王都、震撼す
カーテンの隙間から、眩い朝の光が差し込んでくる。その光線に照らされる空間に、塵が舞っているのが見える。
「皆様、改めてお願い申し上げます」
ヒランは表情を引き締め、腰を折った。
「パッシャが王国を蝕んでいると知った今、沈黙は罪です。仮にも王衣の家に生まれた者が、これを看過するなど許されません。たとえ獄に繋がれようとも、また磔刑に処せられようとも、王家に事実を告げずにはいられません。何卒、お力添えを」
彼はそう言うが、今回、俺には戦う理由そのものは、あまりない。
スーディアでは、タンディラールの命令があった。サハリアでは、ミルークやノーラの仇討ちという目的があった。だが、ここポロルカ王国には、俺が命を懸けるだけの理由が見当たらない。
ただ……
「そこまでする意味が、俺らにはねぇよ」
寝起きのキースが、ガリガリと頭を掻きむしる。
「要はお前らの不始末だろが。誰がパッシャの手下になったんだか知らねぇが、欲得ずくで取り込まれるような連中を大事なところに据えといたもんだから、こんなことになったんだろ。王様だか王子様だかに直訴したけりゃ、とっとと行けよ」
「キースさん、それは難しいんですよ」
俺はヒランの代わりに説明した。
「まず、王宮に入る権限を今のヒラン様は持ちません。王衣としての特権は剥奪されたままです。それに、パッシャの関与を暴露にしにいくとなれば、宮殿の中で命を狙われても不思議はありません」
「それを俺達が命張って守る理由は?」
「ご納得いただけるだけの謝礼を、必ず用意します」
ヒランはキッパリと言い切った。
「ド貧乏で権限もねぇのにか。空手形だろ?」
「そうはなりません。王家を救った暁には、金銭はもとより、爵位でもなんでも」
「そういうのはいらねぇ」
そう言いながら、彼は腰のタルヒを軽く揺すった。
「こいつと同じくらい値打ちのある何かをくれるんだったら、やってもいいけどな」
「それは」
女神に由来する霊剣となれば、ほぼ国宝のようなものだ。
「た、確かに、我が国にも、確かにそれに匹敵する宝物はあります。炎の霊槍『ホムラ』、それから火を鎮める霊扇『バショウセン』、王の帯剣である『シロガネ』が」
「くれんのか?」
与える、なんて言えるわけがない。王家の所有する秘宝なのだ。
「ほ、他はともかく、ホムラだけは……あれだけは危険すぎ……いや」
額に汗を浮かべたヒランは、だが、数秒の逡巡の後に言い切った。
「差し上げます。いざとなれば、盗み出してでも」
この答えに、ようやくキースは頷いた。
「皆様も、お力添えを」
なぜか安易にやりますと答えられない気分だった。
俺は何を恐れているのだろう? イーグーを失ったのは痛いが、そうとしてもスーディアで戦った時と比べれば、ずっと戦力は強化されている。最悪の脅威だったアーウィンはさっき、腐蝕魔術によって塵になった。あとは奇妙な特殊能力を持つパッシャの幹部どもが残ってはいるが、初見でしくじらなければ、勝ち目のない相手だとは思われない。
これがもし、ルアの予告した災厄だとしたら、どうだろう? 実際、その可能性は高い。彼女……女性的な声に聞こえたからそう判断するのだが……はナシュガズにいた。ケッセンドゥリアンのことに言及するくらいだから、イーヴォ・ルーと深い関係がある何者かであることだけは間違いない。そしてパッシャもまた、そうだ。ついでに言えば、ルアがこのパッシャの行動について詳細を説明できなかったのも、そう考えると符合する。何らか、神の不自由に縛られているからだ。
これが正しいとすれば、パッシャは使徒にも睨まれていることになる。無論、龍神も敵、帝都をはじめとした世界秩序もすべて敵。あらゆる陣営から敵視されているのだ。あのザンでさえ、相手がパッシャとなれば、さすがに俺達に助力する可能性が高い。負ける要素など、ないのではないか?
だからこそ、不安で仕方ないのだ。
俺でさえなんとかできそうなパッシャの幹部どもが、今更どんな脅威になるのか。使徒が動かなければいけないほどの重大事なのか。まだ何か、想定しきれない危険があるのではないか。
しかし、むしろそうであればこそ、やらなければいけない気がする。全世界と敵対してなお勝算ありとするパッシャの思惑こそが、真の脅威なのに違いないのだから。
「……わかりました」
俺は、震える声でそう答えた。
いつになく不安そうな俺にノーラが気付いて、ハッとした顔でこちらを見た。
「時間が惜しいです。金獅子軍団の兵は、私がなんとしても黙らせます。それでも駄目なら、蹴散らしても構いません。責任はすべて私が取ります。王宮まで直行しましょう」
俺達がシェフリ家を出た頃には、また空が曇り始めていた。陽光は分厚い暗雲の狭間から差し込んでくるのだが、地表は夕暮れ時のように薄暗かった。白く塗られた家々の壁も、どこか赤みを帯びた灰色に染まっているように見えた。
「……ファルス」
シャルトゥノーマが小さく呟いた。
「こんな揉め事に首を突っ込む必要があるのか」
「僕も迷った」
俺も小声で返事をする。
「でも、逃げるわけにはいかない気がする」
「なぜだ。こいつらの問題じゃないか。キースとかいう奴の言う通りだ」
俺は少しだけ考えて、言った。
「ここで活躍すれば、ルーの種族の安全を確保できるとしたら?」
「なに?」
「ポロルカ王国が、大森林の亜人の国を承認してくれるかもしれない」
彼女は顔を顰めた。
「お前はそのために戦うのか? 違うだろう?」
「もちろん、僕には僕の考えがある。でも、利益を欲しているわけじゃない。これを見過ごしたら、本当に大変なことになるんじゃないかって恐れているから、やるんだ」
「ふん」
彼女が不満を抱くのもわかる。だが、今しばらくは堪えて欲しいところだ。
そう思っていると、横合いからディエドラが口を挟んだ。
「あまりファルスをコマらせるな」
意外と物分かりのいい彼女に助けられてしまった。
「こういうワケのわからないコトもフクめて、ゼンブ、ソトのセカイのベンキョウだ」
「わかっている」
まだ不満げながら、シャルトゥノーマもそれで口を噤んだ。
一方、前を歩くジョイスが、さっきから左右を見渡している。透視能力のある彼のことだ。何か気になるものが見えているのだろうか?
「どうした、ジョイス」
「いや……」
だが、彼は釈然としない様子で、説明をやめた。
「人気がありませんね」
ビルムラールが端的に言った。
そうだ。空は暗いが、既に時刻は朝。そろそろ朝食を済ませた街の人々が通りに出て、仕事に取り掛かる頃だ。なのに、路上には露店もないし、仕事場に急ぐ人々の姿も見えない。水売りやパンの売り子が天秤棒を担いでいたりもしない。
「この辺、どうなってんだ」
やっとジョイスは言った。
「どこもかしこも、もぬけの殻だぞ?」
「家の中に誰もいないのか」
「ガキンチョすらいやがらねぇ。どういうこった」
いないのは、住民だけではない。そういえば、俺達を追いかけていたはずの金獅子軍団の兵士も見当たらない。
もしかすると、既に何かが起きてしまった後、ということはないのだろうか。
「考えても仕方ねぇだろ。王宮はもうちょい先だ。とっとと行って、とっとと済ませるぞ」
キースがそう締めくくった。
しばらく先に進むと、ようやく王宮の尖塔が間近に見えてきた。まるで蝋燭の火のような形をしたその頂点は、金色に彩られているのだが、それが今はやけに赤く見える。
そこまで辿り着いた時点で、不意にジョイスが立ち止まった。と同時に、大地を揺るがすような怒号がここまで聞こえてきた。
「なんだ」
「ありゃあ、何やってんだ」
彼が指差した先には、土埃が巻き上がっていた。ここからでは遠く、小さくしか見えないが、明らかに王宮のすぐ傍で何者かが争っている。それも少数ではない。大勢の人間が起こした、これは……
「暴動だと?」
ヒランが眉根を寄せて前方を凝視した。
彼の言う通り、暴動としか言いようがなかった。迎え撃っているのは王宮を守護する第一軍団の兵士達だが、それに立ち向かっているのは、普段着の市民だ。それも、男も女もいる。少年から老人まで、入り混じっている。手にしている武器もいろいろで、中にはまったく意味をなさないような代物を握りしめていることもあった。商売道具と思しき金槌や包丁などはまだマシで、仕立て屋が使うような定規や鋏を手にしているのもいる。
ただ、その暴徒達の士気は極めて高いようで、既にここからでも数人が血塗れになって地面に転がっているのが見えるのに、まるで一切目に入らないかのように前へ前へと押し寄せている。まったく怯む様子のない群衆に、平和ボケした兵士達では対応が追いつかず、少しずつ後退させられているありさまだった。
「軍が押されているのはいいとして」
フィラックは、戸惑いながらも原因を考えた。
「ノーラ、精神操作魔術というのは、ここまでのことができるのか? 昨日まで普通に暮らしていた人達が、いきなりこんな真似をするとは思えない」
「それは」
できなくはない。俺は実際にこういう魔法を目にしている。グルービーは、専用の魔法陣を用いてコラプトの市民を支配した。ただ、それと比べても、なお規模が桁違いな気はする。すぐ目の前だけでなく、もっと遠く、向こう側からも土埃があがっている。多分、王宮の周囲には無数の市民が押し寄せてきている。多分、数万人が動員されている。本当にこれは、魔法だけの力だろうか?
「わからない……」
「できるとは思う。だけど、ちょっとやそっとでは無理だ」
シャルトゥノーマも頷いた。
「ペルィの魔法でも、これだけの人数を一度に操るなど、考えにくい。よほど何か下準備でもなければ、こうはいかないはずだ」
といって、一般市民が急に立ち上がるような状況があったとも考えにくい。なるほど、貧富の差は確かにある社会だが、ケナランだって自分の居場所を実感していたのだ。不満を持つ一部の人々はいたにせよ、これほどの人数が反逆するほどの何かがあったようには思われない。
原因究明は後だ。こうなると王族の命すら、どうなるかわかったものじゃない。金獅子軍団の一部がいるだけなので、頭数が圧倒的に足りていないのだ。既に王宮の壁のあちこちに梯子をかけて、乗り越えようとしているのもいる。入り組んだ王宮の廊下を、暴徒達が自由に走り回るような状況になったら、さすがにどうしようもなくなる。
ヒランが迂回せよと横に手を振った。
「やむを得ん。目立たないところから壁を乗り越える。皆、こちらへ」
衝突の起きている門を避けて、俺達は近くに人影の見えない一角に向かった。壁の前には芝生が広がっているが、ヒランはそこに一粒の丸薬を投げ落とし、何事かを呟き始めた。と、見る間に土が盛り上がり、壁の高さにまで届くスロープになった。
「さ、早く」
俺達が登りきると、今度はビルムラールが、この入口を暴徒に利用されないよう、別の丸薬を落として詠唱した。見る間に土は凹み出し、さっきと同じ高さに引っ込んだ。もっとも芝生は荒れてしまったのだが。
突然の暴動に頭数が割かれているせいか、宮殿の中も閑散としていた。
「どこを目指しますか」
「中心部だ。できればイーク殿下に直接お会いして、一切を説明申し上げねば」
楼閣連なる中を駆け抜ける。道を知るヒランは、いつか俺達がティーン王子に招かれた、あの列柱の宮殿を見て、そちらを指差した。
古い大木の数々を柱に仕立てた薄暗い宮殿をまっすぐに走り抜ける。そこを通り抜けると、急に広々とした石畳の空間に出た。右手は宮殿の正門、左手にあるのが白亜の政庁、つまり謁見の間だ。石柱に支えられた重厚なその建物は、薄暗い空の下でなお白かった。
もし、この非常事態をイーク王太子が把握していて指揮を執っているのなら、あそこに内府の官僚を集めているはずだ。だが、赤黒い空の下に佇む政庁には、不思議と人の気配がなかった。石畳の上を走る俺達の足音ばかりが耳につく。
謁見の間の階段を駆け上がったところで、それは確信に変わった。照明の一つもない。純白の建物の奥は、暗い闇に包まれていた。
「ビルムラール」
「はい」
手持ちの触媒を取り出して手早く詠唱すると、彼の掌の上に青白い光球が生じた。それが目前の広間を照らした。
そこには誰もいなかった。床の上の彼を除いては。
「おぉ」
嘆息するだけで、ヒランは言葉を発することができなかった。
その男の表情は、恐怖に歪んでいた。きっと苦しみ抜いたに違いなかった。けれどももう、二度と口をきくことはない。
ティーン王子は、首だけになって謁見の間の中心に置き去りにされていたのだ。




