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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十五章 南海の暗雲
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見敵必殺

 空には分厚く雲がかかっていて、星明りもほとんどない。まるで黒い幕がかかっているかのようだ。だが、そこにポツポツと赤い点が浮かび上がって見える。遠くから怒号が聞こえてくる。数千人もの兵士が、王宮に忍び込んでノーラを引っ張り出した俺達を追跡しているのだ。

 流れのない濃密な南国の夜の空気が、汗ばんだ俺達の肌にへばりつく。ここまでは走って逃げてきたが、これ以上は難しい。クーやラピの体力もあるが、タウルにしても、ずっとノーラを背負ってきたのだ。といって宿に引き返すのも悪手だろう。シェフリ家に直進するのも駄目だ。そのうち金獅子軍団の連中が乗り込んできて、結局また暴れることになる。


「ファルス、このままじゃダメだ」


 タウルが苦しげに声をあげる。


「もう、歩けるから、降ろして」

「走るのは無理。気にするな」


 傷口は塞がり、話すこともできるが、まだ回復しきってはいない。

 一方、ジョイスはじっと足下を見ていた。


「どうした」

「別の逃げ道があるかもしれねぇな」


 何かを見つけたらしい。


「こっちだ。うまく隠れられるかもしんねぇ」


 俺達は王宮からまっすぐ南、運河のある方へと走っていった。

 暗がりの中、石の下り階段の前で立ち止まる。そこで速度を落とし、足を挫かないよう、速足ながら慎重に降りていった。


「よし、このロープを括りつけろ。ファルス、お前が先頭だ。タウルは最後」


 なんとなく狙いがわかってきた。俺達は言われるままにロープを数珠つなぎにした。


「そこ、運河の脇に排水口がある。柵と蓋を横に外して、入り込め」


 市民が身を清めるのに使うこの運河。基本はナディー川の上流側の水門で水量調節されているが、大雨などがあれば水位は変動する。最悪の場合、市街地が冠水する危険もあるので、その場合は排水機能を最大限活用する必要がある。そのための排水口が、運河の脇にいくつか用意されているのだ。無論、普段は閉鎖されている。こんなところに口を開けたままでは、引き込まれて溺死する人が続出するだろう。


「溺れそうだな」

「だからいちいち結んだんじゃねぇか」


 あとは、俺の身体能力に期待して、か。


「少し行けば、這い上がれるとこがある。そこまで行ったら、俺達を引っ張れ」

「わかった」


 俺を結んだロープを掴んだまま、ジョイス達は下流側に身を置いた。排水口を開いた瞬間、俺が一気にその向こう側に押し流されるだろうからだ。


「いくぞ」


 暗がりの中、俺は手探りで金属の蓋を引き開けた。その瞬間、物凄い力で背中を突き飛ばされたようになって、まったく立っていられなくなった。一瞬の浮遊感の後、俺はどちらが上で下かの感覚も失った。それが、胸を締め付けるロープの圧力で我に返る。

 肩まで水に浸かった状態で、横の壁に手をつきながら、俺はなるべく少しずつ進んだ。何も見えないが、あるところで水の流れが急に左向きになったのがわかった。と同時に、正面方向が行き止まりになっていた。

 俺はその石の壁をペタペタ触りながら、手掛かりを探した。腕を伸ばしきったところで、指が上にかかるのを感じた。懸垂の要領で、ぐっと体を上に引き上げる。そこから這いずりながら、なんとか排水口の内側の、乾いた足場に辿り着いた。


「いいぞ!」


 そこからは一人ずつこちらにやってきた。それを俺が引っ張り上げるだけだ。

 最後にタウルが、後ろ手で蓋を閉じて、こちらにやってきた。


「しんどいな」

「きついけど、もう少し奥に行こう。気付かれたら、すぐ見つかってしまう」


 俺達は、ひんやりとした石の壁に右手を添えながら、慎重に奥へと進んだ。そうして、いくつかの角を曲がりながら、街の下のどこかに身を落ち着けた。


「あの、この辺にしませんか?」


 クーが遠慮がちに言った。


「ん? なんでだよ」

「ここ、下水ですよ? 今の時間は川の水がそのまま流れているだけだからいいですが、夜が明けたら……」


 汚水が大量に入り混じる、か。そうなったらここも、大変にかぐわしい場所になる。


「少し休むか」


 俺達はやっと腰を下ろした。ラピが小さくくしゃみをした。


「まず、最初にやらないといけないことがある」

「なんだ?」

「クー、疲れてるだろうけど、ペルジャラナンに連絡してくれ。夜のうちでないと、フィラック達が逃げられない。もう先にシェフリ家に行って身を隠すようにと。それと、家人を使いにして、この件をワングやフリュミーさんにも伝える必要がある」


 ノーラ奪還作戦は、ある意味失敗だ。当局にマークされずに船を取り返して出国する、というつもりだったのだから。先に大騒ぎになってしまったのでは、逃げ切るのも難しい。

 だが、もうそういう段階ではなくなっている気もする。俺達が逃げ出せば、それで問題は解決するのか?


「これからどうする」


 タウルの問いに、俺も俯いた。


「無理やりでも出国するつもり、だった」


 ノーラが尋ねる。


「どういうこと? むしろこうなったらもう、逃げるしかないじゃない」

「多分、逃げられないし、逃げてはいけない。いや、みんなには逃げて欲しいんだけど」


 これまで起きたことを整理する。


「この国に来てからのことを最初から思い返してみると」


 俺はコーヒー豆の権利を手にするために、ラージュドゥハーニーまでやってきた。ところが、ポロルカ王国では先王が死去したばかりで、手続きの一切が滞ったまま。新王の即位のために儀式を執り行う必要があったのだが、ブイープ島には近寄れない状況だった。なぜなら、そこには青竜が居着いていたからだ。

 この青竜には、名前がつけられていた。つまり、誰かに操られていた可能性が高い。俺は当初、これをポロルカ王国内部の権力闘争に由来するものだろうと考えて、関わり合いを避けていた。


「あの青竜、人に操られていた可能性が高いんだ」

「はい?」

「もちろん、そんなことができるのは、ごく一部だ。でも、前に竜を操る力がある奴を見たことがある。この中だと、ノーラしか知らないけど」

「人形の迷宮のレヴィトゥアね」


 思えば、彼も人間の限界を超えた存在だった。恐らくは精霊魔術の影響下にあって、強大な魔力を操ることができていた。それに竜を使役するという、非常に高水準での魔獣使役をこなしていた。


「いくらポロルカ王国が魔術の盛んな国だとしても、あんな風に竜を操るような何者かが、その辺にいていいわけがない。もともとイーク王子とティーン王子が、次代の王の地位を巡って競っていたから、その関係かと思ったけど、それがそもそもの間違いだったのかもしれない」

「では、何が目的なんですか?」

「クー、それはわからないんだ」


 レヴィトゥアの有していた力も、よくよく思い出せば、世俗の王が従える魔術師のそれを遥かに凌駕していた。もし青竜を自在に支配できるような誰かがいたとしたら、その気になれば、真珠の首飾りの覇権を握るのだって難しくはなかっただろうに。そんな有力者が、どうしてこんな消極的な動きをするのだろうか。

 ただ、素朴な理解をするとすれば、つまり、イーク王子の即位を妨げていた。青竜を操る何者かには、そうすることにメリットがあったのだ。


「でも、ファルス様。青竜を操るって、相当に凄いことですよね」

「もちろん」

「そんな力のある誰かが、どうしてそんな回りくどいことをするんですか」


 わからないが、そのまま考察を続ける。

 その後、俺達は主としてキースの活躍もあって、王家の客になる。だが、それは俺を警戒する何者かにとって、ポロルカ王国への訪問を悟らせる契機となってしまった。


「多分、誰かが僕を遠ざけようとしたんだ。それでバグワンを使った」

「でも、おかしいわ。それなら毒なんか入れなければいいのに」

「そこなんだ。何もしなければ、僕はあそこでズルズルと時間を潰していたに違いないのに、誰かが余計なことをした」


 だが、バグワンを使ったということは、その誰かはバグワンに命令できる立場だったということだ。


「じゃあ、ティーン王子が?」

「ラピ、そう簡単な話じゃないんだ。ティーン王子が僕を足止めする理由なんかない。それに、だったらどうしてバグワンを殺したんだってことになる。もっとも、バグワンを殺したのと、僕を足止めしようとしたのが別人の可能性もあるけど……でも、殺すことで僕を牢獄に閉じ込めたんだから」

「ややっこしいな?」


 重複している可能性も考慮に入れつつ、あらゆるプレイヤーを列挙すると、こうなる。


 青竜をブイープ島に配置した何者か。

 バグワンに指示して俺の足止めをさせた誰か。

 俺を毒殺しようとした人物。

 バグワンの毒殺を命じた黒幕。

 ノーラを襲った黒装束の暗殺者。

 その後、解毒薬を持ってきてすぐ去った謎の人物。

 そして……


「そして、無視できない人間があと一人」

「イーグー?」

「そう」


 俺は頷いた。


「最初にストゥルンと一緒に、あの木にできる豆を僕に教えたのは、あいつだ。あれに食いつくとわかっていたから、わざと持ってきたんだ」

「でも、待って。ならどうして、イーグーは最初からそう言わなかったの? 助けてくれって」

「わからない。でも、もしかすると、言いようがなかったのかもしれない」

「言いようがない?」

「事実を正確に知らない状態で、僕をここに連れてきた」


 この指摘に、クーが噛みついた。


「それはおかしいです。目的があって行動するんでしょう? ファルス様に助けて欲しい、或いは利用したい。何をさせるかを決めてから、ファルス様を連れてくる。当たり前じゃないですか」

「イーグー自身が自分で考えて決めているのなら、そうだな」

「えっ……ああっ!」


 このやり取りに、ラピが混乱しだした。


「ね、ねぇ、何を言ってるのか、さっぱりわからないよ」


 クーは振り返って説明した。


「こういうことですよね? つまり、イーグーさんは、ファルス様をポロルカ王国に連れてくるよう、誰かから命じられた。でも、どんな目的でそうするのかは、最後の最後まで教えてもらえなかった」


 使徒なら、それくらいはやる。

 部下を大事にするような奴だろうか?


「だから、何時間か前に、ブイープ島の上で戦ったんだろう。覚えてるか、あの夜空の光」

「ファルス、イーグーがとんでもない魔法使いだということを言っていたが、それは本当なのか」


 タウルが疑問を呈した。

 今までイーグーは目に見える形では実力を発揮していなかった。だから腑に落ちないのだろう。


「それは間違いない。わからないようにしながら、いろんなところで魔法を使っていた。ペダラマンの班の連中が、あのサルを槍で撃ち落とした夜のことを覚えているか。イーグーは、ラピを庇ってしゃがみ込んだけど、その時にこっそり魔法の矢を放ってコウモリを殺していた。僕が緑竜と戦った時もそう。あれを落とし穴に沈めたのは多分、イーグーだ」


 そう仮定すると、青竜をブイープ島に配置したのも使徒である可能性が高まってくる。なぜなら、使徒は充分な能力を有してはいるが、表舞台には出られない。もしくは出たくない。

 そして、ルアの予告した災厄が始まろうとしていると想定するなら、辻褄が合ってきてしまう。


「もしそうだったとしたら、青竜を殺したのは間違いだったんだ。あれは、何者かがブイープ島に渡るのを防ぐために置かれたものだったから」


 だが、恐らく使徒なのだろうが……その誰かは、その事実を誰にも共有しなかった。なぜか?

 実に奴らしい。あいつは、俺がしくじるところを見たいのだ。


 もし、俺が辿り着く前に今回の黒幕が目的を果たしたとしたら、どうなるだろう? 大勢の人が死ぬかもしれない。でもそれは、俺がいないところで起きた事件だ。コーヒー豆なんか発見せず、アリュノーから北上してキトに到着し、シックティルとお茶を飲んでいる最中に、ポロルカ王国での大事件を聞き知る。多分、さほどの衝撃も受けないし、責任感も罪悪感も何も湧いてこない。

 といって、予め俺に全ての情報を提供し、ポロルカ王国を救えと言うだろうか? 言われたからといって、別に俺にそんな役目を果たす義理はないのだが、知ってしまったら無視はできない気もする。どちらかといえば敵同然の使徒が、今回ばかりは可能な範囲でバックアップしてくれて、人命を救うために存分に働けといってくれる夢のようなシチュエーションだ。ましてやイーグーのような有能な部下まで貸してくれるとなれば、余程厄介な問題でもない限り、解決できてしまうだろう。

 そして、解決してしまったら、流血がない。誰も死なない。誰も絶望しない。それでは面白くないのだ。だから、こういう微妙な力加減をしようとする。


「でも、待てよ。それじゃあ肝心のことがわかんねぇ」


 頭をガリガリ掻きながら、ジョイスが尋ねた。


「イーグーは足りねぇ情報もらってお前をここまで連れてきた。イーグーの親玉は全部知ってる。それはいいとして、じゃあ、イーグーは誰の何を食い止めようとしたんだ? 青竜まで島に配置して、何を邪魔したんだ?」


 それはもう、おおよそ見えてきている。


「その手掛かりはもう、ある。ラピ、ノーラを襲った黒づくめは、どこから出てきた?」

「あっ、あの、ごめんなさい」

「いい。防げるようなものじゃなかったんだろう。タウル」

「よくわからないが、ラピの足下から急に黒いのが浮かんで出てきたように見えた」


 頷くと、俺は質問を重ねた。


「その後、別の黒づくめが来て、解毒剤を置いていったと言ったな」

「は、はい」

「なんと言っていた?」


 普通に考えて、黒づくめの何者かがやってきて、傷ついたノーラを見て、意識もない状態なのに解毒剤を置いていく……あり得ないことだ。

 ノーラが簡単に死なないことを、タウルは知っている。フマルの騎兵部隊との激突があった時に、重傷を負ったのになぜか死ななかったのを目撃しているから。


「その人がタウルさんに言ったんです。傷では死ななくても、毒で死ぬかもしれない。解毒剤は渡すが、早くファルスを呼んでこい、と」


 それでもタウルは混乱していた。怪しい何者かが、解毒剤だといってガラス瓶を差し出してくるのだ。


「それと、わけのわからないことも言ってました。知らないこととはいえ、済まなかった、これで借りを返す、とか」


 曖昧ながら、ある程度の答え合わせは済んでいる。


「ノーラ、影の中から姿を現したやつのことを覚えているか」

「えっと」

「スーディアで見ただろう? 確か」


 その時、不意に一条の光が俺達を照らし出した。


「そう、それは多分、マバディだ。よく覚えていたね」


 横合いからの声に、俺達は跳ね起きた。


「考えておいてくれたかな、ファルス」


 聞き覚えのある声。いつもどこか余裕のある口調で、なんというか、見た目の割に若々しさもないのに、歳を重ねた人間のような深みもない。非人間的な何かをいつも感じるのだ。

 この南国でも、彼の服装に変化はなかった。つばの広い帽子をかぶっていて、黒竜のコートを身に纏っている。手袋もブーツもつけたまま。さすがに暑くはないのか?


「アーウィン!」

「そこの少女を除けば、あとはみんな、はじめまして」


 これで確定した。

 やはりパッシャが動いているのだ。その手はいまや、ポロルカ王家のすぐ近くにまで迫っている。


「なかなか面白い手駒を連れていたようだね」

「なに?」

「さすがに手強かったよ。説得に応じてくれなかったから、あれは仕方なかった」


 では、イーグーを……倒した?

 あり得なくはないが。


「本当に忙しい夜だ。でも、仕方ない。それでファルス、返事を聞きたい」

「何のことかわからない」

「忘れっぽいみたいだから、それならもう一度言うよ。組織の一員になってくれないか」


 冗談じゃない。

 今となっては、そんな選択肢があるはずもない。そもそも現段階からパッシャのメンバーになったら、龍神どころか、使徒からも狙われかねないのに。


「あり得ない」

「そうか。なら、決着をつけよう。残念だよ」


 無表情、いや、うっすらと笑みを浮かべたまま、彼は腰の剣を抜いて、そして……

 それを取り落とした。


「あっ、れ?」


 アーウィンには似合わない、間抜けな声が漏れた。表情は変わらないままに。

 右手が、服の袖ごと、消えていた。


「これは、どういう」


 それ以上、声にならなかった。頭部が溶けて消滅したから。

 そのまま黒いコートも、胴体も、左腕につけていた腕輪も、纏めて塵になっていく。


「ノーラ」

「逃げて!」


 何をしたか、わからない俺ではない。


「みんな、息を止めて走れ! ここから遠ざかるぞ!」


 最悪の魔法、黒竜の災厄そのものである『腐蝕』を用いたのだ。

 恐らく『変性毒』ではアーウィンを倒せなかったから。詠唱なしに、ノーラはずっと攻撃を浴びせていたのだ。それも無理はない。アーウィンの手強さは、スーディアでいやというほど見せつけられた。ここが使いどころと思い切ったのだ。

 ただ、この魔法には恐ろしい副作用がある。消し去る物体の量に応じて、汚染が周囲に撒き散らされるのだ。グズグズしていたら、俺達も一緒に死んでしまう。


 わけがわからず硬直する他の四人の背中を乱暴に叩くと、俺は先頭切って走り出した。

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― 新着の感想 ―
アーウィン死んだ死んだ次のことを考えよう! それはともかく変成毒がきかないってどういうことだろう? 腐食自体に耐性があるからじゃぶじゃぶ浴びせないといけなかったということかな
[良い点] 勝ったなガハハ いやあ、アーウィンは強敵でしたね 腐食を浴びて生き残った者はいない もう二度と現れまい アーウィンが死んだら俺結婚するんだ(?)
[良い点] やはりパッシャが動いているのだ。その手はいまや、ポロルカ王家のすぐ近くにまで迫っている。 パッ社ってだいぶグローバルに活動していますね。 結構な数の国や勢力の中枢に潜り込んでますし。 […
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