグーはもう一度杖を打ち振った。
すると風が揺れる。これは風魔術の基本、『風の拳』だ。普通ならさほどの速度もない。威力にしても、ちょっと強めに殴られる程度のものだ。ただ、イーグーが使うとなればもちろん、致命的な破壊力がある。
地上でそれを見ていたウァールは、一瞬で判断した。慌てて右手に飛び退いて避けた。
その選択は正しい。
現についさっき、俺達から引き剥がすために同じ魔法を使って、それが通用している。ただ、今度は避けなければ、吹っ飛ばされる程度では済まない。
「まず、魔法が効かねぇってんなら」
避けた先に不可視の力がかかったらしい。ウァールは思わず身構えたが、影響は小さく無傷だった。しかし、彼の周囲の石畳は、この一撃……恐らくは力魔術のせいで砕かれてしまった。
「周りに魔法をかけちまえばいい」
そうだ。アルジャラードも俺に使った手だ。緑竜を仕留める時もそう。
ウァールはそれと気付いても、どうしようもない。周囲十メートル以上の石畳が粉砕され、その瓦礫が前後左右上下問わず、すり抜ける隙間もない状態で、一斉にぶつかってくるのだ。
「う、うおお!」
とはいえ、さすがはウァールか。真ん中で棒立ちになっては助からないと悟って、海側に向けて全力で飛び出した。いくつかの瓦礫は彼に命中して大きな打撲傷となったが、石礫の包囲網からはなんとか抜け出し、海との仕切りになる石壁に取りついた。
「それでも仕留めきれねぇんだったら」
敵の逃走は想定内だったらしい。既に次の魔術が用意されていた。
素人目にもわかる。イーグーが手にしている杖の先端は、今にも燃えだしそうなくらいに煌々と輝いていた。
「防ぎきれねぇくらいの一発をぶちかます!」
ハッとして俺は叫んだ。
「伏せて!」
直後、夜空を白く塗り潰すほどの強烈な熱線が、ウァールの飛び移った船の上に叩きつけられた。
空気というよりは、空間そのものを引き裂いたといっても信じられるくらいの爆音が鳴り響いた。そこにはもう、船はおろか、海との仕切りになる石の壁も、近くの道路も削り取られて、何も残っていなかった。
「ふん」
不満げに鼻を鳴らして、イーグーは地上に戻ってきた。
「イーグー、ありがとう。助かった」
だが、彼は俺を見下ろしながら、首を振った。
「野郎、ギリギリになって海に飛び込みやがったんで……殺れたとは思うんですがね、なぜか姿が見えやせん。確かとはいかねぇ」
一撃を避けきったとすれば『危険感知』の神通力のおかげだろうか。しかし、あの威力では、海に飛び込んだところで助かる気がしないのだが。死体も見つからないとは、変な気がする。
「けど、この群衆を『眩惑』できてるうちに、さっさと逃げちまいやしょう。じゃねぇとぶち殺しながら進むことになりやす。今のうちですぜ」




