不自由に満たされる者
パッとしない朝だった。
通りの狭間に広がる空には、渦巻く雲が佇んでいた。朝の、あの熱した鉄を思わせる光に灼かれて、こちらに向ける顔は明るく輝いていた。だが、その陰影の深いこと。気が変わったら今にも王都に涙を降らせようと言わんばかりだ。
足下も、都の外れなだけあって、それはもう見栄えがしない。統一時代には大いに繁栄したのもあって、立派な街道が整備されていたという。だが、いまやここは最も貧しい人々が住む場所で、道路工事も行き届いていない。かつての大通りの石畳も、地面が凹んだのか石がすり減ったのか、歪んだ背骨のように地面に半ば埋没して、ところどころにその形跡が垣間見えるばかりになっている。だから今は、一面、淡い黄土色に覆われていた。
では、左右の家々はというと、これも、実に物寂しい様子だった。この地域の伝統に従って、一応、壁面は白く塗装されている。だが、それも経年劣化は避けられず、ところどころひび割れがみてとれる。特に悲しみを誘うのは、迫り出した列柱の部分だ。どの家も軒先のところは大きな庇になっていて、そこに木の柱が並び立っているのだが、その庇にあたる白い壁の部分に長方形の跡が残っていたりする。以前はそこに看板がかかっていたのだ。今は商売も何もしていないらしく、ボロを着た少女が柱に掴まって、通りを一人行く俺を無心に眺めていた。
足が重い。頭が重い。一晩中、歩き通したのだ。銀鷲軍団の詰所は、街から離れた場所にある。今頃、脱走にも気付かれていることだろう。そろそろ追手がかかるはずで、身を隠す必要がある。だが、助けは得られない。
ノーラに呼びかけても、応答がない。理由はいくつも考えられる。一つは、疲労が深くて眠りから覚められない状況で、これがまず大きい。俺が脱獄するからということで、かなりの遠距離から『誘眠』や『読心』を行使したのだ。ラージュドゥハーニーはピュリスよりずっと横に広い。直線距離で相当に離れているのに、触媒も道具もなしで魔術を行使したのだから、負担は相当に大きかったはずだ。また、彼女からこちらに連絡を入れるためには、どうしても詠唱などの手続きが必要になる。近くに他の人がいる状況では、応答したくてもできない。
……背後から馬蹄の響きを耳にした。俺はスッと横に逸れ、路地に滑り込む。
では、他の仲間に呼びかければ、と言いたいところだが、それはできない。
どうもこの『念話』の神通力、ある種の使用制限があるらしい。相手がだいたいどの辺にいるかを事前にわかっていないと、つまり認識していないと使えない。それは正確な位置情報という意味ではない。変な表現になるが、俺は相手の居場所を知らなくてもいいが、神通力を動作させるシステムの側は知っている必要があるらしい。
俺とノーラが交信できていたのは、牢獄に送られるまで、ずっと精神操作魔術で通話状態だったからだ。そして俺からの連絡は『念話』、あちらからは魔術と、まるで無線と電話を両方使って喋っているような状況だった。しかし、どういうわけか、一度それでやり取りしたおかげで、一度魔術を切った後も、交信が可能になった。
これは魔術の側も事情が同じで、俺が同じ場所に留まっていると、正確な位置情報はないのに、彼女から俺に呼びかけることも可能だった。
しかし、フィラックの居場所は俺には分からないし、通話も繋がっていなかったので、俺とペルジャラナンやクー、ラピへの回線は繋ぎようがない。また、今、ノーラが俺に呼びかけようとしても、牢獄には既にいないので、きっとうまくいかないだろう。市内の大勢の人の頭の中を覗き込んで、俺の位置を掌握してからなら可能だが、現実的ではない。
同じ理由から、もしノーラが別の場所に移送されていたら、多分、俺からの呼びかけは受け取ってもらえなくなる。この辺、互いに『念話』を持っていれば解決できるかどうかは、今後の検証課題といったところだ。
馬が遠くに走り去ったのを確認して、俺は一本裏の道路に向かった。
さっきの騎手がどんな人物か、確認はしていない。だが、後ろからやってきたということは、恐らくは軍団の詰所からだろう。
俺個人を知っているとは思えないが、観察されればすぐ正体がわかってしまう。こちらの人間と違ってターバンもつけていないし、肌の色も明るすぎる。おまけに、五日間も入浴もできずにいたので体も汚れたまま。それでいて服装はちょっと上等だから。
とにかく、当面は自力で身を隠す必要がある。ワングの居場所やタウルの潜伏する拠点、フィラックのいる宿など、正確な位置を俺は知らない。できれば全員を回収して、ポロルカ王国から逃がす必要がある。
気になっているのはティズの判断だ。赤の血盟とポロルカ王国との対立を回避したくて、一度は黙って縄目を受けたのだが、ティーン王子の態度を見ても、イーグーが行方不明になった件を考えても、このままでは収まりそうになく、やむなく自分で動くことにした。だが、これでは結局、何の問題解決にもなっていない。フィラックが出国に失敗したのも響いている。
要は計算違い、あれこれやり直しということだ。
ただ、あの時点で出国を選んでいたとしても、もしかしたらうまくいかなかった可能性もある。イーグーは、これからこの国で起きるだろう問題に俺をぶつけるべく動いていたのではないか。となると、どうせこまごました問題が起きて、身動き取れなくなっていたに違いない。
仲間と連絡がつくまで、僅かな間だけでもいい。どこかに隠れる。それと服の調達もしたい。逃げた時のままの格好ではすぐ見つけられてしまう。食料や水も必要だ。
日が高くなってきた頃、俺は街の北側から南側へと渡り歩いていた。
港に近いこちらの地区の方が、街並みは明るかった。港から外国人もやってくるので、俺みたいな格好をしていても、そこまでひどく目立つことはない。だが、できれば更に変装したい。キトからやってきたムワだと言い張るのが一番いいだろう。
目の前には、少し前にワングに案内された運河が流れていた。いつもと変わりない。
黒ずんだ石の階段。腰布一枚で水の中に入っていく男達。ちょっと早いがそろそろ仕事の昼休みを狙った露天商が、日傘を設置している。そんな川べりの道を、いろんな人々が通り過ぎていく。頭に大きな籠を乗せて先を急ぐ中年女性達。天秤棒を担いで荷物を運ぶ男……あれは水売りだろうか? 少し身なりのいい男が二人、何事か話しながら通りの向こうから現れて、脇道に逸れて階段を登っていく。そのすぐ横を小さな子供達が笑いながら駆け抜けていった。
彼らにとっては、普段通りの一日でしかない。だが、俺にとってはまるで別世界の出来事のように感じられた。追われる身であることもあってか、尚更に強烈な印象を受けた。
道行く人は、このラージュドゥハーニーに流れる、穏やかな微風のようだった。生ぬるい空気、湿った空気、どこかで香りのついた空気。なのに俺だけ、内側に冷え切った水を溜め込んだ革袋みたいになってしまっている。
彼らのような日常を過ごしたのは、いつが最後だろう? 悩みや、苦しみや、目的に縛られず、ただの日常を生きる気楽な毎日。なんと輝かしいことか。
そんな思いが胸に満ちてきたが、首を振って頭から追い出した。
食事と、着替えだ。食事と、着替え。幸い、金はそれなりにある。安物でいい。実は、話しかけるのは怖い。人の印象に残るだろうから。すると、追手に見つかりやすくなる。
それでも意を決して、目の前の日傘に向かって一歩を踏み出した。
「すみませ」
「ヘイ」
平べったいパンを売る男に声をかけようとしたところで、横合いから別の男に肩を掴まれた。浅黒い肌をした若い奴だ。
「草、いるか?」
「はい? 草?」
「炙って煙を吸うと、気持ちよくなる。すごく安い」
「いりません」
どこかで見たような顔だ。どうでもいい。今欲しいのは、食べ物と着替えだ。
「草の煙は気持ちいい」
「いりませんって」
「草」
「いりません」
「草」
「いりません」
しつこく付き纏うそいつに拒絶の言葉を繰り返していると、当然彼は憤った。
「なんでだよ!」
思い出した。前にもこうやって声をかけてきた奴がいたっけ。
「欲しいのは、パンと着替えだけ。草はいらない」
「草の煙を吸えば、パンも着替えもいらなくなる」
それもその通りか、とふと納得しかけてしまった。寝不足で思考力が落ちている。
怒鳴り返すのはまずい。揉め事なしに追い払わないと、通行人の印象に残ってしまう。
「とにかくいらないので」
「待てよ」
手を握られた。こんなものは簡単だ。スッと肘から先を、相手の親指めがけて持ち上げて外し、逆に握り返す。
「ぐあっ」
「いい加減にして欲しい」
「このガキ、袋叩きに」
これは困った。どうしよう?
「おっ、あっ、あれ? あんた、見た顔だ」
男を羽交い絞めにして途方に暮れていたところ、またも横合いから声をかけられた。
「あんたは……あっ! そうだ、ワングといた」
「あ、はい」
これも思い出した。
ワングの兄弟だという、痩せた中年男だ。
「こんにちは」
逃げ出すのも不自然なので、俺は挨拶をしてから、草売りの男の手を放した。
多分、大丈夫だろうと思ったが、やっぱりそうだった。現地の知り合いがいると見て取るや、そいつは黙って走り去っていった。
「確か、あんた、騎士とかいう」
「はい、そうです」
「なんでこんなところにいるんですかね?」
やっぱりそうなるか。薄汚れた格好で、庶民の食べるパンを買い求めようとしていたのだ。それもたった一人きりで。
「あの、実は」
「うん」
「二、三日前にワングさんと喧嘩をしてしまいまして、飛び出してきたんです。でも、右も左もわからなくて」
「そういうことか」
咄嗟についた嘘だったが、彼は怪しまなかった。
「呆れた奴だ。騎士様だから、下々が口を利いていい身分じゃない、とか言っておいて、自分は口論なんて」
「あの」
俺はおずおずと申し出た。
「ここしばらく、入浴もできていません。できれば食べるものと、着替えが欲しいのですが」
「おお、はいはい、承知致しましたです、先にどちらをしますかね」
「どちらでも」
「着替えだったら、その服を脱いで貸してくださりゃ、ひとっ走り行ってきますが」
その言葉に、俺は目を丸くした。
「脱いで、どうするんですか」
「それ、そこ。運河で水浴びしてりゃあいいんですよ」
そういうことか。もっとも、無防備になるのが怖くはあるが。
それで金貨を数枚握らせると、彼はそのまま、俺でも着られる現地の服を買うといって駆け出していった。お釣りは……まぁ、なしでもいいだろう。
それから俺は、下着一枚の格好で、ゆっくりと石の階段を降りた。水がひたひたと石段に迫る。そこに俺の足が音を立てて沈み込んでいった。
程よい冷たさだった。水はどこかまろやかで、ぬるりとしていた。顔を水面の高さにして、周囲を見回すと、さっきまでと同じ光景を目にしているのに、まるで違って見えた。水面に頭を浸しては顔をあげる人。運河の奥のほうまで行って、深いところに潜るのもいた。何しにそんなことを、と思ってみていると、水面に上がったときに銀貨を手にしていた。そうかと思えば、石段の上に座って半身を水に浸けたまま、動こうとしない老人もいた。
「お待たせしました」
あまりの心地よさに、眠ってしまいそうになっていたが、上から声をかけられて我に返った。
「どうせだから、うちで食べませんか」
行き先は、運河の近くにある集合住宅だった。増築に増築が重ねられて、外目にも不格好だった。最初は丈の低い家が作られたのに、その上に無理やり柱を据えて、上層階を拵えている。マンションというよりは、ジャングルのような建物だ。
一歩間違えばすぐスラムになりそうな場所。身をかがめなければ通り抜けられないような入口を、俺は彼と連れ立って潜った。
「うちの奴を買いに走らせましたので」
と言いながら、妻の姿は見えなかった。男同士の付き合いに、女が同席するなど、彼らの常識にはないのだろう。
見るからに狭苦しい家だった。なんと、二部屋しかない。
今いるのは最初の部屋で、三畳あるかないかだ。真ん中に丈の低いテーブル、というよりは板があって、その四方に座敷のような、あの南方大陸で一般的な、丈の低い椅子みたいなのがあるだけだ。すぐ下は靴を履いたまま歩く土間なので、一応、それと区別しているだけマシということか。
家具らしいものもほとんどない。小さな棚が部屋の隅にあり、そこに鍋や包丁、それに水瓶、コップなどが積まれているだけだ。火打石と蝋燭、火種になりそうな木切れが少しだけあった。
すぐ左手には黒い口を開けたもう一つの部屋があるのだが、そちらも同じくらい狭い。うっすら見える限りでは、そこにベッドのようなものが二つと、ハンモックらしき網があった。
室内は薄暗かったが、一応、明かりを取る目的もあって、入口の反対側の壁に、窓があった。もちろん木窓で、その向こうは別の建物の壁になっている。手が付きそうなくらい、間近に聳えていた。
真ん中の板の上に、何か乳製品のようなものと卵を乗せて焼いた、薄っぺらいパンが二つ、皿の上に置かれていた。また、小さな鍋の中には濃い緑色の野菜の浮かぶスープが少々、更に水差しもあった。
「どうぞ、好きに食ってください」
「ありがとうございます」
これはありがたい。まずは水で喉を潤す。ただの水だが、染み渡るようだ。それからスープを一口。青臭さが勝る味で、塩を節約しているのもわかったのだが、とにかく温かい食べ物というのが久しぶりで、これも臓腑に染み渡る。最後にパンを頬張った。
気付けば、夢中で食べていた。そんな俺を、彼は訝しむように見ていた。
「本当に助かりました」
「あ、いやいや」
「少ないですが、こちら、とりあえずお取りください」
また数枚の金貨を握らせた。所持金は、これでほとんどなくなってしまうのだが、今はこれくらいしかしてやれない。
「や、どうも」
遠慮という言葉も知らないかのように、彼はさっとそれを片手で掴み取った。
「こんないい若様を放り出すなんて、うちの奴は本当に馬鹿で」
「あ、いえ」
これは、あとでワングに事情を説明しなくてはならないだろう。
「この後、戻ってまた話をしに行こうと思います」
「ガツンと言ってやりゃあいいんですよ。あいつは昔から身勝手で」
「いえ、その……お兄様ですか?」
まだ名前も尋ねていない。だが、ピアシング・ハンドでみると、家名が違う。
「ああ、一つ上の兄で、今は同じ洗濯屋仲間の家に入り婿で入ったんで、まぁ、運よく」
「そうなんですか……あの、お名前は」
「ケナラン、ケナラン・ダフールっていうんで」
どうにも話しづらい。それはあちらもそうみたいだ。
それもそうか。洗濯屋が、身分の違う相手と話し合う経験など、積んでいるはずもない。
「あの」
「なんですかね」
「ワングさんのことは、どう思ってらっしゃるのかな、と……」
俺の問いに、彼は片方の眉を吊り上げた。
「ああ、いえ、この前、お会いした時には、何か険悪な感じといいますか」
「ああ、あー」
彼は言葉を選ぼうとして、詰まってしまった。
「礼儀作法とか、そういうのは気になさらないでください。話しやすいようにお話いただければ」
けれども、唐突に漏れてきた言葉は、俺の想像したものではなかった。
「それは、わかんないんで」
一番好ましい答えは「あれでも俺の弟だから」というような、好意を感じさせるものだ。「あんな奴、もう家族だとは思えない」という回答も覚悟していた。でも、ケナランの答えは、そのどちらでもなかった。
「わからない、とは?」
「私はここで、今日みたいに少ない時なら夜明けから昼くらいまで、多い時は夕方までかかって洗濯をするんで。前の日の夕方までに預かった洗濯物をね、まだ真っ暗な時間に出て行って、籠ごと運河の水に浸けるんです。で、明るくなってきたら、それを一枚ずつ取って、石に叩きつけるんですわ」
「はい」
ケナランは首を振った。
「毎日、毎日。人間は毎日服を着て、汗をかくから、毎日。女の服はカカァがやる。それで稼げるのが、一日に金貨一枚あるかどうか。子供の頃から大人になって、ガキどもも大人になって、洗濯屋になって……この歳になっても、いまだに濡れた服を石に叩きつけてる」
「ワングさんが羨ましい、と?」
すると彼はまた首を振った。
「私ぁね、ここで仕事があるんだ。毎日、そりゃあキツくて疲れる仕事だけども、生きて、子供も育てて、もうすぐジジィになる。でも、あいつはどうですか」
ワングは、アリュノーの有力商人だ。
「金持ちにはなった。でも、あいつはいまだに結婚もしてない。もうしたか、その辺は聞いちゃいませんけどね。どう思います?」
「どうって……」
ただ、外国に逃げて金持ちになった弟への僻み、というだけではなさそうだった。
「私は金もない。自由もない。だけど、何をどうしたらいいかはわかってる。あいつは金もあるし、何でもやり放題なのに、どうなんですかね、何をしたらいいか、わかってるんですかね」
彼にワングがどう見えているのか。
もちろん、金蔓ではある。成功が妬ましくもある。だが、それと同時に、せっかく成功したのに自分の人生の使い方を見つけられない、フラフラした生き方をしているようにも見えているのだ。
あるいはそれすらも、生まれたところに留まるしかなかった彼の、弟への羨望がこさえた理屈かもしれないが。
その時、さっきの入口の方から、女の声がした。ケナランは座ったまま振り返ると、大声を出した。
男同士で過ごしているのに女が割り込むな、という意思表示だろう。だが、恐らく彼の妻らしい女性は、通路の暗がりからせわしなく手を振るばかりだ。
「ったく、うちの奴が……ちょっと待っててください」
そういって、彼は部屋を出ていった。
だが、俺はもう察していた。
懐から、最後に残った二、三枚の金貨を取り出すと、俺はそっと自分の座っていた座布団の下に忍ばせた。それから、コップの水を取り、一気に飲む。ごちそうさまでした。手を合わせて感謝してから、手早く詠唱を始めた。
数分後、ケナランの家に、槍を手にした兵士達が飛び込んできた。だが、彼らが見たのは、既に客の去った部屋だった。
「逃がしたのか!」
詰問されるケナランだったが、彼は声を震わせて言った。
「い、いや、うちの妻がずーっと見張ってたはずなんですが」
「隊長、そこの木窓、大きく空いているようですが」
「そこから路地に出たか」
兵士が窓から顔を出し、左右を見回す。
「いません」
「もう逃げ去った後だろう。まだ近くにいるはずだ。探すぞ!」
それから、彼らは来た時と同じように、乱暴な足音を立てて去っていった。
そして俺はというと……
その木窓のすぐ上、隣の建物との狭間に、手足を突っ張って体を支えていたのだ。身体強化してなければ、少し厳しかったかもしれない。
仕方がなかった。
ケナランにはケナランの生活がある。妻は、俺が追われている人物であろうことを聞き知ったのだろう。これを裏切りとは言うまい。
人気がなくなってから、俺はゆっくりと上を目指して壁を這い上がった。結構な高さまで登ったが、そこでさっきの建物の屋根に辿り着いたので、そっと取り付き、うつ伏せになって、なんとか屋根の上にしがみついた。
裏通りの、それも建物が密集している辺りの、狭間にある屋根の上となれば、そうそう発見されることはないだろう。ただ、転落事故が怖いが。少しだけ時間を稼いで、今度こそノーラに連絡をつけなくては。
《……ノーラ、いる?》
問い合わせから一分後、俺の意識に返信が届いた。
《ファルス? よかった!》
《朝、連絡したけど返事がなかったから》
《ごめんなさい。ちょっと昨夜、無理したせいで気持ち悪くなって……朝からチャール殿下が見舞いに来て、さっきまで帰ってくれなかったのよ。それで、今、どこにいるの?》
うつ伏せになったまま、落ちないように棟のところをしっかり掴んだ格好で、俺は意識を集中した。
《屋根の上》
《何やってるのよ》
《迎えにきてほしい、かな》
ともあれ、やっと連絡がついた。
ここからは潜伏する場所を見つけて、一人ずつ仲間と合流しなくては。




