暴走した霊樹
三十六章、このまま続きが始まります。
震動が収まった。
相変わらず頭上には黒雲が犇めいており、ひび割れた空の狭間からは不自然に白い弱々しい光が差している。湿った空気がぬるりと流れる中、この場は沈黙に満たされていた。
何が起きたというのか。だが、それはパッシャの面々の振る舞いから、明らかになった。
「待ち望んだぞ」
ウァールが、クレーターの底から顔を出した何かを指差した。
それは黒い何かだった。形としては、頼りない木の枝の先っぽのように見える。ただ、それだけ。
「命令は」
「三人とも死んだ場合の指令はもう、登録済みだ」
二人は何やら言い合っている。
「素晴らしい」
息を飲みながら、デクリオンは満面の笑みで喜びを表した。
「なんだありゃ」
ジョイスが目を細める。
「木の……枝?」
「いんや、奥に何かありやがる。球根だか、ぶっとい幹みてぇのが……おっ?」
透視能力がある彼には、地下での出来事も見えている。
「なんか千切れやがったぞ?」
彼がそういうが早いか、顔を出したばかりの黒い木の枝は、急に勢いよく伸び始めた。
「チッ!」
キースが舌打ちする。
「ボサッとしてんじゃねぇ! 今からでもこいつらブッ殺すぞ!」
そうだった。
今からでも、パッシャの幹部を全滅させれば、計画は頓挫するかもしれない。
「ははは、遅い遅い。さっきのはただのオマケ、なんならなくてもいいくらいの最後の仕上げだよ……といっても、聞いていないか」
デクリオンは余裕の表情を崩さない。
だが、キースは一瞬で迫った。斜面を下から駆け上がったとは思われないほどに素早く。デクリオンを守る周囲の黒尽くめ達も、その動きに対応できず、硬直していた。
銀の閃光が煌めいた。
甲高い金属音が周囲に響き渡る。
「間に合ってよかった」
タルヒを振り下ろしたキースとデクリオンの間に、一人の男が立っていた。必殺の一撃を軽々と受け止めたそいつは……
「どうして」
ノーラが驚きに目を見開き、動きを止めた。
一方、ビルムラールは別のことに気を取られていた。
「あ、あれはシロガネ? 王家の剣を」
ジョイスは、その男の顔を見直して、やっと理解した。
「お、おい。そいつ、その顔……さっき下水で……なんで生きてるんだよ!?」
そんなの、俺に尋ねられても困る。
腐蝕魔術で塵になったはずのアーウィンが、どうして今もピンピンしているのか。
ただ、装備だけはさっきと違う。色合いやデザインは似ているが、服はもう黒竜のコートではなさそうだし、魔道具の腕輪もつけていない。手にしている剣も別物で、どうやらポロルカ王国の国宝であるシロガネらしい。
「てっ、てめぇ、どっから湧いてきやがった!」
「凄い腕前だね? 私かウァールでなければ、とても受け止められそうにない」
瞬間移動だ。それでキースとデクリオンの間に割り込んだ。
それより、これは厳しい。アーウィンがまだ生きているとなると。そればかりか、殺しても死なないとわかった以上、勝ち筋が見えなくなった。
「アーウィン」
ウァールが横から顔を出した。キースは警戒して後ろに跳躍する。
「ちょっとそいつに興味がある。戦ってみていいか」
「好きにするさ」
こいつらはどうしてこんなに余裕なのか。
いや、これはこれで悪くない。俺がなんとかアーウィンを足止めしているうちに、他を始末してくれれば。
「すると私の相手は、やっぱりファルスか」
俺は睨みつけながら彼に尋ねた。
「いったい何をしたんだ?」
「それはこっちの台詞だよ。まさかあんな隠し技があるなんてね。ははは、びっくりさせられたな」
だが、ここで『腐蝕』は使えない。下水みたいな閉鎖空間ではないので、汚染が周囲に撒き散らされてしまう。
「で、どうした? あれをやらないのか? 今更私を殺したところで、何の意味もないけどね」
俺は口を噤むしかなかった。こちらから理由を説明するわけにはいかない。
それにしても、こいつらの余裕はどこからきているのだろう? あの黒い球根モドキが、そんなに凄いものなのか。
デクリオンは苦笑いを浮かべながら割り込んだ。
「君らはすっかりやる気みたいだが、王太子のことはもう、どうでもいいのかね?」
今もマバディはナイフを片手に、イークを羽交い絞めにしていた。
「こうも無視されると、少し寂しさをおぼえるよ」
「返せといったら返してくれるのか」
「もちろん。もう用無しだ。ただ……そうだな」
彼らにとっては、ここから先の出来事は、すべて余興でしかないらしい。
「ウァール、どうだ。お前とキース、勝負して彼が勝ったら、王太子を返してやるというのは」
「それでいい」
「ナメやがって」
だが、余興とはいえ、別にキースを根拠なく見下しているわけではない。元贖罪の民であるウァールには、長い寿命と常人を超えた技量が備わっている。
「キースさん、そいつは」
「言われるまでもねぇ。身のこなし見りゃわかる」
彼も実力を察していたらしい。
できることなら、横からこっそり支援をしたいところだ。だが、ピアシング・ハンドのクールタイムはいまだ終わっていない。
ウァールは、紫色の右腕に黒いアダマンタイトの棒を持ち、脱力したふうでそっと先端を前に突き出した。なんでもない構えなのに、目にしているだけで張り詰めた空気を感じて、息が詰まるほどだ。
キースも剣を中段に構え、半身になって腰を落とした。坂の上の方にいるウァールの方が、若干有利ではある。
二人は構えたまま、動きを止めた。斬りこみたくても、隙が無いのだ。
「どうした」
動き出さないキースに、ウァールは嘲笑を浴びせ始めた。
「世界最強の男なのだろう? 少しは楽しませてくれ」
「ケッ」
俺は、また小さな違和感をおぼえた。キースに、妙に勢いがない。そんな風に見えたのだ。
確かにウァールは強敵だ。易々と相手どれないのはわかる。だが、彼のいつもの強気というか、積極性が今回は感じられなかった。
剣を持たない左手が揺れて、ぶれた。
と同時に彼は前に出た。
「甘い」
瞬きする間に、既に鍔迫り合いの格好に持ち込んでいる。この場にいるうちの半分は、キースが何をしたのかにも気付けていないはずだ。何のことはなく、隠し持った礫を投げつけながら斬りかかったのだ。だが、そんな苦し紛れの一手は、ウァールには容易に防がれてしまった。
「そうかよ」
身を引きながら、キースは鋭くまた肩口を狙った。それをウァールは防いだが……
「むっ」
その動きに軋むようなぎこちなさが混じる。
意識を上にもっていきつつ、タルヒの力を借りてウァールの左足を氷漬けにしたのだ。
「ハッ!」
避けられないとみて、キースは矢のような突きを繰り出した。
それが右斜め後ろに撥ね飛ばされる。
「この程度か」
何が起きたのか。
ウァールは慌てず急がず、左手に持ち替えた得物で足下を突いた。それで左足を拘束する魔術を打ち破りつつ、トドメを刺そうと迫るキースの左脇腹を右足で蹴飛ばしたのだ。
「どうやら期待外れだ」
「なんだとこのクソ野郎」
「剣は業物、体も鍛え抜かれてはいる……だが、魂が腐っているようだな!」
その一言に煽られたのか、キースはやや強引に斬りかかった。それは狼が大顎を広げて獲物に食らいつくような激しさだったが、ウァールはごく自然に身を縮めると、黒い棒を横に振り抜いた。
白い陣羽織が、くの字を描く。
「キース!」
胴体を横薙ぎにされたキースは、弾き飛ばされて斜面を少しだけ転がり落ちた。
意識は保てている。気も張っている。すぐに起き上がり身構えた。だが、口元からは赤い血が漏れてきていた。
「俗世の英雄など、この程度ということだ」
「なにぃ」
「たかが傭兵ではないか。それが、それすら見失えば、戦えなくなるのも必定」
戦えない? キースが?
だが、どこか腑に落ちた。再会してからのキースに付き纏っていた言葉にしがたい変化が、それで説明できる気がしたのだ。
「獣が餌を貪るように。金のため、我欲のため、人を殺めてきたのだろう? 他に生き延びる術などなかった。だからお前は強くなった。だが、今のお前に戦う理由など、あるか?」
「あるぜ。てめぇをブッ殺す」
「ふっ」
そこで俺は気付いた。
さっきの一撃は、思った以上に深手だ。キースは立って気を吐くのが精一杯なのだ。
「お前の欲は満たされた。金も名誉も手に入れた。なのに満足できない。それはそうだ。所詮は醜い獣の生きざまでしかなかったのだから。だが、自分ではそれと認められない。受け入れられない。だから少しでもまともな人間のフリをしようとする。更なる高みを目指して修行するんだとな」
「てめぇっ……!」
それは確かにしっくりくる指摘ではあった。
キースは、フォレスティアの内乱の後から、迷いの道に踏み込んでいた。戦士以外の何者にもなれず、ドゥミェコンに流れ着いた。そこで改めて剣を手にして、やはり自分は戦士なのだと再認識した。それは納得できる結論ではあったが、よくよく考えれば一歩も前に進めていなかったのではないか。
戦士としてやるべきことが見つからなかったから、いろんなことを試してみたのだ。なのに結局、戦士という役割に立ち戻るしかなかった。では、どうすればいいのか。俺の剣の冴えを見て、更なる高みがあるのはわかった。だから修行はする。風魔術も学ぶ。だが、その先は?
キースは、戦士としての自分を受け入れられなくなっていたのだ。
「てめぇは、違うのかよ」
「我が身は元々、龍神ヘミュービに仕えていた。この世に平安をもたらそうとしてだ。だが、その欺瞞に気付いた。龍神は、人の世の平和に興味などない。人の生き死になど二の次だ。どれほど苦しもうと悲しもうと、一切気にかけない。だから組織に身を投じた」
ウァールは、胸に手を当てて、力強く言った。
「為すべき大義のある戦いの、なんと素晴らしいことか! 哀れな奴、お前のように貪ることしかできない獣ときたら、はじめは狼でも、最後は豚になるしかないのだ。そんなお前を見下ろしつつ、我は空を舞う鷹になる」
「くっ」
意地だけで立っていたキースが、膝を折った。いや、前に出ようとして、力尽きたのだ。
「我がこの腕を振るえば振るうほど、この世の恨みは晴らされる。黒い炭のような憎悪が、ついには炎のように光り輝くのだ。だが、お前はどうだ? 恨みを増やして金に換えるだけの卑しい獣ではないか。憎むべき邪悪よ」
そして、これこそウァールが一騎打ちを望んだ理由だったのだろう。
彼もまた、パッシャに属する復讐者の一人なのだ。だからこそ、キースと自分を対置して捉えていた。生きるために戦い、大勢に悲嘆と憎悪を植えつけてきたキースと。その悲嘆と憎悪を食らって力とする彼自身と。
「決着はついたようだな」
デクリオンが静かに言った。
「どのみち、もう勝負はついている」
アーウィンもそう呟いた。
「このクロル・アルジンがある限り」
そう言って彼は背後に聳えるそれを見上げた。
さっきまで黒い木の枝のようだったそれは、いまや全貌を目にすることができた。その黒ずんだ巨体は宙に浮いており、枝のような、触手のようなものがいくつも根元から突き出ていた。形だけなら歪な百合の花のようにも見えなくはない。
どこかで見たようなデザインだった気がする。これとそっくりなものを、割と最近、目にしたはずだ。
まさか、これは生きて……
「デクリオン」
俺は声が上ずりそうになるのを抑えながら、尋ねた。
「これはいったいなんなんだ」
「興味があるかね?」
俺の質問に、彼は穏やかな表情で応えた。
「いいとも。少しだけなら教えてあげよう。吝嗇は悪徳なのだから」
彼は右手で浮遊するクロル・アルジンを指し示しながら言った。
「この形、何に似ていると思う?」
「なに、って」
「根がないからそれとわからないかもしれないが……樹木の形に近いと思わないかね?」
言われてみれば、そんなように見えなくもない。ただ、葉っぱもないし、花も果実もない。
「これは、いわば樹木なのだよ。但し、少し特殊なものなのだがね」
「樹木、だって?」
もしかして、という思いが胸によぎる。
「我らが神、イーヴォ・ルーは、凶暴な種族を多数作り出した。ゴブリンやリザードマン、獣人や亜人……あれらはまさしく人類にとっての脅威だ。だからこそ、帝都も関門城を必要と考えて、今も支援を欠かさない。だが、そうした問題について、イーヴォ・ルーは実によく考えていた。これらの危険な種族を束ねるために、ある道具を用意しておいたのだ。それがこの」
デクリオンは、樹木の形をなぞるかのように両腕を差し上げた。
「霊樹なのだよ」
俺のすぐ後ろに、息を呑む二人の気配を感じた。無理もない。
では、やはりこのクロル・アルジンというのは……
「まさか、帝都の」
「そう! さすがはファルス、まさかそんなことまで知っていたとは。我々は、帝都にあった女神の封印を破って、霊樹の苗を手に入れた。それをようやくこの地で芽吹かせるのに成功した、というわけなのだよ」
「貴様ぁっ!」
激昂したシャルトゥノーマが、矢を放つのも忘れて前に出ようとする。それをジョイスが慌てて抱きかかえる。
「よ、よせ!」
「放せ! 放せっ!」
そんな俺達の様子を、デクリオンはにやつきながら眺めていた。
「さて、マバディ」
デクリオンはゆっくりと振り返った。
「そろそろ王太子を返してあげてもいいと思うのだが」
「キースはウァールに勝っていないのでは」
「少しくらいは温情をかけてあげてもいいのではないかね」
それでマバディは、不意に手を放した。戸惑うイークの背中を軽く突き飛ばすと、彼はつんのめりながらこちらに降りてきた。
ビルムラールが抱き留めようと、一歩前に出た。
「うっ!?」
その時、トンと何かを軽く打つような小さな音が聞こえた。
「殿下!」
イークの膝から力が抜け、ビルムラールの肩によりかかるようにして倒れ込んだ。
その背中には、短刀が突き刺さっていた。
「というわけで、そろそろ納得できた頃だと思う」
デクリオンが、合図をするかのように片手をすっと差し上げる。
その瞬間、本能的に危険を感じて、背筋に悪寒が走った。気が付くと、俺は叫んでいた。
「逃げろ!」




