黒い毒牙と解毒剤
「いけるはずです」
「下手をしたら打ち首……ですね」
夜の湿った空気。そこに熱を帯びた俺達の吐息が混じる。
点々と灯された篝火に照らされて、王宮を囲む高い壁が見える。その前には一定間隔で衛兵が槍を手に立っている。
弱兵揃いのポロルカ王国とはいえ、金獅子軍団の中の選り抜きが、宮殿を守護する任務に当たっているのだ。無論、選抜された兵士がそこまで強いかといえば、そんなことはない。ついこの前まで戦争をしていたサハリア兵よりずっと劣るだろう。ただ、職務への責任感だけはある。だから普通に待っていても居眠りなんかしてくれないし、買収だってできない。魔術によるか、倒してしまうかでなければ、王宮の壁にとりつくなど不可能だ。
たった今、クーとラピが目の前の兵士の意識を混乱させた。俺達が目の前を素通りしても、何も言ってこない。
「ビビってもしょうがねぇだろ。ほら、縄貸せ」
ジョイスが前に出た。壁歩きの神通力があるおかげで、こういう場合には便利だ。目の前の壁は隙間なく石を積み上げた代物で、表面はすべすべしている。これに取りついて這い上がるとなったら、相当に大変だったはずだ。
予めロープには一定間隔で結び目を作ってある。これで体力のないクーやラピも、手を滑らせずに壁を登ることができる。最後尾の俺が壁の上から暗い庭の地面に降り立つと同時に、ロープも巻き取られた。帰りもこの壁を乗り越えていきたい。その時にはノーラがいるから、兵士を眩惑するのもより簡単になるだろう。
一切がうまくいけば、だが。
「ついてこい。ここからは声を出すな」
タウルが先頭に立った。腰を落とし、植え込みの間を這うようにして進む。見事なものだ。足下の落ち葉や草を踏んでも、ほとんど音をたてない。周囲の様子を窺うために動きを止めることもある。木々を盾にして通路の方を覗き見るのだが、彼は決して上から頭を出すような間抜けをしなかった。横からそっと向こうを眺めやる。
王宮の敷地は広い。一晩中、全域を見張り続けるなんてできない。だから、異状がないかを確かめるため、定期的に兵士達が巡回する。
今、俺達は王宮の南側から侵入した。門を除けばそちら側は緑の木々に覆われているが、少し先に進むと、そこは石畳の広い通路に置き換わる。
先行するタウルが黙って腕を差し伸べ、下に向ける。俺達は一斉に伏せた。規則正しい足音が迫り来て、また去っていく。
この石畳から先は、魔法はなるべく使わない。ノーラが王宮を出ようとしたときに兵士が殺到していたのが、この辺だ。統一時代から一度も侵略を受けず、破壊されなかった宮殿だ。その頃、魔法は今よりずっと広く用いられていたし、その費用は安価、技術は高度だった。だから警報装置が作られた。今もそれが生きていて、この王宮を魔術から守っているらしい。この辺は、ビルムラールから聞いた話だという。
通路に誰もいないことを確かめると、タウルはまっすぐ立ち、堂々と石畳の上を歩いた。意図を悟ると、俺も同じようにまっすぐに立ち、身を縮めるクーやラピの背中を軽く叩いた。
この暗さだ。一瞬で俺達を見分けられる衛兵など、そうはいないだろう。ごく自然な様子で歩いていれば、下働きの誰かだと思ってもらえるかもしれない。
これが隠密ということなのだ。ただ隠れればいいのではない。大事なのは、景色の中に溶け込むこと。それをタウルはよく承知していた。
とはいえ、この先に二つ目の壁がある。あの門を正面突破するのは難しい。今度は魔術にも頼れない。
あの壁の向こうが、本当の王宮だ。目の前に大きな黒い断崖絶壁が聳えているが、あの上の方にあるのが、前に第二王子ドゥサラと面会した宮殿だ。
俺達は横に逸れ、城壁が塔のように迫り出しているところを見つけて、その物陰に滑り込んだ。
他に作戦はない。この壁をもう一度、さっきと同じやり方で乗り越える。但し、行くのはタウルとラピだけ。ラピの服装は、宮殿で働く下級の侍女と同じようなものにしてある。タウルは、同じく下働きの男という顔をしてついていく。ノーラと合流したら、この地点まで戻ってくる。
そしてそれまでの間、俺とクー、そしてジョイスはこの場に居残る。魔術で身を隠すこともできない状態で。だから、いかに早くノーラと合流するかが問題だ。それならここまで来なければいいということなのだが、そうはいかない。タウルとラピがしくじった場合にカバーが利かなくなるからだ。
そうして、俺達はしばらくその場で待った。
立ち止まって見ると、音もなく静かに空気が流れているのが感じられた。いや、感じてしまうのだ。まるで落ち着けない。俺自身が現場に行けないことが、こんなに心細いとは。
大丈夫、難しいことはない、ノーラも今夜王宮から出ることは承知している、そのために動き出してもいるはずだ……
「大変です」
不意にクーが声を出した。ジョイスが反射的に黙らせようとして、すぐ口を噤む。
ラピからの通信を受け取ったということなのだ。つまり、ノーラ救出の途中でトラブルが起きた。
「何があった」
「ノーラさんが、何者かに襲われました。刃での一撃を首に受けて、大量の血を流していると……」
震える声で、クーはなんとかそう言った。
俺とジョイスは目を見合わせた。
「行くぞ」
ノーラには治癒能力を付与してある。ちょっとやそっとのダメージでは死なないはずだ。だが、最悪の場合も考えられる。
それより、奇妙なのはその状況だ。ノーラは脱出に際して黒竜のコートを身に着けているはずだし、使徒がくれたあの蝶の髪飾りも手放したりはしていないだろう。つまり、正面から襲いかかったのであれば、たとえそれなりの達人であろうとも、彼女を倒すなどできっこないのだ。つまり、奇襲に成功したということなのだろうが、仮にも宮殿の中で、どうやって?
ジョイスは壁を駆け上がり、ロープを垂らした。その間に俺は自身の身体強化を済ませ、クーを小脇に抱えた。
「掴まれ」
「は、はい」
のんびりやっている余裕はない。全力で上まで這い上がると、俺はそのまま、足下へと飛び降りた。ジョイスも続いて、壁を伝って降りてきた。
「どっちだ」
「こっちです」
「ジョイス、悪いけど、クーを運んでくれ。倒すのはこっちでやる」
ノーラが致命傷を負っていた場合で、かつまだ死んでいなかった場合、どうするか? 種から適当な肉体を取り出して、彼女の肉体と入れ替える。そうすれば、一時的に死を免れることができる。
「教えてくれ」
走りながら、俺は振り向きもせずに言った。
「ノーラを襲った奴は、どこにいる? まさかまだタウルとラピが相手取ってるなんてことはないだろう」
「は、はい。すぐに宮殿の奥に逃げ去った、ようですが」
攻撃の意志を見せた時点で、普通は『変性毒』の餌食だ。だから、よっぽど巧妙な奇襲を仕掛けたに違いなく、それができるほどの手練れであれば、タウルやラピも助かるはずがない。だが、そいつは二人を始末せずに、宮殿の奥に向かった。
奇妙に人通りがなかった。異変に気付いた警備兵も駆けつけてこなかったし、使用人も出歩いていない。真夜中という時間帯を考えれば無理もないのだが、どうにも引っかかった。
「あっ」
「どうした」
「また誰か、別の黒づくめのが来たって」
新手か。
気ばかりが急いてくる。
「えっ?」
クーがラピからの報告を受けて、混乱している。
「細かいこたぁいい、どっちだ!」
ジョイスが苛立ちながら叫んだ。
「あっ、すみません、このまままっすぐ……ノーラさんが、意識を取り戻したみたいです」
相当なダメージは負ったが、少しずつ回復しつつある、か。朗報だ。
「そこを右」
白い壁の向こうにあったのは、半屋外の小部屋だった。宮殿の足場になる岩山と岩山の間を結ぶ渡り廊下に拵えられた、空中の東屋といったところか。冷たい風のよく通る場所だった。部屋の四隅には覆いのかけられた燭台が置かれてあり、そこからオレンジ色の光が漏れていた。
ここでノーラとタウルは待ち合わせていた。だが、ラピがノーラに駆け寄った瞬間、その背後の影から、急に黒づくめの何者かが飛び出してきた。誰も反応できず、ノーラはまともに一撃を受けてしまった。広い部屋の中、真ん中にテーブルと椅子が置かれているだけで、隠れる場所などなかった。だからタウルもまったく気付けず、どうすることもできなかった。
ラピが足音に驚いて身を縮め、それから俺とわかると、目元に涙を浮かべた。
「ファルス様……」
「気にするな。それよりノーラは」
「……ファ、ル……」
かすれ声だ。話すのもつらいらしい。これは、動かしていいのか?
ノーラは相変わらず床に横たわったまま。クリーム色の床は、彼女の夥しい出血によって、赤黒い水溜まりになってしまっていた。
「傷は」
彼女の横にしゃがみ込んで、確かめた。表面上は塞がっている。
「あ、あの」
「なんだ」
「さっきの人が、解毒剤だって」
ラピはガラス瓶を手にしたまま、棒立ちになっている。
見知らぬ人物から手渡された薬をノーラに使うなど、できなかったのだろう。
とすると、こういうことか?
ラピとタウルがノーラと合流した。その瞬間、謎の黒づくめがいきなり現れて、ノーラを襲った。重傷を負ったノーラは昏倒したが、しばらくして別の黒づくめがやってきて、解毒剤を置いていった。その後、ノーラは意識を取り戻した。『魔導治癒』は負傷からの急速な回復を齎すものの、俺自身がハビにやられた経験からも言えるのだが、毒その他の悪影響があると、著しくその効果が損なわれる。
だが、奇妙だ。どうしてそう都合よく解毒剤を持った誰かがやってきた? ノーラを助ける理由は?
今、考えることじゃない。それより、一刻も早くここを離れなくては。
昨夜、ネズミに化けてから既に丸一日が経過している。
俺はバクシアの種から『病毒耐性』の能力を取り出して、ノーラに移植した。
「タウル、ノーラを運んで欲しい」
「済まない」
「いい。とにかく脱出しよう」
ラピの報告からすれば、その謎の暗殺者は、無の空間から突然現れたことになる。それを防げなかったからといって、タウルの失態とするのは無茶だろう。それに、責任追及より先にするべきことがある。
だが……
「気付かれました」
クーが青ざめながら言った。
「普通の衛兵くらい、なんとでもなる。ジョイス、後ろからの奇襲だけ防いでくれればいい。あとはみんな、僕についてきてくれ」
曲がり角の向こうから、槍を手にした兵士が三人、顔を見せた。
「なんだ、こいつらは」
「侵入者だ!」
口々に叫ぶ。遅い。
せっかく長い得物を持っているのに。驚いているその時間が無駄だ。
俺は地面すれすれにまで前傾しながら、前へと飛び出した。たったの一足で手の届く距離になる。体を跳ね上げながら掌を彼らの顎に打ち上げる。残った一人が慌てて槍を振りかぶろうとするが、それより先にその場で跳び上がり、身を翻して放った後ろ回し蹴りが彼の顎先を吹っ飛ばしていた。
「急げ」
手加減はしている。兵士に罪はない。なるべくなら殺したくない。だが、状況が悪化すればそうも言っていられなくなる。
もう身を隠す意味もない。俺達はまっすぐ外に向かって走り出た。
宮殿の廊下を抜けると、そこには二つ目の城壁の前に立つ守衛達がいた。
「ファルス、どうする」
「突っ切る!」
さっき走りながら用意した黄緑色の鏃……『麻痺』の魔法を、守衛の一人に投擲した。それで彼は昏倒したのだが、残りの兵士が俺達に気付いて振り返った。三人くらい、問題ない。
そう思って俺が一人突出して駆け寄ったところ、連中の一人が小さな笛を取り出した。
「しまった!」
ピーッ! と甲高い音が、夜の空に鳴り響く。
逡巡しても仕方ない。こうなってしまったら、もう。開き直って、俺はそのまま猛然と突っかかり、三人を一瞬で打ちのめした。
「くっ……走れ! 正面から出る!」
どうしてこうなった?
いや、理由はだいたい見当がつく。誰かはわからないが、今回の件の黒幕は、俺をバグワンの屋敷に留めたり、牢獄に閉じ込めておいたりしたかった。だが、俺は脱出してしまった。そいつは俺が敵に回る可能性を考えて、攻撃を浴びせることで動きを封じようとしてきた。
まだ、いくつか推測を埋める部品が足りない気はするが、矛盾はしない。イーグーの単独行動からして、イレギュラーなのだ。彼の思惑通りであれば、俺達はその黒幕と対決する予定だったのではないか? 俺としてはとにかく逃げ出したかっただけなのだが、知らないうちに、そいつらに敵認定されていたのだ。
そうして俺達は、王宮の南門から強行突破することになった。




