ブイープ島へ
生ぬるい風が頬を撫でていく。
空を覆う雲はますます密に、いよいよ黒ずんでいる。日差しはほとんど遮られているので、見た目には時刻がわからない。まるで地下から地表を眺めているようだと思った。黒々とした雲はひび割れた地面で、その向こうには明るい空と大地が広がっているに違いない。けれども、それは手の届かない彼方のことなのだ。
今はちょうど昼頃で、ごく弱い海風が帆を膨らませている。帆船は横風を受けて走るとき、非常に安定するものだが、その意味では理想的だった。ただ、今は先を急がねばならない。
青玉鮫軍団の兵士達は、のっそりと立ち回っている。ロープを引く時の掛け声もどこか小さく聞こえた。
「船足が遅すぎる。もう少し風があれば」
ビルムラールが、甲板の上で足踏みしながら呟いた。
「魔法は使わないんですか」
「触媒の手持ちがないんです」
俺の質問に、彼は難しい顔で首を振った。
「一応、『矢除け』は三回分、『持続光』も二回分、『土操作』も二回分あります。それから『風の拳』も少々……でも、風を起こすための触媒は、今はありません」
「他の触媒で代用は?」
「できません。多分、帆に穴が開いてしまいます」
話を聞いていたシャルトゥノーマが割り込んだ。
「そういうことなら、私がやろう。この船に横風を当てればいいのか」
「えっ、ええ、そうなりますが」
彼の返事が終わるか終わらないかのうちに、少しひんやりとした風が、南からすっと吹き込んできた。船が一揺れして、船員達が大声で喚きだした。
「こっ、これは」
彼女が亜人であることは既に伝えてあったが、ルーの種族がどれほど自在に魔術を操るかについては、語ったことがなかった。あまりに自然なその魔法に、ビルムラールは目を見開いていた。
魔法が生み出した風は、さっきまでのぬるりとしたそれよりは幾分、すっきりしていた。本当に、頬を撫でるというか、なんというか、むしろ……悪意ある誰かが、舌でベロンと頬を舐めとるような、気持ちの悪い風だったのだ。
キースは、一人舳先に立っていた。白い陣羽織が風を孕んで巻き上がる。俺のいる場所からでは、彼の後姿しか見えず、その表情は窺い知れない。
「後からメディアッシとかいう爺さんが兵隊集めて追いかけるっつってたけどよぉ」
ジョイスも悩ましげな顔をしていた。
「俺達だけ先に行かせるってのもなぁ」
「そこは私の顔に免じて、許していただきたいものです」
ビルムラールが申し訳なさそうに言った。
「一応、王衣の家を代表しているつもりですから」
「それなんですが」
出港する前に、既に俺達は情報を得ていた。
「メノラック様が、既に先行しているらしいとか」
「そうらしいですね」
だが、彼は浮かない顔だった。
「ただ、人のことは言えませんが、これは明確な越権行為ですからね。非常時ですし、やむを得ないのですが……」
「やむを得ないで済む話だったらいいけどな? そいつが何しに島に渡ろうとしてるか、わかったもんじゃねぇだろ」
「おっしゃる通りです。混乱の最中ですし、連絡のつけようがなかっただけかもしれませんが」
最悪、メノラックがパッシャに与していることも考えられる。彼は、港に留まっていた青玉鮫軍団の兵士達に、言付けを残さなかった。
ただ、だからといって、彼があちら側の人間であると決めつけるのも早計ではある。というのも、銀鷲軍団が王宮を蹂躙するようなこの状況、誰を信じたらいいかわからないからだ。だからこそ、自分と一族の人間だけをあてにして、独断で行動しているのかもしれない。
下衆の勘繰りをするなら、先の青竜討伐の際の遅参を埋め合わせたいという欲目もあるのではないかとも思う。
俺は振り返って尋ねた。
「何か心当たりはないか」
ノーラの横に立っていたニドは、小さく首を振った。
「赤の王衣だかなんだか知らねぇが、そいつはわからねぇな」
「おいファルス」
ジョイスが声を荒げた。
「そいつはなんなんだ。パッシャの一員か? どうして知り合いなんだ」
「話せば長くなる。元はといえば、僕と同じ……だから、ノーラとも同じ奴隷収容所にいた仲間だ。ただ、買われた先で虐待されて、主人だった貴族を殺して逃げた。その後、パッシャに拾われたんだ」
「はぁ?」
俺の説明に、ジョイスが眉根を寄せた。
「いつそんな話をしたんだよ」
「スーディアで一度会っている。ただ、その時にパッシャは抜けたものだと思っていたんだが……」
俺もその先はわからない。どうしてまた、ニドはこんな南方大陸の南端にまでやってきてしまったのか。スーディアでのあの一件の後、すぐ仲間や上司に連絡を取り、勝手な行動を詫びたのであれば、今頃組織に追われるようなことにはなっていないはずだ。
ニドは、俺が黙って視線を向けると、大きく溜息をついて肩を竦めた。
「ま、俺にもいろいろあったってことだ」
疑われたままでは、いろいろやりにくい。それで彼は、身の上話をすることにした。
「組織に戻るつもりはなかった。実際、まだ戻ったわけじゃない。ただ、モートに声をかけられた」
「モート?」
「覚えてるか? スーディアで……あの、横に広い南部シュライ人の男だ」
「ああ」
パッシャが作戦に当たるとき、現地入りに際しては、いくつかのルートに分散して行動することになっている。シュプンツェ討伐の後、俺達の傍から一人抜け出したとはいえ、ニドは今後をどうするかを決めていなかった。ただ、ともあれ『怪盗ニド』として暴れまわったこともあり、スーディアから脱出するしかなかった。それで彼は、あの盆地を南東から抜ける道に向かっていた。
その日、森を抜けた峠道、角を曲がったところで、ニドは死を覚悟した。
「岩の上にモートが腰を下ろしていた。先回りされていたんだ。俺では、あいつには勝てない。というより、戦う気も起きない。勝手にお前を襲って、勝手に組織を抜けたんだ。ここで殺されるのかとハラくくったよ」
だが、モートはゆっくりと立ち上がると、静かに尋ねた。組織に戻るつもりはあるか、と。
「俺は、わからない、と言った。組織のすることが正しいのかどうか。足抜けしたって、俺がアグリオで火をつけて暴れまわったことは変わらない。やったことが帳消しになるわけじゃあねぇけどよ……あんなバケモノ呼び出したのがいいこととは思えない。納得できてないから、また同じことをやりますとは言えなかった」
すると、モートは大きく頷き、彼に言ったのだ。
「組織に戻らなくていい、仕事をしなくていいからついてこい、と」
「それでついていったのか」
「そんな顔するなよ……俺にとっては、モートは命の恩人なんだ」
ニドは遠い目を海の彼方に向けて、語りだした。
「あの頃……クソ貴族の家にいた時には、毎日地獄だった。片田舎の地主同然のくせしやがって、やたらと偉そうにしてやがったっけな、あの野郎は……」
ニドを買い取った貴族は、見た目は立派な紳士だった。ルイン人の血が入っているのか、目の覚めるような金髪に、威厳ある顔立ちをした壮年の男だったのだ。だが、上品そうなその外見からは想像もできない残虐さがあった。
ふとしたことで不興をかったニドは、屋敷の地下室に閉じ込められた。いや、実のところは彼の不始末が原因なのではなく、この家の当主は、下僕をいたぶる口実を探していただけだったのだ。
そして、彼が好んだ拷問はといえば、鞭打ちでもなければ、狩猟ゴッコでもなかった。
「銅貨を暖炉で炙ってな、そいつを火箸でつまんで、俺の肌に押し付けるところからやるんだよ」
「うげっ」
「炭火とか、あの真っ赤になったのを近づけたり、それで俺が怯えるのを見て、笑ってやがった。けど、いつも俺は思ってたよ。こいつを焼き殺せるなら。俺が味わってる痛みの一部だけでも味わわせてやりたいってな……そうしたら」
ついにとうとう、ニドに飽きたその貴族は、彼にトドメを刺して最後のお楽しみにしようと決めてしまった。
二ヶ月ぶりに外に連れ出された。うち続く虐待の上に、まともに歩くこともなかったせいで、彼は弱り切っていた。時間の感覚もなくしていたが、夕暮れ時だった。草木の匂いが心身に沁みこんでいくようだった。だからこそなのか、彼は悟っていた。ここで自分は死ぬのだと。
屋敷の正面の庭に、木の柱が立てられていた。ニドはそこに括りつけられた。夜の訪れとともに、盛大に焚火をしてやろうというわけだ。しかも、それを見ながら食事をするつもりらしく、差し向かいにはテーブルや椅子も運び込まれていた。
ニドは、それを憤りの中で、比較的冷静に見つめていた。
「くたばるのは、いっそ構わなかった。ただ、このクソ野郎にやり返せないまま終わるのが、悔しくてならなかった。焼き殺す、焼き殺す、焼き殺す……それしか考えてなかった」
そして彼の主人は、ニドの足下に積んだ枯草に火を放つよう命じた。そこにはたっぷりと油を含ませてあった。
真っ赤な炎が一気に燃え上がる。ニドが恐怖の表情を浮かべるだろうと期待していた領主は、その反抗的な視線に苛立ちを覚えた。彼は席を立ち、ニドを指差して何事か叫んだ。
その瞬間だった。
「急に背中に火柱が走ったみたいになってな。鎖で縛られていたはずなのに……気付くと、背中にあった木の柱が完全に燃え尽きてやがった。それで、俺は地面に投げ出されたんだ。背中も足も火傷してたが、それどころじゃなかった。とにかく一発、ぶん殴ってやろうと……前に駆け出して、拳を突き出した、つもりだった」
その拳の先から、火柱が噴き出した。それは渦巻きながら貴族の上半身を吸い込み、椅子やテーブルを弾き飛ばして一瞬で炎上させた。
何が起きたか、ニド自身にもわかっていなかった。
周囲を取り囲む召使達の姿が目についた。その顔を見た時、ふと嫌な記憶が甦った。思えば彼らは、この凶暴な主人のスケープゴートになりたくない一心で、新人の奴隷のニドに狙いをつけて、わざと失敗するよう追いやってきたのだ。無論、それは彼ら自身にとって必要な処世術に違いなかったのだが……
振り向いたと同時に、指先から奔流のように炎が溢れて出てきた。それは周囲にいた男女をあっという間に覆い包み、激しく燃やし始めた。
ニドはとっくに取り乱していた。とにかく、振り返って助けを求めようとしただけで、そちらに炎が燃え移る。気付けば屋敷にも火の手が回っており、周囲は紅蓮の炎に包まれて、ニド自身の逃げ場もなくなってしまっていた。
炎は空気を食らう。いつしか息苦しさを覚えて、彼はその場に倒れた。その炎の中、しっかりとした足取りで踏み入ってくる色黒の巨漢がいた。その男の姿を目にした記憶を最後に、ニドは意識を手放した。
「そこまではわかった。でも、どうして追われることになったんだ。お前が首を突っ込んだのか?」
「それなんだが……」
ニドは言いよどんだ。
「……しばらく、タダ飯を食わせてもらってたようなもんだったな。それで、組織が南方大陸に引き返すのに合わせて、俺もポロルカ王国に入った。立場としては、まぁ、モートの直属の部下みたいな顔をしてな。でも、ついこの前、極秘命令を受けたんだ。命令っていうか、今は他に頼める相手がいないって言われて」
「それは、どんなもの……いや、言っていいのか」
「ファルス、お前にも関係がある。というか、俺は当時、そうとは知らなかった。なんてことないお使いだったんだからな。組織の人間にも何も伝えず、一人である場所に行き、命令書を手渡してこい、と。それだけ」
両腕を広げ、彼は首を振った。
「こんなのいつものことだ。手紙の中身なんざ見やしない。下手に秘密を知ったら、捕らえられた後、拷問にかけられてゲロッちまうだろ? だから、余計なものは見ない、聞かない。組織の鉄則だ。だから、俺は自分が何をしているのかなんて知らなかった。まず、それを言っとくぜ……で、俺はラージュドゥハーニーの郊外にある、とある別荘に忍び込んだ」
「まさか」
「お前がバグワンの屋敷に招かれる一日前だ。そこの飯炊き女に指令書を渡した。毒薬も一緒にな」
では、俺を毒殺させたのは、パッシャの人間だったのか。
しかし、そうなるとよくわからない。バグワンを使って俺の足止めをしようとしたのも、パッシャであるはずなのに。
「それで、戻ってモートに報告しようとしたんだが……臨時のアジトはもぬけの殻。それどころか、組織の少年戦士どもに追い回される始末さ。で、なんかあると思って……まぁ、組織がポロルカ王国の宮殿内に隠し通路をこさえていたのも知ってたからな。お前やノーラがこっちに来ていることを知って、ピンときたんだ」
「だからノーラに解毒剤を渡したのか」
「ああ。言っとくけど、お前らのことはもう、ほとんどバレてるぜ? サハリアじゃ、大暴れしたそうじゃねぇか」
となると、ノーラの能力もある程度、把握されている。さすがに腐蝕魔術の全貌を知るはずもないが、少なくとも、重傷を負ったくらいでは死なないことは、もう知られてしまった。
それも無理はない。黒の鉄鎖には四賢者、赤の血盟にもハビがいた。だが、間諜がそれだけだったとは考えにくい。
「じゃあ、ニド。お前はどうして僕らのところに顔を出したんだ。殺されたくないというだけか?」
「いいや」
彼は物憂げな顔をして首を振った。
「確かめたいんだ。組織が何をしようとしていたのか。モートはどういうつもりで俺にあんな仕事をさせたのか……もともと死んだも同然の身だ。それでも、せめて納得したい」
船員が声をあげた。
帆の一部が滑り落ちる。気付けば、プイーブ島はすぐ目の前にまで迫ってきていた。




