力の対価、衝動迫る
「そうか、めぼしいものはなし、か」
窓にはカーテンがかけられている。外はすっかり暗くなっていた。この部屋の中も薄暗く、今は燭台の上の頼りない光が周囲をそっと照らすのみだ。
王家の秘密を提供したバーハルだったが、その収穫が期待されたほどでなかったことに、落胆を隠せなかった。
「手がかりがないわけではありません。ギシアン・チーレムは、ブイープ島という、かつてのイーヴォ・ルーの聖地に立ち入ることで、クロル・アルジンを止めています」
ビルムラールはそう申し立てるが、バーハルは難しい顔をしたままだ。
「だが、重要なことがいくつも抜け落ちておる。恐らく、お主らの言うアーウィンとかいう者が守っておる洞窟が、肝心の場所なのだろう。だが、そこに行けば、本当にクロル・アルジンを倒せるのか? 剣や魔法を叩きつければ、どうにかできるのか?」
アーウィンという大駒を張りつけておくくらいなのだから、そこには重要なものがあるのだろう。だが、仮にそこにクロル・アルジンを制御する装置のようなものがあったとして、それは破壊可能なものなのだろうか。同じように霊樹を素材にして、イーヴォ・ルーの力を得ているのであれば、物理的に傷つけたところで、どうにもならないのではないか。
「それ以前の問題もあろうな。船という船が壊されてしまった今、島に渡る手段がない」
「それは一応、あるのですが」
俺はそっと部屋の隅に佇む二人に目を向けた。
ディンは両手を広げて首を振った。
「無理だよ。船員がみんな逃げちゃったからね」
ワングはというと、しょんぼりしていた。背中を丸めて、燃えカスでも食わされたような顔をしている。
「あの、船は無事、なんですよね?」
「積荷も全部あるネ」
「だったらまだ何もなくしてません」
「命を持ち帰れればネ」
「えっと、大丈夫ですか?」
「……賭け、負けたかもしれないネ」
この前は「賭けは続行だ」とかっこよく言ってたのに。でも、無理もない。王家の中の権力闘争とか、そんな程度で収まればまだよかったが、今回は一千年前の世界を震撼させた怪物の復活だ。この瞬間も、クロル・アルジンの攻撃がこちらに向けられたら、それで終わる。
そこまで考えて、ふと疑問を感じた。ではなぜ、デクリオンは俺達ごと、ラージュドゥハーニーを更地にしないのだろうか?
「こちらも朗報がないわけではないが……焼け石に水じゃの」
バーハルは低い声でそう呟いた。
彼の傍らには、相変わらず暗い表情で椅子に沈み込んだままのドゥサラ王子がいる。そのすぐ後ろには、甲冑に身を固め、赤いマントに身を包んだ若い将軍、ジーヴィットが控えていた。
「例によって紅玉蠍軍団の砦も吹っ飛んでしまったが、半数以上が生き延びてくれておる。今は市内の各所に潜伏しておるが、命令があればまた集結させることができよう。だが」
「我々では、王宮を守る銀鷲軍団と戦うくらいしか、できそうにありません」
ジーヴィットのすぐ後ろには、やはり赤いローブに身を包んだ男が一人。彼は両手で大きな扇を大事そうに抱えている。柄の長さだけでも長剣くらいはある。全体としては巨大な軍配みたいな形をしており、色合いは緑色だ。さぞ重いのだろうと想像できる。
「メノラックは、ホムラは持ち出したが、バショウセンは残していったようでの。おかげでこうして今、わしらの手元にある」
そういえば、例の秘密の部屋の石碑には、二つの霊具についても記述もあったはずだ。
「ビルムラールさん、そういえば石碑の部屋で、バショウセンについて何か書いてあったかと思うんですが」
「それなのですが」
彼は難しい顔をしてしまう。
「さっき話した通りのことしかわかりません。ごく簡単に記載があっただけなのです。……炎の勇者ナームを偲んで、女神がホムラを贈る。このホムラの対になる霊具として、新たにバショウセンを授けるものとする。これらを車の両輪と心得よ。あとは王族の口伝なり、といった感じでしょうか」
「口伝、って」
「多分、失われてしまっているでしょうね」
バーハルも頷いた。
「ホムラの方は、大昔の戦で持ち出された記録があったはずじゃ。ルアンクーの王国が滅んだ直後、残党が王都に攻め込んできた時に、敵の軍船を焼き払うのに使ったとか」
「バショウセンは?」
「用いられたという記録はなかったと思うが」
だが、俺には道具の存在理由がわかってしまう。
結論だけは、バーハルも同じだった。
「だが、対になる道具ということなら、やはりホムラの力を打ち消すためのものなのだろうがな」
ホムラ、つまり日本語でいうところの『焔』、燃え盛る火のことだ。だからあの槍は、火魔術や火に関する神通力の効力を劇的に高めてくれる道具なのだろう。
では、バショウセンは? 漢字で書けば『芭蕉扇』、前世でもこれほど有名な魔法の道具は、他にそうそうなかったはずだ。この名前を、日本人なら多くが中国の小説「西遊記」で目にしている。火焔山の火を消せる道具で、これを奪い合う一連のエピソードは、数々の創作物の中で面白おかしくアレンジされてきた。
つまりこれは、消えないはずのホムラの火を消すための道具なのだろう。
「それより、細かい報告は後でもできますが、もし、モートが言ったように今夜にもパッシャの襲撃があったら大変です。もうここを引き払う時分では」
「そうしたいのだが、まだキース殿がお戻りではない」
言われてハッとした。
そういえば、こちらに戻ってまだ顔を見ていなかった。
「ペルジャラナンまでついていて、そうそう不覚を取るとは……いや、それでも長居するべきではありません」
するとバーハルは、すぐ脇に座り込んだままのドゥサラに言った。
「殿下、ファルス殿もこう申しております。ここには長居しすぎました。そろそろパッシャの手の者どもにも居場所を悟られてしまっておるやもわかりません。動きましょう」
だが、相変わらず衝撃から立ち直れないのか、王子の動きは鈍かった。
「考え一つだと思うけどな」
ニドは不敵な笑みを浮かべて言った。
「どういうことだ」
「モートがこっちについたんだ。だったら言う通り、いっそここで待ち構えて、ウァールをやっちまえばいい。モートなら船で島に渡っても攻撃されないだろうし、あとはデクリオンの始末を任せりゃいい。そういうこった」
組織の行動には納得できていなくとも、命の恩人がそこに属していることが、彼の中では引っかかっていた。だが、あくまでモートは彼なりの正義に基づいて行動していたのだと、世界滅亡を見過ごすよりは、組織を割って出る方を選んでくれたのだと……それならもう、迷うべきはないということなのだろう。
だが、そこにノーラが冷や水を浴びせた。
「信用していいのかしら」
「なに」
「ファルスを毒殺しようとしたこともそうだし、やり方が強引だわ。ジョイスが言ったみたいに、勝った方につけばいいっていう考えなんじゃないかしら」
「そんなことはない」
ニドは声を荒げた。
「モートは俺にいつも言ってきた。貧者を踏みつけにして富を貪り、責務を果たさない強欲な権力者を討つために組織があるんだって。世のために人のためにならないから戦うしかなかったんだ。それが今度は組織がそうなった。だから裏切った。単純じゃないか」
「だったら尚更おかしいじゃない。どうして協力の見返りに自分の助命を要求するのよ。正義だけを問題にしているのなら、そんなみみっちいことは言わないはずだわ」
「お前こそ、色眼鏡で見過ぎてるんだ。ファルスが殺されそうになったから根に持ってるんだろう」
「静かに」
二人を制止すると、俺は言い添えた。
「仮にも殿下の御前だ」
もっとも、当のドゥサラは二人の言い争いに不快感を表明する余裕もなかった。思考の淵に深くはまり込んだまま、這い上がることができずにいるらしい。
「新しい拠点の場所は、一応、伝えてあるんでしたっけ」
フィラックが答えた。
「先にクーとタウルが向かった。イーグーが送ってくれたから、もう着いていると思う。ラピからの連絡も受け取れないと困るしな」
「なら、もうここは引き払った方が」
「殿下、参りましょうぞ」
バーハルに揺すられて、ようやくドゥサラは立ち上がった。
だが、カーテン越しに外を見ていたジョイスが顔を引きつらせた。
「なんだありゃあ」
「どうした」
「兵士……だけじゃねぇ。なんかウヨウヨこっちに来やがんぜ」
のんびり報告会などしている場合ではなかったか。
恐らくだが、今まで敵の追っ手がかからなかったのには、理由がある。最初、ブイープ島から逃れた時の攻撃で、俺達がもう死んだはずだと判断されたのがまず一つ。それが昼間のクロル・アルジンへの攻撃で、やはりファルスは生きているはずだということになった。
だが、神通力を俺に行使しても、居場所を知ることはできない。例えばアイドゥスの『予知夢』にしても、俺の姿は黒塗りになってしまったらしいから、アーウィンの『千里眼』でも、俺の姿を捉えることはできなかったのではないか。
だから多分、俺の周囲の誰かの行方を追いかけることにしたのだ。それでこの場所に行き着いた。
「出ましょう。デクリオンの魔法に操られた市民ですが、なるべくなら少ない犠牲で切り抜けたいところです」
既に護衛の兵士達の手によって、荷物の多くは新たな潜伏先に運ばれた後だ。俺達は体一つで外に出た。
海に近い宿だが、その海沿いの大通りはまだ開けていた。逆に陸側の道路を見ると、三方すべて群衆に埋め尽くされていた。月明かりの下、表情のない人々が、急ぐ様子もなく、こちらに向かって淡々を歩み寄ってきていた。
意識が覚醒する。
「警戒を! 飛び道具に気を」
風切り音が耳に触れる。短い呻き声の後、ドゥサラ王子の横に立っていた護衛の兵が、力なく横倒しになる。
「パッシャの戦士が! 人混みに紛れている!」
いやらしいやり方だ。操られている市民を肉の盾にして、毒塗りのナイフを投げつけてくるとは。
「過信はしないでください!」
そう叫びながらビルムラールは丸薬を取り出した。ありがたい。『矢除け』を使うのだろう。だが、もし相手のナイフがアダマンタイト製だったら、この魔法も意味をなさない。
「近寄るんじゃねぇ!」
フォレス語でそう叫びながら、ジョイスは棒を振るった。相手は正常な意識のない群衆だが、知ったことではない。物理的に打ち据えられることで、操られていた人もその場で倒れ伏す。これではパッシャの暗殺者も、身を隠したまま、これ以上距離を詰めるのが難しい。
「どこか、一ヶ所を無理やり」
「ファルス! 前!」
背の高い男の後ろから、一人の黒尽くめの少年兵が前に飛び出した。手には毒塗りのナイフがある。
だが、気付いてしまえばなんてことはない。俺は余裕をもって体捌きで位置を入れ替え、すれ違いざまに逆袈裟斬りにした。
「うっ!?」
その瞬間、急に心臓が跳ねたようだった。
どうした? まさか敵の武器が俺に……当たったわけではない。なのに、どうして。
「ファルス!」
ノーラが駆け寄り、俺を庇う。
それで気付いた。説明しがたい何かが内側からこみ上げてきて、俺の手足の自由を奪ったのだ。その衝撃ゆえに、膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちてしまった。
全身の皮膚がヒリヒリする。熱いのか冷たいのか、多分その両方だ。ほぼ真っ暗なのに、やけに視界がチカチカする。地面がグラグラ揺れているような気がする。
どうしてこうなった?
今、ここで多少なりとも戦って、避難しなければいけないのに。たった一人殺しただけで、俺の中の何かが変わってしまった。
金属音が耳に触れて反響する。
剣を取り落としたのだ。その銀色の刃が月光に照らされて輝く。なんと眩いのだろう。ああ、そうか、この剣はもう、十分に「吸い込んでしまった」のだ……
「しっかりして! ファルス!」
息が、できない。思考が纏まらない。頭の中に、意味の分からない何事かを叫ぶ声が、いくつもいくつも響いてくる。
全身に熱がこもる。収まれ、収まれ……
「駄目だ、囲まれてしまった」
頭の上で、ヒランの声が聞こえた。
彼のいる方をなんとか見遣ると、海岸沿いの道路の左右にも群衆が押し寄せてきていた。そしてその両側を塞いだ間のところに、一隻の船が寄せてきていた。
その舳先から一人の男が、いかにも身軽そうに飛び降りた。
黒い棒を肩に、右半身を刺青に染めたウァールは、悠々とこちらに歩みを進めてきていた。
そして今、この場には、彼に立ち向かえるだけの実力者はいなかったのだ。




