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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第三十五章 南海の暗雲
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災厄の予感

 昼間は陽光が差していたところに、今は月明かりが差している。

 この黒々とした牢獄の鉄格子、ところどころに錆や綻びのようなものが見て取れる。湿気の多いこの土地だ。表面塗装が剥がれたら、劣化するのはすぐだろう。

 夜間は見張りの兵士も牢屋の外にいるだけだ。目の前の薄暗い通路には、誰もいない。人気のなさを悟って、今夜もネズミが大運動会だ。どこに隙間があるのか、人の目を盗んで廊下の中央を駆け回り、それから恐れも知らずに金網の下から潜って、俺のいる独房にまで顔を出す。狙いは、囚人が床に落とした食べかすだ。


 そろそろノーラと交信する時間だ。

 意識を集中し、彼女の姿を思い浮かべると、程なく俺のところに声なき声が届けられた。


《そっちはどう?》

《変わりはないよ。牢屋の中から出られなくて、一日一度しか食べるものがないだけ。でも、空腹より渇きの方が苦しい》

《五日間もそれだと、つらいわね》


 それより、外の状況だ。

 そろそろ決断しなくてはいけない。赤の血盟を刺激しないために大人しく捕縛されることにしたものの、状況が好転しないのなら、自分で問題解決に乗り出すしかないのだ。


《そっちは変わったことは》

《悪い知らせがいくつか。まず、ワングさんやフリュミーさんは、出国できなくなったわ》


 少しでも悪影響を小さくしようと、まず打った手が失敗に終わってしまった。


《船と積荷も当局が押収。今は都の南の方にあるドックに曳航されてしまったって。せっかく買い付けた品も中に入ったままだそうよ》

《ワングさん、大荒れだろうな》

《今は宿に軟禁状態みたい。大損だって毎日泣き喚いてるらしいわ》


 それはそうだろう。

 ただ、この件のせいでディンまで巻き込んでしまった。欲得ずくのワングについても申し訳ないと思わないでもないが、彼には本当に悪いことをした。


《他は?》

《キースさん、ビルムラールさんには、追及の手は及んでない。でも、フィラックさんは隠れ続けてる》

《追われてるんだ》

《ペルジャラナンがあれだけ力を見せつけたんだもの……ファルスに手出しするなら、先に捕まえておかないと、怖いでしょ?》


 それも道理だ。

 あの火力を自在に操る魔物が市中で暴れたら、被害はどれほどか。実際にはそんなことにはならないだろうが、当局がそれを懸念するのも当然といえる。


《じゃあ出国は》

《港の方は、厳重に確認がされていて、簡単には出国できなくなってるみたい。でも、今日もサハリア人の商人達が国外に出たらしいけど。今は、クーとラピが、宿の人に魔法を繰り返しかけて、なんとか通報させないようにしている感じ》


 だとすると、そんなに長くはごまかしきれないだろう。

 これは弱った。


《僕が捕まった件は、知られてるのか》

《タウルさんが聞き込みした限りでは、噂になってるみたい》

《まずいな》


 つまり、市内にいたサハリア人商人も、ファルス捕縛の件を知っている。ティズの耳に入るのも時間の問題だ。にもかかわらず、フィラックは出国が難しく、市内に潜伏するのが精一杯なのだ。


《恩赦の件も小耳に挟んだけど》

《恩赦? ああ、シェフリ家のこと?》

《ファルスの件もよ。イーク殿下が一度ブイープ島から戻ってきて、今はこの件についての話し合いもあったみたい。チャール殿下が話していたわ》


 王宮に留め置かれているおかげで、ノーラも情報源になってくれている。これは運がよかった。


《イーク王太子とドゥサラ殿下は恩赦に賛成で。そもそも証拠も証言だけで、有罪と決めつけるには早いと考えてるみたい。ティーン殿下は、絶対に許さないと言ってたらしいけど。チャール殿下は……そこもとの気持ち次第で一票を投じないでもないぞとか……》

《あれ? でもチャール殿下は成人してないし、投票できるのかな》

《できないと思うけど》


 呆れた。

 でも、この意思決定に参加できるのは、王族だけではない。


《王衣の人達も一票を入れられるけど、赤の王衣のメノラック、黄の王衣のバフーは、恩赦に反対してるみたい。メディアッシ様は賛成だけど、あとは黒の王衣がどうするかね》

《黒の王衣?》

《正式に就任したらしいわ。ヒタン・カーラっていう人で、お年を召されてる男性だって聞いてるけど》

《それもチャール殿下が?》

《そう》


 俺がこうしているうちにも、外の世界にはいろいろな動きがある。果たしてそれがどこまで俺の現状と関わりがあるのかは、まだわからないが。

 黒の王衣については、少し話には聞いていた。ちょっと前までラージュドゥハーニーには疫病が流行していたが、その際に活躍した医師だったという。しかし、大きな功績には違いないが、それだけで王衣の地位を得るとは、ちょっと奇妙な感じもする。


《それと……》

《まだ何か?》

《言いにくいんだけど》


 想定はしていたが、ついに恐れていたことが起きた。


《イーグーさんが、行方不明になったわ》

《やっぱりか》

《タウルさんも探してくれてるけど》

《無駄だから、やめたほうがいい。イーグーが本気を出さないから、みんな気付いてなかっただけだから。あれは正真正銘の魔法使いだ。手に負えるものじゃない》


 これまでずっと、イーグーの目的は不明だった。あれだけの能力を有していながら、ただの荷物持ちとして大森林の探索に参加した。探索が終わっても、なおも理由をつけて俺達の傍にい続けようとした。それが今になってやっと姿を消したのだ。

 つまり、ようやく彼は目指すところに至ろうとしている。或いは、既に達成したのだろうか。

 では、俺を投獄するのがゴール? だが、彼はバグワン毒殺については「身に覚えがない」と言っていた。そのまま信用できるかと言われれば微妙ではあるのだが、どうもそんな単純な嘘をつくようには思われない。

 いや、誰かわかりやすい黒幕がいると考えたがるのが、そもそも間違っているとすれば? イーグーにとっても、今の状況が一部、想定外だとしたら。例えば、俺が当局に拘束されてしまったせいで単独行動を選ばざるを得なくなっただけ、という可能性もある。


《……これからどうするの?》

《今更で申し訳ないけど、脱獄するしかないと思う》


 力ずくの解決は、なるべくなら避けたかった。だが、このままここに留まることが正しい判断とは思われない。

 理由はいくつもある。一つには、ティズが行動を起こす前に問題解決する必要があるから。彼が面子を守るために軍艦を派遣するような事態は招きたくない。


《でも、急がなくてもいいかもしれないじゃない。王太子とドゥサラ殿下、メディアッシ様は恩赦に前向きなのよ? 証拠不足で投獄したこともあるし、黒の王衣のヒタンという方も、ファルスの解放に一票を入れてくれるかもしれないわ》

《時間が解決するかもね》

《でしょ? だったら》

《だから急ぐんだ》


 バグワンの別荘に招かれたあの夜のやり取りを思い出す。思えば、最初から変だった。


《よく思い出して。バグワンは僕らになんて言った?》

《えっ?》

《グリフォン討伐の依頼をギルドに出した、でも実際にはそんな魔物は現れていない。二週間ほど、この別荘でのんびり過ごしてから、王都に帰ればいい……そういう話だった》


 これが二つ目の理由だ。

 バグワンは、俺を毒殺しようとはしていない。だが、彼の心の中について確認できているのは、これだけだ。

 もしかして、彼は最初から俺を別荘に釘付けにするためだけに動いていたのではないか? あくまで可能性でしかないが、これが正しいとすると、やはり同じく、この牢獄の中に長居するのも問題の悪化を座視する結果に繋がるだろう。

 では何のために俺を足止めしようとするのか? それはわからない。わからないが……


《だから、僕がこうして足止めされていれば、何かを企んでいる連中にとっては、同じことなんじゃないかと思う》

《でも、じゃあ、どうしてバグワン様を毒殺したのよ》

《それはわからない》


 なぜなら、バグワンが誰かの指示で俺を足止めしようとしていると、毒殺に携わった連中がそう理解していたのなら。俺に事実を告げるだけで済むはずだからだ。そうすれば、俺は理由をつけて彼のもとを辞去し、バグワンとその黒幕の謀略は潰えることになる。

 それをしないということは、バグワンを毒殺した何者の側にも何かよからぬ考えがあるのか、さもなければ、バグワンの足止め計画を知らずに、全く別の理由から彼を殺害したと結論せざるを得なくなる。


 そして、理由の三つ目。

 もしかして……そう認めたくはないが、もしかして、既に俺は、ルアが予告した「災厄」に巻き込まれつつあるのではないか?


 俺は、その危険に直面するのを後回しにするつもりで、コーヒー豆の発見もあってポロルカ王国に立ち寄った。だが、よくよく思い出してみれば。コーヒー豆を見つけて俺に報告したのは、ストゥルンだった。そしてストゥルンと一緒にアリュノーの街をほっつき歩いていたのは、イーグーではないか。

 そう考えると、やっぱり辻褄があってしまう。イーグーがどこまで事情を把握していたかはわからない。だが、今にして思えば、彼は俺をこの国に誘導したかったのだ。つまり、彼もまた、ルアのいうところの災厄の存在を知っていたことになる。

 だが、ただ行けと言って俺が行くわけもない。だから大森林の探索にも加わって信用を得て、遠回しな手を使って……


《確かなことはまだ何もわからないけど、イーグーが動いた以上、もうのんびりしているべきではないと思う》

《どうすればいいの?》

《ノーラは自分の身を守って》

《それなんだけど》


 彼女は彼女で問題があるらしい。


《簡単にはいかないと思う》

《何が?》

《いざという時のために、試しに精神操作魔術を使って王宮から出ようとしたんだけど……何か仕掛けでもあるのかしら? あるところで兵士が出入口を塞いでいて、駄目だったのよ。多分、王宮のどこか、外に出る途中のところで魔法を使うと、気付かれるような仕組みがある》


 つまり、自力脱出は難しい。

 もちろん、手段を選ばず殺しまくれば別だが、そういうわけにもいくまい。


《それなら、こちらから迎えに行く。ただ……》

《ただ?》

《ビルムラールさんやキース、それにヒラン様にも迷惑をかけることになりそうなのは、本当は気が引ける》


 とはいえ、このままではどうにもならない。

 つらいだけなら我慢するが、状況は切迫しているかもしれない。一度はティズへの影響を考慮して抵抗を放棄したが、むしろ悪い方向に事態が推移しているように思われる。


《あとは……ペルジャラナンを通して、できるだけみんなに連絡を。それと、こうなっては仕方がない。クーやラピに魔法を教えたことは、他のみんなに伝えておいて。ワングやキースには、タウルに連絡してもらう》

《うん》

《あとで合流しよう。まずは逃げ切る》


 交信を終えると、俺はまず、一息ついた。

 鳥の体でもあれば、出るだけならもっと簡単なのだが、今回はそうもいかない。


 まず、周囲の物音を探る。左右の牢屋は空っぽで、向かいにも人はいない。これは収監する側の配慮だろう。俺が他の囚人と顔見知りになって、冤罪でここにぶち込まれたことを言いふらしたりしたら面倒だからだ。話し相手を与えたくなかったのだろうが、今回はそれが俺にとって有利に働いた。

 みんな寝静まっているらしいと確認してから、俺は静かに詠唱した。身体強化が済むと、俺は服を脱ぎ、丁寧に折り畳んだ。財布の中には多少の金貨や銀貨の他、植物の種も一つだけ、混じっている。これがなければ、どれかスキルを一つ、犠牲にしなければならなかったところだ。

 あとは、その場から跳躍するだけだ。一度、手に何も持たずにそっと飛び跳ねてみる。それでコツを掴んでから、もう一度、壁際の高い位置にある窓めがけて跳び上がった。天井にぶつかりそうになって手を添えつつ、なんとか小さな窓枠に指をかけた。そこから外の様子を窺いつつ、鉄格子の間から服を少しだけ押し出す。これで後は、外から引っ張れば抜き出せる。

 その状態になってから、俺は静かに床に降り立った。あとは念じるだけだ。


 不意に視界が広がった気がした。人間だった時には腕を通せるかどうかの鉄格子の幅も、ネズミの体なら楽々潜り抜けられる。金網にしても、床に触れるかどうかなので、這いつくばってすり抜ければいい。

 あとは左を向いて、一直線に走り抜けるだけ。この牢獄にネズミなど、いくらでもいる。廊下の向こうには、少しだけ明るく見える出口があった。すぐ横に篝火が焚かれているのだ。見張りの兵士を右手に見ながら、燃え盛る火を頭上にして、左に曲がって折り返した。

 何のために走っているのか、急に忘れそうになるが、そこは問題ない。もう少し行けば、さっきの牢屋の天井近く、ここからだと地面すれすれの位置にあるあの窓が見える。そこで人間に戻ると決めてある。


 足を止めると、急に眩暈のようなものを感じた。

 意識が朦朧とする。自分はいったい何を……


 数秒間の混乱の後、やっと我に返った。そう、脱獄の途中だ。動物に変身することの反動は、やっぱりゼロにはならない。慣れがなければ、尚更だ。

 それから周囲を見回したが、近くには誰もいなかった。俺はそそくさと衣服を取り出して身に着ける。切り札であることは承知しながら、種にネズミの肉体を収納し、隠密のスキルを取り出した。裸で脱出しても、外には衣類を用意してくれる仲間など待機していないし、ネズミの体のままでは、とてもではないが街まで辿り着けない。


 次は、いかに城壁を乗り越えるかだ。

 残念ながら、よじ登れるほど凹凸のある壁ではないし、高さも相当にあるので、身体強化済みでも、さすがに飛び降りるのは無理だ。胸壁にロープを括りつけて、ゆっくり降りるしかない。

 ロープなら、どこかの保管庫にあるはずだ。保管庫の鍵は……


《一つ奥の中庭の詰所にあるわ》


 不意にノーラの声が聞こえた。


《魔術で調べておいたのか》

《他にやることないじゃない。それに、何もしなかったら……》


 俺がまた、人を殺すかもしれない、か。


《今は二人しかいないみたい。眠らせるわ》

《あまり無理するな。そんな遠距離で強い魔法を使ったら、とんでもなく消耗するんだぞ》

《これだけやったら、あとは休むから》


 果たして、言われるままに詰所に向かうと、扉は開け放たれており、中から光が漏れていた。見張りの兵士が二人、片方は椅子に座ったまま、もう一人は床に突っ伏している。俺は座ったままの男の腰から、そっと鍵束を抜き取った。


《保管庫は、そこから奥に進んで、左手に扉があるから……ロープのある場所はわからないけど》

《ノーラ》

《ごめん、ちょっと気持ち悪くなってきた》

《充分だ。よく休んで》


 今度こそ交信を終えると、俺はそっと暗がりの中に駆け出した。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] イーグーが行き先歪めたのは正しいかもしれないけど、それは別の目的じゃないのかなぁと思うのです [一言] 先ずは魔剣ちゃんとの合流最優先ですね ポロルカを浄化するのです
[一言] 竜2体を操るってよく考えたらサハリアの戦争のときの地震雷の魔法使いと同レベルのチート魔法かな? あの時点で継承争いじゃなくてファルス狙いって考えるべきだったのか… 果たしてコーヒー農園を作…
[良い点] ディーとディーは気が合いそうだけど、ドロルとドロル、ガッシュとガッシュは仲が悪いですね。 [気になる点] 《いざという時のために、試しに精神操作魔術を使って王宮から出ようとしたんだけど………
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