最後の一瞥
白亜の政庁の中は、がらんとしていた。空気がやたらと冷たく感じる。
石造りの床はどこも白一色だが、目の前の玉座に続く中央の通路だけは、特に磨き上げられたのか、何か特殊な石材を使っているのか、一際強く光を照り返している。そこに、黒いシミのような影が一つ。
「まさかティーン殿下が」
ビルムラールも絶句していた。
俺としても、少し想定外なところがある。パッシャにとっての協力者だったのなら、殺すにしても優先順位はずっと後ろの方に置かれるのではないか。すると、他の標的はもう始末し終えたということか? まだ三人の王子がいるはずだが。
「玉座を汚したかったのか」
ヒランが嘆息しながら言った。
ちょっとした段差の上に玉座が置かれている。そこにはそれなりの広さがあるが、これは王だけでなく、内府の王衣や官僚が並び立つための場所だからだ。その真ん中にある玉座は、六大国の王のものにしては地味だったが、今はインパクトたっぷりの装飾が据えられている。つまり、首のないティーンの亡骸だ。
「いちいちキレてんじゃねぇ。それよか生き残ってんのを探すぞ」
キースが、微妙に元気のなさそうな声でそう言った。彼らしい切り替えの早さではあるし、主張するところはもっともなのだが、俺はその声色になんとなく不安のようなものをおぼえた。
ノーラが言った。
「これだけ人気がなければ、探しやすいと思う」
それから手早く詠唱すると、ある方向を指し示した。
「一番近くには、こっちの方向。誰かいる」
「任せろ」
さほどの距離がないとなれば、ジョイスが透視する。彼は一点を凝視してから、左右を見比べた。
「ついてこい」
それは本当に大した距離ではなかった。玉座の袖にある通路から、さながら舞台裏の楽屋のような部屋がいくつも並ぶ狭い廊下に出た。その中の一室の前で、ジョイスは足を止めた。
「どうした」
踏み込もうとしない彼に、フィラックが声をかけた。
「いや、こいつ、ビビッ……あー」
察したノーラが前に出て、扉をノックした。
「殿下、中に立ち入ってもよろしいでしょうか」
俺は彼女と目を見合わせると、一気に扉を開けた。
中には、腕を伸ばして剣の切っ先を前に向けるドゥサラ王子の姿があった。防御的な構えなのはわかるが、腰が引けている。表情からも極度の緊張が見て取れた。供の者もいない状態だ。
見ればここは、召使用の小部屋だ。四畳半ほどの狭さに、天井に届くほどの棚がいくつも置かれ、そこには着替えなどが折り畳まれて収納されている。窓もなく、埃っぽい。部屋の隅には燭台があったが、灯りは点されていなかった。
「殿下」
ヒランが前に出て、いそいそと跪いた。
「国法に背いて宮殿に参りましたこと、深くお詫び申し上げます。ですが、今は王家にとっての危急のときと存じます。何卒ご容赦を」
「う、うむ」
まだ気持ちが落ち着かないのだろう。さっきまで暗闇に潜んで息を殺していたのだ。それでも俺達が敵ではないとの理解が徐々に追いついてくる。
「それにしても、供の者もなしで、お一人でこちらにおいでとは、どうなされたのか」
「従者の者達は、私をここに隠して去った。見捨てたのではない。追っ手を引き受けてくれたのだ」
「追っ手ですか?」
ドゥサラ王子は頷いた。
「黒尽くめの連中が……決して数は多くなかったのだが、恐ろしい手練れだった。見ればまだ大人になり切ってもいない幼さだったのだが」
パッシャの少年兵だろう。マバディがノーラに襲いかかったところをみてもわかるように、彼らはもはや王宮の中を自由に行き来できていた。
「だいたい話はわかってきました。ですが、まずここから逃れませんと」
「だが、供の者どもが、ここで待つようにと。助けを呼ぶと言っていたが……もしや、そなたらが?」
「いいえ。別の目的で、あえて王家に直訴することが。ですが、今はそれどころではございません」
それでも王子は躊躇した。
「私がいなくなれば、供の者どもは困るのではないか」
「ごちゃごちゃうるせぇ」
キースが吐き捨てた。
「てめぇの手下は、てめぇを生かすための捨て駒だろが。優先順位取り違えんな」
「殿下、ここはキース殿の言う通りです。まずは逃れませんと」
だが、ジョイスが首を振った。
「もう遅ぇみたいだぜ。なんかきやがった」
蹴散らしていくしかない。俺達は身を隠すことも考えず、廊下に飛び出した。
ちょうど、こちらに駆けつけてくる数人の兵士がいた。狭い通路の中で、彼らは足を止め、こちらを睨みつける。槍を構え、腰を落とした。だが、続いて顔を見せたドゥサラ王子の姿を目にすると、ゆっくりと槍の穂先を下ろした。
「おぉ、殿下」
暗い廊下の向こうから顔を見せたのは、全身、鮮やかな青い衣に身を包んだ老人だった。
「メディアッシ、そなただったのか」
だが、俺はまだ警戒を解かなかった。青の王衣だからといって、味方とは限らない。
「おぉ、ペラヤン、助けを呼んでくれたのだな」
「はっ、殿下」
ドゥサラ王子の従者らしい、ちょっと身なりのいい男が、前に進み出て胸に手を当てた。
「失礼ながら」
俺はメディアッシをまっすぐ見ながら言った。
「メディアッシ様、あなたが反逆者に与していないという保証はありません。とはいえ、それはこちらも同じなのですが」
「うむ」
俺の指摘に、彼は真顔で答えた。
「それも自然な考えだ。この状況では無礼とは言えぬ。だが、疑いばかりでは先に進めまい。まずは王宮を出て、緑玉蛇軍団か、紅玉蠍軍団のところに身を寄せるべきだろう」
「王宮の守りは」
「暴徒どもが押し寄せてきておる上に……」
そこでメディアッシは、いかにも腹立たしいと言わんばかりに舌打ちした。
「まさか銀鷲軍団が」
「謀反、ですか」
「うむ、だが」
訳が分からないというように、彼は首を振った。
「ベルバード将軍が最も親しくしていたはずのティーン殿下は、もう」
「では、ご覧になられたのですか」
辻褄が合わない。そうなると、この暴挙に出た銀鷲軍団を赦免する可能性のある人物が存在しないことになるからだ。
「信じがたいことだ。ベルバードだけならともかく、なぜ一般の兵士どもが反逆に加担したのか。どう転んでも許されようもないものを」
「今、ここで立ち話して考えることではないですね」
ビルムラールがそう引き取ると、全員が頷いた。
俺達は政庁の裏口から外に出た。目指す先が北にある軍団基地であることを考えれば、そちらから出るのが近かったからだ。東側からは暴徒が、西側からは銀鷲軍団が攻め寄せてきているという。ただ、グズグズしていると、両者の狭間から外へと抜け出るのも難しくなる。
政庁の裏側にあるのは、王族の居住領域となっている古い石造りの宮殿だ。宮殿といっても、実は最もみすぼらしい一角だったりする。他の目につく部分は金箔で飾られていたりするのだが、外から直接見えないこの辺りの建造物は、雨に打たれて斑になった暗い灰色の壁が、そのままに残されている。ただ、昔はそれなりに手間をかけて拵えた代物なのだろう。他の尖塔に比べると、幾分ふとっちょな塔の数々には、微細な彫刻が施されていた。
「ルーのシュゾク」
ディエドラが呟いた。
「えっ?」
「ほら、アソコ」
彼女が指差したのは、その古い石の宮殿の屋根だった。確かに、屋根に近いところに人の立像が小さく見えた。よく確かめないとわからないが、頭の上にまるで獣人のような耳があった。
恐らくこの古い宮殿は、統一時代以前から存在するのだろう。その頃は、王家……パーディーシャーはルーの種族を拒むものではなかった。そして、長きに渡る停滞の時代は、ポロルカ王国の財政事情を圧迫した。こんな内々の住居の再建まで、手が回らなかったのだ。
ドゥサラ王子がそわそわしだした。
「ヒラン、寄り道することはできないか」
「何をおっしゃいますか」
「母が今、どこにいるのか」
彼は頭を抱えてしまった。
「なぜだ? なぜこんなことになる? ベルバードが野心に駆られたというなら、それもよかろう。だが、私達は民を慈しんできたはずだったのに」
悩んだところで、誰にも答えなど出せるものではない。
「どうしますか」
俺達は、古い宮殿の角をいくつも曲がって、北門近くの、王家の区画としては外側の宮殿に辿り着きつつあった。だが、とある角で俺達の足が止まった。
「声が聞こえる」
ドゥサラ王子の声は震えていた。
暴徒達の騒ぎ声が、ここまで聞こえてきているのだ。
「母上が危ない! みんな、急ごう!」
「お待ちあれ、殿下」
「なんだ!」
メディアッシは冷や汗を浮かべつつも、あえて諫言した。
「妃殿下のお命も大事ではございますが、今は王統を保つことを優先せねばなりません。殿下は先に逃れていただくべきです」
「人倫の道に悖る子に、どうして王族の務めが果たせよう」
「言い争っている場合ではないです。先に進んで、確かめたほうが」
たった一人の女を救うために、数人の暴徒を殺すのが好ましい振る舞いかどうか? だが、ここは前世日本ではない。人の命は等しくない。なぜ庶民が暴徒になったのか、そこに不自然さはあるものの、先王の側妾を救うことの価値は、一般人の生存のそれを上回る。
「間に合うのなら、助けましょう。早く」
「おぉ」
俺達は角を曲がって、目の前の黒ずんだ建物を目にした。
それは地上三、四階くらいの高さの首の太い塔が左右に突き出た、古い建物だった。さほどの大きさはない。側妾のための離れといったところか。
「そんな」
だが、既にその足下には、手に棒切れや松明を手にした男達がとりついていた。
「えっ? これは」
ノーラが戸惑いの声を漏らした。
さっき王宮に忍び込むとき、目にした連中とは微妙に違う。服装は庶民そのものだが、他が違う。まず、彼らは武器にならないものを持っていない。次に、揃いも揃って男達ばかり。
俺は察した。これは、さっきの暴徒達とは違う。自分の頭で考え、行動している連中だ。
「ぞっ、賊どもが……母上!」
ドゥサラ王子は、メディアッシの制止を振り切って走り出してしまった。仕方なく、俺達もその後を追う。
建物のすぐ近くまで駆けつけると、ようやく状況がはっきりと掴めてきた。暴徒達は既にこの離れの中に踏み込んでいる。中からは、侍女達のものと思しきくぐもった悲鳴が聞こえてくる。陶器が砕けるような音も。
俺達は剣を抜き放ち、建物を取り囲む男達の背後に迫った。その時、左の尖塔の窓から、身を乗り出す誰かが見えた。
「あっ……母上! 母上!」
それは頭に黄土色の布を被った、身なりのいい太った中年女性だった。
身を乗り出したのではなかった。腰を抱えられ、大きな窓から押し出されようとしているのだ。
俺は反射的に走り出した。だが、それと同時に、彼女は逆さまになった。その一瞬、彼女の視線がこちらに向けられたのに気付いた。
駆け抜けようとする俺の目の前に、男達の背中が迫る。それを突き倒しながら。だが……
小さく何かが砕ける音がした。
間に合うはずもなかった。
古い石畳の上に、さっきの女性が横倒しになっていた。その周囲に下卑た笑いが巻き起こる。
確かめるまでもなく、彼女は既に事切れていた。
「おい、そのガキなんだ」
男達の視線が、一人突出してきた俺に向けられる。
「王様にいいもん食わしてもらってるクソかよ」
「やっちまえ!」
集団で暴れているうちに気が大きくなったのもあるのだろう。俺が抜身の剣を手にしているのにもかかわらず、彼らは棒切れを振りかぶった。
体が自然に動いていた。
男達の首元に、手先に、胸に。一筋の線が引かれる。写真で瞬間を切り取ったかのように、それで彼らの動きは止まった。けれども、すぐそこに赤い汚れが溢れ出す。彼らは、今しがた命を奪った相手のすぐ傍に、力なく膝をついた。
その瞬間、言葉にしがたい何かが、俺の中に滑り込んできた気がした。
「母上! うわあああ!」
目の前で実母を殺されたドゥサラ王子は、狂ったようになって、もう動かない母の横にしゃがみ込んだ。そしてその背中をさする。だが、石畳の上には既に赤い染みが漏れ出してきていた。
「殿下、なりません」
ヒランがその背中を揺すった。
「死者は生き返りません。今は」
「かったるいことしてんじゃねぇ」
キースは説得などしなかった。脇の下を掴んで無理やりドゥサラ王子を引き起こすと、容赦なく拳を見舞った。
「殿下!」
メディアッシは目を白黒させる。だが、それだけで、キースの行動を咎めたりはしなかった。
よろめく王子の背中を抱きとめて、ビルムラールが引きずっていった。
「やべぇぜ」
左の方を眺めながら、ジョイスが呟いた。
「そろそろ兵士どもがこっちに来やがる。ありゃあ、銀鷲軍団って奴らなんじゃないのか」
フィラックも頷いた。
「このまま無理やり外を目指しても、見つけられたままでは意味がない。軍隊が相手じゃ、どうせ追いつかれるぞ。隠れるなら、南側から出たほうが……」
「ファルス?」
俺が呆然と立ち尽くしているのに気付いたノーラが、肩を揺すった。
「どうしたの?」
「あ、ああ、なんでもない」
たった今、四人の男を殺した。
息を吸って吐くように。
いつものことでしかないのに。
何か薄気味悪い違和感のようなものが、体の中を突き抜けていった気がしたのだ。それは何かのメッセージのようだった。
『そろそろ満杯』
そう言われたかのような。
「遠回りだが、南側から王宮の外を目指そう」
メディアッシが意見する。
「王太子殿下はいらっしゃらないのか」
「できれば見つけたいが、先にドゥサラ殿下を安全なところに匿うのが先だと思う」
「とにかくここを離れよう」
この場に乱入した俺達に、男達の注目が集まっていた。あっという間に仲間の男達を斬殺したのもあって、警戒して近付いてはこないが、さっきから刺すような視線が向けられている。
「ギィ」
「ふん」
ペルジャラナンとシャルトゥノーマが前に出た。
威嚇のための小さな火球がばら撒かれ、竜巻が足下の砂を巻き上げた。
「引き返すぞ。走れ!」
彼女の声に、俺達はまた来た道を駆け戻り始めた。




