怪物のサンプル採取
見上げれば、空は薄曇り。昨日よりは明るい。どこからともなく生臭い風が流れてくる。
相変わらず、通りには人の影が見えない。ひっそりと静まり返って、まるで無人の街を行くような気分だ。実際、逃げられる市民はもう、逃げ去った後だろう。行き場のない人々も、今は家の中に閉じこもっているに違いない。但し、デクリオンに操られている市民を除けば、だが。
路上には、露店のための小さな屋台が横倒しになっていたり、飼い葉桶が転がっていたりする。昨日の混乱から一日、路上に転がった果物はもう腐りかけの甘すぎる臭いを発している。食べられるうちに拾う人もいなかったのだ。
この異常事態も、眼前に聳えるあれを見れば、すべて納得できるというものだ。
「当たり前のように居座ってやがるぜ」
ジョイスが毒づく。
右斜め前方には、そろそろ小高い宮殿の敷地が見えてくる辺りだ。そこから少し北に逸れた方向、ちょうど俺達の正面には、これまで存在しなかった構造物が鎮座している。ただ、それは建物ではない。
「たった一日でよくもこんなに育ったものね?」
ノーラも呆れ気味だ。
長く黒い影を落としているのは、あのクロル・アルジンだ。但し、その高さたるや。比較できるものがないから何とも言えないが、天辺の高さはきっと百メートルくらいはあるだろう。この世界の建築物の階数は十階建てまでいかないのが普通なので、ラージュドゥハーニー中を見回しても、あれより高い塔のようなものは見当たらない。
樹木というには、やはり歪だった。どちらかというと、戦闘機を立てたようなフォルムをしている。それとも、発射台に据えられたロケットか。
こんな不気味なモノが王都の真ん中に居座っている。しかもそいつが二つの軍団のための要塞を一発で爆破したとなれば、一般市民が怯えて縮こまるのも無理はない。
「大きさは問題じゃないと思うけど……」
昨日、俺達が確認したのは、クロル・アルジンの機動力と攻撃力だ。
しかし、まだ調べるべきことがある。では、弱点はないのか? 例えば、普通に剣で傷つけることもできるのではないか。特に俺が持つ剣は、ケッセンドゥリアンを一発で殺したのだし、案外特別な効き目があるかもわからない。動かずにいる今は、チャンスであるといえる。
なぜアーウィンが全身を破壊されても復活できたのかは謎だが、恐らくこのバケモノにも同様の機能があるとみるべきだろう。しかし、それはそれとして、案外脆ければやりようはある。継続的に攻撃を浴びせ続けることで、行動を封じる手もあるかもしれない。
だから今回は、危険を承知の威力偵察に出ている。俺とノーラ、ジョイス、ペルジャラナン。四人であの怪物の足下に近づいているところだ。
なお、ノーラのためにピアシング・ハンドを行使して一日以上経過している。クールタイムが終わったので、既に俺はこの位置からクロル・アルジンから能力を引き抜こうとしたが、やはりそれは失敗に終わっている。アーウィンのときと同じで、反応がない。同様に、こちらからの能力の付与もまた、やはりできない。
そうなると、俺が使える切り札はあと二つ。腐蝕魔術と束縛の魔眼だ。どちらかで倒しきれるといいのだが……
「おっ?」
ジョイスが何かに気付いて足を止めかけた。
「どうした?」
「いや……なんでもねぇ」
「なんでもないことはないだろう? 何を見つけた」
ジョイスは、とある建物を指差した。この地域にありがちな、白塗りの壁の、三階建ての住居だ。一階部分は商店になっている。
「中に人がいる。ガキが二人……泥棒っぽいな」
「別に捕まえる必要はないけど、情報は欲しいところだし、話を聞いてみるか」
俺達はごく自然に、表の玄関からその家に立ち入った。
「裏口はあっちだ」
小声で指示されて、ノーラがそちらを塞ぎに行く。
それからジョイスが声を張り上げた。
「いるんだろう? 出てこい!」
フォレス語での呼びかけだから、意味が正しく伝わったはずはないのだが、発見されたらしいことにはすぐ理解が及んだらしい。箪笥の裏に隠れていた少年と少女が、そっと顔を出した。それは、どことなく見覚えのある顔だった。
「なんだよ、またてめぇらか」
少年は、俺達を見るなり吐き捨てた。
それで思い出した。彼らは先王崩御の葬列を見物に行った時、フィラックから財布を掏り取った連中だ。
ジョイスでは言葉が通じないので、俺が話すことにした。
「また盗みを働いているのか」
「悪いか」
開き直った彼は、テーブルに手をかけてその上にどっかと座り込んだ。薄暗い中、顔ははっきりと見えないが、目だけが白く光っている。その彼の後ろで、妹が無表情のまま、佇んでいた。
「他にどうやって食っていけっていうんだ? 誰も助けてくれないなら、自分でやるしかない」
「お前はこの国の生まれだろう。親族その他、誰か頼れる人はいなかったのか」
「はん」
俺の問いを、彼は鼻で笑って流した。
「お前ら、外国から来たのか? だよな?」
「そうだ」
まったく悪びれることなく、彼はせせら笑った。
「世の中ってのはよ、俺が思うに、どっか抜け穴があるもんだと思うぜ?」
「どういうことだ」
「この国はいいとこだってみんな言うんだ。ゴミ拾いはゴミ拾い、洗濯屋は洗濯屋。クソ貧乏でも、代々ちゃんとお仕事がある。金持ちにはなれなくても、飢えることはないってな。でも、俺達を見ろよ?」
彼は肩を竦め、身の上について語った。
「商人の家の娘だった俺達のオフクロは、港で荷運びしてる男に襲われた。けど、そんなの親に言えるわけもねぇ。ところがそれで俺ができちまったもんだから、家の恥だからって仕方なく無理やり結婚させて、縁切りだ。そんでもって貧乏暮らししてるうち、オフクロが死んじまった。親父はいきなり居なくなった。船にでも乗せてもらって、遠くに行ったのかね? じゃ、俺達は何になればいいんだ? 商人? 荷運び? どっちにもなれやしねぇ。世間様の狭間にすっぽり落ち込んじまったから、こうするしかない。抜け穴で生まれた俺達が、やっぱり抜け穴に付け込むのは、やって当たり前のことだと思うぜ」
それで、彼は首に手を当てた。
「ま、バッサリ殺すってんなら、好きにしろよ」
「そんなことに興味はない」
この少年が語ったのは、社会というものの本質に迫る事例だ。
社会には差別がある。この国では、荷運びの身分は商人より低い。その差別を人々が受け入れて秩序の中で暮らす限りにおいては……その権力が濫用されない限り、強者の側はもちろん、弱者の側にも利益がある。おのおのが分相応に弁えて過ごす限り、役割を与えられる。
だが、そこにイレギュラーが発生するとどうなるか? 彼は世間様の狭間といったが、まさしく誰からも手を差し伸べられない境遇というのが、どうしても不可避的に発生する。一種の破れ目のようなものだ。だからこそ、ワングのように実家を飛び出すのも出てくる。それは社会にとって悪だ。悪だが、逃げ道を塞げば、もっと大きな問題を起こしかねない。その実例が彼らというわけだ。
しかし、今はそれどころではない。
「知りたいのは、あの怪物が出てからのことだ。この辺では何があった」
「ああ? 別にどうってこたぁねぇよ。いい暮らししてる連中から、血相変えて逃げ出していきやがった。あとは家の中に閉じこもってるだけだ。……あと、そういや、王宮の方から人が来たな。徴発だとかいって、なんか街の真ん中? この近くで、建物を取り壊して広場をこさえてるらしいぜ。そこになんか、廃材だか油だかを持ち込んで……焚火でもするのかね?」
「なるほど、他には?」
「知らねぇ。興味もないからな」
これだけでも多少の判断材料にはなった。パッシャの計画には、まだ続きがある。超兵器を手に入れたのだから、あとは好き勝手に暴れるだけかと思いきや、何か他にもやりたいことがあるらしい。
「そうか。邪魔したな」
「俺達はほっとくのかよ」
「今はそんなことに割く労力はない。せいぜいうまく生き延びてくれ」
「けっ」
それだけのやり取りで別れた。その間、終始ジョイスは難しい顔をしていたが。
それからしばらく。
俺達はクロル・アルジンの根元に辿り着いた。下から見上げると、本当に発射台の上のロケットのように見える。無数の根のようなものが真上に伸びる幹の部分を支えている。途中、枝のように見えるものも生えているが、それらはすべて下向きで、どこからどこまでが根なのか区別がつかない。
腰を据えている場所は、本当に適当だった。足の一方は王宮の敷地に食い込んでいるし、もう一方は民家を押し潰している。
なんだか東京タワーの真下にやってきたような気分だった。
「で、どうすんだよ、これ」
このクロル・アルジンという怪物だが、現時点で俺の頭の中には、いくつかの可能性が浮上してきている。
「まず、この剣で切りつけても、何も反応しないかもしれない、ということだ」
「はぁ? 斬られりゃ誰だって痛がるし、暴れるだろ」
「普通ならそうだ。でも、あれに限ってはそんなことはない気がする」
なぜなら、クロル・アルジンには恐らく自我がないからだ。自分で考え行動するバケモノだったとしたら、パッシャにとっても制御不能の代物になりかねない。ということは、誰かが操縦しているのではないか。つまり、操作されずに放置されているうちに、なんらか対処すれば、動作しなくなる可能性がある。
一応、そう考える根拠はある。最初、こいつが目覚めた日のことだ。俺達が乗っていた船を熱線で焼き尽くしたが、それだけで帰ってしまった。俺達がまだ海上に浮いていたのに。
自分で判断する能力があるのなら、そんな間抜けはしないはずだ。
もう一つ。霊樹が材料なら、あの肉体は肉体ではない。では何かといわれると困るのだが……痛覚自体がないのではないかと考えられる。
「あとは、何かの方法で壊せないかとも思う。多分、あれの材料は霊樹だけじゃない。人間も取り込んでいる」
「そりゃあ、人を突き落とすのを見てたけどよ」
「何かのきっかけで、一気に動作不良を起こすんじゃないかと……根拠はないけど、そんな気がするんだ」
なんとなくアーウィンに似ている。それがこの直感の理由だ。
このバケモノとか、あとはヘミュービや使徒、シュプンツェを除けば、これまで出会った中で、アーウィンは確実に最強の一人だ。だが、彼にはどうにも不可解なところがあった。今でもずっと引っかかっているのだ。フリンガ城前の処刑騒ぎのとき、彼はパッシャの幹部連中を紹介するだけで、自ら戦おうとはしなかった。
明確に説明はできないのだが、パッシャが用いる技術がアーウィンのそれと同じなら、もしかすると何か機能的に、不安定なものを抱えているのではないか。それを見つけさえすれば、と考えている。
実際、それが俺の直感したものでないにせよ、突破口ならあるはずなのだ。でなければ、使徒が俺をぶつけるはずがない。正解を手にすれば、俺はこいつを倒せるのではないか。
ノーラが非難がましく言った。
「気がするって、それだけであれに近づくの? やっぱり危なすぎない?」
「危ないけど、このままじゃにっちもさっちもいかない。どだい速さが違い過ぎるし、空も飛べるんだから、船で逃げ切るのも無理だ。近付いて調べるなら、多分、今が一番安全なんだよ。王宮にはパッシャの連中がいる。自分達まで吹っ飛ばすような、あの一撃は放てない」
それともう一つ、目的がある。
「あれの枝か根っこかの一部を、この剣で切り落とす。それを持ち帰って、ディエドラや……ことによったら、ヒラン様やメディアッシ様にも見てもらう。何かの手がかりになるかもしれない。そこまでできたら、もう撤退でいいと思っている。とにかく、今はわからないことが多すぎるんだ」
霊樹自体は、必ずしも頑丈なものではない。現にカダル村では、リザードマンの戦士達がずっと警備についていた。アイル村の霊樹も、当時のワノノマの魔物討伐隊の手によって破壊されている。
できればシュプンツェみたいな……あれは火に弱かったが、そういう弱点を見つけたい。
「僕一人で前に出て、先っぽを切り落としてみる。それでその後どうするか決めよう。いざとなったら全力で隠れよう」
それで俺は一人、仲間達から離れて、崩れかけた家屋の横を滑るようにして歩いた。物陰から、路上に無造作に伸びた黒い枝の先を確認する。しばらくその枝を観察するが、こちらに反応する様子もなく、それは地面に触れそうなところで反り返ったまま、微動だにしない。
物陰からその枝の先端までは、一メートルほどある。一歩踏み込めば切り落とすのはすぐだ。意を決して、俺は踏み出して剣を振るった。
思いのほか、あっさり断ち切れた。先端からおよそ十センチほど。
万一見つけられたらと思い、すぐに身を引いたのだが、先に予想したように一切の反応がなかった。これなら本当に今は危険がないのかもしれない。ただ、切り落とされた先端部分は、地面に触れると急に脆くなってその場で萎びてしまい、あっという間にスカスカになって、微風の一吹きで四散してしまった。
これには困った。できれば体の一部を採取して、どんな魔法に弱いかを確かめたりするつもりだったのに。
それでもっと大きなパーツを切り取ってみればよかろうと考え、俺は物陰から姿を現した。
さっき切り落としたのは、大人の指くらいの太さしかない小枝の先っぽだったが、今度はもっと根元、人間の足くらいの太さの枝を、長さ一メートルくらいで切り取った。結構な重さを感じさせる音をたてて、それは地面に転がった。触れてみると、まだ硬度を失っていない。これなら持ち帰ることができそうだ。
その枝は、通常の樹木と違って、葉っぱらしいものは一切ない。ただ、果実のような、大きさにして一センチにもならない小さな球がくっついている。それが明滅しているのが見えた。それにしても、結構な重さと硬さだ。この剣だから切り落とせたが、他の武器では難しいかもしれない。
少々嵩張るが、どうしたものか……
その時、悪寒のようなものが走るのを感じた。
反射的にクロル・アルジンの方へと振り返る。まだ切り落とされていない枝についている小さな球が、一斉に明滅していた。
察した俺は、急いで起き上がり、切り落とした枝もそのままに、物陰に滑り込んだ。だが、そこにか細い枝がいくつも伸びてきた。
失敗した。
この怪物、予想した通り、感覚はほとんどない。樹木の部分には。ただ、あの小さな球……そういえば、魔宮モーの地下にあった霊樹もどきにもあったし、カダル村のそれにも房状になっていたものがあったっけ。もしかすると、あれが霊樹の感覚器のような役割を果たしているのかもしれない。
俺が走って戻ってくるのを見て、他の三人も危険を察した。
「散れ! こっちに来るな! 逃げろ!」
「ギィ」
だが、ペルジャラナンは逃げる代わりに俺が走る通路を塞ぐように立ち、指先を俺の後ろに向けた。
その指先に光が集まり、青白い火球が形をなす。それが空気を引き裂く音をたてつつ、前方へとすっ飛んでいった。
既に俺の後ろには、太い枝が、いくつもの指を伸ばして迫ってきていた。ペルジャラナンの火球は、その腕の部分に突き刺さった。だが、予期された爆発音は、起きなかった。
「嘘?」
物陰から様子を見ていたノーラが上ずった声をあげる。
炸裂するはずだった場所に、青白い光の魔法陣が描かれ、火魔術を中和でもしたのか、火球は直ちに消失した。と同時に、他にも赤い円、緑色の円が別々の場所に浮かび上がる。
その意味を察して、俺は叫んだ。
「魔法がくるぞ! ノーラ、『反応阻害』を」
言いかけたところで、背後から白色の熱線が迫ってきた。それは打ち消されたようだったが、続いて緑色の円が大きく輝いて消えた。
「まずっ」
クロル・アルジンは、同時に複数の魔法を行使できる。それと悟ったところで、もう遅かった。
想像を絶する威力の風の拳が、周囲の建造物の壁を砕き、床を巻き上げながら俺達に迫ってきた。
何もできず身を縮めたその一瞬、俺と黒い大木の間の空間に、半透明の六角形がいくつも浮かび上がるのが見えた。
その次の瞬間、足下を揺るがす衝撃が襲ってきて、俺は浮遊感をおぼえた。
どれほどの時間が過ぎたのか。数秒か、一分ほどたったのか。暗がりの中で我に返り、俺はゆっくりと身を起こした。
さっきの一撃で、俺達は生き埋めになったらしい。だが、どういうわけか、ここはきれいに空洞になっていて、俺は傷一つ負っていなかった。周囲を見回すも、ほとんど光がない。他の三人が無事かどうかもわからない。といって、声をあげてクロル・アルジンに見つけられるわけにもいかない。
そう思って逡巡していると、頭上から光が差した。
「無茶ぁしやがる。もうちょっと気をつけてくだせぇ、若旦那」
頭上に空いた穴からは、黒い人型のシルエットが見えた。




