海沿いの潜伏先にて
窓の外から、ごく弱々しい光が差し込んでくる。カーテンも半ば閉じているし、結局、今日は一日ずっと曇り続けて、しかも雨にもならなかった。薄暗くて時刻もよくわからないが、そろそろ夕方ではないだろうか。少しずつ暗くなっているのを感じる。
「どうしてこんなことに」
先日までワングとディンが過ごしていた居室。だが、今の主は別人だった。この部屋の床も古びているし、家具もまたそうだったが、さっきの潜伏先よりはずっとましだ。なぜなら、今でも現役で使われていて、メンテナンスもされている。
「女神は行いを見ておられないのか。それとも私の行いに何かどこか、人の道に悖るものがあったというのか」
嘆きはすぐに恨み言に取って代わられた。
「私は常に慈悲をもって民に接してきたのだ。それなのにあの暴徒どもは、私の母を……ああ!」
椅子の上で背を丸めて、膝に肘をおいて頭を抱え、ぐちぐちと早口で泣き言を繰り出すドゥサラ王子は、完全に取り乱してしまっていた。
「殿下。しっかりなさいませ」
困難が大きい時ほど、忠臣はあえて落ち着き払ってみせるものだ。メディアッシは余裕たっぷりと言わんばかりに肩の力を抜いて、優しく語りかけた。
「殿下が王族として誰より慈悲深い方であったことは、この私がよく存じております。なるほど、今回は大変な災難ではありました。心根より邪悪な者には、殿下のお気持ちなど理解できないのでしょう。しかし、ここで自棄になってはなりませんぞ。民はなお殿下の慈愛を必要としているのですからな」
だが、ドゥサラは首を振った。
「許さぬ。許さぬぞ。我が母を殺めた者どもの首は、必ず挙げねばならぬ。道理を弁えぬ愚民どもなど、もう知ったことか! 誰が下手人かわからねば、いっそのこと」
「おお殿下、いつもであればそのようなことはおっしゃらないでしょうに」
「いつもであればな」
頭を抱えていた手を放す。その指先は小刻みに震えていた。
「父上にしても、特に苛政を敷いていたわけではない。それがあのような無道を働くなど……決して許せるものではあるまい」
「殿下は昔、証拠もない者を罰するのはならぬとおっしゃったではありませんか」
両手を広げ、彼は昔話を始めた。
「あれは殿下がまだ六つのときでしたかな。王宮に仕える侍女の一族の一人が、叔父君の宝物を盗んだとの疑いをかけられ、鞭打たれたときのこと。覚えておられますか」
「うるさい」
「既に背中をひどく打たれ、侍女は虫の息になっておりました。私どももお諫めしましたが、聞き入れていただくこともできず……そこへ殿下がいらして、自ら上着を脱いで侍女にかぶせておやりになられましたな。それから、叔父君に申し上げたではありませんか。罪を犯した証拠がない者は罪なき者、この上なお罰するとあればまず我が身を、と」
メディアッシは語り続けた。
「叔父君は許さず、殿下を鞭打たせましたが、殿下は気を失うまで侍女を庇われましたな。この件を先王陛下も耳になされ、それはもうお褒めになられたものでした。ドゥサラ殿下は誰より心優しい王子であると。我々も将来は明るいと喜んだものです」
「やめてくれ」
だが、今の彼には思い出話すら苦痛らしい。
仕方なく忠臣も口を噤んだ。
俺達はそんな二人のお芝居を、少々白けつつ眺めていた。嘆き悲しむというのは、今、この状況においては最高の贅沢に違いない。
既にこの古い宿を経営していた主人とその家族は王都から避難して、いなくなっている。ついでに、ワングが連れてきていた船員達も、ほとんど逃げ去ってしまい、今では行方もわからない。だから、彼の船を使ってドゥサラ王子を海外に亡命させるという作戦はとれそうにない。
ついでに言うと、この宿としては一番広くて清潔な部屋は王子に奪われてしまったので、ワングやディンは、狭くて不潔な下の階の部屋に移らざるを得なくなった。もう少しまともな部屋がないでもなかったのだが、そこは重傷を負ったキースの病室ということになってしまったからだ。
護衛の兵士達は、市内から少しでも食料になるものを掻き集めるべく奔走していた。タウルとフィラックは、情勢を知るために偵察に出かけている。ビルムラールとヒランは傷を負ったキースの治療。あとは護衛や見張り。それ以外は交代要員として休んでいる。無駄な体力を使う間抜けは、他にいないのだ。
「ファルス」
棒で自分の肩をトントンと叩きながら、窓枠に腰かけるジョイスが言った。
「ここは俺が見てるからよ。お前もちょっと休んでこい」
「殿下の護衛は」
「はっ……お前、アレが落ちてきたら、護衛もへったくれもあるかよ」
それも道理だ。
俺は頷き、階段を下りた。
二階の雑魚寝部屋は、広いが天井も低く、薄暗かった。眠る以外の機能を期待されない空間だ。これは、船員の身分によって仕事が変わるがゆえの造りだ。つまり、船長や雇い主の商人などは、宿に客を招いて商談を進めることもある。だが一般の船員にはそうした仕事がないので、日中は屋外で過ごし、宿では寝るだけだ。
必要ないから、という理由で普段は窓も閉め切られているのだが、それだけに空気が篭る。湿った空気にお香の匂いが微妙に沁みついていて、どうにも居心地が悪かった。
「あ……寝てなかったのか」
部屋の中には、ディエドラとペルジャラナンがいた。二人とも身を起こして座ったまま。喋っていたのでもなく、ただなんとなくそうしていたらしい。
あれだけのものを見てしまったのだから、暢気に寝ていられないというのもわかるのだが。
「今のうちに休んでおいた方がいい。上でジョイスが見張ってくれている。僕も休めと言われて降りてきたんだから」
だが、二人は……いや、暗い表情をしているのはディエドラだけで、ペルジャラナンはというと、いつも通りの無表情に見えるのだが……俯いたままだった。
「スまなかった」
「えっ?」
「シャルトゥノーマのこと」
「ああ」
それはディエドラの責任ではない。俺はそう捉えていたが、彼女は違った。
「このマチにキて、コジキがいたのをミて、オコってた」
最初の観光のときの話だ。
御者は俺達を適当なところに放りだした。そこは乞食の巣で、連中は我が子の手足をわざと折って物乞いしてきた。
「ニンゲンはマズしいヒトをタスけない。オヤもコをキズつける。みんなオカシいって、やっぱりニンゲンはザンコクなヤツらなんだって」
シャルトゥノーマは、怪我をした赤ん坊をみて、助けてやろうと反射的に財布を取り出していた。大森林の部族社会、その相互扶助を常識として長年生きてきたのだ。なのにそれが通用しない。助けようとすれば止められる。助けられる側も騙すつもりでいる。みんな悪意、悪意のオンパレードだ。
「ペルジャラナンもコロされそうになった。あれでホンキでオコってしまった」
だから彼女は、ストレスを溜め込んでいた。そこへきてのザンの蛮行だ。
「全部、理由のあることだ。彼女は悪くない」
「ガマンしろとイった。でも、オサえられなかった。チョウロウにも、ファルスにも、モウしワケがタたない」
「長老達はともかく、僕が文句を言うつもりはない。気に病まないで欲しい」
正直なところ、シャルトゥノーマのことも心配ではある。この非常時に勝手にいなくなったのは問題だ。だが、彼女を責められるかといえば。
視点を変えれば、俺達にとっては当たり前のこの人間社会も、随分と不潔で野蛮な、それは居心地の悪い場所なのだ。むしろ今までよく堪えてくれたと思うしかない。
「大丈夫、そのうち戻ってきてくれると思う」
これは気休めではなく、本音だ。
彼女は怒りに任せて俺達の傍からいなくなったが、行く場所が他にあるわけでもない。長老達の命令を受けて人間社会の見学に行ったのに、俺の許可もなくアンギン村に帰るわけにはいかない。
ただ、感情のままに行動していたらと思うと、そこだけは心配だ。単身、パッシャに挑むなんて無謀はやめてほしい。
「ギィ」
何かを言おうとして、俺に通じないことを悟って、彼はまた手で印を組みつつ、何事かを呟いた。
《これで聞こえるー?》
「あ、うん」
《よかったー》
相変わらずの軽いノリだが、どこか元気がなさげだった。
「どうした? 何か」
《うんー……》
ペルジャラナンが落ち込むなんて、珍しい。感情の振れ幅が小さいのがリザードマンの特徴だというのに。
《嫌われる理由がわかっちゃったからさぁ》
「嫌われる、理由?」
《うんー、やっぱりボクらは危ないバケモノだったんだ》
サラッとドギツい表現が出てきた。
《霊樹をいじって作ったんでしょー、あの空飛ぶやつー》
「デクリオンはそう言っていた」
《なんであんなものになるのか、ぜーんぜんわかんないんだけど、っていうことはさ、霊樹があれば、あれ、作れちゃうんでしょー?》
「そうなるね」
ペルジャラナンは尻尾を丸めて縮こまった。
《あんな危ないものを作れるのがルーの種族なら、何か起きる前に殺しちゃった方がいいでしょ? だから人間がボクらを嫌って殺そうとするのは、当然だったんだー》
「それはっ」
違う、と言おうとして、俺は言葉を選び直した。
「だからといってそれは、ルーの種族を殺していい理由にはならない」
《そうかなー》
「そうだ」
俺はあえて言い切った。彼も特に反論しようとはしなかった。
「二人とも、悩み過ぎなくていい。話は簡単だ。どうにかしてあれを始末する。そうでなければ、パッシャの連中を全員倒して、あれを利用できないようにする。それだけのことだ」
二人に寝るよう促しておきながら、俺はどうにも落ち着かず、そのまま一階まで降りた。
薄暗い無人の厨房からは、まだ生きた臭いがした。先日までは火が点され、食材が煮込まれていた場所だ。きれいに掃除をし終えてから逃げたのでもないので、多少の汚れは残っている。壁にも天井にも、煮たり焼いたりしたときの油、一緒に投げ込まれた香辛料が沁みついている。つい先日まで、ここに日常があったことの証だ。
一階のロビーには、通りに面して大きく開いた窓から、弱々しい光が差し込んできていた。放置された椅子やテーブルが何とも言えず物寂しく、侘しく見えた。
そこにワングが一人、くたびれた様子でしゃがみ込んでいた。
「どうしたんですか?」
「どうもこうもない」
彼は少し不機嫌そうだった。
「私はもともと貧乏人だったからね。雑魚寝部屋でも全然構わない。だけどね、こうして自分の寝床を明け渡して不便をしている分、あのお偉い人達は、私に報いてくれるのかね」
「それは」
「船員達に逃げられてしまったから、王子を海外に逃がすという手柄も私のものにはなりそうにない。すると、この今の不便は全部タダの持ち出しで、見返りがないということになりそうだ」
そう言うと、彼は首を振った。
「いや、いや。そんなことで怒っているのではないな。そうだ、私は怒っている」
「と言いますと?」
「パッシャがとんでもないことをしたにせよ、元はと言えば、王家がしっかり仕事をしなかったから、ここまでの状況に陥ったのだ。普段、散々偉そうにして、立派な宮殿で暮らしているくせに、肝心なところでは役に立たず、今もこうして偉そうにしているだけ、か」
元は洗濯屋の息子だった彼だ。商売上、高貴な身分の人には媚びなくてはならないが、内心では不満も積もっているに違いない。
だが、そこで彼はまた首を振った。
「忘れてくれ。ちょっと寝てくる」
それだけ言うと、彼は階段に足をかけた。
考えもなく、なんとなく俺は宿の玄関に立った。警戒心がないわけではない。ただ、これだけ静まり返った王都だ。さすがに誰かが近付いてくれば、すぐわかる。それより、自分の心の中のざわめきを静めたかった。
この災厄を招いたのは、俺のせいかもしれない。使徒が言っていた。
『お前がくだらん手心を加えたせいで、また大勢死ぬぞ』
すべてが終わった後のスーディアの夜、崩れ去ったフリンガ城の瓦礫の上で、使徒はそう言った。
『デクリオンか、アーウィンか……どちらか一方でも殺しておけば、まだよかったものを……いつか思い知ることになる。まぁ、それもお前が後片付けをするのだな』
アーウィンは倒せなかっただろうが、デクリオンだけなら殺せたかもしれない。その意味で、使徒の言葉は正しかった。もし俺があそこでデクリオンを始末していれば、クロル・アルジンが現代に甦ることはなかっただろうから。
緑玉蛇軍団は城塞ごと蒸発した。およそ五千人が一瞬で死んだのだ。俺はサハリアの戦役で、憎悪に駆られて大勢を殺戮した。一万人は殺したかもしれない。だが、今回の被害は、その程度では済まないのではないか。あの怪物があちこち飛び回って敵対者に攻撃を浴びせたらどうなる?
だが、今は打つ手がない。ピアシング・ハンドが通用するかどうかを試すにも、まだ待たねばならない。昨夜、ノーラを救出するために王宮に忍び込んでから、まだ一日が過ぎていないのだ。
どうすればあれをなんとかできるのか。
多分だが、使徒は答えを知っている。だったら教えてくれればよさそうなものなのだが、それはしたくないのだろう。むしろ無辜の民が大勢命を落とし、俺がますます絶望する方が好ましいのだから。青竜を派遣したのが奴なのは、もうほぼ確実だ。あれがなければイークの王位継承は早まっていた。つまり、黒の王衣になりおおせたデクリオンは、俺がラージュドゥハーニーに到着する前にクロル・アルジンを手にしていたはずで、そうなれば俺は多分、迷わず回れ右をしただろう。
それはそうだ。世界の危機だからって、なんでもかんでも俺が出張っていく義理などない。そのうち贖罪の民が駆けつけて、いつだったかマペイジィがそうしようとしたように、龍神の介入を可能にするのだろう。その間に大勢の犠牲者が出たところで、薄情なようだが、俺の責任ではないから。
使徒は、うまく俺をこの事件に深入りさせた。こうなってしまっては、今から逃げたところで、パッシャに狙われるのは避けられないだろうし。
幅広の道路越しには、黒ずんだ海が見える。夕陽の最後の輝きが揺れる波間に照り返されているが、空はもうほとんど深い藍色に染まってしまっていた。
そこに人の形のシルエットが浮かび上がる。
「どうして外に出ている。中にいろ」
戻ってきたのはタウルだった。
「お疲れ様です」
「ちゃんと休んだのか。寝ろ」
彼は俺が外にいたのを咎めた。
「落ち着かなくて、つい」
さっき二人には休めと言ったのに、俺が休めていない。我が身のこととなると、ままならないものだ。
「それで、何かわかったことは」
「金獅子軍団は壊滅。指揮官のケマティアン将軍は、首が宮殿の北門前にさらされていた」
これで王都を守護する軍団は、二つまでが完全に崩壊した。青玉鮫軍団も、既に半壊している。
「紅玉蠍軍団は?」
「砦が吹っ飛ばされた。ジーヴィット将軍は行方不明だ」
そうなると、軍団の兵もどれだけ生き残っているか。少なくとも緑玉蛇軍団は、ヴィデルコ将軍ごと全滅したはずだから、頼みの綱はもう、無事だったとしても、若年の将軍一人だけだ。といって、それで対抗できる相手はというと、せいぜいのところ銀鷲軍団くらいなのだが。クロル・アルジン相手には、何の役にも立つまい。
「王宮にはチャール王子がいるらしい」
「えっ?」
「詳しいことはわからない。捕まっているのかも。噂だから、これは確かじゃない」
薄暗い廊下を通って、狭い階段に足をかけたところで、タウルは振り返った。
「あとは、暴徒達が、港と王宮の周囲を取り囲んで、道を塞いでいる」
「まだ操られている?」
「多分、そうだ。パッシャの魔法が効いてるんだろう」
それだけ言うと、彼は上に向かって歩き出した。
俺は最後の報告に、ちょっとした違和感をおぼえた。だが、それがなぜなのかが自分でも説明できなかった。
頭を振って、俺も上の階に戻ることにした。
まずは一休みするのが先だろうから。




