離れ小島より花火を
階下の喧騒がここまで聞こえてくる。それと大きく開いた窓からは、ここからそう遠くないところにある運河の水門の、途切れることのない水音が聞こえてくる。
一階は酒場、二階から上が宿屋。古い石造りの建物だ。三階のこの部屋には、道路沿いに半円形の大きな窓がいくつも開いている。造りは悪くないのだが、今では決して上等な宿屋とはいえない。ここは一応、広めの個室だが、下は窓もない雑魚寝部屋だ。それもやむを得ないことで、低い位置に窓があると蚊が入ってくる。
古いせいなのか、掃除が行き届いていないのか、石の壁のあちこちが黒ずんでいるように見える。置かれた椅子やテーブルも、見るからに古びているし、ガタがきているのもあった。
「期待外れで済まない」
「仕方ない。むしろ、無理をしなくてよかった」
貿易を止めるわけにはいかないので、今日も船がラージュドゥハーニーから出航してはいる。ただ、乗員や乗客のチェックは厳しく行われているらしい。本来なら、フィラックは六人を連れてどこかの船に紛れ込んで、街から出るはずだった。
だが、渡りをつけたサハリア系商人達は、当局の監視の厳しさを繰り返し語って、彼を思いとどまらせた。
「多分、それが正解だったと思う。ポロルカ王国は、大っぴらに魔法を使う国だから、変装しても魔法を使っても、見抜かれる危険は小さくなかった」
「一応、商人二人くらいに、それぞれティズ様に宛てた手紙は託したが」
「藪蛇にならないといいけど」
フィラックの使命は、ティズの動きを止めること。だが、直接会って話をするのが難しいのなら、手紙を書くしかない。ファルスは出兵など望んでいないので、黙殺してくださいと伝えたはずだ。ただ、それを身内の窮状と考えるのが一般のサハリア人なので、むしろ話がややこしくなる危険もある。
「まぁ、それは仕方ない。それより、あとはノーラと合流したら、なんとか出国する」
残念だが、こうなってしまっては、コーヒーどころではない。
「やり方は考えてあるのか」
「都の南方のドックに、ワングの船が係留されているから、それを奪い返す」
「戦うのか」
「よっぽどの相手がいるのでもなければ、殺さずに制圧できると思う」
フィラックは首を振った。
「勝てるのはわかってる。だけど、すぐに船出できなければ、追手がかかる。風が吹かなければ、いや、帆が取り外されていたらどうする? モタモタしているうちに、軍隊が来るぞ? 殺す気でやれば、それだって勝てるんだろうが……」
虐殺をするつもりはない。
「それは考えがある。最悪の場合は、船を曳航する」
「曳航?」
「アテはある。それはなんとかなる」
青竜の肉体に乗り換えて、体にロープを巻き付ける。あとは水魔術を存分に活用すればいい。風があろうがなかろうが関係ない。
シャルトゥノーマが俯いたまま、乾いた声で尋ねた。
「ここを出て、どこへ行くつもりだ」
「いったんジャンヌゥボン、できればハリジョンへ。それから一度、ピュリスまで引き揚げるしかないと思う」
ただ、俺自身はティズに渡りをつけたら、一人でまたこちらに舞い戻るつもりだ。赤竜の肉体を使えば、すぐ飛んでいける。逆に、俺が無断で出発した場合、ノーラ達がいかに追いつこうとしても、同様の速度で移動する手段はない。とにかく強行軍で仲間を北に逃がしてしまえば、もう怖いものはなくなる。
「ピュリスまで行けば、マルトゥラターレにも会える。僕が嘘をついていなかったことも確認できるはずだ」
「それは……楽しみだな」
だが、そう言いながらも彼女は興味なさげだった。
「どうした?」
彼女の沈んだ声が、引っかかった。
「こんなところにいて、何か意味があるのか?」
「なに?」
「トスゴニ様には、外の世界の知識を持ち帰れと言われた。だが、わかったのは、やたらと人間どもが富み栄えていることと、どういうわけか、それでも満足できずに殺しあうということだけだ。事の理非も通じない」
俺は首を振った。
「そんなことはない。あってもさせない。さっきもザンに会ったが、言っただろう? 要求は断った。心配いらない」
「そうじゃない。あのザンとかいう奴にペルジャラナンが殺されそうになった時にも腹は立った。でも、それはわからなくもない。見た目が人間とは全然違う。それにルーの種族は人間より強い。何かあってからでは遅いだろう。でも、話が通じないのは、お前が捕まったときも同じだったじゃないか」
それを言われると、確かにそうなのだ。
ティーン王子は俺の話をまったく聞こうとしなかった。外国からやってきたばかりの俺が、ほぼ初対面の地方領主を毒殺する理由など、あるはずもないのに、だ。
「お前達の世界は、やたらとややこしくできてるんだ。お前が悪くなくても、お前が悪いことにした方が都合がいいから、そういうことになったんだろう。違うか」
「いや、その通りだと思う」
ティーン王子本人に悪意があったのか、そうでもないのかはわからない。ただ、誰かの陰謀が裏にあるだろうことは、ほぼ確かだとみている。
「要するに、初めから結論は出ていたんだ。そうだ、そうだろう。ストゥルンの父親、アヤオタといったか? 帝都まで行ったのに、結局、関門城の南側に戻ってきた。あちらで何があったかなんてわからないが、つまり外の世界には、見るべきものなんかなかった」
彼女がせっかちにも結論を出そうとするのを、ディエドラが止めた。
「まだニンムのトチュウだ。カッテにキめるな」
「何を暢気なことを」
「ミるべきものは、まだアる。ソトのセカイは、ビナタンよりアンギンよりずっとユタかだ。ちゃんとミていけ」
だが、憤るシャルトゥノーマは、また俯いてしまった。
「私は元々、人間なんて嫌いだったんだ。難しく考えることなんてなかった。どうせ」
「ヤめろ!」
珍しくディエドラが強い口調で窘めた。
彼女らとペルジャラナンを除けば、この場にいるのは人間ばかり。クーやラピが申し訳なさそうに下を向いているのに気付いて、シャルトゥノーマも気まずそうに横を向いた。
「済まない」
「結論を急がないで欲しい。人間の世界には、確かに善人も悪人もいる」
アリュノーにあるワングの別荘で、俺は彼女に、人間の世界の強みについて語った。互いが互いを知らなくても助け合うのが人間なのだと。
だが、今はその負の面を目にしているのだ。ルーの種族の集落と違って、人間関係と協力関係が一致していない。だから共通利益を持つ者同士が憎み合い、争うこともまた、起き得る。この点、狭い社会の中に強い規範の行き渡ったルーの種族にとっては、理解不能な部分だろう。
「それより、段取りを考えよう。早く動いた方がいい」
ラピが頷いた。
「ノーラさんとは連絡ついてます。今夜、宮殿から抜け出すって」
「王宮の敷地にちょっと入ったところくらいで合流すれば、あとは連れ出すだけだ。そこからは余裕なんかないから、みんな、今のうちに体を休めておいて欲しい」
「段取りはどうする」
タウルがソファに片手をおいて、俺に尋ねた。
「まず、ペルジャラナン、ディエドラ、シャルトゥノーマは、今回はフィラックといてくれ。目立つのが一番よくない」
「じゃあ、僕達は」
「いざという時、ノーラと連絡を取るためには、クーとラピについてきてもらう必要がある。頼めるか」
二人は緊張した面持ちで頷いた。
「でも、大丈夫なんでしょうか」
クーとラピは目を見合わせた。ペルジャラナンも神妙な顔をして、こちらを窺っている。
「一度、自力で抜け出そうとしたときに、騒ぎになったみたいで」
案の定、王宮の一部には、魔法対策があったということだ。
王宮の中枢には王族や、それに仕える王衣達がいるし、彼らは必要に応じて魔術を使う。だからそこでは魔法の使用を制限するようなカラクリはない。ところが、王宮の敷地のある領域には、どうも警報装置のようなものがあるらしいのだ。
一度、ノーラは試しに『眩惑』だけで外まで出られるかを試してみたらしい。ところが、途中で通りすがりの侍女を眩惑して先に進んだところ、大勢の衛兵が大急ぎで入口の方に向かって走っていき、外からの侵入者に備えるといった事件が起きてしまった。その時は、人が大勢いるからという理由で、脱出を断念してただ自室に帰っただけだったのだが、後から周囲の人の心を読み取って、それが自分の試みのせいだったと悟った。
「だから、途中からは魔法には頼れない。入口だけだ。いったん王宮の壁を越えたら、そこからは」
タウルが険しい表情を浮かべつつ、言った。
「俺が引っ張ってくるしかない」
「悪いけど、そういうことになる」
ただ、彼一人に行かせるつもりもない。
「最初に王宮の壁を越えるところまでは、一緒に行く。途中でクーと待機するつもりだ。でも、作戦のカギは」
ラピが青ざめた。
「私、ですね」
宮廷に仕える下女のふりをして、それとなくノーラを外に案内する。壁を乗り越え、内部に潜入するまではタウルとジョイスの仕事だが、奥座敷に入り込んで最初にノーラと合流するのは、ラピの仕事になる。
「最悪の場合は、僕が強行突破して引っ張り出す。その時は、守衛も片っ端からなぎ倒す。タウルは、僕が行くまでにラピを死なさないようにしてくれればいい」
「ノーラも危ない」
「それはない。チャール殿下が許さないだろうから」
第一、ノーラが本気で暴れ出したら、宮廷に詰めている兵士達では止められないだろう。さすがに腐蝕魔術の知識なんかないだろうし。次々と紫色の体液を吐いてぶっ倒れるだけだ。そんな状況にはなってほしくはないが。
「フィラック、キースさんとビルムラールさんには連絡は」
「さっき、ジョイスに連絡してもらった。ノーラを脱出させたら、その足でシェフリ家に向かってくれ。俺達もそちらに移動する。そこで合流しよう」
キースとしては不本意だろうが、このままポロルカ王国に留まり続けると、あらぬことで疑いを向けられかねない。それに、目的としていた触媒の調達自体は既に片付いたらしい。多少なりともヒランの指導を受けられたのも、彼にとってはプラスだったはずだ。
「実行は、人が寝静まる時間になってから。下の酒場で飲み騒いでいるうちは、横になろう」
黙って話を聞いていたジョイスが首を振った。
「うるさくて眠れそうにねぇけどな」
「それでも、休んでおいたほうがいい」
ここを出たら、多分、もう休みなしになる。
このままワングとディンのいる宿に向かい、また可能な限りの船員も回収して、都の郊外にある王国の非常用ドックに駆けつける。そこで守衛を打ち倒して船を奪い返し、そのまま出航する。
「人数増えたし、床に何か敷いて寝るか?」
そういってジョイスが周囲を見回した時だった。
遠くから小さく、しかし確かに空気を震動させる爆音が鳴り響いてきた。思わず、みんなが沈黙した。心なしか、階下の喧騒すら、静かになりかけたように思われる。
「なんだ?」
俺達は周囲を見回した。だが、原因がそんな近くにあるわけもなく、俺はすぐ、窓から顔を出した。
この時間、通行人はほとんどいない。だが、音を聞きつけた酒場の男達が数人、大通りに彷徨い出てきていた。そして口々に何か叫びあいながら、ある方向を指差している。
「あれだ」
暗い夜空の下、黒いシルエットがかろうじて見えるだけのブイープ島。そこに一瞬、真っ白な光の柱が突き立った。少し遅れて、空気を震わせる音がここまで届いてくる。
「なんだぁ? ありゃあ?」
まるで花火でも打ち上げたかのように、明るいオレンジ色の火の玉のようなものが弾けるのが見えた。散発的に、一度、二度。
「王位継承の儀式で、花火でも打ち上げるのか?」
「知らない」
「じゃなければ、あれか。火山が爆発したとか?」
「あり得ない」
フィラックとタウルが口々に軽口を叩きあう。だが、俺は小刻みに震えながら、夜空を彩る閃光を眺めるばかりだった。
何が起きているのか、うっすらとわかっていたから。あとはここで動くべきか、何もしない方がいいのか、迷っているだけだった。
すぐに閃光は見えなくなった。空気を震わせる音もしなくなった。
「なんだったんだろうな?」
ジョイスは肩を竦め、また床に寝床を作る作業に戻ってしまった。
だが、俺はもう、休むどころではなくなってしまった。
恐らく、あそこにいたのはイーグーだ。そんな気がする。
あの閃光が魔法でなければ、なんだというのか。では、誰か誰を相手に、どちらの側で戦っていたのか。その生き死には。
一つの好ましくない可能性としては、彼が邪悪な計画に手を染めていた場合が考えられる。彼は、彼を妨害する何者かと戦い、目的を果たそうとしているのだと。ただ、これは矛盾が生じてくる。それならどうして俺達と同行する必要があったのか。俺に気付かれれば妨害される可能性だってあるのに、わざわざコーヒー豆を見せびらかす理由はないはずだ。
そうだ、彼は俺をここまで誘きよせたのだ。だったらどうして、力の行使に訴える前に俺達に連絡しようとしなかった? 目的のために、俺の力を利用したいんじゃないのか? となると、もう一つの好ましくない可能性が浮かび上がってくる。
本来、俺の助力を想定していたはずの困難に、彼が独力で立ち向かわなくてはいけなくなった。
俺を待つ時間的余裕がなかった。
たった今、起きてはならない何かが起きてしまったのではないか。
そんな予感がしてならなかった。




