今、使用可能な、最大の攻撃手段で
久しぶりの青空だった。途切れ途切れに埃の塊のような雲が浮いているものの、あとは一面、目に鮮やかな群青色だ。ただ、風が強すぎる。北西から南東へと吹き抜けていく、頬をチリチリさせるような内陸からの熱風だ。
「せっかく晴れてたって、これじゃあ船出するにゃあ、ちょいっとまずそうですねぇ」
「皮肉にしか聞こえないな」
「ただの軽口ですよ、若旦那」
イーグーと合流して四日後の朝。俺は彼とノーラを連れて、ラージュドゥハーニーの南東を占める軍港に踏み込んでいた。
「一隻残らず……」
ノーラも途中で絶句した。
「タウルの報告だと、銀鷲軍団がブイープ島に渡ったそうだけど、それ以外の船は全部打ち壊すか、焼くかしたんだな」
青玉鮫軍団の軍船は、どうせ先の青竜討伐に失敗したせいで、既に三分の一は失われていたのだが、ここに至って全損した。いや、銀鷲軍団が奪い取った分はまだ、島に残っているのだろうが。
「クロル・アルジンとかっていうんでしたっけ? あのデカブツがいやがるのに、今更、人間の兵士どもなんざ、何に使おうってんですかねぇ」
「護衛じゃないかしら。確かにあれは」
ノーラは一度、後ろを振り返った。
王宮のある方向、茶色い屋根がいくつも連なる先には、相変わらずあの怪物が聳え立っていた。さすがにあれから更に巨大化することはなかったが、ここからでもその異形の姿がよく見える。
「あれ一つで、なんでも倒せるとは思うけど、一つしかないもの。仮に海を渡らせて赤の血盟を攻撃させても、その間に他の誰か、ワノノマの軍勢とかが自分達を殺しにきたら、身を守れないし」
「ふうん、そんなもんですかねぇ」
「何か引っかかることでも?」
「いやぁ」
深緑の頭巾の上から頭をボリボリと掻きながら、イーグーは訝しんだ。
「薬に触媒を混ぜて飲ませるって、まぁそりゃあうまい手ではありやすけどね。どんな触媒を使ったって、ちょいとずつ体からは抜けていくもんなんで。いや、まぁ、継ぎ足し続けりゃもつはもつんですがね……頭ん中いじくる魔法なんて、そう長続きするもんじゃありやせん。どういうつもりなんでしょうかねぇ」
そこは俺も疑問に思ってはいた。
「さぁ。ただ、銀鷲軍団の兵からすれば、正気に返ったところでもう、引き返せないだろうし」
「なるほど、そういうことならわかりやす」
「チャール殿下が今、どこにおいでかわからないけど、パッシャが身柄を抑えているなら、つまりはそういうことだ。ポロルカ王家の血筋で、無理やりことを収めようとするんじゃないかな」
会話が途切れる。
イーグーは肩を揺らして溜息をついた。
「で、やんなきゃダメなんすかね」
「他に頼めない。今日ならいろいろ条件も揃っててちょうどいい。それとも、他に作戦が?」
「ねぇですよ。ったく、しょうがねぇ」
彼は苦々しげに北を見遣った。
「グリフォンは使わないのか」
「ああ、あれですかい。ちぃと難しいですね。あのデカブツの速さがどんだけのもんか……ありゃあちょっとやそっとの神通力くれぇじゃ、追いつかれちまう。いくつか魔法をかけあわせて、やっと逃げ切れるってなもんで……まぁ、空を飛べるだけのあれに乗っていく余裕はないですかねぇ。どうせ長くはもちゃしねぇんで、自前で飛びますよ」
言い切ってから、彼はまた、恨めしそうに溜息をついた。
「若旦那」
「ああ」
「どんな切り札を使うんだか、詳しくは聞いてませんがね。欲張らずに、逃げるときは早めに逃げて、隠れちまうことです。じゃねぇと逃げきれねぇかもですよ」
「覚えておく」
彼は頷くと、言った。
「じゃ、離れていてくだせぇ。そっちも準備があるんでしょう」
それから海の方を向くと、一心に詠唱を始めた。
俺達はそっとその場を離れ、海沿いの倉庫に向かった。
作戦はシンプルだ。
イーグーがまず、クロル・アルジンを挑発する。そうして彼を殺そうと南の海上に出たところで、赤竜に化けた俺がノーラを乗せて、後ろから追いかける。俺達がクロル・アルジンを攻撃し始めたら、イーグーはすぐ撤退。ドゥサラ王子その他、仲間達が潜伏する隠れ家に引き返す。
なぜイーグーを攻撃に参加させないかというと、意味がないからだ。ペルジャラナンよりは強力な魔法を使えるだろうとは思うが、どちらにせよ、あちらはイーグーの魔力障壁をただの即席の初級魔法で軽々ぶち抜くパワーを備えているのだ。つまり、通常の魔法攻撃は、まず効果が期待できない。前に見たように、あっさり魔法で対抗されておしまいだ。
だから、まず初手で腐蝕魔術を使う。今日のこの風向きなら、汚染物質が陸上に飛散する可能性も低い。だから遠慮なく、クロル・アルジンを塵に変えることができる。
だが、なぜかアーウィンが復活してきたように、倒しきれない可能性は想定している。その場合は、ノーラにバクシアの種を預けてあるので、そこから束縛の魔眼の能力を抜き取って使用する。さしもの怪物も、全身が石に変われば、身動きできなくなるだろう。
それでも駄目なら、俺達も撤退する。これだけだ。
「イーグーが飛び立ったら、僕達もすぐ準備開始だ」
俺達は倉庫の入口からずっと彼の方を見つめていたが、ある瞬間、ふっと彼の姿が消えた。あまりの高速で上空に舞い上がったがゆえに、そう見えたのだ。
それを合図に、俺達は倉庫の扉をめいいっぱい広げた。これだけあれば、赤竜の体でも、翼を畳めば外に出られる。後追いで攻撃を仕掛けるまでは、クロル・アルジンに発見されたくはない。
準備が整ったところで、俺は肉体を入れ替えた。
予想より早くあの雷鳴にも似た轟音が頭上に響き渡ると、俺は赤竜の巨体のまま、慌てて身をすぼめて倉庫から這い出た。そこにノーラが横からしがみつき、首元に毛布を置いた。それから安全のため、命綱代わりのロープを俺の首に回してから、俺の体によじ登って、彼女自身を固定した。
「準備できたわ」
その声を聞いて、俺は翼を広げた。
僅かな時間の間に、イーグーとクロル・アルジンは、青空の彼方の黒い点になってしまっていた。あそこまで追いつかねばならない。だが、イーグーには申し訳ないが、陸上から遠ざかってくれるのは好都合ではある。居住地に汚染を撒き散らさずに済むという意味でも、俺の能力の行使を他の人に目撃されずに済むという点でも。
心地よい浮遊感とともに、体が浮かび上がるのを感じる。たちまち地上の建造物の数々がオモチャのように小さく見えて、やがて視界から消えた。見えるのは黒々とした海面と、きらめく鱗のように陽光を照り返すその波の形だけだ。
前方に目を向けると、次第に黒い巨体が迫ってくる。あまり近づきすぎるわけにもいかない。
「今、連絡した。イーグーさんはもう、離脱するって」
事前に伝えてある。逃げるときは西、ついで北上するようにと。風下に行かれると、腐蝕魔術の汚染を被りかねない。
黒い粒が、右手に逸れていく。そこに真っ白な光線が突き抜けていく。あれ一発でも、街中でやられたら大惨事だ。家がいくつ吹っ飛ばされるか、わかったものじゃない。
《もう待てない。イーグーは風下から抜けた。『腐蝕』を使わないと、却ってイーグーが逃げきれなくなる》
「わかった」
空中に浮かぶ、まるで奥歯の形をした黒いシルエットに、ノーラの呪詛が降りかかった。
それまで難なく複数の魔術を行使して、その魔法陣を体の表面に浮かび上がらせていたクロル・アルジンだったが、予想外の攻撃だったらしく、急にそれらの動きが止まる。イーグーを追撃するべく準備されていた魔法陣が、次々形を失って消えていく。
《いいぞ》
やはり、腐蝕魔術なら効かないということはなかった。確実に奴の体の表面が溶かされて、小さくなっていっているのがわかる。
「汚染が……風下は真っ赤だわ」
《この際、仕方ない》
敵の攻撃が止んだのを見て、イーグーは全速力での逃走に移った。矢のように北西に向かって飛び去っていく。
《このまま磨り潰してしまおう》
「うまくいくと……いいけど」
ある種の抵抗力でもあるのか、普通の物質なら一瞬で全体が塵になりそうなものを、クロル・アルジンはよく耐えた。それでも一分も経つ頃にはもう、元の何分の一かの大きさにまで縮んでいた。もし、これと同じ魔法をラージュドゥハーニーの市内に放っていたら、今頃市内は無人の地になり果てているだろう。
あまり考えたくはないが、もしかするとハイウェジに由来する再生能力のせいで、ここまでしぶとくなってしまっているのかもしれない。
更に一分が過ぎる頃、遠目に見えていた黒い粒は、完全に見えなくなった。視認できなければ、ピアシング・ハンドの表示も消える。
《やったか?》
黒い粒が風に散らされて海面に落ちていく。そうしてその空間には、何もなくなった。
なくなった、はずだった。
「えっ? な、なに、あれ?」
俺の背中で、ノーラが驚きの声をあげた。
消滅したはずの場所から、急にニョキニョキと黒い枝、触手のようなそれが勢いよく伸びてきたのだ。
《完全には消し飛ばせていなかったということか》
想定はしていた。
アーウィンも殺せなかったのだから、クロル・アルジンにもトドメはさせない。だが、さして弱体化もしてなさそうだ。どんどん元のサイズに近づいていく。
《やり方を変える。種を》
「う、うん」
目的は殺すことにはない。無力化できればいい。ここなら誰にも邪魔されない。
首筋に押し付けられたバクシアの種の感触を認識し、俺は自分の能力を入れ替える。
もし視界に他の生物の影があれば、例えば空を舞う海鳥がいたなら、きっと巻き添えになっていただろう。だが、幸か不幸か、荒れ狂うクロル・アルジンを恐れてのことか、もしくは今日のこの暴風ゆえか、他の生物の姿は見られなかった。
ただ、空中に浮かぶ黒い触手の塊が、魔眼の力にさらされた。
「あっ」
色が変わらなかったのもあってわかりにくかったが、効き目はあったらしい。
浮遊していたクロル・アルジンは、急にバランスを崩し、横倒しになったまま、真下の海面に向けて最初はゆっくりと、徐々に勢いをつけて落下していった。
間もなく遠くの海面に大きな白い水飛沫があがり、周囲に大波を起こした。その上空から、俺達は何かが起きないかを見守っていた。
「出てこないわね」
ピアシング・ハンドでは生死の判定はできない。実際、石になっても死ぬわけではない。
だが、動かなくなったのなら、これで実質、勝利できたといえる。
《種をもう一度……この力が間違って暴発したら、取り返しがつかない》
何分待っても海底に留まったまま、動き出す様子のない敵。俺達は監視をやめて、帰還することにした。
港に戻り、俺が服を着直してから、また海の方を眺めた。相変わらず、そちらは静かだった。後ろから熱風が吹き付けてくるだけだった。俺とノーラは頷きあって、隠れ家まで引き返した。
「どうだった」
一ヶ所に留まり続けるのは危険だからという理由で、今日にも引き払うつもりの宿の入口に、フィラックが待ち構えていた。
「うまくいったかもしれない」
「しれないって、なんだ」
「クロル・アルジンは海の底に沈んだ。見た限りでは、もう動き出すことはない」
「本当か? やったじゃないか!」
あとはアーウィンをどう始末するか。束縛の魔眼が通用するのなら、アーウィンもこれと同じ方法でやれば、始末できるのではないか。
そんなことを考えながら、俺はフィラックに続いて、宿の狭い階段に足をかけた。
その時、耳を劈く雷鳴のような音が轟いた。
「まさか!?」
俺は身を翻し、宿の外に転がり出た。
そこでもう一度、轟音が周囲を圧して、遠ざかっていくのが聞こえた。
群青色の空には、変わらずあの黒い触手の怪物が浮かんでいたのだ。




